終末の月初め

武内ゆり

第1話

 月の暦は、月のない夜に始まる。

 空にあるのは星だけだった。月は地面の反対側に沈んでいる。夜空を照らすのは燃えたつ数本の篝火だった。

 静まり返った世界に、黒い衣を着た楽団がいた。前面には太陽、後ろには月を模った黒い帽子をつけている。赤い炎に照り出された祭壇の前へ歩き、椅子に座ると、演奏を始めた。鈴が鳴り、弦がうねるような声をあげる。

 ミイは憂いを拭いきれないまま垂れ幕の仕切りをめくって、祭壇の様子を見ていた。祭事の準備をする側のために、参列はしなかった。太鼓を叩く一人が朗々と経を読み初め、悲しみが水を打ったように広がった。

 ミイは黒い服の懐から、手のひらほどの大きさをした珠を取り出し、服と垂れ幕の間に隠しながらこっそり見た。珠は水晶石のように半透明で、自分の指が透けて見える。黄緑色の霧状の粒子が球の中で漂っている。絶えず動いているが凝縮して形になる前に、ぼんやりと広がって霧に戻ってしまう。

「星の夢……」

薄明かりでミイの瞳が珠に映った。珠の中では霧が揺れ動いていた。

「そんなことしたら破れてしまいますよ」

たしなめるような声が耳元に入り、ミイは緑珠を袖の中に滑り込ませた。それから布から手を離し、女性を見た。喪服姿の女性は顔に皺が刻まれ、それを厚化粧で隠していた。杉の木のように直立の姿勢で立ち、両手を体の中心で組みながら、ミイを見下げた。

「次の夢を見つけなければなりません。あなただって邪魔をしたくないはずですよ」

「本当に……」

ミイの目に迷いがあるのを女性は見逃さなかった。

「必ず見つかります」

女人の頭にはこれ以外の答えは用意されていないようだった。ミイは自分に疑う弱さがあると責められているように感じた。

 けど、とミイは心の中で反論する。今日で儀式を始めてから五日が経つ。新月が来てしまったというのに、星の夢が見つからない。それでも他の方法を知らないミイは、

「そう願っています」

とだけ答えて、唇を結んだ。

 弔いの音楽は勢いが強まり、次第に大きくなった。ミイは女人の視線を感じて、仕切りの布から離れると、近くの椅子に座って足を休めた。

 今日がその日なら、見えなくても何か変化があるはずだった。ミイは目を瞑ると、心の中で祭壇の様子を再現し始めた。

 両脇にある四本の篝火に照り出された朱塗りの祭壇。たくさんの果物が供物として置かれているが、少し萎びてきている。山積みになった供物の背後には、木の棺がある。棺のなかは空っぽだということをミイは知っている。

 目を開けると、まだ女人は立っていた。彼女も心配しているのかもしれない。もしくは、成功だけを念じて祈り続けているのかもしれない。

 もし見つからなかったら?

 ミイは口を開きかけて、やめた。純粋さを貫こうとしている彼女を傷つけるのは、自分を傷つける行為でもあるように思えた。その代わり、ミイは答えを想像した。細くなって隠れてしまったから、一目見ただけでは分かりにくい。でも、月は大きくなっている。近づいてきている。おそらく満月の夜には……私たちは満天の星空の代わりに、空を覆い尽くす満月を見ることになるだろう。そしてその後は……。

 音楽は鳴り止んだ。今日も、何も起こらなかった。楽団が去ると、女人はテントを出た。ミイも外に出た。この後は全員が祭壇の前に跪いて祈ることになっていた。でも今日は自分の勤めを果たす代わりに、食事用のテントに潜り込んだ。誰もいないと思っていたテントには、ふらふら歩き回る人物がいた。飾りのついた白い帽子を、片手に持ってぞんざいに振り回す男性だった。

「おおう、ランちゃん、ちょっとこっちに来いや」

ミイの姿を見て、彼は手招きした。酒瓶のあふれ返ったテーブルの前にどかっと座る。涙が溜まって充血した男の目元が、蝋燭の火でうっすら見えた。ランちゃんが一体誰なのかはわからなかったが、ミイは哀れみを感じて大人しく従った。

 彼は蒸留酒の瓶を開け、瓶ごと飲み始めた。口からアルコールのきつい匂いがした。

「星の夢が手に入らなかったら?」

大きなため息がそのまま言葉になったような話し方で、彼は言った。ミイも微かにそう思っていたのだが、実際に声に出されると恐ろしく感じられ、身震いしてしまった。

「誰だってそう思ってるだろ? なあ? でも言えないんだ。言ったら不謹慎だと罵られる。考えたくないんだ。誰だってそう思ってる。そう思ってるだろ? ランちゃんも飲もうや」

「いえ……」

「それなら食え。腹がはち切れるくらい食うんだ。飲め、飲め、食え」

パニックを起こしたかと思わせるくらい、彼はしきりに酒瓶を勧めてきた。

「あの、落ち着いてください」

「もっともっと飲むんだ」

ミイが頼んだものの、聞いていないようだった。そしてまた彼は自分の酒瓶を呷った。顔は赤く、酒で柔らかくなっていた。

「俺たちはどうしてここにいるんだ?」

容器を乱暴に机に置きながら、彼はうめいた。振動で、蝋燭の火がこぼれ落ちそうなくらい揺らめいた。

「どうしてここにいる?」

「分かりません」

「食べて飲んで、楽しく過ごすためじゃないか? なあ? それが星の夢じゃなかったか? 人生にそれ以上の何がある?」

「本当に、そう信じているんですか」

「信じるかなんて知るか。それ以上に何がある?」

「……」

「なんでだ? なんでなんだ?」

ミイは何も言えなかった。彼は初めて黙ってこちらを見た。だが彼の意識はすぐに別の世界に行ったようで、突然テーブルに突っ伏して気を失った。

「星の夢は……」

ミイは宙を見上げた。虚脱感に襲われた。夢という中心軸を失った星は、回転を止める。今は惰性で回っているに過ぎない。求心力を失った星からは、全てのものが散り散りに離れてしまう。もしくは均衡が保たれていたものが崩れ、強い引力に引きずり込まれる。

 自分達がどうしてここにいるか。少し前までは、星の夢が教えてくれていた。私たちはその夢に従って生きていればよかった。

 この星が宇宙の中心で回っていると思っていた時代は幸せだった。この星が宇宙の星々の周りを回っていると知った時代は幸せだった。なぜなら回っていたのだから。

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