薄明光線
きよのしひろ
第1話 疑惑
「数馬! どこ行く?」
鼻歌を歌いながら軽い足取りで岡引探偵事務所の階段を降りようとした数馬が、親父岡引一心に呼び止められた。
「あぁ、駿太に誘われてさ飯食いに……」
「あら、ゆうて貰わんとあんはんのお昼用意するとこどしたわ。駿太って仁徳はんでしたかいな?」
客に出したお茶碗を片付けていたお袋の静は、京都出身で分かりずらい京都弁を使い、三十年近く東京に住んでも標準語に直そうという気持がないどころか、京都弁を自負している。
――まぁ、この世にオギャーと生を享けたときからの付き合いなので言葉は分かるのだが……。
「おー、わりぃな。そういうことだから、よろしく」
そう言い残し数馬は階段を駆け降りる。背後で「帰りは?」とか「どこで?」とかこうるさい、子供の時ならいざ知らず、二十六にもなったらいちいち親に行く先や帰宅時間を言わなくても良いだろう。
――そう思うのは子供の方だけかもしれないが……。
浅草の事務所のあるうらぶれたひさご通りから活気あふれる仲見世通りまでは徒歩で十分ほどの距離、久しぶりに友達に会えると思うと自然と足が早くなる。おまけに夏の厳しい暑さがここ二、三日緩やかに下降線を辿り、秋を思わせる様な青く澄んだ空が一段と高く見え外を歩くのも気持ちいい。
――もっとも、高揚した気分がそう見せてしまっているのかもしれないが。
約束より大分早く着いてしまった。
一応、店内を見回すとそこそこ客は入っているが駿太はまだ来てないようだ。係りの女性に「後から連れが来る」と言ってから席に案内してもらいコーヒーを注文する。
窓外に目をやるとリュックや旅行鞄を持った観光客だろう人々が次々に際限なく通り過ぎる。相変わらず外国人も多い。どれも半袖やタンクトップに半ズボンやキュロットなどの真夏のファアッションがまだまだ多く連なっている。――9月の声を聞くと、ここに来た北国の人は残暑と言い、南国の人は秋の気配と言う……などとぼんやり周りの声を聞いている……。
時間通りに駿太がにこにこしながらやってきた。しかも、女連れで……。
「やぁ、数馬元気か? 紹介する。こちら河合爽香さん、俺の彼女」
いつの間にか彼女ができたんだと羨ましく思いつつ挨拶を交わす。
「で、その隣にいるのが和崎恵さん、彼女の友達だ」
――何で二人も? 三角関係? なんて考えるが……
紹介された恵さんが「こんにちわ、始めまして……」と笑顔で言うので、何か気の利いたセリフをと思ったのだが、そこは口下手な数馬「あっどうも……」としか言えない。
――女性が来るなんて聞いてないぞ。何を話したら良いのかとちょっと心穏やかではいられない。
河合さんは大人しそうな感じのすらっとして百六十五くらいはあるだろうか、最近では珍しい黒のストレートの髪が肩に柔らかくかかっていて、それほど女性に積極的でない駿太とどうやって知合ったのか……。
一方の和崎さんはボブヘアにスポーティーなパンツ、小柄で化粧も明るい感じがする。二人ともまだ夏を思わせるファッションだ。―― 夫々似合っていて可愛らしい
数馬ははっと気が付いた。
「駿太! もしかして、俺に和崎さんを紹介する積り……?」
「おー、流石探偵、よく気が付いたな。ずーっとお前彼女いないって言ってたし、たまたま、和崎さんが彼氏募集中って爽香が言うから、どうかなぁと思ってよ」
――数馬は、事前に言ってくれれば、もうちょっとましな格好できたのにと、内心思う。が、声にも顔にも出さないのは当然だろう……。にこにこしているしかない。
「岡引さんって探偵なの?」
数馬は和崎恵にまじまじと顔を見詰められ
「えっ、あ、はいっ、家族五人で探偵やってます」
必死に平静を装うが……きっとばれてる。
「へぇ~凄~い! 殺人事件とか?」和崎恵が探偵という言葉に反応する。こういうタイプの女性なら付き合ってもいいなぁ……と、数馬は密かに思う。
「うん、何回も死体見たことあるし、尾行したり、潜入調査とか……」数馬の得意分野の話なので冷静さが蘇ってきて、色々話してあげたいと思う気持ちが湧いてくる。――鼓動も少し落ち着いてきた。
「わ~、お話訊きた~い」瞳をキラキラさせた少女のような和崎に見詰められ、再び鼓動がどんどん大きく早くなっていく……。
「めぐ! あんた初対面の岡引さんに馴れ馴れし過ぎるわよ。もう」河合が窘めると和崎が小さく「あっ」と言って口を押え俯く。
「あっ、いえっ、俺話下手だから、喋る人の方が良いんだ」数馬は明るい和崎がひと目で気に入っていて、ここで引かれるとせっかくの機会を失うと思いちょっと慌てる。
――河合さん邪魔しないで! 頼む!
そんな数馬の気持を知ってか知らずか、和崎が数馬に目線を走らせてにこりとし、肩をすくめて可愛く舌をぺろりと出した。
その雰囲気を感じたのだろう駿太が「そしたらよ、飯食ったらもう二人でどっか行って喋れや、俺、爽香とデートするから」そう言うと、河合も頷いて
「めぐ、良いかな?」と顔を覗き込むと
「大丈夫よ、何か楽しそうだから、数馬さんは?」と数馬に目線を送る。
数馬は和崎が拒否せずにこやかに応じてくれたことが嬉しく「勿論、望むところです」と汗を一杯掻きながら返事をする。――もう、ドキドキが止まらないぜっ!
周りの客には少し迷惑だったかなぁと思いつつも賑やかに食事をした後、数馬は和崎恵と二人で浅草寺を散歩して、カフェで休んで、夕食を取ったが、和崎はよほど探偵と言う仕事に興味を持ったのか事件での苦労話や犯人を捕まえる瞬間などの話をやたらと引出そうとする。なもんだから数馬はついつい自慢げに喋ってしまう。
―― 妹の美紗が冷凍殺人の被害者になるところを危機一髪で救い出した事件や銀行強盗の人質になった事件など、ちょっと喋り過ぎかとも思ったが、和崎恵が数馬を見上げるその瞳の訴えには叶わない――
会ったばかりなのに会話が弾み、彼女が「そろそろ家に帰らなくっちゃ」と言うので驚いて時計を見ると午後八時を回っていた。――楽しい時はあっと言う間……と、良く言われる。
「もうこんな時間かぁ……それじゃ家まで送ってくね。どこ?」
「えっ、大丈夫よ一人で帰れるから」
と和崎は言ったが、まさか
「はい、そうですか」
とは言えないし、もう少し話もしたかったので
「遠慮はいらない、途中で何か有ったら彼らに怒られるから……」
そう言って和崎に頷かせる。
和崎の家は浅草警察署の裏手で事務所からは五百メートルと離れていない。
和崎が「このマンション」と言った玄関の前で、数馬は思い切って「連絡先の交換をしてくれない?」と訊いてみる。
和崎は「えぇ、良いわよ。私もそう思ってたの」と笑みを浮かべてケータイを取り出す。
そして
「近いうちに電話する」
「待ってる」
と会話が続いた。
運命的な出会いだと感じながら彼女が玄関の中に姿を消すまで見送る。
数馬は、そこからスキップでもしたい気持を押さえて家路を急いだ。早くこの出合を話したかった……。
夜八時半ころ事務所に着いたが誰もいない。奥のリビングを覗くと一心と静がテレビを見ているので和崎恵との出合を聞いて欲しくて話す。
が、一心は「ふんふん」と上の空。
でも、静は流石に母親、大層喜んでくれて「家に連れて来よし」と言ってくれた。
―― 気に入った女性と話す事がこんなにワクワクし楽しいものかと思う一方では、まだ知合ったばかりで浮かれて調子に乗り過ぎて、後で落とし穴にでも落とされないかという不安も……。
これが「恋」? ―― なんてにやにやしながらベッドにごろりと横になって一人ほくそ笑む。
ふと駿太の事を思い出した。
駿太が別れ際に「後で相談したいことあるから電話する」と言っていたのだった。
時計を見ると午後の九時。そろそろ来るかとケータイを手にする。が、待つとなかなか来ないものだ。ケータイを脇に置いて鍵の専門書を読もうとするのだが気もそぞろで集中できない。
そのまま十時が過ぎた。
不意に着信音がなる。―― やっと来た。
「数馬、どうだった?」待っていた駿太の第一声だ。
「おー、気に入った。てか、連絡先交換したから近いうちにデートに誘ってみるわ、持つべきものは友達だな」
「そっか、それは良かった。……でさ、明日飲みに出ないか? 爽香の事で相談有るんだ」
「何? 電話じゃ言えないのか?」
「うん、彼女を疑ってるんだ、俺! ……」
駿太はドキッとさせる言葉を吐いて、その後は無言。言いずらい事なんだろうなと思い
「わかった、明日、午後七時いつもの居酒屋でどうだ?」
約束をして電話を切ったが、何の話? 浮気でもしたと言うのかそれとも……。
「待ったか?」
駿太が少し遅れて姿を見せた。見る限り普段の駿太と変わりはないようだが……。
数馬が時計を見ると確かに十分程遅れたようだ。
ジョッキーを掲げて「もう、先に頂いてるから気にするな」
ホール係りが注文を聞きに来て駿太もジョッキーと焼鳥を頼んだ。
「和崎さん紹介してくれてありがとな。爽香さんにも礼言っといてよ」
「あー、その話は爽香が言い出したんだ。俺も昨日始めて会ったんだ」
「そうなんだ。明るくて、良く喋って一緒にいて楽しいわ。俺、喋り得意じゃないから丁度いい」数馬はそう言いながらも、相談事があると言われているのでジョッキーを口に運ぶ回数を押さえていた。
逆に駿太は、酒の力を借りて喋ろうとしているのかがぶがぶと飲んでいる。
「そっか、喜んでくれて紹介した甲斐があるってもんだ。爽香も喜ぶ」
既に二杯目に口を付けている駿太の顔に珍しく酔いが現れ始めている。
それからしばらくの間、どうでもいい話が続いた。
数馬は、俺が飲みたいのを押さえているのに、なんでこいつはがぶがぶ飲むんだ――と言いたいが、飲み込んだ。
それでもなかなか駿太が肝心な話を始めないのでしびれを切らし、
「駿太! 相談有ったんじゃないのか?」強い調子で言うと、駿太の表情が強張り、襟を正して座り直して少し俯き加減で口を開く。
「……ごめん、言いずらくってな」駿太には珍しく小声で話し始める。
「……実は、爽香が浮気してるみたいなんだ」と、続けた。
「え~っ、疑ってるってやっぱ浮気? ……お前見たのか?」
数馬はそんなことかと思うが、駿太は真剣に悩んでいるようだ。
「いや、俺、保険会社の経理やってるだろう。彼女はセールスレディでさ、それで、俺と爽香付き合ってんの知ってるセールスが、土曜日に中年男とホテルに入るの見たってわざわざ俺の席まで来て耳打ちするんだ、目黒のスチュワート・キングホテルさ、あの高級ホテルへ夜の八時ころだって……」
今にも泣き出しそうな駿太をみて彼女の事がよほど好きなんだろうなと感じる。でも、こないだの感じからして間違いの可能性が高いと思って
「レストランで食事じゃないのか?」と訊いてみる。
「いや、そのセールスがレストランで客と商談を兼ねて食事をしたけど姿は見えなかったって言うんだ」
「……だけどよ、浮気ならラブホテル使うんじゃないか? そんな高級ホテルを使うなんて余程の金持ちか?」
――金の為に付き合ってるとするなら、駿太に後ろめたさを感じてあんな笑顔は見せられないんじゃないかなぁ。
「……」駿太は口元を歪め考え込んでいる。
「で、お前、彼女に訊いたのか?」
「まさか、訊けないよ、怖いし……俺、ショックでさ~どうしたら良いのか分かんなくってお前に電話したんだ……」
この辺が駿太の気弱な部分なんだよなぁ。――似合いのカップルだと思ったんだが……
「ふ~ん、最近、何か変わった様子なかったか?」
「どういう意味だ?」
「ばか、他に男出来たら、お前と別れたがってるとか、話が盛り上がらないとか、お前の話を上の空で聞いてるとか、何かないのか?」
「いや、一緒の時はいつも笑顔で可愛いし良く喋るぜ」
「じゃ~、違うなきっと、考え過ぎ。例えば彼女の親父とか? 家族はどうなってんだ?」
「それがよ~、家の事は喋りたがらないんだ。何回か訊いたんだけど、元気よ、くらいしか言わない」
「何か、言えない秘密がある?」
数馬はなんか秘密のある女ってのも魅力的だが、とも思うが ――ここでは言えない。
「分かんないけど、何かあると思うんだ」
「お前直接訊くか、彼女が言い出すのを待つかじゃないのか?」
「俺の不安な気持は彼女も分かってるはずなんだ、でも、何も言ってくれない」
「ふむ、で、俺に調べろと言うんだな」
駿太は黙って頷いて封筒を差し出した。
「何これ?」封の中を見ると万札が入っていて表に調査費用と書いてある。
「駿太、友達の相談にのるのに金なんか貰えるか」
そう言って押し返す。
駿太の顔を見ると真剣な眼差しをしている。
「いや、それだけ真剣なんだ。仕事として受けてくれ。その方が数馬も動きやすいだろう? 暇を見て調べるとか言われて、いつになるのか分からないじゃ困るしさ。受け取ってよ」
「……わかった。預かるが、何も無かったら返す。何か出たらもらう。それで良いか?」と、返事をした。
――取り敢えず受けて、一心に相談しよう。
「ああ、ありがと」駿太はそう言ってビールを飲み干した。
ふと数馬は一緒に暮らす従弟の一助と恋人の彩香のことを思い出した。
―― 彩香の母親が大学四年生の時、お腹に彩香を身籠ったままキャンプへ行って、それを知らない一助の父親のグループと仲良くなり、よせばいいのに手作りいかだで川下りをして、誤って川に落ちてしまった。一助の父親が助けようとしたが及ばず流された。すぐに母親は救出されたものの意識不明となり、そのまま半年後彩香を生んで亡くなってしまったのだった。
その事故を一助の父が故意にやったと誤解していた母親の兄が、一助がまだ幼い頃、その目の前で父だけでなく母までも殺してしまった。それから二十年程経って彩香と一助が付き合い始めてからある事件を通してそれを知り、彩香が一助のもとを去ろうとしたのだが、一助が悩み抜いた末に彩香を追いかけ元の鞘に収まった ――
まさかとは思うが家族に何か事件絡みの問題が有るなら、あの時みたいなやりきれない場面も想像されるなぁ、と数馬は心配になる。
絶対円満に解決させてくれと事務所の神棚に向かって手を合わせたが……。
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