『あ』………思わぬ再会

業 藍衣

思わぬ再会

「暑っ……しかし、必要な事とはいっても、スーツってなんだよ… 」


真夏の太陽は、皮膚を付き刺すような痛みを与え、耳鳴りのように響き渡るセミの鳴き声が僕をイラつかせた。

僕はブツブツと文句を言いながらだらだらと歩みを進め、額からあふれでてくる汗をYシャツの袖で拭うと、訪問先の家の玄関前に立ち止まる。

自分からみても、スーツを着ていると言うよりも着られていると言うような表現がぴったりの僕は、ひとつ息を吐いて呼び鈴に指をそっと近づける。

緊張からか、先程までの暑さを忘れ、キーンと言う耳鳴りがしている。

うるさかったセミの声は書き消え、背筋に一筋の冷たい汗が流れるのを感じた。

『ええい!!なるようになれ!』そんな想いで呼び鈴を押す……と、

「はい 」と、しゃがれた低い声が家の中から聞こえ、キシ…キシ…とゆっくりとした調子で床のきしむ音が家の奥から玄関口へと向かってくるのがわかった。

僕はゴクリと唾を飲み視線を玄関へと向けた。

ドアが開く……と、そこには見覚えしかない、背が高く恰幅の良い体型、そして整髪料でしっかりと固められた七三の白髪の爺さんが立っている。

僕は思わぬ再開に、


『あ』


と言う、驚きと突然足元に大きな穴が空いて深い闇へと落ちていくような感覚の中で声が出た。

そしてクマンと心の中で続けた。


白髪の老人は、僕を二つ段差を上がったところにある玄関から、しばらく黙って見下ろしていた。

これは僕が誰だかわかっていないのか?それならセーフなのか?とそんな淡い期待をしたが、そうはいかなかったらしい……

老人は、綺麗にヒゲの剃られた顎を指で触り、しばらくの沈黙の後ボソリと、


「タカハシ……アユム?…」


そう僕の名を呼び、ひとつため息をついた。

僕は上手くこの場を乗り切れないかと考えを巡らせるが、そんなことが出来たら、こんな暑い日にこんな事をしているわけもないのだ。



「はい……お、お久しぶりです 。相田先生…」


ひきつった笑顔を浮かべながら、僕は会釈をした。

そうして、次の言葉を探していると、『相田熊五郎』かつて僕が通った母校の生徒指導をしていた先生は僕に手招きをして、


「高橋君、立ち話をするのも良いが、今日はこんなにも暑い、お茶を出してあげるから、まぁ上がりなさい」


そう言って優しい笑みを僕に向けてくれた。

僕はその表情に何だか引き寄せられ、言われるがまま、高校時代に散々陰で悪口を言っていた、悪魔のような生徒指導教員の相田熊五郎…略して『アクマン』の自宅の客間へと通されてしまう。


………


「ちょっとそこに座ってなさい」そう言われて畳の部屋に一人、座布団に正座をして『アクマン』を待っている。

僕は手持ち無沙汰になり、部屋の中を見回した。

几帳面な『アクマン』の性格を現すかのように、よく整理されている………

高校生の頃によく呼び出されていた、生徒指導室を思い起こさせるような、必要最低限の物しか置かれていない、生活感の無い部屋だ。

僕が高校二年生の時に『アクマン』は定年になって退職、新しく赴任した生徒指導の木村の僕を馬鹿にした態度が気にくわなかったんだよな…その点、相田先生は怒ると悪魔の様な顔で怖かったが、良く話も聞いてくれたし、優しく諭してもくれた。

相田先生が僕の卒業までいてくれていたら、事態は……そんなことを思っていると、襖の向こうで何やら電話をしている相田先生の声が微かに漏れつたわってくる。

「ええ…はい。……そこは本人に……いえ、でもまだ私は……ええ……とにかく、今回の事は…………お願いいたします。はい、では失礼します。」


何やら電話の相手にお願いしているようだった。

電話を終えると、相田先生が麦茶をふたつお盆にのせて部屋へと入ってきた。

グラスに沢山付いた結露の水滴が、キラキラとしていてる。


「まあ、まずはこれでも飲んで落ち着きなさい」


そう言って僕の目の前に置かれるグラスを僕は無言で飲み干す。


「それで?こういうのは、はじめてなのか?」


相田先生の真っ直ぐな目は、『アユム、何もかもお見通しだよ』そう言っているように感じる。

そうか、僕は本当になにをやってもダメなんだ。

スーツを着て、老人の家を訪ねてお金を受けとる……そんな簡単なバイト…どんな事をしているのか、馬鹿な僕でもわかっている。

でも、そんな簡単な事さえも僕は出来ないんだな……

僕はうなだれ、肩を落として、


「………はい」


そう消え入りそうな声で僕が答えると、相田先生はとても優しく、


「そうか、それなら良かった」


そう笑顔で答える相田先生。


え?良かった?……何が?僕は今のどうしようも無い事態を良かったと言われて戸惑いを隠せずポカンと口を開けていると、


「まぁ、色々と後処理が大変な事はあるだろうが、教員を辞めた私には幸い時間には困って無いのだよ。取り返しのつかないところまではまだ行って無いんだ。安心して良い」


そう言った相田先生の表情はとても優しく、絶望の暗闇の中に落ちていた僕の心を力強く引っ張り上げてくれるようだった。


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『あ』………思わぬ再会 業 藍衣 @karumaaoi

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