レモン、ジンジャー、カイエンペッパー
ゴオルド
花言葉は【思慮分別】【無駄なこと】【嫉妬】
救急車のサイレンで目を覚ましたが、目を開けても何も見えなかった。祖母は家中の雨戸を全部閉めないと気が済まない性分で、それは私の部屋も例外ではなく、あかりを消せば、家全体が闇に閉ざされてしまう。
首をひねり、枕元のデジタル時計を確認した。午後11時過ぎ。寝入りばなを起こされたようだ。
冬も近いというのに蒸し暑い。布団の中の空気が蒸れたようになり、不快で足の裏を敷き布団に擦り付けようとしたが、思うように足を動かせなかった。
サイレンが近づいてくる。結衣が強くしがみついてきた。
「苦しい、離せ」
結衣を引きはがそうとすると、小さな悲鳴をあげて、強固に抱きついてきた。ますます苦しい。同じ身長というのが災いして、頭からつま先までしっかり捕らえられてしまう。どこにも逃げ場がない。結衣は小さな胸を押しつけるようにしてきた。これがほかの女ならわざとなのかと勘ぐるところだが、こいつはそうではない。幼児のころからタコの吸盤みたいな抱きつき方をする女なのだ。隙間なくべっとりと張りついてくる。
サイレンが、止まった。わりと近所のようだ。
静かになり、やっと結衣が離してくれた。と思ったら、今度は私のパジャマのズボン中に手を忍び込ませてきた。お返しに結衣のパジャマの上から乳房をきつく握ってやった。
「痛いよぉ。もっと優しくして」
「うるさい」
雑に揉むと、あえぐような声が聞こえたから、うんざりして手を引っ込めた。あいかわらず結衣の胸はやわらかかった。コシのないうどんのようにふにょふにょだ。私のはもうちょっとしっかりしているが。同じ女でどうしてこうも違うのだろう。
「結衣の胸、ふにょふにょすぎ」
「気持ちいいでしょ。みんな褒めてくれるよ。海翔くんも章太くんも、結衣のおっぱいが好きなんだって」
「それどこの誰か知らんけど、お世辞じゃないの」
「違うもん」
手が下着の中に入ってくる。
「結衣は、お姉ちゃんのここ、好き」
「淫乱すぎるだろ」
目を閉じて罵ったが、結衣は嬉しそうな声を上げただけだった。暗闇の中で目を閉じたって何の意味もない。
翌朝、暗闇の中で目を覚ますと、結衣はもういなかった。何も見えなくても温度と湿度でわかる。
パジャマのまま雨戸をあけて光と風を取り込んだ。新鮮な空気に、ほっと息を吐く。
顔を洗いにいこうと部屋を出たが、違和感に気づいてすぐに引き返した。なんだろうと思って室内を見回したところ、花瓶がなくなっていることに気づいた。
「あいつ持って帰ったな」
私が祖母宅に越してきて5年になる。そのお祝いだとかいって、数日前に祖母がくれたのだ。なんのお祝いだろう、ちっともめでたくないのにと思うが、ありがたく受け取った。大事にしようと思った。それなのに。
2階の自室を出て、リビングにおりていくと、エプロン姿の祖母が食卓に朝食を並べているところだった。
「八重ちゃん、おはよう」
「う、うん。おはよう」
食卓に並ぶ2膳の箸と、二つの茶碗、二つの味噌汁。ウインナーの乗った小皿は私の分だけ。祖母はウインナーのかわりに生卵を味噌汁に落としてぐらぐら煮立たせるのがいつものメニューだ。
「結衣ちゃん、さっき帰ったよ。ご飯3杯もおかわりしてったわ」
「う、ごめんね、おばあちゃん」
「いいよいいよ、高校生だもん、食欲旺盛なのは当然よ。八重ちゃんもほら、早く顔を洗ってきなさいよ」
「はあい」
返事をして洗面所に向かいながら、花瓶を取られたことがバレないようにしなきゃ、と思った。
家を出て、高校に向かって歩いていたら、「お姉ちゃん、待ってよお」と、甘えた声を出しながら、結衣が追いかけてきた。おそらく物陰に隠れて待ち構えていたのに違いない。
「外でお姉ちゃんって呼ぶなって、あと何回言ったら覚えられんの」
「だって、お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん」
「幼馴染みなだけだから、お姉ちゃんとか言うな」
「じゃあ、何て呼んだらいいの」
「呼ぶな」
「ええっ、やだあ」
「くっつくな、鬱陶しい」
話しながら、徐々に結衣が遅れていく。結衣はとにかく歩くのがのろい。
「結衣さ、私の花瓶盗んだだろ」
「ええ? 何のこと? 結衣わかんない」
結衣は盗癖もあるし、平気で嘘もつく。もう最悪だ。あと、私のいない隙を見計らって私の祖母に甘えたがる。ふだんは小食なくせに、無理しておかわりまでする。
「ねえ、きのうの救急車、どこの家に行ったんだろうね」
「知らん」
「結衣ね、救急車のサイレン怖いんだ」
それは知ってる。というか、会話が嫌な方向へと進んでいくのを予感して、気分が落ちてくる。
「でもね」
結衣が小走りで追いついて、私の隣に並んだ。
「お母さんが救急車に乗っていなくなって、お父さんがパトカーに乗っていなくなったとき、お姉ちゃんがずっとだっこしてくれたでしょ。それで結衣はとっても安心できたの」
相変わらず私の罪悪感をえぐってくるやつだ。おそらく私は冷たい目で結衣を見ていることだろう。だが結衣は余裕たっぷりに笑った。
「結衣の気持ちわかってくれるの、お姉ちゃんだけだよね」
同じ境遇だからか。刑事事件になるのと、両親が失踪するのと、全然事情が違うと思うのだが、果たしてわかりあえるんだろうか。
心に傷を抱えた者同士の連帯、とでも?
私はもっと別の関係になりたいのに。
「お姉ちゃん、大好き」
結衣が目を細めて笑う。ふわふわの明るい髪と、ふっくらとした頬、丸い大きな瞳は、どこか甘えたよう。顔立ちは整っているほうなのだろう。にもかかわらず、可愛いとも美しいとも言いがたい妙な雰囲気があった。たぶん、結衣の傷は「治りが悪い」のだ。私はこの傷をどうにかして癒やしてやりたいと思って頑張ってきた。結果は芳しくはない。
学校につくと、結衣はあっさり私のもとを離れて、男子のところへ駆けていった。
教室に入ると、ちょうど出てきた
「おはよ」
「おはよ、八重ちゃん。これから購買行くんだけど、一緒に行かない?」
特に断る理由もないので、同行した。購買までの道のりをしゃべりながら歩く。永久子はいつだって私の話を静かに聞いてくれる。少し呼吸が楽になったような心持ちで、今日はじめて自然に笑えた。
パンを買う永久子の隣で、ぼんやりとパックジュースを眺めていたら、永久子が白い手をさっと伸ばして、パックジュースを二つ買った。私の好きなブドウ味と、永久子の好きなパイン味だ。
おごってもらったジュースにストローをさしながら、来た道を戻る。
「最近さあ」
「うん」
永久子がパインジュースを飲みながら相づちを打つ。
「攻撃性について考えてるんだ。攻撃衝動が外に向かえば暴力や殺人、性犯罪となり、内に向かえば自殺、自傷になるのかもしれない」
「うん、それで?」
「だから、根本の攻撃性を下げる必要があって、ただやみくもに犯罪やめろとか、自殺やめろとか言っても難しいんじゃないかな」
「ふうん」
教室に到着し、自分の席に座ると、永久子が当たり前のように椅子を持ってやってきて、私の隣に座った。もう紙パックは持っていない。かわりに小さなクシを持っている。
まだブドウジュースを飲んでいる私の髪を、ゆっくりと優しくとかしてくれる。なんでか知らないが、永久子はいつも朝に私の髪をとかすのだ。そんなにぼさぼさではないと思うのだが。
「攻撃と自殺、ほんとうに関連あるのかな」
「どうだろ。ただの仮説だし。でも、全世界的に犯罪傾向が高いのは男性で、自殺が多いのも男性なんだ。これはどんな時代でも、どんな地域でも変わらないっぽい。精巣ホルモン、セロトニン、あと神経ペプチド……こういったものの影響なのか、それとも環境や文化が関係しているのかはわからないけど。でも国も時代も関係ないのなら、やっぱり器質的な問題があるんじゃないかな」
本人の意思だけでは抗うことが難しい、人体の仕組み。それは呪いに似ている。
「もし男性の攻撃性を下げることができたら、男性の犯罪だけでなく、男性の自殺や自傷も減らせるかもしれない……」
そこに結衣を救うヒントがあるのではないかと私は期待してしまう。攻撃性を下げる方法があれば、あるいは。
「なんにせよ、まずは自分の中にいる凶暴なモンスターを自覚することだよね。そもそも認識できないものをコントロールはできないから」
「コントロールか。私は消す、下げるって考えてた。確かにコントロールのほうがしっくりくる」
「そうでしょう。ちなみに私はちゃんと飼い慣らしてるからね、自分というモンスターを。ふふ」
永久子が笑うとパイナップルの甘い香りが広がった。酸味がぜんぜんなくて、蕩けるような甘い香りの中で意味深に微笑む永久子。
「なんか怖いんだけど」
「そう? 自分がモンスターだって気づいていない人のほうが怖いよ」
「それはそうかもだけど」
永久子とはこういう話しができるから好きだ。穏やかに思考に没頭できる。
「あれ、今日も来てるね」
永久子に促されて、教室の入り口を見ると、よそのクラスの生徒が困り顔で立っていた。私と目が合って、小さく頷いた。
くそ。もうちょっと永久子と話していたかったのに。でも放置するわけにもいかない。
トイレに行くと、結衣は手洗い場でショーツを穿いたところだった。
「おい。淫乱」
「え」
「学校でヤルなって、何回言ったら覚えんの」
「でも、小室くんが、どうしても今すぐしたいって言うから」
「言うから、じゃ、ねえんだわ」
誰だ小室って。初めて聞く名前だ。新顔か。昨日は別の男子と、その前はまた別の男子と、結衣は学校の女子トイレでセックスして、女子から苦情が殺到している。本人は苦情なんか聞いても聞こえないふりなので、幼馴染みの私のところに苦情は回されてくるのだった。
「そういうの自傷行為だからな。やめな」
「お姉ちゃんに結衣の何がわかるの」
「なんもわかんねえけど、でも不特定多数とヤルのも、同性愛者じゃないのに同性とヤルのも自傷だってことだけはわかる。こんなのもうやめろって」
「あーあ、うるさいなあ。お姉ちゃんってくそ真面目で人生つまんなさそう」
思わず溜息が出た。何を言っても無駄なのか。
彼氏でもいれば落ち着くかもしれない、そう思ったこともあった。だが、結衣の歴代彼氏たちは、身体に飽きたらさっさと去っていった。ヤルだけヤって誰も結衣を愛さなかったのだ。いや、それは正確じゃない。私のひねくれた嫉妬がそう思いたいだけだ。男たちも彼らなりに愛そうとはした。普通の彼氏彼女の関係になろうと努力した男子は一人や二人じゃなかったことを私は知っている。だが、つねに愛に飢えた結衣を、彼氏に一方的な理解と献身を求め、それでいて誰とでもセックスしまくる結衣を愛し続けるのは、普通の男には難しい。
「もうやめろって。自分を大事にしろよ」
なんて虚ろな言葉だろうか。自分でも言っていて空しくなる。大事にしてくれる親はいなくても、おばあちゃんには気に掛けてもらえる私が、結衣にこんなことを言う構図はグロテスクだ。それでも言わずにはいられなかった。
結衣を大事にしろよ。結衣もほかのやつらもさ。
セックスの順番待ちをしている男たちには反吐が出る。だが、その中の誰かひとりでも愛してくれるんじゃないかと期待して抱かれる結衣にはもっと腹がたつ。そのくせ男から愛が返ってきたら、平気で汚して捨ててしまう結衣には腹が立つを通り越して憎しみすら覚える。たったひとりの愛では満足できない結衣が憎くてたまらない。
「お姉ちゃんは恵まれてるから、結衣の気持ちなんかわかんないよ」
「なんだそれ、朝は真逆のこと言ってくせに。言うことが適当すぎんだよ」
「だって、どっちも本当のことだもん」
そういって抱きついてくる。さっきまで小室とやらに抱かれていた身体で。
「結衣の味方、お姉ちゃんだけだよ」
私は長年この言葉で縛られているのだ。
「お姉ちゃんは、結衣を助けるために警察に電話してくれたんだもん。そのせいでお父さんが怒って、お母さんが殺されたけど、お姉ちゃん、結衣のためにしてくれたんだもんね」
私が罪を忘れてしまわないように、結衣はいつも丁寧に教えてくれる。
「お姉ちゃん、結衣の言うこと、ちゃんと自分で否定しなきゃだめだよ。本当は違うって何度も教えてあげたでしょ」
「ああ……」
「お姉ちゃんは結衣を助けたかったんじゃない。親をこらしめてやりたかっただけなの。自分を捨てた親に仕返ししたくて、でもどこにいるのかわかんないから、かわりに結衣の親を狙ったんでしょ」
そう何度も詰られ続けてきた結果、本当にそうなのかもしれないと最近は思い始めた。
「ねえ、なんか言ってよ」
「私は何があってもずっと結衣の味方だから」
それしかできないそれしか言えない。
「うん。お姉ちゃん、大好き」
私が結衣に逆らわないのは、絶対に味方でいつづけるのは、それだけが理由じゃないってことを、結衣は知らない。
初めて会ったときのことをいまもまだ覚えている。小学一年の夏休み、不自然なほどサイズの小さいワンピースを窮屈そうに着て、自宅の玄関前に立ってぼんやりしている結衣を見て、妖精みたいだって思ったんだ。小さくて可愛くて、おどおどしていて。守ってあげたいって思った。
それなのに守れなかった。
お昼休みになり、いつものように結衣がやってきて、私のお弁当をとりあげた。
「今日はお姉ちゃんの大好物が入ってる!」
ピーマンの肉詰めだ。一度これが美味しいと言って以来、祖母は週一のペースでつくってくれるようになった。実はそんなに好きなわけではないのだが言い出せずにいる。多分一生言わないと思う。軽い気持ちでお世辞など言った私が悪い。いまさら本当のことを言って祖母を悲しませるなんて許されない。
「食べちゃおうっと」
結衣は手づかみでピーマンの肉詰めを食べはじめた。ついでに煮物や卵焼きまでつまんでいる。浅ましい、見苦しいと思うのが普通なのだろうが、必死に食べ物を口に詰め込む姿があまりにも幼稚で哀れに思えた。
「はい、残り、食べていいよ」
白米だけを返された。結衣は、にこにこと去っていった。
その夜、布団に入ってスマホをいじっていたら、いつものように結衣がやってきた。まだ部屋の電気を消していないのに、無遠慮にのしかかってくる。
「結衣、首にキスマークあるけど」
私が指摘すると、えへっと笑た。
「化学の先生とやっちゃったあ」
「やっちゃったあ、じゃ、ねえんだわ。おまえ、本当さあ」
結衣は指を大きく動かして、私の肌を撫でていく。攻撃衝動が暴れているのだろうか。
「お姉ちゃんにも同じことしてあげるね」
首もとをきつく吸い上げられた。こんなの自傷だとわかっているのに、逆らえずに快楽を貪ってしまう。結衣。吐き気とともにやるせなさで胸が苦しくなった。
「あの子のこと、もう見捨てたら」
「ああ……」
放課後、
見捨てるのにも資格がいる。私にはない。
永久子は私の首もとにちらりと目をやった後、じっと見つめてきた。その視線をぼんやりと受け止める。
「キスしていい?」
「いいよ」
「なんで」
なんでだろう。自傷かな。
「しないの」
「する気がなくなった」
「面倒くせえ女」
「どっちが」
そうだな。
その後、私たちは闘争・逃走反応について議論した。危機的状況に陥ったとき、戦うか逃げるかすることで動物は生き延びてきた。それは人間も同じで、強大なストレスにさらされたとき、攻撃的になったり逃避的になったりする傾向がある。たとえばみんなの前で恥をかかされたとき、その原因となった相手を攻撃するか、その場から逃げ出したいと思うか。きっと自分を責める人もいるだろう。攻撃が自分に向かってしまう人が。
まったく実りのない会話ではあったが、楽しかった。
ただ、一つだけ気になることを永久子は言っていた。
「児童虐待のニュースを聞いたとき、八重ちゃんはどう思う?」
「どうって……」
内心の動揺を悟られないよう表情に気を遣ったら、言葉が出なくなった。
「ネットで虐待ニュースのコメント欄を見ていたら、子供を心配する人と、親をこらしめてやりたいと思う人、この2パターンに大別されるのに気づいたんだ。これも攻撃性が関係しているんじゃないのかな。で、八重ちゃんはどっち?」
私の弱いところを突くとき、なぜか永久子は優しい顔をするから、ぞくりとする。
「八重ちゃんの中にもいるよね、モンスターが」
言われるまでもない。
「お姉ちゃん、おなかすいた」
その日の昼休み、また結衣がやってきて、私のお弁当を奪った。私は一切逆らわない。
「あれ、これもしかして冷食?」
「そうだけど。おばあちゃん、きょうは朝から病院行く日だし、冷凍庫にあったもんを自分で詰めた」
「じゃあ、いらない」
突き返される弁当。かわりにペンケースを取られた。なかを漁られる。指を器用に動かして中を確認しているようだ。結衣はほんとうに指がよく動く。可動範囲が広いようで、大きな昆虫が足を動かしているような動きを見せる。
「あっ、これ新しいよね。どうしたの」
ボールペンをかちかち言わせている。
「クラスの男子にもらった。先月ノートを貸してやったお礼だって」
その程度のことでお礼を用意するなんて、下心でもあるのだろうか。
「へへ、やったあ」
結衣は上機嫌で戻っていった。もちろんボールペンは持ち去られた。あまりセンスが良いとはいえないデザインなのだが、そんなことはどうでもいいのだ。結衣が欲しいのは物じゃない。
私への好意や愛をかすめ取って、部屋をいっぱいにしていく結衣。あまりに可哀想で、結衣のために贈り物をしたこともあったがさほど喜んでくれなかった。私の愛情など、その辺の男子の穴の開いた靴下より価値がないのだと思い知っただけだった。
「同情なんて欲しくないでしょ」
「そうか」
寝る前、永久子に電話するのが最近の私の癒やしだ。
「じゃあ何が欲しいんだろ」
「愛じゃないのかな」
「愛なら与えてるつもりだけど」
「それって本当に愛なの。ただ言いなりになってるだけでしょう」
「言いなりなんて愛がないとできない」
「そうかな。私は違うと思うな。でも、八重ちゃんって、愛してたら言いなりになっちゃうんだ。いいこと聞いたな」
「え、またなんか怖いこと言ってるし」
部屋のドアが開く音がしたので、てっきり結衣が入ってきたのかと思った。
「八重ちゃん、ちょっといい?」
祖母がノックもなしに部屋に入ってくるなんて、これまであっただろうか。しっかりと結んだ口元に、祖母の緊張が見て取れた。
「さっき警察から連絡があってね。結衣ちゃんが保護されたって」
結衣はこの近くに住む親戚の家に居候しているが、彼らは警察に迎えにいくなんてごめんだということで、私と祖母におはちがまわってきた。
タクシーに乗って、警察署へと告げると、運転手は無言になった。祖母も何も言わなかったので、私も黙っていた。
結衣は、夜の繁華街で、男と一緒にいるところを補導された。その男が覚醒剤を持っていたから、取り調べを受けることになったらしい。巻き込まれただけなのか、結衣も薬を使ったのか。祖母の話ではよくわからなかった。
ああ、まだ薬に手を出していませんように。どうかそこまで堕ちていませんように。
きつく両手を握り合わせた。
もう二度と私に触れないでいいから。昔結衣が憧れた近所の光陽くんみたいに格好良い男の人と結婚して幸せになっていいから。私のことなんか見てくれなくていいから。だから、結衣。
祈るような気持ちで警察署についたのだが、肝心の結衣はというと、警察署の狭い廊下に設置された椅子に浅く腰掛け、足を投げ出してスマホをいじっていた。
「お姉ちゃん。やっぱり来てくれたんだ。結衣、お姉ちゃんなら絶対来てくれるって信じてた」
えへっと笑う、いつもの結衣がそこにいた。
タクシー車内で怖い想像をしてしまっていた私からしたら、いつもどおりすぎて非現実的にすら感じられた。
結衣、手錠をかけられてなかった!
ほっとした瞬間、足の裏から頭の先まで貫くような怒りの衝撃に襲われた。
「おまえっ、ほんと、本当になんなの、ねえ! また知らない男と! しかも薬!」
結衣はそっぽを向いた。
「ねえ結衣ちゃん、一体何があったのか教えてくれる?」
「おばあちゃんもお迎え来てくれて、ありがとう」
「ありがとう、じゃあ、ねえんだわ。どういうことなんだよ」
「結衣なんにも悪いことしてないもん」
結衣はそれきり説明を拒んだ。刑事さんに聞いたが、私たちは家族ではないし、本人も知られるのを拒否しているから、個人情報保護とかなんとかで事情を説明できないと言われた。
結局、何があったのかわからないまま、三人でタクシーに乗りこんだ。誰も何も言わないが、車内には不穏な空気でいっぱいだった。
祖母宅前でタクシーをおりると、結衣はそのまま帰ろうとしたので、私は肩に手を掛けた。
「結衣。なんか言うことないの」
「え、ないけど」
私の手を振り払って、結衣は背を向けた。
「男遊びはもうやめろ」
「はあ?」
これから言う言葉は私をも縛る。でも、言うしかないと思った。このままでは結衣は堕ちるところまで堕ちてしまう。
「男と遊ぶのをやめて、自分を大事にしろ。できないなら、もう二度とうちに来るな、私に話しかけんな。どっちかだ。選べ」
「なにそれ、やだあ」
だが、結衣はふにゃふにゃと笑っただけで、さっさと帰っていった。
祖母が、立ち尽くす私の手を引いて玄関のドアをあけた。壁のスイッチを指で押すと、かちっと音を立ててあかりがついた。この無機質な音とともに、私と結衣の間に隔たりが生まれた気がした。
それからしばらくの間、結衣は私のまわりをチョロチョロしていたが、不特定多数とヤるのをやめるよう本気で説得を試みたら、近寄ってこなくなった。結衣は男を選んだのだ。そうなるだろうと頭では理解していたが、心のどこかでは私を選んでくれるんじゃないかって期待していたから、落ち込んだ。
その日、英語教師が体調不良で休んだため自習となった。
英単語を書き取りながら、つい校庭に視線を向けてしまう。体育の授業中の生徒たちがグラウンドでストレッチをしている。が、一部の生徒は隅のほうでかたまっている。その集団の真ん中で、結衣が数人の男子に身体を触られて嬉しそうに笑っていた。いまにも始めそうな雰囲気を漂わせている。実際、体育が終わったらヤるのだろう。結衣の素行は悪くなる一方だった。自分を痛めつけることに必死になっているようにしか見えない。
いっそ私を殴ればいいのに。
結衣の持つ攻撃性が結衣自身に向かうくらいなら、外に向かえばいいのに。私なら受け止めたのに。
ノートに、ぽたりと涙が落ちた。ノートをぬぐっていたら、ぽつぽつと涙がこぼれてきたので、ノートをとじて、頬をこぶしでぬぐった。
「八重ちゃん」
いつの間にか隣に永久子が座っていて、私を抱き寄せた。
「もう終わったんだよ」
「終わった……?」
「そう、終わったの。だから、もう苦しまなくていいんだよ」
そうなのだろうか。終わったのだろうか。ああ、そうだ、確かに終わらせたんだった。どちらかを、私か男かを選べといって、それで結衣との関係は終わったのだった。
現実を再認識して、違う涙がこぼれた。次から次へとこぼれおちる無色の血液を、永久子がそっと指先ですくいとってくれる。
「これからは、八重ちゃんが幸せになることを考えよう。もうあの子のことは忘れて、自由になっていいんだよ」
ああでも放っておけないんだ。
結衣は本当はあんな子じゃなかったんだ。
臆病で繊細で、泣き虫だったんだ。それを私が壊してしまったんだ。
あの子はずっと辛い目に遭ってきたんだから、幸せになる権利があるんだ。
それなのに。
優しく頬を撫でる手が、髪も、耳も撫でていく。
「全部受け止めてあげる。八重ちゃんの言葉も気持ちも全部、私が受け止めて、救ってあげる。もう何も心配しなくていいの。一番近くにいて助けてあげる」
永久子……?
「だから、これからは私だけを見てね。私以外は何も見なくていいんだよ」
熱い指先のかすかな震えから伝わる想い。
「わかったらお返事して」
私はあえぐように「はい」と呟いて、永久子の胸にすがりついた。
結衣は、永久子の愛も私から奪おうとするだろうか。奪ってほしい。結衣が永久子の愛に満足して、男遊びをやめてくれたら、こんなに幸せなことはない。
私が受け取るものなら何だって結衣に捧げよう。花瓶、ペン、永久子。
「愛してる」
これから結衣のものとなる永久子を。
<おわり>
レモン、ジンジャー、カイエンペッパー ゴオルド @hasupalen
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