点と点を結ぶ線
森本 晃次
第1話 映像クリエイト
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
H県にある三星芸術大学は、前は海、後ろは山に囲まれた、自然豊かなところに位置する大学だった。自然も豊かだが、近くには大都市もあり、住宅街も充実していることから、このあたりは昭和の終わり頃から急速に発展してきた街だった。
大学は山の麓に位置しているが、少し小高いところにあることから、夜景はとても綺麗だった。大学の中で一番高いゼミ会館の最上階から海を臨むと、ちょうど湾曲した陸地から、対岸が見えてきて、その向こうの連山も綺麗に見えたりする。高速道路や私鉄も充実しているので、ネオンサインが鮮やかな時間帯は、車のヘッドライトが規則的に動いているのを見て、
「これこそ、百万ドルの夜景だ」
と、アメリカの都市をイメージさせる表現をする人もいた。
佐川龍之介も同じ気持ちで、よくゼミの研究で遅くなった時など、窓の外からボンヤリと夜景を眺めていたものだ。そんな時はいつも一人ではなく、隣には女性がいた。
「坂口里穂」
それが彼女の名前である。
芸術大学に入ってすぐに声を掛けた相手で、佐川の好みのタイプだったということであろう。
それは今も変わっていない。どちらかというと、守備範囲は広い方だと思っていたが、一人に決まるとその人一筋というのも佐川の性格であり、そんな彼に好かれたことを素直に嬉しいと思っている里穂だった。
話をしてみると、結構似たところのある性格だということを知ると、佐川は有頂天になった。
――やっぱり俺の目に狂いはなかったんだ――
という思いとともに、似たような性格の人を好きになるという自分がいじらしくも感じられた。二人が最初に感じた似たところというのは、
「自分で思っていることを素直に相手に伝える」
ということである。
しかも、その話が共感の持てる話であればあるほど話は白熱し、時として声を荒げることもあるが、それはお互いに相手を分かっているということで、気まずい雰囲気になるということもなかった。
佐川は几帳面な性格であった。几帳面というか、下手をすれば神経質なところがあって、人が近寄ってきたりすると、無意識に避けるところもあるくらいだった。よく咳をする人と自分の机で話をした後、アルコールでいちいち消毒しているのを見た時、ほとんどの人は引いていたが、里穂だけは、
「気にならないと言えばウソになるけど、それほどひどいわけでもないし、私も見習わないといけないと思うくらいだわ」
と言っていた。
彼から声を掛けられて、少し話をしただけで彼の考え方や性格にすっかり傾倒していた里穂は、贔屓目ではあるが、彼のいいところも口にできるという自負もあった。そんな里穂にとって佐川は頼りになる相手だということで、愛情よりも先に尊敬の念を抱いたのではないだろうか。
二人が似ているところは、お互いにどこまで意識しているか分からないが、素直なところではないだろうか。下手をすれば、信じすぎるのがあだになることもあるかも知れないが、今のところ自覚がないだけに、どちらに転ぶか分からない。だが、悪い性格ではないことは間違いないので、お互いに相手のことを、
「素直な性格だ」
ということを分かっていて、そこに惹かれたという意識があることで、うまく行っている理由はそのあたりにもあるに違いなかった。
三星芸術大学は、芸術系の大学としては、結構全国でも有名で、学生は地元だけからではなく、他県からもたくさん来ている。里穂は地元であったが、佐川は少し遠いところからわざわざ受験してきたので、マンションに一人暮らしをしていた。
マンションと言っても、それほど広くもなく、一人暮らしをするには広すぎず狭すぎずというところを選んでいた。
元々小説家か、脚本家を目指していた里穂だったので、最終的には映画監督を目指している佐川の元で、自分が脚本を書ければいいと思っていた。
ゼミも映像クリエーターを目指すところで、監督やディレクターを目指す佐川と、シナリオライターや編集を目指す里穂はそれぞれに目標を持って同じゼミに入った。
お互いに何本かの作品を制作した。里穂がシナリオを書いて、佐川が編集、監督を務めるというのもいくつかあったが、学園祭などで上映されて、それなりの評価も受けていた。
最初の頃は里穂の希望もあってか、恋愛ものであったり、学園もののようなものを手掛けていたが、そのうちに佐川が、それでは物足りなくなっていた。
「俺はもう少し奇抜なものをやってみたいんだ」
と言い出したのは、三年生の途中くらいからだったが、
「どんなものをやってみたいの?」
と里穂が聞くと、
「そうだなぁ。ミステリーやオカルト、ホラー関係をやってみたい気がするんだ。さすがに大学生の規模でSFに手を出すのは難しいのでSFはできないと思うんだけど……」
という。
「それは面白いわね」
と里穂は言ったが、実は里穂は怖がりなところがあった。
佐川はそのことを分かっていたので、あまり今までは何も言わなかったが、実際には奇抜なものをやってみたいという野望は、大学に入った頃からあり、ホラーやオカルトの、
「一度見ただけでは、内容が理解できない」
と思わせるような作品を作りたいと思っていた。
小説などでホラーを何冊か読んだことがあったが、一度読んだだけではその内容が分からず、何度か読み返しているうちに、
「そういうことだったのか」
と、気が付く瞬間が、本を読む醍醐味だと思うようになっていた。
小説と映像作品は大いに違うものなのだろうが、特に、原作を先に読んで、映像を見ると、どうしても面白みが半減してしまうということがある。それはどんなに優秀な監督やスタッフが製作したものでも、同じことが言えると思った。原作を知らずに映像を見ると、きっと感動するに違いないと思うのに、それだけ原作がすごいということなのかと感じていた。
しかし考えてみれば、原作である小説と、映像作品とでは、クリエイトの部分でかなりの違いがある。
小説の場合は、最初から最後まで一人で書くものだ(合作の場合は別であるが)。しかし、映像作品というのは、まず、企画立案があって、脚本が作られる。その際には小説のように、細かい描写などは一切書かれていない。なぜなら、最初から詳細に描かれた脚本であれば、監督や役者がその行動をかなり制約されてしまう。つまり脚本では描写も最低限に描かれて、そこから先は役者や監督が受け継ぐことになる。下手をすると、脚本家の考えが反映されない場合もあり、また、原作すらかなり脚色されてしまうこともあるだろう。
映像作品でもう一つ問題になるのは、「尺」という問題である。映像作品には時間がある程度決まっている。だから、原作があって映像化する場合には、まず尺に収まるだけの作品を選ぶ必要がある。それは長すぎてもダメだし、短すぎてもダメだ。足りなければ補充しなければいけないし、長すぎれば、どこかを消さなければいけない。そのため、原作とまったく違った作品に変わってしまうということも珍しくなく、それを思うと、映像作品というのは、原作ありきであれば、簡単にできると思っている人も多いだろうが、それは素人の考えであると言ってもいいだろう。
里穂は、元々高校時代までは、映像作品に進もうとは思っていなかった。小説を書いて小説家としてのデビューを夢見る女の子だったのだ。映像作品に関して大学に入るまでは興味もなかったので、まったく想像したこともなかったが、大学で専門的に勉強するうちに、
――映像作品も悪くないかな?
と思うようになった。
シナリオライターへの道を模索し始めたのは、佐川と出会ってからで、佐川が、
「俺は映画監督を目指しているんだ」
と言っていたので、
「じゃあ、シナリオは私が書く」
と言っていた。
そういう意味で恋愛ものや学園ものが多かったのもそのせいであり、それまで監督になりたいと思ってはいたが、どんなジャンルなのかというところまでは漠然としてしか思っていなかった佐川にとって、学園ものや恋愛ものは本当に物足りないとしか思えないものだった。
二人は最初、サークルに所属することなく自分たちだけでやっていこうと思い、同志を募っていた。集まったメンバーは数人だったが、さすがにこれだけでは作品を作ることもできないと断念した。何よりも資金が足りない。やはりサークルに所属し、資金を調達できる体制を取る必要があったのだ。
二人が製作する作品というのは、それほど大規模なものではない。ファンタジーやサスペンスになれば、製作費も嵩むだろうが、それほど大規模ではない学園ものや恋愛もの、さらにはホラー関係であれば、何とかなると思われた。
入部したサークルでは、細々と作品を作っていた。ネットに上げて、評価を見たが、それなりの評価もあったが、パッとしないのが現実だった。
二年生の頃まではお互いに意見をぶつけ合うこともなく、相手を尊重しながらやっていたが、三年生になった頃から、佐川の方が結構注文をつけるようになった。脚本は里穂の方なので、注文をつけるのは当然佐川の方だろう。そのせいもあってか、なかなか脚本が出来上がらずに、せっかく練った構想が、制作に至るまではなかったことも結構多かったのだ。
「こんなので大丈夫なのか?」
配役を決めたり、俳優を取りまとめる役の人が、そう言い出した。
「ああ、大丈夫だ」
と佐川はいうが、内心ではどう思っているのか疑問もあった。
里穂の方としても、
――どうして、そんなに否定するの?
と少し弱気になっていることで、佐川に言われる言葉が軽いトラウマにもなっていた。
なぜなら、里穂は佐川のことを好きでもあるし、尊敬もしている。そんな相手から「ダメ出し」を何度も食らえば、それは疑心暗鬼になったり、自己嫌悪に陥ったりするのも仕方のないことだろう。
そんな里穂のことを後目に、佐川は先のことを考えていた。彼は性格的に几帳面で堅実なところがあるが、いざというと、結構冒険することもあった。冒険というところまではいかないが、先を見据えているのも、ひとえに、
――里穂だったら大丈夫だ――
という思いがあるからだ。
佐川は、人を見る目はあると思っている。里穂が自分のことを尊敬していることも、恋愛感情を抱いてくれていることも分かっている。しかし、佐川が里穂と一緒にいる一番の理由は、里穂の才能を認めているからだというのも本当である。
里穂はそのことを知らない。里穂は自分のことを自虐的に見がちなので、いつも先を見ているように見える佐川を尊敬していて、さらに羨ましく思っている。その羨ましさが、恋愛感情の半分を占めていると言ってもいいだろう。だからと言って、恋愛感情に疑わしいところがあるというのは早合点であり、里穂の気持ちは佐川の素直さよりもさらに強いもので、それだけに佐川も里ほどそんなところを好きになったのだ。
里穂は佐川のことを、
「佐川さん」
と呼ぶ。
佐川は里穂のことを、
「里穂」
と呼び捨てにするのだが、このあたりにも二人の位置関係が見え隠れしているのだろうと、まわりの人は感じていた。
たまに自虐的になる里穂をうまく窘める佐川。普段は素直で実直な里穂が自虐的になると、完全に子供に戻ってしまい、わがままをいう駄々っ子にしか見えなくなってしまうので、普段の里穂しか知らない人は、
「彼女ほど、扱いにくい相手はいない」
と、自虐的になった時の里穂を、そう表現するのだった。
だが、佐川はそんなことはなかった。里穂の操縦法が分かっているのか、それとも里穂の方で、佐川の言うことであれば、催眠術にでもかかったかのように素直になれるのか、自分でもよく分からなかった。
「@佐川さんって本当にいい人なのね」
と里穂は本人に向かっていうが、それを聞いて佐川が苦笑いをしているのを、里穂は気付いていない。
その理由は、
「いい人って何なんだよ」
という気持ちが強いからで、佐川の中で、
「いい人」
というワードは、永遠のテーマのような気がしていたのだ。
映画製作にかかわることとは別に、二人の間で恋愛は進行していた。恋愛と映画とを切り離して考えようとしている佐川と、その二人はそれぞれのどちらかの延長線上にあると思っている里穂との間に、どこかぎこちなさがあった。
しかし、お互いに相手が映画製作と恋愛をどのように考えているのかを分かっていないことから、どうしてぎこちないのかということは分からなかった。恋愛に関しては二人とも同じ気持ちだと思っていたことで、その二つも同じだろうと二人揃って思っていたのだから、世話はない。それを思うと二人の間に距離ができたとしても、それを二人がどのように認識するのか、分かりにくいところであった。
お互いに距離を感じてはいるが、ぎこちないと言っても微妙な距離であり、このまま別れてしまいそうだとか、危険な匂いを感じたりとかはなかった。あくまでも映画製作の上での意見がすれ違っているということが影響しているのは分かっているのだが、すれ違いが恋愛との間の微妙な距離の勘違いにあることを分かっていないので、平行線は埋めることはできていない。
そんな二人の間にあって、それでも恋愛ものを書いていきたいと思っている里穂を見ていて、
――もう、恋愛ものはいい――
と佐川は考えていた。
その間隙をぬうように里穂に、
「俺も恋愛ものの監督をしてみたいんだけどな」
と言ってくる奴がいた。
彼は、名前を川上陽介と言った。本当は俳優としてサークルにいたのだが、
「俺、そのうちに監督もやってみたいんだよな」
とここ最近、まわりに嘯いていたのだが、まさか本当にやってみようと思っていたなど想像もしていなかったまわりは、ビックリしていた。
話を持ち掛けられた里穂も戸惑っている。
まだ自分の中で佐川との立ち位置が分かっていない状態で、いくら自分がやりたい分野の話が来たからと言って、いきなり飛びつくのは抵抗があったのだ。
そこで、半分カマを掛けるつもりで里穂は佐川に、
「実は川上君が、恋愛ものを撮ってみたいって言っているんだけど、私が脚本を書いてみてもいいかな?」
と聞いてみた。
返事がどうなるか、想像できなかったが、本音とすれば、
「そんなの断れ」
と言ってほしかった。
それは脚本を書く人間としては残念だが、彼氏としてはそう言ってほしいという気持ちがあったからだ。それにまだ二人は絶対的なパートナーだという気持ちが残っているからで、この気持ちはきっと消えることはないと思っている。
だが、意に反して佐川は、
「それもいいんじゃないか? お前は恋愛ものをやりたいんだろう?」
という返事をよこした。
里穂の方も、相談した手前、助言を無碍にするのも失礼だと思い、残念ではあるが、
「分かった」
としか返事ができなかった。
そう返事してしまった以上、脚本を書かないわけにもいかなくなり、川上と構想を練りながら脚本を書いてみた。
「ありがとう。なかなかシュールで面白いよ」
と彼は言ったが、この言葉が似あうのは自分ではなく、佐川の方だということを里穂は感じたが、これは逆に、
――いつも佐川さんと一緒にいるから、知らず知らずのうちに、私も彼のようなシュールな作品を書けるようになったということかしら?
と思えた。
――本当を言えば、自分もシュールな作品が書けるに越したことはない。いや、書いて見たかったのよ――
と独り言ちた。
この言葉を彼は誉め言葉と思って言ったのだろうが、里穂もそれを褒め言葉として理解した。
しかし、同じ褒め言葉という意味でも、感じ方が若干違う。里穂の中ではあくまでもこの褒め言葉とは、
「佐川ありき」
の誉め言葉であるということだった。
川上は、佐川の作品も読んだことがあった。元々佐川は脚本も書く。もっとも、
「監督を目指す者の基本的な考えとして、脚本も書けないとできないことだ」
と思っていたからだ。
監督というのは、すべての過程で総指揮を行うものだという考えから、脚本も音楽も編集も、すべてに精通しているものだと思っている。メガホンというのはただの道具ではなく、それができる者にだけ与えられるものだという考えであった。
佐川の脚本は、結構凝っているものが多かった。
「偏っている」
と言ってもいいかも知れないのは、ホラーやミステリー、SF系がどうしても多かった。
里穂の作る恋愛ものや学園ものとは程遠い作風で、シュールと言われるのもそのあたりに原因があるようだった。
「俺の作品は、どうしても偏見が入ってしまうので、こういう学生が趣味でやっているようなクリエイトには向かないと思うんだ」
佐川が監督に専念しているのは、そういう意見が大きかった。
最初は、脚本、監督、編集とすべてをやるのが目標だったが、脚本が演者に対して気を遣わなければいけないと分かった時、すべてを一緒に自分一人で行うことを自粛しようと思うようになった。
そういう意味では里穂が書く恋愛ものや学園ものに対して、元々抵抗があった佐川だが、自分がメガホンだけを持っていればいいと割り切った時、
――彼女の作品をこの俺が生かせるようにしてやる――
という気概のようなものを感じることで、やる気が出てきたような気がした。
その思いがあるから、自分は里穂と恋愛関係を続けていけると思っている。
「里穂のいいところを一番知っているのは、この俺だ」
と、臆面もなく里穂に伝えているが、その言葉を聞いて、彼が傲慢から口にした言葉ではないということを里穂は分かっていた。
――言い切ることで、自分の気持ちに素直になろうとしているんだわ――
これが、佐川という人間が素直で実直な性格だということを確信した最初だったのである。
ただ、今回の里穂は、そんな佐川と離れて、別の人の作品を書こうと思っている。佐川は別に反対はしなかったが、どんな気持ちでいるのか、里穂には分からなかった。
これまで、
――この人のことなら、私が一番よく分かっている――
と思っていたのが、ウソのようだった。
だが、この気持ちは一種のドキドキ感でもあった。
――お互いに何も言わなくとも、相手のことをすべて分かっている――
まで思っていた二人だったと思っていたのが、急に分からなくなったことで、どう思われているのかということを確かめてみたくなったのだ。
この確かめてみることは、今までの自分の自虐的な部分を曝け出すような気がして、本当は嫌だった。だが、いずれはどこかでしなければいけないことだったと思えば、別に今が時期尚早だとは思わない。遅かれ早かれ知らなければいけないことであれば、早い方がいいと思うのは、きっと相手が佐川だからであろう。
川上は自分のために書いてくれた里穂の作品を読んで、結構いろいろと質問をしてくる。学校で会った時、ノートには箇条書きでいくつか書かれていて、前の日から計画していたことがよく分かる。里穂とすれば、
――ここまで真剣に読んでくれて、本当にいい作品を作りたいと思っているんだわ――
と感じたことで、彼からの質問はなるべく答えていこうと思っていた。
中には佐川の作品と比較されるような言動もあり、少し気分を害することもあったが、これも作品をまっすぐに見てくれているからだと思えば、さほどイラつくこともない。脚本を書く方としても、いろいろ意見してくれるのはありがたいと思っているだけに、里穂はまだまだ勉強不足だということを感じていた。
「これを俳優が演じると考えて書いているかい?」
と、川上に言われたことがあった。
これは、佐川が最初に自分に聞いたことだったので、川上も最初に聞いてくることだろうと思って身構えていたが、結構後になってからの質問だったので、一度冷めてしまった気持ちがもう一度緊張させられることになった。
「ええ、このことは最初に佐川さんからも言われて、そのつもりで書いてきているつもりだったので、自信を持って、そうですって答えられるわ」
というと、一瞬、川上の口元が歪んだのを感じた。
――失礼じゃないのかしら?
と思うくらいの唇の歪みに、里穂は肩透かしを食らった気がした。
川上という男は、さすがに俳優出身の監督研修中ということもあって、演劇側から全体を見ているようである。演劇で俳優の経験はなく、脚本だけを目指していた里穂とは絶対的な開きが生じたとしてもそれは仕方のないことだろう。
ただ、自分から指名した相手だけに、余計な気を遣わせるわけにもいかず、罵声のようなものはなかった。
川上としてみれば、
――自分が頼んだのは、彼女と一緒に作品を作ることで、今までに感じたことのなかったいい作品を作ることができると思ったからだ――
と感じていた。
だから、苦言も呈するのだし、
「自分だから言えるということもあるのではないか」
とも思っているようだった。
実際に川上は苦言を呈してはいるが、その内容は細かいところが多く、大筋ではしっかりと認めている。文句を言われていると思ってしまうと、どうしても内容が詳細部分に偏ってしまっていることで、
「まるで重箱の隅をつつくような言い方」
と思ってしまって、皮肉にしか聞こえなくなる。
特に自分の作品にこだわりを持って作っている脚本家には、詳細なことをいちいち文句をつけられると、皮肉にしか捉えられなくなるのも仕方のないことだろう。
本当は、里穂にも分かっていることであった。だが、細かいことをチクチク言われるのは、まるで「継子苛め」のようで、いちいち癇に障ってしまう。それが癪だったのだ。
だが、それを堪えながら、なるべく監督の意見に沿うような作品を心がけて改編していくと、
「うん、これならいい。断然よくなったよ」
と言って、今度は褒めちぎってくれる。
最初の癪に障った気持ちはどこへやら、次第に有頂天になってきて、自分でもアイデアがどんどん生まれてくるのを感じた。
これが川上の狙いでもあった。最初に苦言を呈することで、一度自分やまわりに対して疑問を吐き出させ、そしてそれでもいい作品を作ろうとすることで、一皮剥けるまでのステップアップが整ってきた。
そして、出してきた作品が川上の想像したような、いや想像以上のものとして出来上がってくると、もう手放しで褒めたたえる。そうすることで、さらなる自信をつけさせることができ、彼女のような素直な性格の人間には、一皮剥けたということを意識させることで、それまで浮かんできてもおかしくない頭を持っているはずの彼女を、覚醒させることができると信じていたのだ。
実際に覚醒してみると彼女は本当に一皮剥けたかのように堂々として見えた。川上はその様子を冷静に判断して、彼女の作品を演じる人たちにも納得させることができると感じたのだ。
ただ、問題は川上自身が、まだ監督の経験がないということだった。佐川を見ていて自分なりに勉強をし、そしてある程度の自信を持つことができたことで、やってみたいと思うようになった。
彼は元々の俳優ではない。監督を目指すために俳優を演じていたのだと、豪語もしている。中にはそんな川上に対して、
「俳優というのをバカにしてるんじゃないかしら?」
という、演者もいたが、それは一部の意見で、
「俳優出身者が監督や脚本で成功してくれれば、俺たちにも俳優以外にも何かができるということだよな」
と言って、自分の可能性が膨れてくることを素直に喜んでいる人もいた。
確かに世間では、俳優から映画監督になったり、本を出してベストセラーや有名な文学賞を受賞する人もいる。一般の人に比べれば、元々の感性が強いということなのかも知れないが、川上はその元を、好奇心だと思っている。
すべては好奇心から始まる。何かに興味を持たないと、どんなに好きなことであっても、それはただの趣味で終わってしまう。別に趣味で終わってしまっていいものであればそれでいいのだが、そうでなければ、必ず好奇心が最初に来るはずだった。
「興味を持たなければ何かをしていても、それは『やらされている』ということだけにしかならない」
という思いである。
脚本の着想は、元々川上にあった。川上と話をして、
「俺はこんな話がいいんだけどな」
と言って、アイデアを出させて、そこで起承転結が生まれる。そこから登場人物の人選になるのだが、ここまでくると、小説におけるプロットであった。
雑誌社と契約をしているプロの小説家は、編集の人とプロットを一緒に考える人もいる。もちろん、自分だけで考えて編集に見てもらう人もいるだろうが、最終的にプロットを見て出版できるかどうかの判断をするのは、出版社側である。
小説で言えばプロットであるが、マンガで言えば、ネームと呼ばれるものであろう。どちらにしても、完成作品に対しての設計図と言えるもので、物語の概要や、登場人物の選定、そこまでをプロットというのだろう。
ただ、最初はやはり作家から始まるのではないだろうか。小説のジャンル、そしてコンセプト、つまり何が言いたいかということ。そして、書き方として、一人称なのか、三人称なのかも重要になってくる。そのあたりをまず作家が提案し、そこから詳細のプロットに入っていくのだろう。
シナリオにしてもそうである。ただ、作家のように、作家の表した文章がすべてを表現するものではなく、シナリオには制限がある。シナリオに忠実に演技するための演者がいて、そしてすべてを取りまとめる監督がいる。場面場面をシナリオライターが設定するのだが、そこに感情が移入されていては、今度は演者の行動が制限されてしまう。そういう意味でドラマを作るためにはたくさんの人が関わっていて、それぞれに気を遣わなければいけないものであることは間違いのないことだ。
実は里穂は中学生の頃、小説を書いていたことがあった。その頃に流行った恋愛小説に嵌って読んだことが原因だったのだが、小説を読みながら、
――私、想像力が豊かになってきたのかも知れないわ――
と思うようになった。
本を読むことがただの趣味だったが、それがいつの間にか自分のトレンドとなっていった。
トレンドと言っても、
「一日にこれだけ読む」
という発想が、まるで新しいものを作っていくという発想に似ていることに気が付いたのだ。
その頃の自分のトレンドは、
「毎日コツコツ」
という発想だった。
「毎日、最低三十ページは読んで、それ以上読むことも別に構わない」
という課題を自分に課していた。
目標という言葉とすぐに結びつかなかったのは、小学生の頃の夏休みなどで絵日記などのように毎日書かなければいけないものを、完全に押し付けだと覆っていたからだった。
もし、休みを五十日だったとして、一日書かなければ、一日分の二パーセントだけが書けなかったということで、達成率にすれば、九八パーセントだったということになる。
だが、里穂の考え方として、たった一日でも書けなかったのなら達成できていないわけなので、本当はゼロパーセントということになるだろう。だが、さすがにそれは他に実績もあるので、ゼロにはできないという思いから、中を取って、
「五十パーセントだ」
ということで自分を納得させていた。
つまり、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
ということわざがあるが、まさにその通りである。
昔の中国に「西遊記」という話があり、そこで主人公の孫悟空と、お釈迦様の会話の中で、
「俺は、雲に乗れば数千里だって、あっという間に行くことができる」
と言って嘯いて見せたのを、お釈迦様は、
「では、ここからどれだけ遠くまで行けるか、試してみればいい」
といい、孫悟空を送り出した。
孫悟空は、五本の大きな塔が立っているところまでくると、そこを「世界の果て」だと思い、記念に自分のサインをした。そして、今来たところを急いでお釈迦様のところに戻り、
「俺は今世界の果てまで飛んで行ってきたんだ」
というと、
「ほう、それはどんなところなのだ?」
というお釈迦様に対し、
「五本の大きな塔が立っているところがあって、俺はそこに記念にサインをしてきたんだ」
と自慢げにいうと、お釈迦様は自嘲したかのように笑いを堪えようとすると、
「何がおかしいんだ」
という孫悟空を制して、
「お前がサインをしたというのは、これのことか?」
と言って、自分の指を孫悟空の前に差し出した。
すると、何とそこには彼のサインがしてあったではないか。
さすがに孫悟空も自分のやったことがどういうことだったのかということに気付き、浅はかさに打ちのめされたようだった。
「上には上がいる」
ということと、
「万能なお釈迦様がいうのだから、逆らうことはできない」
という思い、他にもいろいろ頭を巡っただろうが、最終的には素直になるしかないと悟ったに違いない。
この話をもちろん里穂も川上も知っていた。佐川が知っているのはもちろんのことだが、知ってはいるが、何かに引っかかった時、思い出せるかどうかというのもその人のステータスではないだろうか。
里穂は、別にそんな宗教的な話を自分の作品に組み込もうとは思わなかったし、組み込むことは自分の実力では無理だろうとも思っていた。
ただ、一つの教えとして頭の中で整理すると、これから作る作品にもその発想が植え付けられて、きっと無意識にまわりを気遣うような作品が書けるに違いないだろう。
実際に、今回書いた脚本は、川上からもしっかり評価され、演者の人たちからも、
「これならやりやすいわ」
と、評判もよかったようだ。
実際に完成した作品を川上に持っていくと、
「ありがとう。こういうのがほしかったんだ」
と言って、手放しに喜んでいた。
里穂としてもここまで絶賛されると喜ばないはずもない。
「ありがとうございます。そういっていただけると嬉しいです。途中、自信を無くしかけたこともありましたけど、やり切れてよかったです」
というと、
「どうしてどうして、自信を無くすことなんかないんだよ。君のいいところは、自信を持ってことに当たるわけではなく、やっていくうちに自信をどんどん深めていくことができることだって思っているんだ。それが元からあった素直な性格の表れであり、僕はそんな君だからこの脚本を頼んだんだ」
と言ってくれた。
「そうだったんですか。最初に打ち合わせをしていた時、このままなら全否定されかねないとまで思ってしまったこともあったんですが、でもそう思い込む前に川上さんがいろいろ助言してくれたことで助かったと思っていました」
というと、
「僕も実は君が少し自信を失いかけているように思ったんだけど、その時に、失いかけていた自信というのが、本当は失ってしまった方がいい自信だったんじゃないかとも思ったんだよ。だから君は必ず、自信を自分で掴んでくれると思った。実際にそう思って正解だったよ」
この言葉を聞いて、
――これって、褒め言葉なんだろうか?
と感じた。
褒められるということにあまり慣れていなかったが、褒められるとすぐに有頂天になるという性格は分かっていた。
それを悪い性格だとはどうしても思えず、今回も素直に有頂天になったのだが、それを肯定的に見てくれている川上を見て、
――やっぱり、私って川上さんが言うように、素直なのかしら?
と思うようになっていた。
昔から、
「素直が一番」
とは思っていたが、素直すぎると、それを利用する人もいるのではないかと思うこともあって、素直というのが、本当にいいことなのかどうか、ずっと疑問だった。
だが、川上に面と向かって言われると、くすぐったい気持ちもあるが、喜ばしいと思えた。
――そう思うこと自体が素直だってことなんだろうけどね――
と感じた里穂は、ゆっくりと深呼吸をした。
それを見た川上も深呼吸をしたが、お互いに偶然同じタイミングでの深呼吸だったのだろう。ニッコリと笑っているのだった。
実際に撮影が進んでいくと、里穂は自分の作品がどのように描かれていくのか、その過程が見たくて、お願いして撮影現場に同行することが結構あった。もちろん、撮影には文句をつけるつもりもないし、見ているだけで満足できると思っているので、気楽な気持ちで立ち会わせてもらった。
それよりも、
――私がその脚本を書いたんだ――
という気持ちが強く、少し上から目線になっていることも分かっているので、なるべく自分の気配を消していこうとも思っていた。
ほとんどの俳優さんは、里穂のことを気にすることはなかったが、中には気になってしまう人もいるようで、里穂を意識しているという態度を、里穂も分かっていた。
本当なら、そんな人がいるのなら、見学などしない方がいいのだろうが、一度、
「見学させてください」
と言った手前、それを急転直下でやめてしまうと、今度は他の人に余計な気を遣わせてしまう気がした。
せっかく言い出して見せてもらえることになったのだから、このまま見ることにしたのだが、それも正解だったと思うようになった。
作品は、里穂が思っていたような展開で進んでいった。そのほとんどに文句などあるわけもなかったが、それもやはり監督としての川上の力だろうと思うと、佐川にだけ向けていた尊敬の念を、川上にも向けてしまおうと思っている自分がいることに気が付いた。
「尊敬と愛情は違う」
と言われるがまさにその通り、確かに佐川への愛情は、今ひしひしと感じている。
佐川が自分のことを好きでいてくれていることも分かっている。ただ、そのきっかけは、尊敬の念からだったというのは否定できない事実だと里穂は思っていた。
――否定できないのではなく、否定してはいけない――
とも思うようになった。
子供の頃から、自分は惚れっぽいと思っていた。小学生の頃などは、すぐに男子に目が行って、一番は誰かと思うようになり、まだ思春期前で恋愛感情の何たるかなど分かるはずもない一人の少女が描く淡い恋心は、今から思えば、計算によるものが大きかったように思う。
好きな男の子への基準を自分なりに決めていて、それに似合うだけの計算を頭の中で組み立てていた。好みのタイプがその中に含まれていたのだろうが、計算から弾き出された結果は、
――あれ? こんな男の子が一位?
というものもあったりした。
疑問に感じながらも計算で導かれた自分にとっての一番の男の子に対して、里穂はすぐに近づいていった。
男の子の方も、まだ思春期ではないので、女の子から近づかれると、嬉しく思う子もいれば、他の男の子の手前、逆に近づいてくる女の子に冷遇な態度を取ってしまうこともあっただろう。
それを男の子の方で、悪いと思っていないことが多く、女の子としても、どうしてそんなに邪険にされなければいけないのかと、
――悪いのは自分なんだ――
と思うようになり、男の子のそばに寄ること自体、トラウマになってしまうこともあっただろう。
ただ、里穂にはそんなことは一切なかった。男の子を計算で順位をつけることはあっても、順位の高い子に近寄ってみようとは思っていなかった。順位をつけただけで満足してしまったということであろうか、それとも、自分がつけた順位に信憑性が感じられないことで、行動を無意識に抑制したのだろうか。自分でもよく分からなかった。
だが、計算ばかりだったある日、自分の計算ではかなり低い位置にいた男の子から声を掛けられたことがあった。普通の友達として話をしていると、結構楽しかったという思い出がある。今から思えば、結構いつも一緒にいた。
まわりからも、二人は好き合っているかのように言われていたが、それを里穂は気付いていたが、男の子の方は気付いていなかった。
里穂はそれでもいいと思っていたのに、それまで気付かなかった男の子が気付いてしまったことで、里穂に対して急に意識し始めてきた。里穂は、その態度に最初は、
――まるで女の子のように煮え切らない態度――
と思い、嫌悪していたが、次第にその様子がまるでペットのように思えてきたことで、見る目が変わってきた。
それが母性本能に近いものだったということは、思春期になって気付いたが、小学生の頃、その子とはそれ以上の進展がなかったことを、思春期になって、少しもったいなかったように思えたのは、それが初恋だったと感じたからであろうか。
「初恋なんて、どうせ実ることのない切ないものだよ」
と誰もがいうが、その意見には里穂も賛成だった。
だが、賛同しようとは思わないのは、他の人のような失恋という雰囲気ではないからだった。
他の人の話を聞くと、皆好きになった男の子に告白もせずに、ただ想っているだけで終わってしまったという話や、告白して付き合う感覚になったけど、実際の感覚が分かっていないために別れたというのも聞く。そもそも思春期前なので、性欲が生まれるはずもなく、ただ漠然と好きだというだけでは、付き合っていても何が面白いというのか、それであれば、友達と一緒にいる方がいいと思う人も多いことだろう。
だが、一緒にいるだけでほのぼのした気分になるという人もいる。ただ一緒にいるだけでお互いに落ち着くのであれば、それを付き合っていると言えるのかと考えてしまうと、実際に思春期になって気になる男の子が現れたとすれば、自分の中の気持ちはどちらに揺らぐであろうか。
身体が反応してしまうと、そちらに気持ちも靡くのではないだろうか。それまでの気持ちはすでに過去のものとなり、子供の頃の思い出として封印されてしまうと、徐々に好きになるということがどういうことなのかまで理解できるようになると、身体が先に反応し、気持ちが後からついてくるという状態になるだろう。
それが思春期であり、
「大人になるということ」
なのではないだろうか。
そう思ってしまうと、せっかくの初恋も、中途半端であり、自分で勝手に終わらせたくせに、それを認めたくないという思いから、
「淡く切ないもの」
として自分で封印してしまうのかも知れない。
だが、里穂の場合は、そんな感情はまったく関係がなかった。彼の親の仕事の関係で、引っ越すということになってしまったので、嫌でも離れなければならなくなったということである。
強制的に離されるのであれば、否応なしなので、考え方は決まっている。
「しょうがないこと」
として諦めてしまえば、それで済むのだ。
逆に、
――これ以上、好きになっていなくてよかった――
と思うほどで、別れてしまうと、傷つくことに対して自分が恐れていたということを後になって思い起こさせられるということも往々にしてあるだろう。
そういう意味での初恋は、淡さも切なさも何もなかった。そのせいもあってか、これを初恋だとは認めたくない自分がいるのも事実であるが、初恋というワードが出てくると、どうしても思い出すのは、小学生の頃のこの時だというのは、無理もないことだと言えるだろう。
里穂が、脚本を書く上で、学園ものだったり、恋愛ものが多いのは、
「その時の初恋を何とか描けないか」
という思いもあった。
ただ、最後の自然消滅をいかに、切なくしようと考えるかが難しいところであり、他の人と同じような結末に結び付けてしまうと、どうしてもこじんまりとまとまってしまい、脚本を書いたとしても、映像時間の所要時間に、まったく足りないという結果になってしまう。
かといって、小説のように感情をつけるわけにはいかない。映像作品の脚本は、場面やセリフの量によって、尺が決まってくる。逆に言えば、決まった尺内に入れようとすると、場面やセリフの数は。最初からほぼ決まっていると言ってもいいだろう。
里穂は、恋愛経験があまり多い方ではない。それでも恋愛ものを書こうと思ったのは、中学時代に読んだマンガや小説に大きな影響を受けたからだった。
最初はマンガから入ったのだが、その後で小説を読んでみると、その違いが明らかだった。マンガでは少々ドロドロした内容であっても、小説のように文字にした場合ほど、リアルなドロドロさが伝わってこない。逆にいえば、
「あまりドロドロさを求めない人には、小説は勧められない」
ということになるのではないだろうか。
小説というのは、読んでいる人の想像力をいかに発揮させるかというのが、文章力と重なり求められる。
「想像力がリアルさを凌駕する」
と里穂は思っている。
里穂は、佐川と知り合ってから、それまで恋愛だったり、学園ものだったりばかりを想い求めていた自分に、一種のショックを与えてくれた。それまではホラーやオカルト、ミステリーなどは、
「低速な分野のお話だ」
と思っていた。
特に、ヲタクと言われる種類の人たちは、いることも知っているし、近くにそれっぽい人もいる。特に映像クリエイトの学校に入ってくると、中には明らかにヲタクっぽいと思える人種もいて、思わず目を逸らしてしまう自分がいた。
――あの人たちとは、住む世界が違うんだわ――
と思っていたし、学校では決してそんな授業をするわけでもない。
自分が目指しているものだけを認めないというわけではないのに、偏見をハッキリと感じるというのは矛盾していることではあるが、それだけに自分の中で認めたくないと思っていることだった。
しかし考えてみれば、認めたくないと思って居るということは、少なくとも意識はしているということであり、染まりたくないという思いがあるということは、相手のことも認めているということである。
ただ、そこには善悪の問題があるわけではなく、ただ存在を認めるかどうかという初期段階でしかない。その段階を超えてから、善悪の問題を論じるのであって、逆に善悪の問題を論じるということは初期段階を乗り越えてきている証拠でもある。そもそも初期段階を乗り越えてこなければ、意識しているということにもならず、意識していることだけでも初期段階を乗り越えていると言えるのだろう。
だが、この初期段階は、もう一度考えさせられる時がやってくry。善悪の判断を超えて、その奥にある考えとして、もう一度存在について、今度は意義を含めた問題として考えることになる。
そのことを教えてくれたのは、佐川だった。
佐川と最初に会った時、
――この人はどういう人なんだろう?
とまず感じた。
今まで知り合った人にも同じように感じたことはあったが、今回のように大学という環境で知り合ったという特別な感情があった。
大学というところは、それまでの高校時代と違って、自分の知らなかった世界を教えてくれた世界というだけではなく、いろいろな人が集まってきているという感覚でもある。その中には自分の想定を外れている人もたくさんいる。
――こんな考えもあるのか――
と驚かせされることもあれば、
――こんなこと考えたこともない――
と考えさせられる人もいた。
この場合は、二つのパターンがある。一つは、本当に自分の考えの延長線上にあって、もう一歩踏み込んで考えれば、自分もその域に達することができると思う。しかし、それがなかなかうまく行かないからこそ、踏み込んで考えることのできる人に尊敬の念を抱くことができるのだ。
「世の中は、尊敬できる人をどれだけ作るかということが大切なことでもあるんだよ」
と、大学進学の時、高校の先生から言われたことがあったが、その時にはよく分からなかった。
だが、実際に入学してみて、いろいろな人と出会ってからは、その時の言葉を思い出すことができる。
――大学に進学してよかった――
と感じることのできることであった。
それを里穂は一種の「結界」のようなものだと思い、結界をいかに超えられるかが大切なことだと思うようになった。
もう一つの考え方としては、少しネガティブな考え方なのだが、あくまでも自分の想定していなかったこと全般を、そういう言い方ができるものだと思うようになった。
大学というところは、最初から、
――自分の想像を超える人がいるところであり、中には理想とは正反対の人もいるかも知れない――
という思いを抱いていた。
高校時代までであれば、
「君子危うくに近寄らず」
という発想ではないが、
――近づかなければいいんだ――
と思っていた。
実際に、そんな人がいても、最初から目を背けていて、近づこうとは思わない。そう思っていると相手も同じことを感じるのか、敢えて近づいてくるようなマネなどなく、卒業までのあいだ、まったく接することなく終わってしまうことになるだろう。
そうなると、もう頭の中からその人の存在自体が抹殺されてしまい、過去が過去ではなくなってしまうことになる。だから、大学入学という時点での意識は、そんな人たちが自分の近くにいたということすら、覚えていないのである。
記憶というものにも感覚というものがあると里穂は思っている。つまり、
「意識していたことではないと感覚は生れない。だから、記憶にも残らない」
という考え方である。
大学に入ると、最初からそういう人の存在を意識して入学してきたので、まわりに自分と意見が明らかに違ったり、ヲタクのように、これからも関わることのないと思える人たちの存在を意識しようとしていた。
だからと言って、こちらから関わるということはない。無意識に距離を取ったり、相手が無意識であれ、近づいてくれば、思わず避けてしまうような態度を取るのは、条件反射としての自然現象のように思っていた。
大学というところは、会話の多いところである。
「会話しなければ、相手に気持ちは伝わらない」
ということを教えられたのも大学に入ってからだった。
高校時代までは、あまり人と話すこともなく、そもそも高校時代などは、入学してきてから少しの間は友達関係であっても、二年生になると、明らかに受験戦争という波をひしひしと感じるようになり、まわりに対して油断してはいけないという予防線を、自らで敷くようになってしまった。
それは里穂だけに限ったことではなく、まわりも自然とそうなっていった。友達になった相手も、自分と似たところがある人たちが引き寄せあうのだから、相手の気持ちもそれなりに分かり、行動パターンが似ているのも当たり前だ。こちらがぎこちなくなったタイミングは、相手も同じタイミングでぎこちなくなるタイミングである。いい意味でも悪い意味でも、
「歯車が噛み合った」
という意味では、いいタイミングだったのであろう。
だから、大学に入ってからも、作る友達というのは、自分に合う人ばかりにしようと思っていた。だが、話しかけてくる人のほとんどは、そんな雰囲気の人ではなく、よくよく見ると、
「たくさん、友達を作りたい」
と思っている人で、それ以外に他意のない人たちで、逆にさわやかだともいえる。
「来る者は拒まず」
の姿勢で行こうと、大学入学の時に考えていたので、そうやって話しかけてくれる人を友達として自分の中で分類していた。
そういう意味での友達は、高校時代までに比べると断然に増えた。だが、それを本当の友達と言えるのかどうかは、疑問が残った。
しかし、彼らのほとんどは、オープンなところが共通点で、
――私なら、ここまで相手に対して自分のことを話さない――
と思うことまで話してくれるようになった。
そんな人たちは、まず自分の経験から話をしてくれる。要するに話を聞いていて分かりやすいのだ。分かりやすいということは話をしていて、こちらからも意見を言える。それに対して、さらに意見が返ってくるのだ。それこそいわゆる、
「言葉のキャッチボール」
であり、意志の疎通を会話という形で実現していることになる。
相手の考えが分かるという意味でも、自分の知識の増幅という意味でも、いい意味にしかならない。そう思うと、今まで自分が避けてきた人たちも、本当に無碍に避けてしまっていいものなのかどうか、分からなくなってきた。
それはヲタクと呼ばれる人たちもそうである。
しかし、彼らの表情や雰囲気を見ていると、どうしても今まで培ってきた彼らへの印象が根深いものとなっているので、なかなかその牙城を崩すことは難しい。今まであれば、
――こんなくだらないことをいつまでも考えていてもしょうがない――
と思ったに違いない、。
しかし、大学に入ってから、一気に友達が増えたことで、今まで知らなかった世界が一気に開けた気がすることで、嫌いなものや、性に合わないと思っていることも、そう簡単に諦めてしまうというのは、早急な気がしたのだ。
大学に入ってから、クリエイトの専門学校のようなところなので、まわりは皆同じようなものを目指している人ばかりなので、ヲタクと言っても、少しは違うものだと思うようになっていた。
実際に、ヲタクと思えるような人とすれ違っても、それまで知っているヲタクたちとは若干であるが、顔つきが違っているような気がする。しかし、すぐに打ち解けられるような雰囲気にはどうしても思えず、自分から声を掛けるなど、考えられないことだと思っていた。
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