第40話
僕の思いとは裏腹に次の日も小金井は学校に来なかった。
泉に聞くと風邪が長引いているということだった。
しかし、その次の日も小金井は来なかった。理由はまた風邪だというけど、風邪にしては長引きすぎではないかと思った。
泉や近江も僕と同じ心持ちだったらしく、三人で話し合って、また僕が様子を見にいくことになった。
この前みたいに門前払いを食らわないために僕は小金井へ届ける書類を泉から受け取っておいた。
放課後、自宅には帰らずそのまま小金井の住む養護施設に向かう。
山道を登って僕はあの精神病棟の前まで来た。僕はガラス製の精神病院の扉を見た。すると病院の中から誰かがこちらを見つめている。それは髪の長い女の人だった。その人はこちらに向かって何かを叫んでいた。僕は怖くなってすぐにそこを離れた。
養護施設の前まで来て中を覗くとこの前と同じ職員がいた。中に入り用件を伝えると職員は頭を下げる。
「面会はお断りしていますので」
僕はそれでも食い下がる。
「これ渡しに来たんです!」
僕は学校からの書類を見せて言った。しかし、それでも職員は首を縦には振らなかった。
「今は安静にしていなければならないので、そちらの書類は私が渡しておきますから」
職員はあくまで業務的な説明を繰り返した。
どうしてこうも頑なに拒否されているのか全く理解できなかった。
「どうしても、どうしても会えないんでしょうか? お願いします」
僕は何度も頭を下げた。引き下がる気はなかった。
職員は頑なに無理だと言っていたが、最後にはため息を吐いて奥の部屋に入っていった。
僕はどうすればいいのかも分からず入り口で立ち尽くしていた。
それからしばらくして中年の女性を引き連れて職員が戻ってきた。
「あなた、小金井さんのお友達の方?」
女性が言うと僕は大きく頷いた。
「はい!」
僕は頭を下げた。
すると女性は困った顔をしていたけど、中へ入るようにと言ってくれた。
僕はエントランスでスリッパに履き替えて養護施設内に入った。中は壁も天井も白く、床は薄いピンク色でどことなく学校のような雰囲気を感じる。
僕はその女性に連れられて施設の奥へ歩いて行った。
すると突き当たりに灰色の扉が見えてくる。扉の前で女性は振り返る。
「もう一度だけ言いますが、今は会うことをお勧めできません。それでも会いますか?」
その人は念を押かすが、僕の結論は変わらない。
「あ、会わせてください」
僕の言葉を聞いてその人は徐に扉をノックした。しかし、中から返事はなかった。
「何かあったらすぐに言ってください」
その人が扉を開いた。僕はそのまま部屋の中に入るように促される。
真っ白い部屋だった。壁も床も天井も、そして、室内にはベッドが一つと背の低い書棚が一つあるだけだった。窓はなかった。
扉は閉められて、僕だけが中に取り残される。
部屋の隅に小金井の姿があった。ベッドの横の床の上、壁にもたれかかるように彼女は蹲っていた。彼女の髪は乱れていて、顔は見えなかった。いつも束ねているヘアゴムもなかった。
「小金井、さん?」
僕が近寄ると彼女は顔を上げる。目は充血し、顔は青白かった。
そして、彼女は口を開いた。
「いや! 来ないで! いやーーーッ!」
彼女の金切り声を上げた。自分の体を抱く彼女の手は震えている。
その姿は理科室での様子と似ていたがそれよりもずっとひどい状態に見えた。
「小金井さん!」
「イヤだ! イヤだ!」
駄々をこねる子どものように手振り回していた。そして、小金井は頭を掻きむしる。
「小金井……」
僕は小金井の両手を摑んだ。
乱れた髪、充血した目で小金井はこちらを見ていた。彼女は僕の手を振り解こうともがく。
「どうしちゃったんだよ」
炯々と光る彼女の目は酷く歪んでいた。
小金井はなおも叫び続けた。僕のことを認識しているのかもわからなかった。
突然、扉が開く音が聞こえる。
先ほどの女性が部屋に入ってきて僕の腕を摑んだ。そして、その人に強引に引っ張られて、僕は部屋の外に出た。
「何かあればすぐに言ってくださいと言いましたよね?」
語調は強かった。
僕は息を大きく吸い、呼吸を整える。何がどうなっているのかわからない。ただ僕は初めて小金井のことを怖いと思った。
「あの、小金井さんはどうしたんですか?」
僕が訊くとその人は淡々と答える。
「彼女は精神的に今とても不安定なんです。あまり刺激しないでもらえますか?」
その人は僕の問いに答えることはなかった。それだけ言うと彼女は僕を入口の方に連れて行った。
「あの、小金井は風邪じゃなかったんですか?」
再び僕は問う。
するとその人はため息をつ吐いた。
「あの子はね。時折ああなるんです。手が付けられないほど暴れることもある。今は以前よりはマシだけど、それでも特別な部屋に移ってもらっています。司くんがいた時はこういう時に宥めてくれてたんですけどね」
「西海のことですか?」
「そうですけど、司くんのお友達?」
その人はなぜか嬉しそうだった。
「いえ、違います」
気分が沈んでいくのを感じる。
西海は全部知っていたのだ。小金井がああなってしまうこともそれ以外のことも。
僕は何も知らなかった。ただ、その事実だけが心の中に蟠っていた。
こんな時に僕は何を考えているんだろう。今僕が抱いたのは西海に対する嫉妬だった。自分がなんと自己中心的な人間なのかと思う。でも、そんなことは今考えるべきことではない。
今は小金井のことを優先させるべきだ。西海には今の小金井を落ち着かせることができたのか。それなら僕にだって何かできることがあるのではないかと思う。
ふと小金井の姿が思い出される。
いつもは綺麗に結われているのに小金井の髪は乱れていた。父親にもらったと言っていたあのガラス玉の付いたヘアゴムはあの部屋にはなかった。
「あの、小金井の部屋ってわかります?」
僕が言うとその人は眉間に皺を寄せた。
「あの、これを置いてこようかと思って」
僕は学校で泉に渡された書類を差し出した。
「私が置いておきますよ」
「い、いえ、自分で、先生に頼まれたことなので」
言い訳にもなっていなかったけど、その人は置くだけならと了承してくれた。
僕はその人に付いて階段を登る。小金井の部屋は二階にあるらしかった。途中、小学生くらいの子どもを見かけた。扉が開いた部屋の中で二人の子どもが淡々と積み木を縦に積み上げていた。その子らはぼんやりと積み上げた積み木を見つめている。
そこを通り過ぎて、廊下の突き当たりまで来てその人は立ち止まった。
「ここです」
その部屋はずいぶんと狭い部屋だった。窓際にベッドが一つと小さめのデスクが一つ置かれている質素な部屋だった。年頃の女の子の部屋というにはあまりに色彩に欠ける。
僕は部屋に入り、デスクに書類を置いた。その時、机の下に光るものを見つける。あのガラス玉のついたヘアゴムだった。僕はそれを拾い上げて、ポケットに入れた。
「もういいですか?」
「あ、はい」
急かされた僕はすぐに部屋を出た。
階段を降りながら、その人にお願いした。
「あの、もう一度だけ小金井に会わせてもらえませんか?」
「無理です」
その人は出口まで僕を連れていく。
施設の出口に着くとその人は「それでは」と言った。
僕は外に出るふりをして、すぐに踵を返した。
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