第26話

「お帰りなさい」


 家に帰ると白い服を着た女の人がベッドの前に立っていた。僕はおかしいと思う。僕はさっき教会から帰ってきてベッドについたはずだったのだ。でも僕は今家に帰ってきている。


 そして、彼女は僕に何かを言った。

「○%#$%△&*□?>●」


 僕はその言葉を聞き取ることができなかった。口の中に唾液が溜まっていくのを感じながら僕はそのまま近くのベッドに横になった。


 上から覗き込むようにしてその女の人はこちらを見続けた。顔も形もわかるはずなのに目に入った情報が脳の中で変換され曇りガラスを通したように曖昧模糊としている。これは一体何なのだろう。


 今日はとても有意義な一日だった。魚齢章を手に入れたのだ。これで泉は救われる。そう信じた。


 僕は女の人に見つめられながら目を瞑った。




___________________________________


 僕は一体何のために生まれてきたのだろう。何もできないのならばきっと生まれてくる必要などないはずなのに。


 地におろしたその根が老い、幹が朽ちて、塵に返ろうとも、水気にあえば、また芽を吹き苗木のように枝を張る。だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。


 ああ、これは確か聖書の一説だったはずだ。僕はどうしてそれを知っている? わからない。


夢を見ていたのだろう。昨日のあの女の人は朝になると影も形もなかった。


 学校への身支度を済ませて僕はすぐに家を出た。


 昨日の別れ際、小金井と約束をしていたから僕は山道の入り口に向かった。


 昨日はあんなに不気味に見えた山道も今は朝の光に照らされ葉の青さが鮮やかだった。


 僕はほんの少しの好奇心に負けてこの山道を登った。小金井の家がどこにあるのか知りたいという気持ちもあった。


 山道は奥に進むにつれてずんと狭くなっていた。アスファルトの舗装も途中でなくなり、以降は砂利道で歩きづらかった。砂利道は車が一台ギリギリ通れるほどの幅だった。


 こんなところに本当に家があるのかと疑っていたところ、白く大きい建物が見えてきた。


 それは家ではなかった。入り口の看板に山内病院とあった。ここが例の精神病棟であることがわかった。


 病院の外壁は白く所々黒ずんでいた。相当昔からある建物だということはわかる。山道はさらに上の方へ続いていたが、とてもその奥に建物があるようには思えなかった。


「ここなのかな?」


 病院の向こう側に赤い屋根の建物があった。


 病院には人の気配がなかった。早朝という理由もあるかもしれないけど、それにしても静か過ぎるように思える。


 不意に僕はすぐ近くに人の気配を感じた。


 僕は思わず息を呑んだ。


 そこに立っていたのは西海だった。


「お前、なんでここにいんの?」


 西海の目が鋭く光る。僕は今にも逃げたい気分だったが、体が強張ってうまく動けなかった。


「その、小金井さんと約束して……」


「ああ? で? なんでそんなところにいんの?」


 西海は威圧的な声を発した。


「家がわからなくて……」


「はあ?」


 僕は慌てて指さす。


「あの赤い屋根の建物なのかなと思ったんだけど」


「お前、早瀬から何も聞いてねえの?」


 僕には彼の言っている意味がわからなかった。


「えっと、何が?」


「あの建物は施設だ。わかるか? 俺らが住んでるところだよ。そんなことも聞いてねぇのか?」


 ここが施設? どういうことだ?


「小金井さんは?」


「いるよ。あそこに」


 西海は赤い屋根の建物を指差した。


「でも、母親と住んでいるって──」


「母親と? 誰が言ったんだ? そんなこと」


 西海の口調が強くなる。


「いや、だって小金井さんが……」


「あいつの母親は俺の親父と同じクソ野郎だぞ! 一緒に住んでるだぁ? ふざけんな!」


 西海はこちらににじり寄る。


 僕は動くことができなかった。


「テメェは何してんだ? 昨日も早瀬が夜にいなくなったって大騒ぎだった」


 西海は僕の胸ぐらを摑んだ。


「何も知らないくせに、適当なことしてんじゃねぇぞ!」


 僕は何も言い返すことができなかった。僕だって小金井のことは知っている。そう叫びたかった。でも、そうではないのかもしれない。


小金井は嘘を吐いていた。家庭のことを知られるのが嫌だったのかもしれない。僕は僕が思っているより信用されていないのかもしれない。


「ふざけんなよ」


 唸るような声で西海は言い、拳が僕の腹に入った。胃液が逆流してくるのを感じて僕はそのまま地面に崩れ落ちた。


「ここのことも知らないくせにふざけやがって。これ以上早瀬を苦しめるな」


 西海は噛み締めるように言った。


 この男は僕なんかよりもずっと小金井のことを知っているのかもしれない。信頼を勝ち得ているのかもしれない。でも、彼女が語ったこと全てが嘘だったとは思えなかった。


 だから、僕は声を発した。


「適当なこと、なん、てやって、ない。僕は」


 僕は西海の脚にしがみついた。


「離せよ」


 西海は低い声で言って、それから僕の体は強い衝撃と共に地面に叩きつけられた。


 僕は西海に反対の足で蹴り飛ばされたらしかった。倒れる瞬間、足を上げている西海の姿が見えた。


 どこかにぶつけたのか、ひどく頭が痛かった。そして、すぐに視界が暗くなって、僕は意識を失った。

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