第25話
それからしばらく海岸線を走っていると教会の黒いシルエットが見えてきた。暗いところで見る教会は一層不気味だった。
僕たちは教会へ続く沿道の前で自転車を停めて、教会に向かって歩いた。
今更になって心臓が速くなるのを感じた。今からのここに不法侵入する。見つかったらどうなるのか、捕まったりするのだろうかと不安になる。
教会は暗く人がいる気配はなかった。
僕はハッとなって小金井を見た。
「あのさ。どうやって入るの?」
小金井は手招きして教会の裏側の方へ歩き出した。
「今日の帰り際に廊下の窓の鍵を開けておいたのよ」
小金井は悪びれることなく言った。どこでその手際の良さを身に付けたのか疑問だった。
「でも、戸締まりされていたら入れないんじゃ?」
「多分大丈夫だと思う。そこの窓、カーテン閉め切っていたし、それにカーテンの上の方に蜘蛛の巣が貼っていたから普段使われていないんだと思う」
そう言って小金井は教会裏の一番端の窓に手をかける。するとギギッと金属の擦れる音と共に窓が開いた。
「ほらね」
小金井は不敵に笑った。
僕たちはその窓から教会に侵入した。
廊下に降り立つと中は真っ暗だった。僕は持ってきていた小さめの懐中電灯を点し、辺りを見回す。
「誰もいないみたいだね」
小金井は頷くとずんずん先に進む。
小金井はなんでこういうところでも平然としていられるのか不思議だった。
僕と小金井は二階に上がった。
「どこから探す?」
小金井は一番奥の部屋を指さした。
「あそこにしましょう」
「どうして?」
「なんとなくよ」
小金井はそう言うとさっさと部屋に向かった。
部屋に入り僕が電気を点けようとすると「ダメ」と小金井に制止された。
そこはどうやら書斎らしかった。窓際に引き出しの付いた広めの机が一つ、そして背の低い書棚が壁にいくつも並べられていた。夕方に訪れた部屋の方が本の数は多かったがここも中々のものだった。
僕はまず書棚を順に調べ始めた。書棚には宗教関連の本ばかりが並んでいた。
「ここは神父さんの書斎なのかな?」
僕が訊くと小金井は窓際の机の前で立ち尽くしていた。
「何かあった?」
返答はなかった。
僕は机の一番下の引き出しが開いているのを見た。僕はそちらに近づき、懐中電灯で小金井の手元を照らした。彼女の手には紙束が握られていた。
「何、それ?」
僕が言うと彼女はようやくこちらを向いた。
小金井はその紙の束の一番上をこちらに見せてきた。表紙にはいかにも古めかしい流麗な文字で『魚』と言う文字が見えた。『魚』の下にも二文字書かれている。達筆すぎて判然としないけど、僕には『齢』と『章』と書かれているように見えた。
「これって……」
小金井が頷く。
「これかもしれない」
紙の質感からしてかなり前の文書であることはわかる。元々は綴じられていたのだろうがそれがバラバラになってしまっているらしかった。
小金井が中をパラパラと捲る。文章は古く掠れて読めないところも多かった。
「ここじゃ、暗くて読めないわね」
そうい言うと小金井はそれを手に扉のほうに向かった。
「さすがに、それはまずいんじゃない? 勝手に持ち出すのは……」
「何言ってるの? これのために忍び込んだんじゃない」
「でも、勝手に持っていくのはさすがに……頼めば、貸してくれるかもしれないし」
「貸してくれるわけないじゃない。そもそもあの人はこれがここにあるってことも隠していたのよ」
小金井の言う通りだった。けど、それでも持ち出すことには抵抗があった。
「早く引き上げましょう。誰か来たら厄介」
小金井はそう言うと部屋を出ようと歩き出した。
しかし、そこでギギッと扉が開く音がした。
僕も小金井も身体を強ばらせる。一歩も動けなかった。
開いた扉の向こうを僕は懐中電灯で照らした。するとそこには神父の姿があった。手には懐中電灯が握られていて、僕は眩しくて目を瞑ってしまった。
「誰ですか⁉︎」
神父の反対の手で何かが閃いた。
その手には包丁が握られている。
僕は思わず退いた。しかし、小金井は微動だにしなかった。
「君たち……」
神父はこちらに向けていた包丁を下ろして、言い募る。
「何をしているんですか?」
神父は小金井の手元に視線を落とした。
「……そういうことですか」
神父は一つため息を吐いた。
「どうして気付いたのですか?」
神父のその言葉に僕は答えることができなかったけど、小金井は冷静だった。
「嘘をついていると思ったので」
「そうですか。そんなにシラズ蛙を調べたい理由はなんですか? レポートを書くと言うのは嘘ですよね?」
小金井は俯いて、答える。
「私は、知りたいだけです。アレが何なのか」
沈黙の後、外からスズムシの声が聞こえてきた。
神父はため息を吐き、徐に口を開いた。
「それを見たからといって、わかることはごくわずかですよ。それに……いえ、いいです。必要なら持っていっても構いません。ですが、このようなことは二度とないようにしてください。次、このようなことがあれば相応の処置を取らせていただきます」
僕と小金井はその言葉に頷いた。
神父は踵を返した。
「これ以上用はないでしょう!? 出口までお送りします」
僕と小金井はお互いの顔を見合わせ、神父の後ろについて歩いた。
やはり、暗い教会というのは不気味だった。廊下に三つの足音だけが響く。
「本当にいいんですか? これを持って行っても」
僕が言うと神父は振り向きもしないで言った。
「それは、この教会に昔からある蔵書の一つです。訳あってボロボロですが、基本的に人目に触れてはいけないという決まりでした」
「それなのにどうして……」
「この教会ももう長くないのです。最近では教会に来る人も減りましたし、いろいろと立ち行かなくなっているんです。ですから、もう二ヶ月後には閉鎖されることになっています。この建物も取り壊される予定です」
神父は立ち止まって、窓の外を眺めた。
「本も処分する必要がありますから」
神父は再び歩を進める。
入口まで来ると神父は扉を開けた。
「あっ、ちょっと」
僕は靴がないのを思い出した。
「どこに行くんですか?」
「靴を取りに」
僕は侵入した窓に向かった。
靴を持って入口の方に行こうとした時、視界が歪み、思わず転けそうになった。辺りを見回すと壁も床も黒くなっていた。まるで焼け焦げたみたいに見える。上を見ると空が見えた。僕は教会にいたはずなのにここはどこなのか。
何が何だかわからなくて僕は強く目を閉じた。
「ハルくん?」
その声で僕は目を開いた。そこには小金井がいた。
「どうしたの?」
辺りは元通りになっていた。ここは確かに教会の中だった。
それから僕と小金井は靴を履いて、外に出た。
入り口に立った神父は神妙な面持ちで言う。
「その本はお譲りします」
神父は「ただ」と言って続ける。
「それを読んだからといって、シラズ蛙について全てがわかるとは思わないほうがいいですよ。あまり期待しないほうがいい」
「どういうことですか?」
小金井は魚齢章を胸に抱いて言う。
「そのままの意味です。過去、シラズ蛙について全てを解明できた人など一人もいないと言うことです」
初めて会った時はあんなに優しげに笑っていた神父が今は冷たい目をしていた。
小金井もそれ以上のことは訊かなかった。
僕と小金井はそれからすぐに教会を後にした。振り返るともう神父の姿はなかった。
僕らは再び自転車に乗り、元来た道を走り始めた。
しばらく僕らは黙って自転車に乗って潮風を浴びていた。
口火を切ったのは小金井だった。自転車の後ろに乗って僕の腰あたりを摑んでいる。その力が強くなるのを感じた。
「それ君が持っていてくれる? また明日の朝、山道の入り口で待ち合わせ、ね」
「わかった」
僕が答えると小金井はまた黙ってしまった。
神父はあんなふうに言っていたけど、僕はまだこの文献の中に何かしらの答えがあるような気がしていた。
小金井の頭が僕の背中にあたった。そして僕は人の、小金井の重みをわずかに感じた。
しかし、なぜだろうか。後ろには小金井がいるのに誰も知らない深海に沈んでいくような、とても深い孤独を感じた。
行きと同じように山道の入り口で僕らは別れた。
帰り際、彼女は「また明日」と手を振っていた。
僕は親に気づかれないように静かに自室に戻る。自室の机に座って、魚齢章を少しだけ開いた。
バラバラになった紙を捲ると流麗な文字でびっしりと埋め尽くされている。古いせいで読めないところも多かった。何枚も捲っているとあの民俗学の本で出てきたシラズ蛙の挿絵があった。丸くてヒレのような足、そして大きな口が特徴的な生物。その見た目は不気味だった。しかし、恐ろしいとは思わなかった。
僕は急に眠気を感じて、ベッドに横になった。誰もいないこの部屋の中で外の風の音を聴きながら僕は眠りについた。
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