第14話

 祖母が他界して三年が経っていた。


 亡くなった時の祖母の顔はまるでただ眠っているようにさえ見えた。


 幼い頃から僕は祖母の昔話が大好きだった。祖母は自分の若い頃の話や蓮見町に伝わる昔話をよくしてくれた。


 その中でも祖母が何度も語ってくれたのは蓮見町の海に住むシーラカンスについてだった。


 祖母は蓮見町で生まれ育ち、戦前からずっとこの町で暮らしてきた。戦時中、父親や男兄弟はみな徴兵され家には祖母の母と祖母、その妹の三人だけが残ったという。


 終戦の年の夏にこの町の海で祖母はあの魚と行き合った。


 女学校からの帰り道、祖母は沖のほうで大きな軍艦と空中でカモメみたいに飛び回る戦闘機を見たという。それが味方のものか敵のものかはわからなかったらしい。その時、祖母は本州にも戦争がやってきたと思ったと言っていた。


 祖母は恐ろしいと思いながらもその船をよく見ようと蓮見岬へ駆けていった。


 蓮見岬の誰もいない岩礁の上へ登って身を乗り出し軍艦と戦闘機の飛び交う沖の海を見た。水平線が自分と彼の地の境界線のように感じたという。


 そして、貧血のせいだったのかその時ふいに視界が揺れ、眼下に広がる海に祖母は吸い寄せられるように落ちてしまった。


 蓮見岬から広がる海は昔から潮の流れが早いことで有名で少しでも沖に出れば子どもの体など数分ともたず流されてしまう。僕がこの前飛び込んだ時は波も緩やかで風もなかったことが幸いだった。普通なら沖まで流されてもおかしくなかったのだ。十年ほど前にもあの辺りの岩礁で転覆した漁船の乗員一人が亡くなったという話もある。その時、遺体は岩礁地帯から十キロ離れた沖で見つかったそうだ。


 祖母は潮に流され暗い海に飲まれた。


 海の中は暗く仄かに青い。朦朧とした意識の中で祖母は何かの音を聞いた。最初、祖母は無数の鈴の音かと思ったそうだ。祖母は天から迎えがきたのだと信じた。それは徐々に近づきその音は鈴の音とはいえない激しく甲高い音に変わった。それはガラスが弾ける音のように甲高くどこか煌びやかな音だったそうだ。


 その音が祖母の目前で響いた時、そこに巨大な魚が悠然と海中を漂っていた。それは人間を一飲みにできそうなほどの大きさで長い胸びれはまるで人の腕のようだったという。そこからの記憶はないらしい。


 気がつくと蓮見岬から数キロ離れた砂浜に打ち上げられていて、すでに辺りは暗くなっていた。遠くの水平線に軍艦も見えなくなっていたそうだ。


 祖母は家族にこの話をしたのだが、全く取り合ってもらえなかったらしい。そして、女学校の級友にも話をした。戦時下のことだったから戦争以外の話で級友たちはおおいに盛り上がっていたそうだ。しかし、そんな浮ついた話をする祖母を見咎めた教師たちは祖母の話を嘘と断定し厳重な処分を下した。それ以後、祖母は教師たちや級友からも嘘つきと呼ばれるようになった。


 子どもの戯言、妄想、幻想、祖母の母親や妹さえ祖母の話に耳を傾けることはなかった。それは当然だった。今よりも人の目を気にしなければいけない時代だったのだから家におかしなことを言うやつがいるならば、家族もろとも迫害されてしまう可能性だってあったのだろう。


 その話を聞いた当時の僕はただただ悔しかった。僕は祖母が嘘を言っているようには思えなかったから。


 僕が幼い頃、祖母はどんなことでも教えてくれた。祖母に答えられないことなんて一つもないのだと思ったほどだ。


 しかし、その祖母にも一つだけ答えられない質問があった。


「カエルってなーに?」


 幼い頃、いつもこの町で使われる「蛙」という言葉について質問したことがあった。その質問をした時だけ祖母は遠くを見つめて、


「何だろうねぇ」


 と呟いただけだった。


 その時、祖母の瞳にはぼんやりと白い光が映っていた。僕は祖母にも知らない事があるのだと驚いたのを覚えている。


 僕が祖母と最期に会話したのは亡くなる三日前のことだった。


 病室のベッドには外の大きな楠の影が落ちていた。白い沼のように沈み込んだシーツには深いシワが寄っている。


 僕はベッドの傍に置かれた丸椅子に座って祖母の顔を見ていた。


「一つ話をしてあげる」


 祖母は弱くか細い声で語り始めた。


「熱心に図鑑を見るあなたはとても愛らしいけれどねぇ。あの魚について調べるのはもうおやめなさい。古い伝承だけれどねぇ。あなたには話さなかったことがあるの」


 祖母はベッド横の古い手帳を手に取る。


「年寄りしか知らないような話でねぇ。この町の海に住むあの魚は不幸を運ぶって言われていたんだよ。これはずっと昔から言われていることでね。だから、私があの魚を見たっていう話、当時の大人たちが快く思わなかったのは良くわかるわ。不幸を運ぶ魚を見ただなんて不吉だもの」


「でも、そんなの根拠もない言い伝えでしょ! そんなことでおばあちゃんが嘘つき呼ばわりされるのは嫌だ」


「根拠は、あったかも知れないねぇ。不幸になるという触れ込みはあながち間違っちゃいない。きっと私はあの日あの海に行かなければもっと穏やかに暮らせたかもしれない。行かなければ、こんなに人の死に目に遭うこともなかっただろうにねぇ」


 祖母は遠い目をしていた。天井のシミを見ているのか、それとももっと別のものを見ていたのか僕にはわからない。


「だから、あなたにはね。穏やかに生きてほしいのよ」


「でも、僕が見つければおばあちゃんが嘘をついていないってちゃんとわかるんだよ」


 祖母は笑みを浮かべていた。開け放たれた窓から金木犀の香りが漂ってきた。


「私はね──」


 祖母は急に咳き込み話は途切れる。


 その日は調子が良かったのか他にも色々なことを話してくれた。


「おばあちゃんは死ぬのが怖い? 僕は怖い」


 祖母は笑って、僕の頭に手を置いた。


「昔は、怖かったね。でも今は怖くない」


「どうして?」


 祖母は窓の外を見た。祖母は「あのね」と話し始める。


「九相図という人が死んでから土に帰るまでが描かれている絵があってね。昔の人は随分と含蓄のある事をすると思うわ。人は死ねば腐り骨になって土へ帰る。今は火葬するのが普通だから、野ざらしで土に帰ることなんてないけれど、それでも色々な人と別れていくとね、何だか死ぬことがただの終わりには思えなくてね。身体は土に帰って、そして、また何か別のものとして生まれ変わっていくんじゃないかって思うのよ。それは花であるかもしれないし、小鳥かもしれない。ただ、死ぬことが終着点だと思わなければ怖いことなんて何もない気になってきてね。昔の自分に教えてやりたいくらい。そんなに怖がることないよってね」


 祖母の言葉はそれまでだった。


 これが祖母の最期の話だ。


 そして、その三日後、祖母は他界した。

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