第12話

「西海くん?」


 僕の声を聞いて、西海の鋭い眼がこちらに向く。


「小金井さんが探してたよ」


 僕が言うと西海が一歩こちらに踏み出した。


「ああ、お前……」


 西海の声は低く、ざらざらとした質感だった。彼は少しずつこちらに詰め寄ってくる。僕は思わず一歩後退る。


「お前が早瀬に余計なこと吹き込んだのか?」


「な、なんのこと?」


 こちらを見る西海の瞳には鈍い光が映っている。


 そして、突然西海は僕の胸ぐらを摑んだ。


「お前が言ったんだろうが!」


 西海の鋭い目が僕を射抜く。彼の怒号が雨のロータリーに響いた。


 泉は萎縮してしまって、ただこちらを見ているだけだった。


「な、なにが?」


 西海の腕の力が強くなる。


「シーラカンスが何だって吹き込んだろうが!」


 彼の言っていることがわからなかった。ただシーラカンスという言葉だけが頭の中で繰り返された。


 僕は彼の怒号で動けなくなった。僕は彼のことが恐ろしかった。


「そ、それは──」


 言いかけて、ふいに頬に強い衝撃を受けた。身体がふわりと浮く。


 泉が言葉にならない声で叫んだ。


 何が起きたのかわからなかった。頬が熱く視界が一瞬ぼやける。持っていたはずの傘が広がったままボンっと地面で跳ねた。


「な、に」


 口の中に血の味が広がる。


「お前が!」


 西海の言葉を聞いてようやく自分が殴られたのだと理解した。


「やめて!」


 泉が叫び声を上げる。


 しかし、西海は泉の声など聞いていない。


「何も知らない奴がちょっかい出してんじゃねぇ!」


 西海は僕を強く睨みつけ、再び僕の胸ぐらを摑んだ。


 僕は振り払おうとしたが全く引き剥がせない。西海の力は僕とは比べ物にならないほど強く、自分の非力さを痛感した。


 そのまま僕は押し倒され、拳が眼前に迫る。


 仰向けになった僕の目には無数の雨粒が入ってきて視界がぼやける。


 拳は勢いよく僕に迫っていた。しかし、その拳は僕の眼前で止まった。


「おい、何してんだ?」


 目の前に人の腕があった。ズンと太い声はよく聞き馴染んだものだ。片膝をついた近江が西海の腕を摑んでいた。そして、近江はその腕を力強く握りしめた。西海は近江の手を振り払って後ろに退いた。


「んだよ! 誰だテメェ」


 西海の黒い瞳がギラギラと光を反射して、近江を睨んでいる。


 近江は西海に一歩近づく。二人の身長は同じくらいだが、近江のほうが体格はいい。けど、西海にはそんなことどうでもいいようだった。


「関係ねぇやつがでしゃばってんじゃねぇ」


 西海が言う。


「ダチが殴られてんだ。関係なくねぇな」


 いつもと違うどすのきいた声で近江が言った。


 二人が一歩踏み出した瞬間その間に誰かが入ってきた。


「司、何やってるの?」


 小金井の一つに束ねた髪が傘の下で揺れた。その声は冷たく、よく通った。


 西海は目を大きく見開いて彼女を見つめる。


「早瀬、どこ行ってたんだ。心配したんだぞ」


声は先ほどと打って変わって穏やかなものだった。まるで別人のようだと思った。


「司、これ何?」


 小金井は僕のほうを一瞥して言った。


「いや別に……お前を探してただけだ。そしたらこいつらがいた」


「それで、何でハルくんが地面に倒れてるの?」


「いやそれは……」


 小金井の声はいつもより低い。


 西海は小金井を見つめて、それから「ああ」と微かな声を発した。


「そろそろ、帰ろうぜ」


 西海は目を細める。


「それは無理」


 小金井はそっけなく言う。彼女がどんな顔をしていたのかは見えなかった。


 西海はため息をついて、ゆっくりとその場から離れていく。


 小金井は俯いたまま西海を追おうとはしなかった。


 西海のいなくなったその場所には雨音ばかりが響く。


 沈黙を破ったのは近江だった。


「大丈夫か⁉︎ 痛みは?」


「痛いけど、多分、大丈夫」


 僕が立ち上がろうとすると小金井がこちらに駆け寄ってくる。


「これ何本に見える?」


「三本」


「顔以外は、痛いところある?」


 僕は頭を振った。小金井は頷いて手を差し出してくる。僕はその手を摑み立ち上がろうとしたが、殴られたせいか脚がふらついてうまく立てない。近江に支えてもらってようやく立つことができた。


 顔の皮が突っ張っているような感覚があって、頬に触れるとかなり腫れているのがわかった。


「早く中に入ろう」


 すぐに近江は泉に視線を向ける。


「泉は大丈夫か? 怪我とかは?」


 泉は地面にへたり込んでしまっていた。差し出された近江の手に縋り付くように摑まり、泉は泣きそうな声で言った。


「大丈夫。平気、わたし、見てただけだから」


「なら良かった」


 近江は泉をじっと見つめて言った。


 僕は近江の肩を借りてショッピングモールの方へ歩き出した。泉と小金井は僕らの数歩先を歩いている。泉の手を見るとわずかに震えているのがわかった。恐怖のせいか雨に濡れて身体が冷えたせいかはわからなかった。

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