第1話

 梅雨明けの六月下旬、午後の陽光のもとでアブラゼミは鳴き声を上げていた。


 店先のアスファルトの道路からは陽炎かげろうが立ち上っているのが見える。開け放たれた引き戸にはガラス製の青い風鈴が垂れ下がっているけど、一向に音を鳴らす気配はない。


 先日店内の内壁を塗り替えたばかりで室内は漆喰しっくいのひどい臭いが立ち込めていた。換気のため仕方なく引き戸を開け放っているが、そうすると冷房の温度をいくら下げても室内は冷えない。あちらを立てるとこちらが立たない。結果共倒れだ。


 僕は漆喰の臭いと暑さに耐えながら手元の本に視線を落としていた。


 客商売でこの臭いはどうかと思う。


 がらんとした店内には店番の僕一人、レジ前の丸椅子に座っていた。


「はあ」


 思わずため息が出る。本から目を離し、引き戸の向こう側の海を呆然と眺めた。


 今日も暇だ。


 僕の実家は小さな商店を営んでおり、中学に上がってからは時々店番を任されるようになった。


 店番といっても繁盛しているわけではないから客なんてほとんど来ない。来たとしても近所の主婦かがきんちょか。そのため僕の役目はもっぱら商品とレジ金の見張りだった。


 どうしてこの店がいまだに潰れていないのか前々から疑問だった。蓮見町の中でもとりわけ端に位置しているこの店はいつも閑古鳥かんこどりが鳴いている。ただ、夏休みに入れば近くのキャンプ場から買い出しに大勢の客が来店する。つい先日聞いた話では夏休みの売上で一年分の生活費のほぼ半分を稼いでいる状態らしい。


 父曰く「夏休みがなければとっくに潰れている」そうだ。


 そもそもこんな民家が数えるほどしかないところに店を構えるのが間違っていると思う。


 しばらく、店先を眺めているとその日は珍しく知らない人が通った。それは僕と同じくらいの身長の女の子だった。黒い髪が海風になびいている。店の風鈴がわずかに鳴った。顔はよく見えなかったけど鼻が高く、その白い鼻の先がツンと空を向いているのが印象的だった。僕と同じ中学の制服を着ていたが見たことはなかった。その女の子は幽鬼ゆうきのようにふわふわとした足取りで通り過ぎていった。


 ふいに冷たい風が店内に吹き込んで陳列棚のスナック菓子が床に落ちた。


 拾うのも億劫おっくうで僕はそれを無視して再び本に視線を落とす。


 先日、父に買ってもらった本で内容は海洋生物と地殻変動に関するものだった。海底火山や地震、それらによって海洋生物にどのような影響があるかがわかりやすく解説されている。


「おーい、サボってんじゃないぞぉ」


 間伸びした声とともに引き戸の向こうから父がぬっと顔を出す。


「遅い」


「しゃーないだろう。町内会の集まりも重要なんだぞ」


「僕だって予定があるんだよ」


 父は店内を見回すと落ちているスナック菓子を棚に戻した。


「どうせ釣りだろぉ?」


 薄い笑みを浮かべて父は言った。


「そうだよ。早朝から行くはずだったんだ」


「いつ行ったっていっつもボウズだろうが? たまには食える魚釣ってきてくれると助かるんだがね」


「もう出るから!」


 僕は本をレジ横に置いて外に出た。


「おい! 遅くなるなよ。あんまり遅くなるとかえるが出るぞ」


「わかってるって!」


 そう言って僕はすぐに物置から投げ釣り用の長い竿とバケツを取り出した。竿は背負い、バケツは自転車の前かごに突っ込んだ。


 僕はすぐに海に向かって自転車を漕ぎ始める。


 出かけ際に父が放った言葉、この辺りでは子どもをしつける時に「遅くなったら蛙が出る」という言葉がよく使われる。「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」とかと同じように迷信に違いないと僕は思っている。だいたい「鬼」が出るならまだ恐ろしいと思うが「蛙」が出ると言われても何の恐怖も感じない。

 まあ、どんな町にでも迷信や逸話いつわは存在するだろうし、あまり気にしたことはなかった。


 蓮見町はすみちょうの南側はほとんどが岩礁に囲まれている。海岸線を自転車で走るといたるところに黒々とした岩が突き出ているのが見える。この辺り一帯はその岩のせいで船が停留できるところはほとんどない。だから、投げ釣りをやるためのポイントを探すのにも苦労した。今、僕が行き詰めているのはエサ屋から三キロほど離れた蓮見岬はすみみさきの先端の岩場だ。


 自転車で海岸線を道なりに進むと大きな教会が見えてくる。この小さな町には似つかわしくないほど荘厳そうごんな教会だ。


 その近辺の海は普段から波が高く岩礁も多いことから遊泳禁止となっていた。

十年ほど前に岬の岩礁地帯で漁船が難破する事故があった。確かそれで一人亡くなっているはずだ。その遺体は岬から数キロ離れた沖合で見つかったそうだ。この辺りの波の荒さと潮の速さがよく分かる。


 父は「教会なんかよりも灯台でも建てたほうが幾分か役に立つ」とよく言っていたが、それはあまりに罰当たりだろう。けど、まあそれだけ事故も多いということなのだ。


 僕は餌のゴカイを買い岬に向かって自転車を漕いだ。


 世間は六月も下旬、海岸沿いのガソリンスタンドなんかは夏のセールを謳ったのぼりをいくつも立てている。しかし、店には一台も車が停まっていなかった。


 自宅から蓮見岬まで自転車で約二十分、電車なら大体五分程度で着く。釣りに行く時は竿やバケツなど荷物が多いためいつも自転車で向かう。


 空はまだ青々とし、中天には太陽が輝いている。でも、傾き始めれば暮れるのは案外早い。そのため自然と漕ぐ脚に力が入る。


 父はボウズばかりだと言ってきたが、実際には小さい魚はよく釣れている。ただ、いつも小さい魚は生き餌に使っているため持ち帰ったことがないだけだ。なにせ僕の狙っているのは大物なのだから。


 蓮見岬へ続く小道を抜けて教会の前で自転車を停めた。教会は古びていて壁には植物の蔓が這って、壁は所々黒ずんでいた。外から見ると少し不気味な建物だ。


 教会の入り口付近に向日葵ひまわりが無数に咲いていた。教会横に岬の先端に続く脇道がある。そこには木製の看板が立っていて「死後さばきにあう」と書かれていた。意味はよく分からなかった。


 ピチャピチャと波が岩礁に当たる音が聞こえてくる。脇道を進むと黒々とした岩礁が見えてくる。僕はいくつかの岩を飛び越えて蓮見岬の最も先端の岩の上に立った。釣具を置いて、空と海の境界線を眺める。遠くには船一つ見えない。蓮見岬から臨む海はいつもよりも穏やかだった。


 空の青と海の碧が眼前に広がっていて、その景色の中心に白と黒が浮かんでいた。


 扇のように広がった黒髪と蓮見中学の白いワンピース型の夏服。誰もいないと思っていた海の上に女の子が浮かんでいた。

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