第188話 ハグ

 姉との関係が良化することは、悪いことのはずがない。

 だが日本の芸能界の中でも、音楽業界に権力を持つ人間を、特に敵とすること。

 それは俊とノイズはもちろん、阿部やその親レーベルからしても、現実的な話ではない。

「貴方のボーカル、顔を隠しているのは悪い判断じゃないわ」

 彩はそんなことも言ったのだ。

「あいつはスタイルがよくて、才能を持った人間を、そんな才能とは全く関係なく辱めることが好きな人間だから」

 そんな男に姉が支配されていることに、俊は腸が煮えくり返る。


 愛と憎しみは表裏一体。

 彩を超えることは望んでいたが、彼女が不幸に落ちることを望んでいたわけではない。

 もちろん上から目線で、彼女を見下すことが出来るようになれば、性癖が改善するかとも思った。

 姉にレイプされて以来、俊の性癖は基本的に、小さな女の子にしか反応しない。

 幸いにもロリコンというわけではなく、小柄な女の子であれば、ちゃんと反応はしてくれたのだ。


 一方的ではなかったと言われて、過去の記憶を探ってみるが、もう随分と前のことであるため、はっきりとはしない。

 ただ彩から感じる敵愾心のようなものが、感じられなくなったのは確かだ。

 心情的にはむしろ、母よりも彩に対して、俊は母性を感じていたと思う。

 だからこそ彼女を支配する人間に対して、憎しみを抱くことになる。

(けれど俺に、そんなものを一方的にどうにかする力なんてない)

 それは彩も期待していないのだ。


 そもそも彩が支配から脱せないのは、二つの理由がある。

 一つは単純に男の権力が強く、その及ぶ範囲から逃れれば、報復があるであろうこと。

 そしてもう一つは現在の彩の楽曲が、かなりの部分ゴーストのものであるため、歌う曲がなくなってしまうということ。

 他にも色々とあるが、大きな障壁がその二つである。


 この二つをどうにかするための手段は、彩も色々と考えてはいた。

 一つには事務所の移籍であって、これは契約更新のタイミングで、他のレコード会社のレーベルに移るという手段がある。

 作られた虚像の部分はあっても、彩は現在の日本を代表する歌姫だ。

 タレントとしての側面もあるため、本人の価値が充分に高い。

 彼女を手に入れられるならば、所属事務所やレコード会社を敵に回してもいい、という他の大手レコード会社自体はあるだろう。

 ただし慎重に準備をしていかなければ、どんな報復をされるのかは分からない。


 楽曲提供の部分に関しては、それこそ俊の役割だ。

 ノイズでは使えない曲というのが、それこそ彩に歌わせればいい。

 彩が抜けるというのは、今までのスタッフも使えなくなるということだ。

 また報復手段というのが、どういうものになるのかも分からない。

 俊としてはそのあたり、さすがに自分がどうにか出来るものではないと思っている。

 そこは彩も、伝手を作り続けてきたのだ。


 問題を片付けるのには、時間もかかるだろう。

 屈辱を与えることを好む男に、それだけまだ体を任せる。

 そうは言ってもあちらは、彩自体にはある程度飽きているというのもある。

(ふざけた話だ)

 面子や支配欲が、どの程度のものであるのか。

 それによってこの問題は、大きく難易度が変わる。




 俊はノイズのメンバーには、この件に関しては話さない。

 少なくとも今の時点では、話しても何も解決の力にはならない。

 年末の年越しフェスに集中してほしい、ということもあった。

 それにこれは彩と自分の問題であるのだ。

 ずっと長く、俊を蝕んでいた、女性に対する嫌悪。

 恋人を作っていた期間でさえ、ある程度のそれが残っていた。


 完全になくなったわけではないが、それでもおおよそは解消している。

 それは俊の作る曲の制限を、広げていくものになるかもしれないのだ。

 逆にそれがあったからこそ、作れていた曲もあったのかもしれないが。

 しかし月子には歌えない曲を作り、ボカロにも歌わせていなかったのは、いつかこんな機会のためのものであったのか。

 今から思えば、という話である。

 彩が歌うような歌を作ってしまって、それを発表するのが嫌だった。

 囚われている自分を見るようで、死蔵していた楽曲。

 今の俊がブラッシュアップして、そのまま使えるような曲がいくつもある。


 もちろんゴーストなどに甘んじるつもりはない。

 ただ楽曲のうち、曲は提供しても詩は彩に考えてもらう。

 元々彼女は、作詞の方に実力があった人間だ。

 今もゴーストに曲を使ってもらっても、歌詞は自分の歌いやすいように書いている。

(この世界、ややこしいことが多すぎる)

 いっそのこと自分が全てを叩き壊してやりたい。

 破壊願望が幾つになっても消えない俊は、永遠の厨二病であるのかもしれない。

 だがそういった厨二病を極めていけば、大きなアーティストになれるものだ。


 この計画に必要なのは、まず権力である。

 一刻も早く彩を解放してやりたいと思っても、そう都合よくはいかない。

 一番いいのはもう向こうから、興味をなくさせることだ。

 しかしそれは相手が、彩のどこに価値を見出しているか、というものが重要になる。


 普通の商売女や、そうでなくても玄人の女を愛人にすればいい。

 だがあえて表の名声も持っている彩を、そういった扱いにすること。

 それは歪んだ支配欲や、名声欲につながっているのだろう。

 これを想像することは、別に難しくはない。

 一般に彼女を作る時でも、別に好きなわけではなかった相手が、周囲からの評価の高い人間であった場合、ステータスを重視して付き合ってみたりする。

 過去の俊がこういうタイプで付き合って、そしてさほどの愛情も与えなかったために振られたので、分からないでもないのだ。


 俊が本当に恋愛をするならば、相手にもなんらかのプロフェッショナルであることを求める。

 ルックスやスタイル、または目に見えるステータスを軽視するわけではないが、何かを痛烈に求めている人間。

 ある意味においては、尊敬出来る相手を選ぶのだ。

 もっとも実際はこういう夫婦関係であると、離婚も多くなったりする。

 対等ではなくある程度、お互いの依存がなければ、人間性は長続きしないのだ。

 弱さを見せられない相手との関係など、持続させるだけでも疲れてしまう。




 俊は彩の動きに関して、阿部にはある程度話した。

 具体的に話したのは、彩が事務所を移籍したい、という動きをしていることである。

 レコード会社との幹部との関係については、また他の計画を考えないといけない。

 一番簡単というか単純なのは、その人物を失脚させてしまうことだろう。

 だが俊は、音楽に関するスキルと事務的なスキルは持っているが、そういう陰謀に関する手段は分からない。

 社内政治に関しては、阿部の方がよく分かっているだろう。


 ただ阿部に確認したところ、今の彩とその権力者との関係は、表面的にはお互いが得をしているというものになる。

 彩に対して金をかけることは、会社全体で行っていること。

 その彩が稼いでいるわけであるが、彩が稼がなくなれば重役の発言権も落ちる。

 阿部が考えていたのは、俊が楽曲提供をすることで、ややマンネリと言われてきた彩にてこ入れをすること。

 それと引き換えにノイズの宣伝もするという、ごく真っ当なものであった。


「彩と件の重役は、愛人関係でもあるはずだから」

 そう少し俊の表情を窺ったのは、二人の関係を聞いていたからである。

 俊と彩の間には、敵対関係に近いものがあるが、逆に関係が良化してお互いに利用し合うなら、悪いことではないというのが彼女の感想だ。

「愛人関係って、けっこう知られているものなんですか?」

「噂程度はいくらでもあるけど、私の場合は父がその重役とは反対の派閥の人間だから、少し詳しく知っているのよ」

「ちなみに阿部さんとしては、そういった関係で売り出すことは、どう考えてます?」

 阿部はそう言われて、不快気な表情を隠そうとはしなかった。

「彩はそんなことをしなくても、普通に売れたシンガーだと思う。時間はかかっただろうけど。この業界は実力だけで売れるものじゃないから、どういう手段を使おうとそれは、彼女の自由ね」

 不快ではあるが、それを認められないほど、若いわけではない阿部である。


 ただ、そういったことに耐えられない人間もいる。

「ルナなんかは精神的に脆いところがありそうだから、貴方も注意しなさい。私の方も気をつけてるけど」

 顔出しをしないということは、やはり良かったのであろう。

 確かに月子は枕営業などは、絶対に出来ないタイプであると思う。

 もしもそれを強要したら、精神が壊れてしまうような。


 しかしGDレコードの権力構造が、分かったのは幸いである。

「俺たちと彩がコラボでもして、彼女をこちらに引き抜いたら、ひょっとしてその重役は失脚しますか?」

「それは……準備をしてからの話だけど、可能性はあるわね」

 社内政治というものは、俊の関知するところではない。

 ある程度理解は出来るが、それにすすんで関わろうとも思わない。

 必要なのは自分たちに、どれだけ便宜を図ってもらえるか、ということなのだ。


 阿部の立場としては、出来ることなら彩という手駒は、自分の属する派閥に入れたいと、当たり前のこととして考えている。

 ただそれを実際に行うのは阿部であっても無理で、その母体レーベルの社長である父親でも無理だ。

 レコード会社の重役などが、どういう力関係を持っているのか、俊には分からないし阿部も全てを把握しているわけではない。

 それでも一つの武器となる、とは考えているのだが。




「ストップ! ちょっと俊さん、集中して!」

 そう声を上げたのは、珍しくも暁であった。

 明日のフェスのセッティングなどは終えて、今は最後のリハを場所を変えて行っている。

 俊はほとんど自動的に演奏をしていたが、さすがに集中力を欠きすぎていた。

 他のメンバーも、それに気づいてはいたらしい。

 セッティングなどについても、今回は全体を把握することなく、それぞれのメンバーに任せていた。

 普段とは違う様子なのは、誰もが気づいてたのだ。


 陰謀をめぐらせているのは、俊の個人としての仕事である。

 今はノイズのリーダーとして、一時間弱のステージを成功させなければいけない。

 夏のフェスの成功から、タイアップでの告知など、ノイズは確かに上り調子ではある。

 ただ全く未知の領域に対して、俊はリソースを使いすぎていた。


 他のメンバーも一応、彩がわざわざ俊を訪ねて、そして二人が話したのは知っている。

 ただその結果がどうであるのかは、俊は話していない。

 年末の年越しフェスに集中するのが重要だと、分かっていたからだ。

 しかし当の俊が、それに集中出来ていない。

 ならば気になってしまうのも、仕方がないというものだ。

 演奏のクオリティが落ちれば、メンバーが気になるのは当たり前だ。


 俊としては手先だけを動かしていた、自分を認識してしまっている。

「ああ、悪い。……少しだけ休憩しよう」

 彩との関係改善は、悪いことではない。

 むしろずっと自分の中に残っていた、澱がなくなっていくのを感じる。

 これがいいことなのか、悪いことなのか。

 普通の人間にとっては、もちろんいいことであるのだろう。

 だが何かを表現する人間にとっては、負の感情は悪いものばかりとは言えない。


 音楽しかないという人間が、その魂の全てをかけて歌うことは、ブルースとなって聴衆の心を揺るがす。

 作曲や作詞についても、負の情念から生み出されたものこそが、かえって心を打つことはあるのだ。

 盗んだバイクで走り出したい、若者というのは存在する。

 それを代わりに歌ってくれる人間は、やはり必要なのだろう。




 今ならラブソングが作れるかな、と俊は思った。

 新しく生み出されたものに、失ってしまった負の感情。

 顔を洗って鏡を見れば、そこにはまだ醜い感情の抑圧を受けた、男の顔が写っている。

(まだ、彩から完全に解放されたわけじゃないんだな)

 姉が体を売って、この業界でスターに上り詰めたという事実。

 そしていまだに、その関係を断ち切れていない。


 俊の彩に対する、負の感情はだいぶ薄れている。

 しかし今は逆に、彩を解放してやらなければいけないという、そんな使命感のようなものがある。

 自分と寝た女が、他の男に好きにされているという、歪な所有欲。

 姉に持つべきものではないが、そうしたのは彩である。


 トイレから出た俊の前には、暁が一人いた。

「ああ、もう大丈夫だから」

「俊さん、一人で抱えすぎないでね」

 ギターを持っていない時の暁は、普通の女の子になる。

 いや、むしろ人間関係の構築が、苦手な人間というものになるのだろうか。

 友達の作れない人間であるが、コミュニケーションも出来ないというわけではない。

「技術的なことでは俊さんにしか出来ないこともあるけど、何か問題があるなら、あたしもお父さんも力になるし」

「……アキは可愛いなあ」

 およそ頭一つ分ほども小さな、小柄な少女。

 そんな存在に心配されるとは、俊はよほど調子が悪く見えたのか。


「ちょっと言い過ぎたかなって、思ってはいるんだよ?」

「いや、他の皆も思ってたさ。アキが一番遠慮がなかっただけで」

 一番古くからの付き合いというなら、確かに暁なのである。

 もっとも父の死後はしばらく、関係性は断たれていたが。

「ちょっとだけ、甘えさせてもらおうかな。ハグしていいか?」

「ええ? 俊さんってそういう甘え方するタイプだったの?」

「俺のことなんて、アキはまだ全然知らないと思うぞ」

 短い距離を詰めて、俊は暁の小さな体に手を回す。

 おかしな意味など感じさせない、純粋な感じのハグ。 

 母性に薄いと思う母親も、帰ってくれば普通に抱きしめてくる。

「……フェスが終わったら、あたしたちにも話してね」

 抱きしめると言うよりは支えるように、暁も手を回す。

 そして俊の背中を、優しくポンポンと叩いたのであった。

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