第187話 愛憎

 東京港区のタワマンを、俊は訪れていた。

(まったく、いいところに住んでるな)

 他人のことは言えないであろうが、俊が住んでいるのはあくまでも、母の家である。

 おそらく彩に関しても、自分の金ではなく、事務所が提供している家ではあるのだろう。

 高層階はまさにセレブの住処であり、とんでもない広さがあるらしい。

 音大の学友の中にも、こういったタワマンに住んでいる人間がいた。

 ただ生きて快楽を得ているだけという、俊からすると意味の分からない人間であった。

 普通の人間は、自分の人生に意義などを見つけられることはないのだ、ということを俊は知らない。


 入り口で部屋番号を押して、返事を待つ。

『はい』

「俺だけど」

『入って』

 二重の扉を開いたところには、コンシェルジュまでもがいる。

 お高いところだろうなとは思うが、それに萎縮する俊でもない。

 最上階の二つ手前に到着すると、部屋の数も少ない。

 本当なら大企業の重役だとか、そういった人間が家族で住むところなのではなかろうか。

(無駄に広そうだな)

 俊はそう思ったが、それを言えば居候を抱えるまでの俊の家も、そうであったのだ。


 エレベーターは長い時間をかけて上層階に達する。

 部屋の前でもう一度チャイムを鳴らすと、自動的に鍵が開いた。

 当然ながら俊は、ここを訪れたことはない。

 だが玄関から先につながるのがリビングであるのは、おおよそ想像できた。

(寝室に他にも色々とあるのか)

 一人で住むには、掃除だけでも大変そうだ。

 もっともそれは俊の家もそうであり、ハウスキーパーなどに入ってもらっている。


 ドアを開ければ暖かな空気が感じられる。

「ようこそ」

 ワイングラスなどという洒落たものではなく、普通の炭酸水のペットボトルを手にして、ソファに座った彩が言う。

「コートはそこにかければいいわ」

 俊は無言のままにそれに従った。


 立ったままの俊に着席を勧めるでもなく、彩は立ち上がる。

「ミルク入りのコーヒーで良かったかしら」

「別になんでも構わない」

 そう言った俊に対して、彩が持ってきたのはペットボトルのミネラルウォーターであった。

 何かを入れられる可能性は、これで低下したと言ってもいいだろう。

 本当は俊の方から、場所の指定はしたかった。

 だが彩の予定の方がたてこんでおり、この時間しかなかったのだ。


 シンガーとしてだけではなく、他の仕事も色々と入っている彩。

 ならば作曲に時間が取れないというのも、充分にありうる話だ。

 本末転倒になっているが、彩の目的は栄光を手にすることであり、音楽は手段なのだ。

 そこが俊としては許せなかったのだが、今ではもう以前ほどの敵愾心は持っていない。

 わざわざ訪ねて来なければ、時折は思い出したかもしれないが、自分の道を走っていくだけであったろう。


 ただノイズの活動にしても、徐々にまだまだ広がってはいるが、さらに上を目指している。

 単純な人気もそうだが、もっと最先端で流行を発信したい。

 俊の動機は凡俗なものであるが、まだ誰も至っていない場所を目指すという点では、他の者にはない野望を抱いていると言える。

「こうやって、本当に二人きりになれるのは、久しぶりかしら」 

 先日も二人きりにはなったが、あれはどこに目や耳があるか分からなかった。

 そういう意味ではここでも、彩が何かを企んでいるのでは、という疑惑を俊は捨て切れない。


 裏切った方は忘れても、裏切られた方は忘れない。

 ただ彩としては、自分の行った行為を、それほどひどい裏切りとは考えていなかった。

 そのあたりの見方が、俊とは違うのである。




 ソファに座る位置は、正面から対するものではない。

 お互いに斜めに、相手を視界に入れることになった。

 心理的には下手に、お互いの反発などが起こらない位置である。

「それで、どう手を打つつもりなんだ?」

 俊としては自分の感情に整理をつける必要はない。

 彩のいる場所を、ノイズが超えていけばいい。

 複雑ではあるが、それでもう過去を振り返らずに済む。

 過去は蓄積であり、そこから生まれるものもあるのだろうが、彩との関係の過去は建設的なものではない。


 彩は昔から変わらない部分と、昔と大きく変わった部分がある。

 常にお姉さんぶるところは、昔と変わらない。

 だが少し寂しそうにする顔は、どこか妖艶なものに変わった。

「俊には私が、最終的に事務所を移籍して他のレコード会社の傘下に入ることを手伝ってほしい」

 なんだか全く関係のない話が出てきて、俊は呆気に取られてしまった。


 彩とノイズは、大きな枠で言うならば、同じレコード会社の傘下の事務所に所属している。

 だからといって仲良しであるとか、そういうわけではない。

「あんたは今の稼ぎ頭に近いだろ。それを他のレコード会社にって、業界の仁義が立たないんじゃないか?」

 彩の思惑が、俊の想定していたこととは、全く別の方向に行っている。

 ただ、前の会話に比べると、こちらの方が本音に感じられた。

「後ろ盾のない女が、この業界でやっていくなら、誰かの愛人になるのが手っ取り早いのよ。でも私はもう、それをやめたい」

 彩の言葉を聞いて、俊の腹の中で、ぐるぐると黒いものがかき回される。


 芸能界というのは、とんでもなく爛れた業界でもある。

 音楽業界はともかく、特に女優などに関しては、平気で枕営業をしている。

 音楽業界であっても、枕の噂はいくらでもある。

 だが肉親からは、こんな話は聞きたくなかった。

「最終的な目的を果たせるなら、別に今のままでもいいんだけど」

「……あんたは淫乱な女だと思ってたよ」

 ひどい侮蔑の言葉を投げつけるが、彩はかすかに眉を動かして、笑みさえ浮かべた。

「貴方と寝た時、私は処女だったでしょ?」

「普通の姉は弟と寝たりしない!」

 テーブルに拳を叩きつけた俊だが、痛みなどは感じない。


 あの日、俊の記憶にも、鮮烈に残っている。

 あれが俊の性癖を歪ませているのだと、自分でも気づいている。

 その後の恋愛においても俊が長続きしないのは、憧れていたお姉さんにレイプされた、という体験が深く刻まれているからだ。

 実際の姉という感覚は薄かったが、それを抜きにしても、俊は彩のことが本当に好きだった。

 あるいは初恋であったのかもしれない。

 実母があまり向けてこなかった母性を、彩に求めていたというのもあるだろう。


 のしかかってくる重さは、女の肉体なのだと感じさせた。

 濃密な体臭は甘く、そして性器を刺激する。

 ダメだと分かっていても、抵抗出来なかったのは、男としての性欲に負けた自分である。

「俊、今さら信じられないかもしれないけど、私はあの頃、本当に貴方が好きだったのよ。恋愛ではなく、家族愛であったかもしれないけど」

「ならどうしてあんなことをしたんだ」

 搾り出すような俊の声にも、彩は答えを用意していた。

「この業界で成功するためには、体を使うことも覚悟していた。だけどせめて最初ぐらい、自分で相手を選びたかったのよ」

 それはとてつもなく、自分勝手なことである。

 だが業界を知っている俊としては、否定できない事実でもあった。


 ノイズをメジャーにしないのも、身軽さを考えてのことだ。

 もっとも今の業界では、彩ほどの実力があるのなら、体を使う必要などなかっただろう。

 だが彩はデビューから、一気に売れていった。

 その背景にあったのが、大物との関係性であったということだ。


 吐き気がする。

「あいつらは、ただの女じゃ満足できないのよ。ステージで数万人のファンを魅了するアイドルや、銀幕の中で輝く女優を、自分が屈服させるという欲望を性欲と一緒に持っている」

「歪んでる」

「でも、お父さんもそういうところはあったんじゃない?」

「あんたが!」

 父親のことを、彩が言うのか。

 ただ子供の頃、姉だとは言わなかったものの、彩と引き合わせたのも父であった。


 そして父も、母の才能を自分のために利用した。

 ただし約束を守るために結婚し、離婚した時には母が声楽の世界に戻れるよう、ちゃんと準備もしていたのだ。

 それを誠実と見るか、それとも権力者の横暴と見るか。

 どのみち母は、自分の願いを果たすためには、父の手を取るしかなかったのだ。

 そういう父の面を、俊は今なら理解出来る。

 母があまり日本に帰ってこないのは、そういう過去とも決別したいからであろう。

 俊のことを最低限育てはしたが、あまり愛情も示したことがない。

 前後を考えればそれも、当たり前のことではあるだろう。




 俊はそういうことはしない。

 いや、根底にある道徳が、そのように組み立てられてしまったとでも言うべきか。

「あんたなら、実力だけでどうにかなっただろうに」

「確実に、素早く成功する必要があったのよ。母さんのためにも」

 彩の母もまた、既に故人である。

 病気の母のためにも成功したかった、というのは彩のインタビューでも明らかにされていることだ。

 シングルマザーとして、彩を育てたという母親。

 だが実際のところは、そんな美談になるような人間ではなかった。

 それでも彩にとっては、母親ではあったのだ。


 俊の父親のバンドのグルーピーであり、尻の軽い女であったというのが、俊の感想だ。

 さすがにそんなことは、彩に向かっては言えないが。

「今のあんたの立場なら、一人のアーティストとしてちゃんと独立できるんじゃないのか?」

「ゴーストに書かせている曲なんかで、今の立場を維持できるとは思えない。シンガーソングライターとしての価値を示さないと、私を価値のある商品だと思わせることは出来ないわ」

 ひどい話だ。


 女の価値というのは、どれだけ社会的地位の高い男に必要とされるかで決まる、とも言える。

 綺麗ごとを言わずに、事実としてそうであるのだ。

 男女平等の社会などと言うが、おおよそ社会を回しているのは男である。

 芸能界にしても、俊が阿部の提案を受けたのは、阿部が女であるからだ。

 月子を変に扱わないだろう、という判断からなのだ。


 彩もバックに、そういった女傑を持っていたなら、体で勝負などする必要はなかっただろう。

 しかし成功するために、その選択をした。

 俊のような親が太い人間には、絶対に理解出来ないことである。

 理解は出来ないが、そういう選択もあるのだろうな、と認識はしないでもない。

「つまり楽曲提供とか移籍とかは全て表面的なもので、その男との関係を切りたいということなんだな」

「ええ、今の貴方なら、私の力になってくれるでしょ?」

 正確には力になれる、というところであろうが。


 俊としては確かに、今の彩の状況を変えるのに、色々と画策することが出来る。

 彩を違う力のある事務所に移籍させるのは、俊自身は無理であるが、話をつけることは出来るだろう。

 そして話を聞いてしまって、そういったことをやろうという気分になっている、自分を発見する。

「話は分からないでもないが、それなら最初にするべきことがあるんじゃないのか?」

 俊の言葉にも、彩は少しの間、無反応であった。

「ああ、こんな汚れた体でよければ、また抱いてみる?」

「違うだろ!」

 その瞬間の嫌悪感は、これまでのものよりもずっと、激しいものであったかもしれない。

「俺はただ、謝ってほしかったんだ! それに……汚れたなんて、言ってほしくない……彩には……」

 必死で言葉を紡ぐのだが、これまた彩はまた、今までにない表情をした。

「謝るって……何を? 先に売れちゃったことなら、それは年齢の差もあるし」

「俺をレイプしたことに決まってるだろうが!」

「ちょっと待ってよ! あれは合意でしょ!?」

 すれ違う男女、いや姉弟であった。




 確かに押し倒して、行為に及んだのは彩であった。

 なかなか上手くいかなくて、初めてだったので痛かった。

 だが一回出した後、もう二回やったのは俊の主導であった。

 だからきっかけはともかく、あれは合意であったはずなのだ。


「…………そうだったっけ?」

「ああ……私がお酒飲ませてたから、憶えてないのか。ごめんなさい」

 そこで初めて、彩は素直に謝った。

「酒は……弱いはずなかったけど、そういえば飲んでたか……」

「まあ、こちらが酔わせて襲ったわけだから、私が悪いのか……」

 なんだか毒気が抜けてしまった、二人の間の空気である。


 しかしどのみち、母親が違うとはいえ、弟と関係した彩はひどい人間だ。

「最初も全然抵抗しなかったし、それに私の胸とかちらちら見てたでしょ?」

「そりゃ、ああいう年頃だと男はそんなもんなんだ」

 俊にしても彩に対する声に、先ほどまでのような怒気は含まれていない。


 裏切られたと一方的に思っていた。

 だがお互いに求め合ったというのが、彩の認識であったのだ。

 彼女としては俊が自分につっかかってくるのは、音楽業界で先に売れた悔しさから。

 だから俊が生意気なことを言ってきても、可愛い弟の言うことだと流していたわけだ。

 通りで噛み合わないはずである。


「話は分かったし、少しは前向きに考えてみる。あんたの今の状況は、うちの事務所の社長に相談しても構わないか?」

「ああいう人は、体で仕事を取る女を、同性だからこそ軽蔑すると思うけど」

「じゃあそこは隠した上で話してみる」

 業界内のパワーバランスなどは、しょせん俊にはどうにもならないことだ。

 だからこそ信頼出来る人間を、多く作っておかなければいけない。


 玄関まで見送りにきた彩は、俊が久しぶりに見る顔をしていた。

「なんだか少し、昔に戻ったみたいに感じて嬉しかったわ」

「大変なのはこれからだけどな」

 ノイズを売り出すことだけを、俊はずっと考えてきた。

 メンバーの仲間だけが、保護対象であったのだ。

 彩は自分よりもずっと売れていて年上だが、この業界で生きていくのにはもっと強かになる必要がある。


 帰りのエレベーターの中で、俊は新しい怒りに囚われていた。

 懐かしいのは、彩の肉体の熱、匂い、そして味。

 あれを売り渡して、この世界で生き残ってきたのか。

(俺は恵まれている)

 彩は恵まれていなかったので、自分の全てを使って成り上がってきた。

 そして過去のあの一日のみを除けば、自分と彩の関係は、悪化する意味などはなかったのだ。


 考えることがまた増えてきた。

 だがこれは単なる重荷ではなく、武器にもなるものだ。

 汚れた過去の記憶を上書きしながら、俊は12月の空の下を歩く。

(ラブソング、書けるかな)

 自分の初恋は彩であったのだと、ようやく肯定的に認めることが出来るようになっていた。

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