第166話 夏休み

 自分は休まないブラック体質と言うか、やりたいことが多すぎて休めない俊も、メンバー全員にそれに付き合え、とまでは言わないあたりまともである。

 一週間は丸々休む、とメンバーに告げていたのは、もう一つの巨大フェスが行われることにより、その時期はライブハウスに客が集まりにくいことを理解していたからだ。

 作曲にも作詞にも、自分の才能に対する自信などない俊は、湧き上がる限りは譜面に音符を並べ続ける。

 それが間に合わなくなれば、直接ピアノかギターを弾いていくのだが。


 一応は一緒に住んでいる信吾や月子としては、この様子を見てるとちょっと心配にもなる。

 こういう人間なのだ、というのは分かってきてはいるのだが、止まると死ぬような感じで音楽に接している。

(成果が出ないと可哀想だわな)

 確かに生活に苦労したことはないだろうが、それでもここまで自分の人生を捧げている。

 報われるべきであろう、と信吾などは思うのだ。


 俊としてはこの期間、自分ではしっかりと休んでいるつもりである。

 八月末のもう一つのフェスの前には、しっかりと練習の時間を取らないといけない。

 なので今は作曲と作詞、と趣味の範囲の作業を行っている。

 だがそこに襲来してきたものがいる。

「俊さん! 車出して!」

 そろそろ遠慮がなくなってきた千歳であった。




 バンド内の人間関係というのは、微妙なものであろう。

 同じバンドの中にいても、必ずしも仲がいいとは限らない。

 また収入の格差などがあれば、そこから分裂、あるいは脱退などが起こる。

 俊はノイズの中の人間関係を、出来るだけ良好なものに保とうと思って活動してきた。

 特にフロントの三人の才能は、他に代えられるものではない。

 なので特に、バンド内恋愛禁止などということも言ってきた。

 そうやって配慮してきた結果、女性陣の俊に対する警戒心は、ほぼなくなっていると言っていい。


 ただこの千歳の要望は突然すぎた。

「車って……どこに行くんだ?」

「海! 行こうぜ!」

 千歳のノリに、どうやら月子と暁も乗せられたらしい。


 俊の家のガレージには、バン以外にも車がある。

 ただ維持費まで考えると、持っているだけ無駄なのでは、などと思うことも多い。

 一応は車検などには、母に連絡して了解をもらっている。

 それでもバンドの機材を運ぶバン以外は、滅多に使うことなどない。

 東京に住んでいればたいがいは、電車とタクシーで事足りる。

 それでも他に車があるのは、惰性で所持していると言ってもいいだろう。


 今回はそのガレージに眠っている、車たちを起こすことになった。

 高校二年生の夏休みということで、友人たちと海に行こうということになったのだが、予定していた車が使えなくなったのだ。

 ならばということで、千歳が一方的に月子まで巻き込んで、ノイズメンバーを運転手にしようとしたわけである。

 ちなみに信吾も運転手にされてしまったが、栄二は家族を連れて実家に帰っている。

「車を貸してやるぐらいならいいんだが、俺は静かに作曲をしていたいんだが……」

「現役JKと一緒に海に行かないなんて、そんな選択ありえないよ!」

「いや……夏休みの宿題は終わったのか?」

「ばっちり!」

 フェスも終わり、宿題も終わったテンションで、千歳はやってきた。これは勝てない。


 これは、どうなのだろうか。

 一週間の休みというのは、俊がメンバーに告げたものである。

 リーダーというのは経営者のようなもので、メンバーのスケジュールにちゃんと休みを入れてやるべきだと俊は思っている。

 なので休みと告げたのであるが、別に俊自身が休む必要があるわけではない。

「俊さん、わたしも俊さんは、ちょっとリフレッシュした方がいいと思う」

 月子さえもが控えめながら言ってきて、女の子たちの襲来を受けた信吾も、一理どころか百理ぐらいはあるかなと思っている。


 俊はラブソングが作れない。

 年上の女声に対する嫌悪感は、おそらく彩との関係性に、またあまり会えない母親への想いが、逆転したものであると思っているのは経験豊富な信吾である。

 ならば年下であっても、彼女を作ってみればいいのでは、というのが信吾の余計なお世話であった。

 ラブソングが書けないというのは、致命的とまでは言わないが、問題ではあるだろう。

 実際のところ恋愛など、性欲を上手くラッピングしたようなものだと、男の目線からは見える。

 ただせっかくこのバンドには、女性陣が三人もいるのだ。

 歌詞を作らせてみても、面白いのではないか。

 もちろん俊が監修しないと、かなり恥ずかしい歌になるのは間違いない。




 不本意であった。

 結局俊は、周囲の圧力に負けて、車を運転することになってしまった。

 バンの方は信吾がハンドルを握り、俊は普段使いのセダンを運転する。

 あと一台高級車もあるのだが、そちらは積載量が小さいので、あまり運搬には向いていない。

 二台の車を運転し、ノイズメンバー五人に加え、軽音部の友人たち五人を運ぶ。

 まったく、バンが空いていなかったら、どうするつもりであったのか。

「すみません、帰りは私が運転しますから」

 この集団は千歳と仲のいい友人を中心に、海に向かうはずだったのだ。

 その中の一人の姉が、予定では車を出すはずだったのだ。

 突然の故障で出せなくなったため、ならば車を持っているなら、と月子と暁も巻き込んで、こういうことになったらしい。

「いや、確かに気分転換も必要かな、とは思ってたんで」

 JKの圧力に抵抗するよりも、インプットを増やした方がいいだろう。

 最終的にはそう判断した俊である。

 

 田園調布から、神奈川の江ノ島まで。

 ざっと一時間半もあれば到着する。

「俊さん、音楽かけてよ」

「じゃあ昔懐かしのカセットテープでも」

 あちらのバンにはともかく、こちらのセダンはカーオーディオが新しくなっていないのだ。


 80年代洋楽メタルという、暁の好きそうなラインナップである。

「こういう時だけはユーロビートもいいかなって思うよね」

「ああいうの、歌うの苦手」

 千歳はともかく、月子は本来、器用に歌い分けるタイプではないのだ。

 本当ならロックやメタルよりも、ブルースやバラードが得意である。

 俊が月子でも歌いやすいように、ロックやメタルの調子にしているだけで。


 江ノ島といっても分かりやすい海水浴場ではなく、少し離れた穴場へと移動する。

 そこでも少ない地元民相手に、海の家などがあったりするのだ。

 今日は一日、友人の親戚のお寺に泊まらせてもらうという。

 俊は水着を近くで買ったものの、あまり泳ぐつもりはない。

「日焼け止め忘れるなよ~」

 そう声をかけてみたのだが、JKたちは構わずに、そのまま浮き輪片手に海に突っ込んでいく。


 俊はパラソルを立ててシートを敷くと、そこで遠目に、楽しむ少女たちを見つめる。

「な、悪くないだろ」

「悪くはないな」

 カラフルな水着に着替えた、JKとJD年代の乙女たち。

 これに「興味がない」と言うほどは、さすがに俊も枯れてはいない。

 もっともこの光景が、そのまま歌詞になって頭に浮かぶあたり、やはり俊は俊である。


 場所が場所なので、さすがにノートPCは持ってきていないし、スマートフォンも荷物の中だ。

 だがメモ帳とペンを持っているのは、何かがあった時にすぐに文章の連なりを記録するためのものである。

「う~ん……やっぱりこうはっきり比較すると、けっこう大きさが分かるよな」

 何がだ、とは俊は尋ねない。

 まあJKはまだこれから、という年頃でもあるのだ。

 もっとも普段からステージで見慣れているが、意外と暁は大きいのである。そのあたり白人の血統の影響であろうか。

「Eはないな」

「アンダーが小さいから、Dでも充分大きくは見えるんじゃないか?」

 年齢に相応の、男子同士の下世話な話である。

 ただ信吾はこういう話を俊と出来て、少し安心してもいるのだが。




 波打ち際で遊んでいた女子たちも、それぞれに別れていく。

 浮き輪の上でぷかぷかと、長閑に波間をさすらう者。

 砂浜に戻り、砂の城を作っていくもの。

 貝殻を集めたり、ガラス片を集めたりと、それぞれの楽しみ方をしている。


 海でここまでのんびりするというのは、初めてである。

 画面の向こうで海をテーマとした作品は、色々と見てきた。

 子供の頃は「ジョーズ」を見て軽いトラウマにもなったものだ。

 今はそんなことはないが、普通に海の生物などには苦手意識がある。

 俊は完全に、人工物で作られた都会で生きてきた人間だ。


 やがて皆が、一息ついて戻ってくる。

「海に入らなくていいのか? ひょっとして泳げなかったとか?」

「子供の頃はスイミングスクールに通ってた」

 体育の授業でも普通に泳いでいたので、そのあたりには自信がある。

「暁がいないんじゃないか?」

「ん? 浮き輪でぷかぷか浮いてなかったか?」

 地元民の中にも、その姿が紛れていたりはしない。

 俊は遠くを見つめて、波間のブイの向こうに、人影らしきものを発見する。

「あの馬鹿」

 駆け出しそうになるのを少しだけ緩めて、他に指示を出す。

「離岸流に流されたんだ。地元の人に船が出せないか確認してもらってくれ」

 そして自分は、すぐに流れる海の中に入っていく。


 離岸流は海岸から沖に流れていくもので、これによって流されてしまい溺れる者が多い。

 正しい知識を持っていれば、それほど恐ろしいものではない。

 だがこれで死亡する人間は、年に何人もいるのだ。


 俊は無理に泳ごうとはせず、沖合いに向かう流れを見つけた。

 そして少しずつ力を使って、波間の暁の行方を見定める。

 ある程度沖合いに出ると、波が高くなってくるため、下手に泳ごうとすると危険だ。

 流れに逆らわないように、少しずつ近づいていく。


 人間は水に浮かぶようになっているし、海ではさらに浮かびやすい。

 注意するのは大きな波で、それに溺れてしまうことである。

 力を抜いていれば浮く、ということは最初に習ったことだ。

 やがてどうにか暁まで、声が届く位置にまでは移動できた。

「アキ、大丈夫か」

「俊さん、流されてるんだけど!」

「落ちつけ。まずは海岸に向かうんじゃなくて、あの西の岬の方に少しずつ移動するんだ」

 ここで下手に近づきすぎると、しがみつかれて両方が溺れる。

 暁は浮き輪があるのだから、むしろ俊よりも安全なのだ。

「変に力を入れなくていい。とにかく西に向かうんだ」

 ちゃんと肺に空気を入れている限り、人間はそう沈まない。

 だがこのあたりまで来ると、もう完全に足が着かず、底までどれだけあるのかも分からない。


 底のない場所。

 もちろんまだまだここは大陸棚で、せいぜい数十メートル、あるいは10メートルほども潜れば、底はあるのだろう。

 だが深い海の中に、取り込まれていくという恐怖がある。

(この感情は、初めてのものだな)

 恐怖に飲まれた自分を、俯瞰している自分がいる。

 こんな時でもまだ、俊は感情を音楽にしようとしている。

 芸の鬼、とはこういうものを言うのだと、彼はまだ気づいていない。




 少しずつ海岸に近づいている間に、近隣の漁師が船を出してくれた。

 俊はこんな時でも、恐ろしいほどに冷静でいられる自分を発見する。

 もっとも暁が流されているのを見た時は、さすがに肝が冷えたのだが。

 下手に手を出さず、どうすればいいのかを冷静に伝えることが出来た。

 そのままでも無事に海岸には戻れただろうが、暁はともかく俊の方は、沖合いで冷たい海水に体温を奪われていたため、むしろこちらの方が危険であったろうと言われた。


 確かに船の上に救助された後も、俊の方が足元がおぼつかなかった。

 いっそ最初から全て、救助を任せていた方が良かったのかな、と思わないでもない。

 もちろん一番悪いのは、のん気に沖合いに流された暁である。

 ただ保護者としては俊や信吾が当てはまるので、やはりこちらが悪いのだ、とも言えるだろう。


 その日は予定通りに寺に泊めてもらったのだが、明日は早めに帰ろうか、という話にもなる。

「俺はここで曲を作ってるから、普通に遊んでくればいいぞ」

 俊としては自分の感じた恐怖を、すぐにでも言語化したい。

 またあの海底の深淵というのを、どう音楽で表現すればいいのか。

 海の曲というと、やたらと明るかったり、または海辺を散歩するなど、バラードのものが多かったりする。

 その中であの海のイメージを、どうやって伝えたらいいのだろう。


 先に布団を用意してもらって、それに横たわりながらも、俊の脳はしっかりと動いている。

「俊さん」

 ひょっこりと顔を出した暁は、いつになく神妙であった。

 元々ギターさえ持たせなければ、押し出しの強い少女ではないのだが。

「ごめん、ありがとう」

「気にするな。俺たちは……運命共同体だからな」

 単純に仲間というのとも、今はもう違うだろう。

「それに命を失う恐怖っていうのを、初めて味わうことが出来たのもいい経験だ。曲に生きる」

「それはポジティブすぎる……」

 暁は呆れるが、俊は貪欲なだけである。


 音楽は生きることの表現だ。

 明確に死を意識した自分が、あの海の上で何を感じたのか。

 言語化することは難しいが、間違いなくプラスの経験にはなったのだ。

「怖さってのは、なかなか本当に知ることは出来ないからな」

 人の悪意であれば、それなりに受けてきたことはあるが。


 俊はイメージの中に、霹靂の刻を感じていた。

 月子が口にする、淡路の鳴門の大渦。

 また東北の冬には、人の生命の動きが封じられてしまうこともあるという。

 都会に育った俊が、そういった大自然の脅威を、本当に心から感じることはなかった。

 雪で電車が止まっても、台風で外に出ることが出来なくても、文明に守られていたからだ。

「感じた怖さを、ギターで表現出来るようになるといいな」

 俊の口からは、暁を責める言葉は一言も出てこない。

 なぜならこの危険さというのは、分かっていて体験できるものではないと、頭で理解してしまったからだ。

 この体験は貴重な価値がある。


 果たしてそんな、俊のおかしな感覚までも、暁は理解出来たのだろうか。

 ただこの夜、俊の持ってきたマーティンD-45の音は、かすかに聞こえてきていた。

 暁が今までに鳴らしていたような、激しいものではない。

 どこか弱弱しく、しかしその弱さには意味があると、思わせるような旋律であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る