第77話 声質の才能

 どんなバンドであっても、その顔となるのはボーカルである。

 なのにそのメインボーカルだけが顔を隠しているという、世にも珍しいバンドがノイズであったりするのだが。

 本日はボーカル二人のボイストレーニング、またその成長の方向性などを見てもらうため、高級住宅地のお宅を伺うことになっていた。

「松涛か。このあたり完全に高級住宅地なんだよな」

「俊さんの家も土地代高そうだったよね」

「それでもここらほどじゃないぞ」

 渋谷からすぐなのに、突然異空間に迷い込んだ気さえする。

「表札が二つあるから、ここかな?」

「どこに駐車すんの? なんか駐車禁止っぽいけど」

 そう思っていたところ、ガレージが開いていく。

 何台か車が停車しているが、スペースはしっかりとある。

「渡辺様ですか?」

 屋敷から出てきた女性が、運転席に近づいてきた。

「どうぞそのまま、ガレージの中へ」

 ちょっと見ると、BMWやベンツ、フェラーリまであった車庫である。


 松涛と言えばお金持ちの住む場所であり、日本では芦屋に次いで二番目とも言われていたりする。

 俊の場合はそこからやや遠く、田園調布のあたりである。

 思えば母と離婚後の父は、一度はこのあたりにも家を買ったはずである。

 借金でそれも差し押さえられたはずだが。

「すげー、外車ばっか」

「いや、俺が乗ってきたのもBMWなんだが?」

「あ、そうだっけ」

 最近はバンばかり運転している俊である。


 案内されてガレージからそのまま家に入っていくのだが、中はちゃんと土足禁止になっている。

 スリッパで歩き窓から外を見ると、広い庭にテニスコートがあったりする。 

 さすがにプールはなさそうである。

(う~ん、尋常じゃない金持ちだな)

 俊の家もそもそも金持ちではあるが、明らかに格が違う。

 おそらく大企業の創業家系や、財閥系。

 あるいは大地主であったのが、そのまま資産運用に成功しているのか。


 まだまだ遠い未来だとは思うが、俊があの家を相続するとしたら、相続税が莫大なものになる。

 楽器のコレクションを相当数売ったなら、なんとかなるとは思うのだが。

(レコーディング、また出来るようにしたいんだよな)

 そんなことを考えながら、まずは応接間のようなところに案内された。

 千歳はあわあわしているが、月子は意外と動じていない。

 ちなみに後から聞いたら、田舎の大邸宅には慣れている、ということであったらしい。


 基本的に洋風でまとめてあるのが、こちらの家である。

「奥様を呼んで参ります」

 そう言って女性は去って行ったが、あれは使用人であるのか。

 常駐でそんなものがいるなら、完全に俊の家より上である。

 ただこの世界、上を見たらキリがないというものだ。

 俊は次第に落ち着いてきていた。




 先ほどの使用人だかのお姉さんが、紅茶を持ってきてくれる。

「砂糖とミルクはご自由に。もう少しお待ちくださいませ」

 そうは言うが、暖めたカップに淹れた紅茶は、かなり上質のものであろう。

 少し香りを楽しんでから、俊は口に含む。

 苦味が美味しい。

「高いお茶だな」

 そう思うのだが、月子と千歳は遠慮なく砂糖とミルクを入れていた。


 家具などは明らかにお高い、そして古いものであると分かる。

 完全に洋風の内面である。

(クラシックの声楽の素養があるのか)

 大学の後輩で、ピアノ科だったとは聞いている。

 歌の伴奏を何度も頼んだ仲であったとか。

 配偶者と共にアメリカに行って、あちらでの指導経験もあるのだとか。

(経歴は聞いたけど、小学校の高学年から高校生までは、ぽっかりと穴があるんだよな)

 あの母が紹介するので、間違いはないと思う。


 やがて入ってきたのは、すらりと背の高い、髪の色が少し淡い美人。

 俊の母の後輩だというのだから、それでも40歳以上のはずだが、ちょっと20代ぐらいにしか見えない。

 ただ背の高い、大人っぽい年上の女性という、俊の苦手な要素が満載なのに、そうは感じない。

「貴方が俊君ね。薫さんとよく似てるわ」

 その声が穏やかで、警戒感をさらに消していく。

 お互いに自己紹介を終わったところで、改めて俊は説明を行った。


 月子の簡単な説明と、千歳の今後の練習について。

 実際に聞いてもらって、判断してもらうことになる。

「じゃあ音楽室に行きましょう。娘たちが使ってるのを、ちょっと片付けていたのよ」

 そう言われて、屋敷の通路を歩く。

 玄関口も広いのが見えたが、案内されたのは俊の家のリビングよりも広い。

 一部は鏡とバーがあって、バレエのレッスンが出来るようにもなっていた。

 巨大なグランドピアノが、そこには鎮座している。

 そして楽器が色々とあるのだが、ヴァイオリンの他にもチェロや各種サックスに、ギターもあった。

 ベースもエレキベースと、ジャズなどで使う大型のベースもある。


 本当に音楽の練習のためだな、と分かる。

「エレキギターまで演奏するんですか」

「それは娘たちのね。私はピアノとヴァイオリンが専門だから」

 しかし片隅にはドラムセットまである。

「娘さんたちはロックを?」

「あれはPOPSでしょうね。少なくともヘビメタとかパンクとか、私の苦手なジャンルじゃないけど」

「すると先生もロックなら聴くんですか?」

「ビートルズとQUEENは曲によってね。サイケのジャンルは苦手だけど。ジャズならマイルズとかコルトレーンとかを聴くのだけど」

 クラシックガチ勢と言うよりは、音楽ガチ勢と言うべきか。




 月子の読解障害を、彼女には説明してある。

 こういったことが分かっていないと、指導のしようがないからだ。

 そしてまずは、月子の方から歌ってもらう。

 先生の生ピアノは、俊の用意した楽譜を一度みただけであったが、簡単に暗譜していた。

(上手い!)

 大学にピアノ科の生徒もいるが、おそらくそれよりもよほど上手い。

 海外でまで仕事をするという人間は、こういうレベルであるのか。


 そして月子に対する指導は、それほど多くない。

「日本の民謡ベースなんでしょう? 変にクラシックの技術を教えるのもおかしいし、基礎的なところは問題ないと思うわ」

 ただ、あとは喉を酷使しないように、とは言われた。 

 喉はある程度鍛えなければいけないが、同時に消耗品でもあるのだ。

 それにしても、初めて会った人間のピアノ伴奏で、あれだけ歌ってしまうとは。

 ボーカルの声を引き出すのが上手すぎる。


 ジャンルは違うが、この人もプロの天才なのだな、とは思った。

「三味線は今日は持ってきてないのね」

「はい。クラシックが専門だと聞きましたので」

「私が聞きたかったのだけど」

 確かに月子は、相当に三味線は上手い。

 しかし民謡の方面までカバーしているというか、そもそものジャンルの垣根を感じていないのか。


 そして彼女は、楽譜の方にまで指摘してくる。

「ここはこう転調した方がいいと思うのだけど、何か意図があるの?」

「う……確かに。先生は作曲もするんですか?」

「アレンジまでかしら。私は一度、挫折した人間だから、出来ることと出来ないことがあるのよ」

 ちょっと不思議な言い方であったが、また音楽の世界に戻ってきている。

 つまり、そういうものなのだ、音楽とは。


 月子に対してはあまり、指導も矯正も必要がない。

 そもそもの根底にある技術体系が違うので、あとは共通する部分で注意するだけだ。

 歌を歌う人間にとっては、一番大事なのは喉を守ること。

「冬はもちろんだけど、乾燥している場所ではマスクを欠かさないこと」

 かなり基礎的なことであるし、これは俊もよく言っている。




 そして次は千歳の出番である。

 彼女の場合はリズムギターも弾くのだが、まずは歌だけである。

 それを見た先生の目は、これは教え甲斐があるな、と爛々と輝き始めた。

「全体的に筋肉がないのと、あとはバランスが悪いわね」

 姿勢から矯正していくが、それだとギターが弾けなくなる。

「声自体は本当に魅力的よ。それにとても器用。だけどもっと根幹のところを鍛えないと、せっかくの表現力がもったいないわね」

 その感想はまさに、俊の千歳に対するものと同じだ。


 月子は特に、今のままでいい。

 だが千歳は、基礎の部分をもっと鍛えるべきなのだ。

「声の持ってる表現力は、天性のものかもしれないわね。こう感情に訴えるように歌えるなら、海外でも通用するかも」

 歌や歌詞ではなく、声を聞かせる。

 要するにインストに声を付け足すようなものである。

「じゃあ今度は、ギターを弾きながら歌ってみて」

 人間のリソースを、歌とギターに分ける。

 普通ならこれは、力を分割することになってしまう。


 ただ千歳の場合は、ギターを持ちながら歌う方が上手く聞こえる。

 相変わらずギターの方は、まだまだ発展途上であるが。

「面白いわね」

 それが感想であるらしい。

「けれどギターかピックアップが合ってないんじゃない? これを使った方がいいと思うけど」

 そして差し出されたのは、テレキャスターであった。

 千歳のテレキャスタータイプではない、本物のテレキャスターだ。


 鳴らしてみれば確かに、こちらの音の方がギャリギャリと合っている。

 だがそこで視線を向けられても、費用の限界があるのだ。

「あれ、ヴィンテージのテレキャスですよね? いくらぐらいですか?」

「……高校生に買うのは難しいかしら」

 お嬢様育ちでも、どうにか理解してもらえたらしい。

「俊さん、これって買ったらいくらぐらいするのかな」

 キラキラした目で千歳は訊いてくるが、確認した俊としては非情に言うしかない。

「50万ぐらいかな」

「……買えない」

 いつかこういうのが、簡単に買えるようになればいいのだが。




 ともあれおおよそ、二人のことは理解してもらった。

 月子はともかく、千歳は充分に成長の余地がある。

 そもそもまだ、素人に毛が生えた程度。

 歌もギターもこれからなのだ。

「ギターは私もあまり弾かないから」

 そうは言う先生であるが、置いてあったアコースティックギターを爪弾けば、普通に歌い始める。


 ここでもボブ・ディランか。

 さすがは音楽界のノーベル文学賞第一号。

 ピアノとヴァイオリンが専門と言いながら、歌も上手い。

 ギターも少なくとも、今の千歳よりは上手かった。

「一応ギターは仲間内で、教えあうことが出来るんで」

「そう。じゃあ後は、俊君のピアノとヴァイオリンね」

 これはプレッシャーがかかる。


 ここのところ俊は、生ピアノでの演奏はあまりしていなかった。

 曲を作り演奏するための道具であり、単体で聞かせる練習などはしていなかったのだ。

 ヴァイオリンにしても、音のサンプルを取るための演奏だけ。

 ひどいものになってしまった。

「ピアノはともかく、ヴァイオリンはちょっと……」

 思わずそんなことを言わせてしまうほどに。


 ただ、これでしばらく千歳は、こちらに週に一度通うことになった。

 他にも生徒がいるので、あまり長くは教えられないが。

 月謝については叔母に相談し、なんならノイズの共同資金から出してもいい。

 とにかく、今は千歳のレベルアップがそのまま、ノイズのレベルアップにつながるのだから。




×××




「エミリー、お客さん、帰ったの?」

 直前まで見てあげていた弟子が、俊たちが去った後に顔を出してきた。

「そうね、また新しい生徒になるわ」

「女の子?」

「ええ、貴女の一つ上になるみたい」

「友達になれるかな」

「そうね……あの子なら、あるいは」

「ギターはともかく、歌は上手かった」

 ニアミスしていたことを、俊たちは知らなかった。

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