TOXIC
午前二時
黒と白
女性型の、真っ黒な天使と、真っ白な天使が同じ時期に生まれました。黒は黒曜の瞳を持っていたから黒曜と、白は真珠の瞳を持っていたから真珠と名付けられました。
黒曜は、よく他の天使たちからいじめられていました。けれども真珠だけは、黒曜に優しくしました。黒曜はいつも、長い前髪から覗く黒曜石を湿らせながら真珠を見上げていました。真珠は、ふたつの三つ編みを揺らしながら、黒曜を立ち上がらせるために手を伸ばしていました。
真珠の翼は立派でした。誰よりも大きく、美しい。黒曜の翼はいちばん小さくて見窄らしいものでした。角がないだけの悪魔だ、間違って天使になっちゃったんだ、と黒曜は自分のことをそう思っていました。それを叱るのも真珠でした。
「黒曜はちゃんと天使だよ。もっと自信持たないと、神様の役に立てないよ」
「そう言ったって真珠。ワタシの翼を見てよ。こんなに小さい翼を持つ天使なんていない。こんなに真っ黒な翼を持つ天使なんていないよ」
「いなくていいの。黒曜はひとりしかいないんだから」
そうしているうちに、黒曜にある変化が訪れました。真珠を見ると、どうしようもなく胸が締め付けられてしまうのです。黒曜はそのことを誰にも言えなくて、そして百年が過ぎました。
天使にとっての百年はあっという間です。幼体が成体になるくらいの時間で、黒曜と真珠も例に漏れず成長しました。いつの間にか黒曜は真珠の背を抜かしており、すらりとした美しい身体を手に入れていました。といっても、翼はその姿に不釣り合いなほど小さいものでしたが。
一方真珠は、黒曜ほど背は高くないにしろ、これまた美しい身体を手に入れており、おまけに翼もその身体に見合った立派なものを持っていました。
成体になったふたりには、神様から天使の証の輪が与えられました。それは彼女たちの頭上で淡く光りながら浮かんでいます。
「これからお前たちには、仕事をしてもらうことになる」
と神様は言いました。天使の仕事は至って簡単、人間たちを、悪魔から守ることです。
「「はい、神様」」
ふたりはお行儀よく返事をしました。やる気は十分でした。ふたりは早速、先輩天使に連れられて初めての仕事に就きました。
初めて見る人間は、翼がないだけで自分たちにそっくりだと思いました。先輩天使にその事を言うと、先輩天使は笑って、
「ああ、それはね、人間が天使に似ているんじゃなく、天使が人間に似ているんだよ。神様は、ヒトを作りたくて、その過程で私たち天使が生まれたの」
と答えてくれました。
「じゃあ悪魔は、どうして生まれたんだろう?」
と黒曜が不意にそう訊ねました。訊こうとしたのではなく、思ったことがぽろりと口から出てしまったようでした。
「悪魔はね、神様が天使を造ったときのエネルギーの余りが世界とぶつかったときに生まれたんだ。つまり、きょうだいのようなものなんだよね」
「きょうだい……」
「だから天使は、切っ掛けさえあれば簡単に堕天する。悪魔
「わかりました」
そのあとはしばらくさんにんとも無言で、人間の様子を観察していました。なんでもこの人間は、最近心が悪い方向に行きがちで、悪魔に目をつけられやすい状態にあるのだそうです。もしも悪魔が来たら追い払うのがさんにんの仕事でした。
「あ、悪魔だ」
不意に、先輩天使が指さした先を見ると、本当だ、確かに真っ黒な、蝙蝠みたいな翼と立派な角を持つ、自分たちと同じような姿の悪魔がいました。
「さあ、追い払うよ」
「どうやってですか?」
「こうやって、よ」
そう言うなり、先輩天使は頭上の輪に触れました。すると、輪は一段と光り輝いたかと思えば、次の瞬間、先輩天使の手には長い槍が握られていました。
「この輪は、神様が私たちに与えてくれた武器なんだよ。欲しい武器を思い浮かべて触れるだけでいいんだ」
そう教えてもらい、ふたりも見様見真似で自分の輪に触れました。すると、黒曜の手には弓矢が、真珠の手には剣が、それぞれ現れました。
「上手くいったね」
先輩天使に褒めてもらい、ふたりは少し頬を紅くして喜びました。しかし、そんな事をしている場合ではありません。先輩天使は、一瞬の間に悪魔との距離を縮め、槍で追い払おうとしています。
「わたしたちも行こう」
「う、うん」
真珠に背中を押され、黒曜も弓を握り直して先輩天使の近くに飛んでいきました。
「えー、今日はさんにん? ズルじゃない?」
「そう言わないで、悪魔さん。見習いさんたちなの」
「見習い、ねえ。マ、ご苦労なこった……ん? そこの黒いの、あんた……大変そうだな。そんな姿で」
「え」
さんにんに囲まれて面倒くさそうな悪魔は、黒曜を見て、さぞ同情したとでもいうような声色で、そんな事を言いました。
「天使どもはどうにも無邪気すぎる。あんたみたいな姿じゃ、無邪気に羽根でも毟られたんじゃないか?」
「む、毟られたことは、ないですけど……」
「なくても仲間外れくらいはありそうだな、その様子じゃ。いっそ堕天したほうがラクなんじゃないのか?」
「ちょっと。悪魔さん。黒曜にそんなこと言わないでくれますか。黒曜は立派な天使なんです」
「あはは、これは悪かった。悪魔はこれが仕事だからね。でも今回は退散するとしようか」
そう言うと、悪魔は大きな翼を広げると、遠くの方へ飛び去ってしまいました。
「黒曜、大丈夫?」
「うん……」
真珠が黒曜を気遣うように振り返ると、黒曜は顔色を真っ青にして、へらりと笑ってみせました。
それから三十年ほど、黒曜と真珠はふたりペアになって悪魔を追い払う仕事をしました。一緒に行動するうちに、ふたりの間には更に強い絆、それ以上のものが生まれていました。何も言わずとも思うことは伝わり、息はぴったりに仕事を遂行します。
けれども、黒曜の胸にはずっと、あの悪魔の言葉が刺さっていました。堕天しなかったのは、ひとえに真珠の存在がありました。堕天してしまえば、真珠と一緒にいられなくなります。真珠に触れられないなんて、そんなこときっと毒よりも耐えられないでしょう。
──でも、真珠はワタシのことをどう思っているのだろう。ふと、そんな事を、黒曜は思いました。黒曜は真珠が好きです、大好きです、愛してします。けれども、真珠にとっての黒曜は一体何なのか、黒曜はちっとも知りませんでした。
なんとも思われていなかったらどうしよう、と黒曜は不安になりました。思い返せば、黒曜は真珠に守られてばかりで、何ひとつ彼女に返せていません。それどころか、黒曜といるだけで、真珠は他の天使たちから遠巻きにされてしまっています。
しかし、黒曜には。真珠に面と向かって
「ワタシひとりでできるかな」
「黒曜ならできるよ。大丈夫」
黒曜は真珠から離れたくありません。真珠はどうなのでしょうか。
「ねえ真珠」
「なに?」
遠く西のほうへ飛び去ろうとしていた真珠を呼び止めた黒曜は、けれどもその後の言葉が言えずじまいで、真珠は不思議そうに首を傾げてから、今度こそ大きく翼を広げて飛んでいってしまいました。
あとにぽつんと残された黒曜は、大きく溜息を吐いて、両手で顔を覆って、それから諦めたようにもう一度溜息を吐くと、東の方角へ向かいました。
生まれてはじめての真珠のいない世界です。黒曜は、胸にぽっかり穴が開いたみたいな喪失感を得ました。それから、
天使にあるまじきことです。
──やっぱりワタシは悪魔なんじゃないか。
そうやって、思考はぐるぐると廻ります。厭なことばかり考えてしまって、気持ちは地上を突き抜けてしまうほど落ち込みました。
それでも仕事はしなければなりません。黒曜は、もうすぐ臨月の妊婦さんを惑わそうとしていた、三つ眼の悪魔と対峙しました。三つ眼の悪魔は、黒曜を見て首を傾げました。
「君、どうして
「そっち?」
「君、どう見ても悪魔の素質、あるよ」
その言葉は、黒曜にとってとても言われたくなかった言葉でした。自分は天使に向いていない、どころか
「堕天してしまえば楽になるのに、どうしてしないの?」
「……」
「大切な相手でもいるのかな?」
ぴく、と黒曜の肩が動きました。真珠の顔が脳裡を過ったからです。
「図星かあ」
かああ、と黒曜の顔が朱くなります。
「そういうさあ、欲望に忠実なところとか、悪魔じゃない? 天使って、そもそもそういう欲、あるの?」
それは黒曜も知りたいところでした。真珠には、自分と同じような感情は有るのでしょうか。真珠はいつだって、清廉で、誰にでも平等で、黒曜のような外れ者にも優しいです。けれども黒曜は、一度だって、真珠が「欲」を出すところを見たことがありませんでした。他の天使たちも同様です。恋心、なんて欲を抱いているのは、黒曜ひとりなのかもしれません。
黒曜は、心に現れた真っ黒な不安を掻き消すように、三つ眼の悪魔に向かって弓を射ました。三つ眼の悪魔は、やれやれ、といった表情で黒曜を見て、それから黙って消えました。しかし黒曜の中に生まれた靄は、どうしたって消えることはありませんでした。
「つらいなあ」
黒曜はそう言って涙を流しました。天使の涙は宝石になります。大粒の黒曜石が、ぽろぽろと道端に転がりました。妊婦さんがそれに気付いて、
「あら、きれいな石」
と言いました。真っ黒な感情からできた宝石でも、この妊婦さんにとっては
黒曜はそこから飛び立ちました。飛びながらまた泣いたので、地上には黒曜石の雨が降りました。
「あいたっ」
誰かの頭に当たりました。けれども黒曜は気が付きません。空から黒曜石が降ってきた事件は、人間の書く新聞の、三枚目の半分に乗りました。
「天使の涙だ」
と誰かが言いました。神話の二章目に、天使の涙は宝石になると書いてあったからです。その街は、やがて“天使が泣いた街”として繁栄しました。そんなこと黒曜の知ったことではありませんでしたが。
黒曜は、出会う悪魔、悪魔に「堕天すればいいのに」「あなたの居場所は
悪魔は欲望を見抜きます。黒曜の苦しみは欲望から来ていたので、悪魔にはすぐにわかったのでした。
しかし黒曜は、真珠と離れたくないがために堕天を拒みました。悪魔になった黒曜を、真珠が受け入れてくれるとは思えなかったし、清らかな真珠が一緒に堕天してくれるとも思えませんでしたから。
そんなあるとき、黒曜のもとに、かつて黒曜をいじめていた天使がひとり、やってきました。彼女はこう、黒曜に言いました。
「あなたの大好きな真珠、人間にコクハクされたんだって。天使が視える人間が、真珠を愛してるって伝えたんだって。真珠はそれを断らなかったの」
それを聞いて、黒曜の眼の前は真っ暗になりました。どうして? ワタシのほうが先に愛していたのに。黒曜が呆然としている間に、その天使は笑いながら飛び去っていってしまいました。善意ではありませんが、悪意もありません。ただ、面白いからやっただけです。けれども、黒曜にとってそれは、途轍もなく重たいものでした。
──ああ、ワタシはずっと、ずっと頑張ってきたけど、無駄だったのか。全部、全部、もう、どうでもいいや。
黒曜がそう思った瞬間、彼女の身体に変化が起きました。見窄らしかった、鴉の羽に似た黒い翼は、大きく、固く革張って鋭くなり、蝙蝠のそれのようになりました。頭上の輪はどろどろと黒く溶け落ち、頭には一対、羊のような角が生えてきました。口の中にもなんだか違和感があって、牙が生えてきたんだ、とわかります。
堕天でした。ずっと我慢していた黒曜の心が解き放たれたことで、彼女は堕ちたのです。深い深い、闇の底に。
「あは、は、ははは」
なんだか身体が軽くて、楽しくて、とても良い気持ちでした。これが本当の自分なのだと直感しました。二度と真珠に触れることは叶いませんが、もういいのです。真珠ははじめから、黒曜のものではなかったのですから。
黒曜は泣きながら笑って飛び回りました。涙はジュッと音を立てて蒸発しました。もう宝石にはなりません。新しい悪魔の誕生を祝うように、遠くで雷鳴が響きました。
さようなら、真珠。さようなら、天使の黒曜。さようなら、神様。さようなら、恋心。
黒曜が堕天したことは、すぐに天界じゅうに知れ渡りました。神様は大きく息を吐いて、「残念だ」と言いました。
もちろん真珠もそのことを知りました。「どうして」と狼狽の色が顔全体に広がって、それから「黒曜……」と身体を丸めて呻きました。
ぽろ、と真珠がひとつぶ、彼女の顔を覆った手のひらから零れました。
黒曜は、人間を惑わすようなことはせず、ただ怠惰に、ぷかぷか浮いていました。元天使として、まだ躊躇いがあったからです。
でも、いずれはそんなことも思わなくなんだろうな、と黒曜は考えました。そうなった黒曜は果たして黒曜なのでしょうか。少なくとも、
黒曜は、真珠の立派な翼を触るのが好きでした。ふわふわして、とても良い匂いがしていたからです。あれはもう二度と手に入らないのだと思うと、少しだけ残念でした。
「黒曜!」
そんな取り留めのない思い出の中に黒曜が揺蕩っていると、不意に懐かしい声が聴こえました。ずっと焦がれていた声でした。
「──真珠」
真珠がいました。珍しく瞳孔が開いています。翼をぶわっと広げて、真珠は黒曜の正面に浮きました。
「そんな姿になって……!」
一気に距離を詰めようとする真珠を、黒曜は慌てて制しました。触れてしまえば毒、です。聡明な真珠が忘れているはずもありません、そのはずですが、真珠はそんなこと構わないとでも言うように黒曜の近くに行こうとします。
「真珠、危ないから離れて」
「厭」
「どうして?」
「うまく説明はできないけど、黒曜。わたしにはあなたが必要なの」
「でもワタシは堕天してしまった。もう触れ合えない。真珠は天使で、ワタシは悪魔だ」
「構わない」
真珠は黒曜に向けて手を伸ばしました。それは、黒曜が手を伸ばせば触れられる距離にあります。黒曜は激しく動揺して、その差し出された手を見ました。絹のような手です。ずっと触れたいと思っていたものです。
「……真珠、この意味はわかってるの」
「わたしはね、黒曜」
真珠は黒曜の問いには答えず、話し始めました。
「堕天することはできない、でも、あなたと敵対するのも、会えなくなるのも厭。だから、
黒曜の手が、そろりそろりと真珠のそれに近付いていきます。ついに、指先が触れました。その途端、何か、光なのか闇なのか、液体なのかそもそも実体がないのかすらわからない真黒いものが黒曜と真珠の触れ合った皮膚の隙間から漏れ出しました。それは皮膚を焼き、爛れさせ、体内へと侵食していきました。
天使と悪魔が触れ合うと、毒が生み出されます。それに汚染されたら、天使も悪魔も助かりません。
「いいの? 真珠」
「いいの、黒曜。あなたとなら」
しっかりとふたりは毒にまみれて堕ちていきました。互いを翼で覆うようにして、深い闇の底へ。
TOXIC 午前二時 @ushi_mitsu
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