背徳を浴びる鳥のうた

錦魚葉椿

第1話

 風が戸板を激しく叩きつけていたので、扉を叩く人に彼女は気がつかなかった。

 貧しいその家の気持ちばかりの錠が壊れて、人がどうと倒れ込んでくるまでは。

 男はやせ細っている上、泥酔していて、彼女の部屋の古い寝台に先にもぐりこまれてしまったら、非力なアンでは追い出すことができなかった。


 アンは自分のための食料を男に分け与え、彼が食事を取り始めたのを見届けると、木の台に布を広げて縫い物を始める。

 女の黒髪はまるで火事に焼け出されたかのようにちりちりに醜く縮れ、ぼわっと広がって彼女の頭を信じられないほど大きい物のように思わせている。女はその髪を無神経により合わせ、みっともない赤い柄の端切れでくくっていた。

 着古され、繰り返し洗われたらしい衣はすっかり薄くなり、女の痩せた骨格を直にみるのと変わらない。女は痩せた背中を丸く屈め、眉を顰めて忙しく針を動かしていた。

 何という不細工な造作だろうと目の端で眺める。

 彼女は明らかに努力不足であったが、本当は不細工と言うほどではなかった。大体、貧しさ窮まった生活をしている彼女に着飾るための物資的余裕がない。男の評価は不当なものであろう。

 小さな頃に親と死に別れ、都会に移り住んだ裁縫女は無駄口を叩く習慣がなく、それ以上口をきくことはなかった。


 男はスープを底まですすり終わっても部屋を出て行かなかった。

 もし、彼に立ち上がれる体力が残っていたなら、再び酒場に舞い戻り、今度こそ望み通り命を落とせていたはずだが、動き回る体力をも失った男は、アンのあばら家で寝たきりの生活を余儀なくされていた。

 次の日も次の日も彼女に三度の食事を要求する。

 彼女を目標に投げつけられた木の椀は推進力が重力に打ち勝てず、ベッドから二三歩も離れない位置に落下した。

 床にぶちまけられた貴重な食料と気難しい病人を交互に見ながら、出て行ってくれないのかなぁという迷惑そうな視線を投げたが、無口な彼女は作業用の机をベッドと対角線の位置に移動させて、黙々と作業を続ける。

 男は嗚咽をもらしてしくしく泣き始める。

 思わず目を閉じてため息が出た。

 蓑虫のように掛け布を体に巻き付けて、体を震わせて唸り声で泣く大の男を彼女はどうしていいのかわからない。


 抱きしめてやれば泣きやむ日もあったが、近づいた彼女を激しく振り払い暴れるばかりの日や、罵り雑言で彼女に嘆息をつかせることも少なくなかった。居座ってしまった男に彼女もほとほと困り果て、悩んでいたが、力ずくで男を叩き出す腕力もなければ、相談できるような隣人も居なかった。



 規則的な生活と日に二度の質素な食事は彼の体力より精神の修復に役だったようだ。

 ある日、男は消え残った木炭を持って、小さな端切れに鼠の絵を書いた。

 行き倒れるように地べたに眠った夜、顔を走って行った鼠を。

 輪郭だけ描かれたそれはまるで子供の落書きのようで、彼から見ても、余りに精彩を欠いている。彼はそれに毛を足してみた。陰影をつけて、髭と尻尾をきれいに描き直してみた。

 ───── 違うな。

 鼻をつくどぶの臭い。僅かに混じる夕食の匂い。飢餓感。

 じっとり湿った地面から頬に伝わる人の行き交い。襟から服の間に迷い込み、生ゴミをかじるついでに服や体もかじられた。怖さ、痛さ、寒さ、寂しさ。

 端切れを裏返して描いた次の絵もちっとも満足いかない。

 男はいつもアンが裁縫に使っている椅子を引いて腰を落ちつけ、次の端切れを手繰り寄せる。次も、その次の絵も何かが足らなかった。

 端切れを貯めていた箱をひっくり返し、次々と鼠を描き続けた。


「灯が‥‥」

 思わず呟いた自分を呪って、彼女はそこまでで無理に口を噤んだ。

 灯が点っていない。

 男は眠っているのかも知れないし、まだ今日は明るいから火を灯していないのかも知れない。第一、彼が突然姿を消しても別におかしいことではないじゃないか。

 アンは歯を食いしばって、自分の部屋の前まで進んだ。

 扉を開くと鼠がくっとこちらを振り向いて、目があった。

 鼠はアンに驚いたらしく、強ばってしまって逃げ出さない。

 刹那、家々の屋根の狭間から夕日の最後の光が、部屋に赤く差し込んだ。瞬間、何百匹ともわからない床を埋め尽す、白鼠の大群が赤く視界一杯に広がった。アンは扉の端を掴んだまま、後ろに卒倒する。ようやく起きあがって、部屋を覗き直すと男は鼠にまみれて、うつ伏せに倒れていた。

 不意に、彼の顔が上がった。

「‥‥なにやってるの」

「この鼠、良く描けた。」

 部屋一面に広げられた布の上に描かれた小さな一匹を指して、彼はまるで子供のように無邪気な微笑みを浮かべた。


 アンは雇い主から預かっていた白い裏地一束を弁償させられる羽目になったが、それ以来男の精神は元々の性質を取り戻してきた。

 彼はグスタフと名乗り、しばし躊躇った後、画家だといった。

 狂気染みた行動が天才風であったので、噂は街中に広まって、家具の装飾の図案を描く仕事を紹介された。可憐な花々を繊細に図案化する彼の絵は、彫り職人には面倒くさいと不評だったが、買い手には好評だった。

「もう少しなら、ここにいてもいいよ」

 その言葉が愛からではなく、寂しさと人恋しさからくるものだとわかっていてグスタフはその家に居座った。 

 アンは殆ど喋らない。語彙に乏しいと言うより感情が乏しい。彼女に感情を求める人間が居なかったので言葉を紡ぐ必要も相手もなく、心の動きも緩慢になっていた。

 呆然と佇んで、一言やっと絞り出す。

 後ろから抱きしめると片腕でも抱ききれるほど小さい。

「仕事がこの街で見つかったから、もう少しここに置いてくれるかな」




 しばらくすると、グスタフに絵の仕事の注文が入った。

 図案より絵を描きたかったグスタフは天にも昇る気持ちだった。

 注文主の名はイサクというらしかった。

 店の看板にそう書いてあったし、グスタフがそう呼んだときにも否定しなかった。

 彼の店の品揃えは家具屋或いは雑貨屋に近く、家の内装改修もやっていて絵画は取扱商品の一つだった。胡散臭い小成金の家をそれっぽく見せるために適当に小綺麗にする請負をしているようでもあった。

 イサクは彼が一週間で仕上げた十五枚の絵を買い取った。宣言通りの低価格だったが、掌の硬貨を眺めながら不覚にも涙がこぼれた。

「来週までに描けるだけ描いて来いよ。工夫のないどこにでもある絵を。キャンバス代と同じ値段で売る気があるなら買ってやるよ。絵の価値なんてわからない成金にふっかけてもうけるための絵なんだ。色彩をけばけばしく、儲かりそうな景気のいい絵にしてくれよ」

 背面を不透明な青緑色で分厚く分厚く塗りつぶした。下品なビロードのスカートの色を思い浮かべなから。この色のドレスが似合う女のいる部屋に掛かる絵なのだ。

 全く不似合いな極彩色の尾羽を取り付けた真っ白い孔雀を思い切りよくど真ん中をねらって塗り込める。孔雀の足下には金貨とオールドローズをちりばめる。

 仕事から帰ってきたアンは絶句した。

「いつもの絵と違うのね。・・・私はいつもの方があなたらしくて好きだけど」

 ついこぼれた感想に付け加えた。その配慮があからさまで男には鬱陶しい。

 母親を思い出す。

 画家になるためだと自分に言い聞かせて、塩味しかしないスープをのどに押し込み、その夜は久しぶりに彼女を抱いて寝た。



 グスタフの描いた極彩色の孔雀をしげしげとそして満足げに観察すると、イサクは先週よりもたくさんの硬貨を置いて帰った。

「来週は二十五枚持ってこい。丁寧に描け。だが工夫はいらん」

 必要な画材を買い込むと手元にはわずかばかりしか残らなかった。残っただけましといえるかもしれなかった。満足しない程度の額、イサクはそれを計算して渡したのであろうとも思った。

 かなりへとへとになりながら次の週も画家の端くれとしての意地にすがって二十五枚仕上げ、イサクの店に向かう。それが毎週になる。

 彼は確かに「画家」になった。

「工夫するなと言っただろう。俺の売る絵は日なたに掛ける絵だ。壁紙と一緒。カーテンと一緒程度でいいんだ。自分を殺せ。工夫するなら部屋に似合う絵を描く工夫をしろ」

 握らされた硬貨はアンの稼ぎよりはるかに少なくて、彼はその日も酒瓶を買ってアンの家に戻った。


 イサクの店の店員たちが、グスタフの持ち込んだ絵を分類する。

 どこかで見たことのあるような、あらゆる種類の絵を上手に注文通りに描く。

「彼も器用な男ですね。もう少し出してやればいかがですか」

「これ以上、高く買う方が奴には失礼ってもんだ。この絵は本当に奴が描きたい絵じゃないからな。描きたくない絵を描いているから不遇なんだと思いたいだろう」

 買い付けに来た家具屋はなるほど、といってそれ以外の商品と一緒に数枚の絵を持ち帰っていった。彼にとっては安く上がるならその方がいいのだ。



「うん。良い仕事だ。アン、お前腕を上げたね」

 仕立て屋の女主人は、襟ぐりの辺りを念入りにみて、安売りしないほめ言葉を口にした。

 アンは嬉しげにはにかんで微笑んだ。

 相変わらず内気で、口数は多くはなかったが厭世的な表情をしなくなった。無邪気に微笑んだり、軽口を叩いたり、同時に周りを思いやり、今まで気がつかなかった事にも気が回るようになった。

 ある人はアンが大人びたといい、他の人は子供っぽくなったと言った。

 髪の体積をさっ引くと、頭の大きさは寧ろ小さい方らしい。目鼻はそれぞれが華奢ながらそれなりに整った形をしている。噛みしめられた小さな唇は彼女の内気な優しさを思わせた。

 櫛で懸命に引き延ばし、油をつけて丁寧に編み込んで結い上げると、彼女の頭は以前の二分の一ほどの大きさになった。緑灰色の衣の腰を帯で細く縛って、華奢な体をいっそう細く見せている。陽に当たらない仕事のせいで、白い肌は透けるようだ。

「アンを醜いだなんて考えている人、誰もいないわ」

「今は多少の人はそう思ってくれるかも知れないけど、それはグスタフのおかげよ。彼のおかげで私は自信を持つことができたの」

「それが曲者よね」

 お針子の仲間達は口を尖らせて話に入ってきた。

「その男、“君の心の美しさを愛している”という言葉でさりげなく、アンに劣等感を植え付けているわ。その男が一番、アンの美しさを認めていない。アンに恋している男は昔から結構いたし、今もたくさんいるのよ。目を覚ましなさい。私はあんなつまんない男にあなたが骨の随までしゃぶりつかれるのを見ていられないのよ」

 時々アンがあざを作っているのを周りの者たちは気が付いている。



 拳ほど開いた窓から隣の建物との狭間を眺める。

 真っ白い壁が脳を押しつぶすような息の詰まる風景だ。以前なら真っ白い壁をキャンバスにして無限の絵を眼差しの中に描くことが出来たのに、今は何も浮かんでこない。

 少年の日、狂気をあるべきものとして飼い慣らしていた。乱暴に生きてなお濁流のようにあふれてくる感情はつきることがなかった。

 何かを描きたい。

 世間に似合うものとなるために感情を抑え、感覚を鈍らせて、正気のバランスを覚えた。そして自分の中の強大な創造のエネルギーを否定した。

 生きていくために生きることを捨てた。

 では何のために生きていくのか。

 堰き止められた河が流れる先を失い、よどむ。何もかもが喪失していく。

 何もかもが枯渇していく。

 自分の中にえぐられた埋めがたい空白。水を失った湖のように命のないその場所にたたずんで初めて切望する。

 描きたいものを描きたい。

 生きていくために死んでしまった。死そのものの生の中に何を望む?



 イサクは古いビオラを好んで弾いた。

 女の声に似ているからだと言った。

 細身の身体を弓のように反らせ、爪が弦の上を舞い踊るように行き来する。

 余興のように思いつくままかき鳴らす。聴いている内に次々と違う曲に移り、聴衆は落ち着いて聴いていられない。彼は自分が聴くために自分で弾くのだ。

 彼の音を聞くと不思議と生まれた街を想い出す。

 画家を目指して生家を飛び出し、才能がないと言われ、金が尽き、あきらめて職を得て、その職も失って。今は愛してもいない女の稼ぎで糊口をしのぎ、描きたくもない絵を描いている。


 躯の真ん中を冷たい風が吹き抜ける。

 背中から胸を空っぽにする。

 冷気は次第に心臓の向こう側に集中し、何かの気配をそこに感じる。手の先が冷えてくる。かじかむのと同時に感覚がとぎすまされる。

 気配はぴったりと背中によりそっているので少し身体が重くなる。そして次第に内側に入り込んでくる。心臓を圧迫されるようなそんな感覚がくると深く呼吸をしなければ苦しくなる。深い呼吸は精神を細く鋭い一本に削りあげる。

 まっしろい布の向こうに何かがいるのが感じ取れるようになる。

 絵筆の先でその在処をたどる。

 絵筆をとる前は目を閉じてその感覚を呼んだ。



 背丈ほどある大きなキャンバスは上半分、濁った湖畔のような暗く白濁した濃い青緑で塗り込められている。群青より暗く、漆黒より濁った闇に閉ざされている。

 描かれたイサクの横顔はその息苦しい空間の重みに耐えるように陰気にうつむいていた。

 背を丸め、暗い無表情で腕を軽く組み、手のひらで支える冊子に視線を落としている。本など読んでいない、そうやってポーズを取りながらも。

 男は絵の中で息を殺している。静かに自分と世界に軽く失望している。

 身体にまとわりついた地位と財産に手足をからめ取られ、見栄と自負で苔むし、彫像のように動かずにいる。安定をなげうつほど世界は楽しくもない。見える範囲の世界で楽しんでいるふりを覚え、痛みを伴う感情はすべて鈍らせてしまった。

 弧淵。

 緑の光を受けた姿がぼんやりとした輪郭に囲まれて浮かび上がる。死霊のように不気味な絵に思わず顔をしかめた。

「―――――この絵をどうしろと」

 イサクは注文したものではない自らの姿絵をちらっと眺めて冷ややかに問うた。

「値をつけてほしい」

「お前の描きたいものには値はつかないよ」

イサクは金を渡さず、納期は守れよとだけ吐き捨てて、白いキャンバスだけ渡してよこした。



 ときどき街に出かけるようになったアンの肌は少し焼け、真珠のように僅かに桃色を含んでいる。

「お前、もう寝た方がいいぞ」

「あなたが起きているうちは寝る気になれないわ。どっちにしても火を灯しておくのなら私も使った方がいいでしょう」

「寝ろと言っている」

 髪を強く引っ張られ、すごまれて、アンは驚き、男の方を顧みた。男の苛立った表情が一瞬で逃げだし、代わりに怯えたように俯いたのを見て、アンは黙って仕立て物を片づける。

「おやすみなさい。がんばってね」

 グスタフは納期を守るために商品を必死に制作していた。

 不愉快だ。この女は感覚を踏みにじる。

 そして、自分の全くわからないところで傷ついた顔をする。

 不毛に傷つけあっている。

 彼女の感性はひどく遠く、男にとって全く必要のないところに張り巡らされている。まさに抱き合った二人の恋人同士が互いの肩越しの風景しか見えないように。女の表情さえ見えているわけではない。

 毎日毎日彼女に感性を踏みにじられるたび、激しい憤りの裏側で安堵する。

 敗北感と挫折感にまみれた今の惨めな気持ちに気づいていないことを確認できるから。引きむしられて片方に傾いてしまった結い髪を彼女がほどく間、グスタフは俯いていた。いつもはすぐに崩れた髪を何事もなかったように編み直して、見上げ微笑んでくれるアンがほどいた髪を編み直そうとしなかった。

 縮れた髪が青ざめた顔をぼんやりと霞ませる。

「グスタフ」

 吐息のような声で男を呼んだ。

 枯れ葉色の瞳を微かに潤ませた感情は、怒りでも悲しさでも嫉妬でもない。

 寂しい優しさ。


 彼が仕事を終えて寝室に戻る頃には、アンは穏やかな寝息を立てて眠っていた。

 ―――――愛情が足らない。

 男は不満を抱いたまま、視線を投げおろしていた。


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背徳を浴びる鳥のうた 錦魚葉椿 @BEL13542

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