これは『コイ』です。

赤目

彼を私は愛してる。

 深夜2時、仕事が終わりクタクタで帰ってきた彼は私の膝の上で寝ている。もう新婚とは言えないほどの長い付き合いの私たち。子供もいない、物音もしない静かな部屋で私は初めて彼を見た時のことを思い出す。


△▼△▼


 私––––天野あまの 舞香まいかが彼を個人として認識したのは社会にもまれ、社会に順応し始めた頃だった。


 いつものように満員電車とまではいかずとも座席には座れず、時折り隣の人と肩がぶつかるぐらいの密度の電車に揺られ、会社に向かっていた。


 窓から見える山脈は確か日本アルプスの一つで、秋色に染まり始めている。毎日少しずつ黄金色を濃くする山並みを見ては、山のお着替えのようだと思っていた。


 そんな何の異色いしょくも無い出勤中に、幸か不幸か濃い色が私のパレットにぶちまけられた。


キイィィィィ–––


 けたたましいブレーキ音にスマホから目を離す。慣性に引っ張られ、私の体はいとも容易く床にへばりつく。


「いったぁ……」


 私は周りの人に軽く会釈をして服の埃を祓う。急停止したその電車は横倒れ寸前と言った様子で斜めに傾いていた。


「この電車はトラブルにより、非常停止しましたー。乗客は安全のため、しばらくお待ちくださいー」


 電車内にそんなアナウンスが流れた後、近くからは「これ停止って言わないから」とか「会社遅れるってー。電話使っていいのかな?」とか言う声が聞こえてきた。他にも英語で案内をしていたが聞き取れない。


 私はメールで会社に遅れることを報告したあと、スマホでどうなっているかを調べていた。すると、二度目のアナウンスが流れて来た。


「当電車は転倒の恐れがあるため、乗客の皆様は7車両から下車して下さい」


 もう2回ほど同じようなことが繰り返されていたが私の車両では、周りの人にパニックが伝染し、ほとんどの人が我先にと7車両目を目指していた。


 完全に流れに乗り遅れた私は座席の上に座り、人が減るのを待つしかなかった。ある程度人が7車両目に集まったのか人が減り始め、私も出口に向かった。1人ずつ降りていくため、6社両目にも人がパンパンになってつまっていた。


 結局私は5車両にも入ることが出来ず、焦りと苛立ちを抱えて遅延情報を漁っていた。すると後ろから同い年ぐらいの男性とお婆さんが3人ほどやって来た。


 男性は私に「この人たち、お願いしても良いですか? 私はまだ残っている人を探しに行くので」と言って私の返事を聞かず小走りで行ってしまった。


 駅員が出口を誘導し始めてからはスムーズに列が進み、着々と私の番が近づいていた。その間も彼は何度かお爺さんやお婆さん。時には親とはぐれた子供を連れて来て、私になすりつけると、また奥の方へと人助けをしに行った。


「おかあさーん。ううっ、どこぉ……」


「ねぇ、僕、大丈夫だよ。お姉さんがいるからね」


「うん……」


 泣きじゃくる男の子を慰めていると彼は1人で戻って来た。多分もう奥に人はいないのだろう。出口はもうすぐそこだった。


ガシャン!


 突然電車がグラリと揺れる。杖をついているお爺ちゃんはフラフラしながら手すりに捕まっていた。私はお婆さんの後を男の子と手を繋いで進んでいく。


 彼は残った人の中で1番に電車を降りるとお爺さんやお婆さんに手を差し伸べていた。汗で額に張り付いた前髪を拭い、何度も人を助けていた。その姿に見惚れてしまったのか心臓の音が少しうるさくなる。


 私が最後に電車を降りた。電車はいつ倒れてもおかしくないくらいに傾いていて、重力に抗っているのが不思議なぐらい。


 他の乗客はもうほとんど残っておらず、彼に助けられた乗客も何度かお礼を言って立ち去って行った。


「お姉ちゃん! ありがとう!」


「本当にありがとうございます」


 迷子の男の子は親と無事会えたらしく私に笑顔で大きく手を振って次の駅に歩いて行った。


「すいません。お手伝いしていただきありがとうございました」


 表現するなら青色のような澄んだ声色で彼は私に話しかけてきた。


「いえいえ、私は何も」


 私は高鳴る鼓動を落ち着かせようとゆっくり息を吐く。


「あの、名前聞いても良いですかね?」


 目を細めて笑った彼はいくつか幼く見えた。


「天野 舞香って言います」


「そうなんですね! 私も天野って言うんですよ」


 彼は少し嬉しそうにして、名乗ってくれた。


「また何かあれば」


 そう言って彼は後ろを向いた。その背中は思ったよりも小さくて、これで終わりかと思うと名残惜しかった。その名残惜しさなのか、ハプニングで気が動転していたのか、私は彼を呼び止める。


「あのっ! 良かったら……連絡先とか、聞いても良いですか?」


「はい、大丈夫ですよ。私も聞こうか迷ったんですが、意気地無しなもんで」


 また彼はおどけたように笑う。その笑顔を見ていると、私の口も緩んでしまう。


 彼のメールは[冬矢とうや]というアカウントでアイコンが綺麗な腕時計の写真だった。私は無意識に彼の腕に目がいく。そこにはアイコンのものとは違う、落ち着いた雰囲気のデジタル腕時計がされてあった。


 その日の夜。仕事の疲れでお風呂に入るとすぐベットに寝転んだ。いつものように猫の動画を見ようとスマホを見るとメールが一件来ていた。それは彼からのものでドキリとする。


『天野 冬矢です。よろしくお願いします』


 私は高揚がバレないように何度も読み返して返信した。


『夜遅くにすいません。こちらこそ。よろしくお願いします』


 紙飛行機マークを押すと長い息をついた。するとすぐに可愛らしい白いクマが親指を立てているスタンプが送られて来た。『おやすみなさい』と送ろうとしたが、これで終わるのも悲しくて、気になるアイコンの腕時計についての質問をしてみることにした。


『アイコンの時計って、冬矢さんのものですか?』


『はい、腕時計集めるのが趣味なんです。まだ大学卒業して3年なんでそれほど高いのは買えないんですけどね(笑)』


『腕時計って高いですよね。私の方が年下なので敬語じゃなくても良いですよ』


 私はベットの上で足をパタパタさせた。今この空間に2人だけの時間が流れている気がして心地よかった。


『そうなんですか! 因みに何歳なんですか?』


『女性に歳を聞くのはタブーですよ』


『そうでしたね。舞香さんは正社員で?』


 文面で名前を書かれただけなのに心が弾む。心なしか疲れも和らいだ気がした。


『はい。一応今は文房具会社に勤めています。ほとんど雑用なんですけどね。冬矢さんはどちらで?』


『私はネジ工場の経理担当しています。こっちもほとんど雑用です』


 その後も小一時間やり取りを続け、気づけば1時を回っていた。おやすみなさいというのがもどかしくて、いつもなら寝る時間でも話を続けてしまった。


 その日から私と彼のいかがわしくない夜のお楽しみが出来た。毎日お互いのことを聞いたり、仕事の愚痴を言い合ったり、一緒にメールをしながらサッカーの観戦などをした。


 そんな日々で冬矢さんに彼女がいないと知った時はベットの上で1人でよく分からないダンスを踊ったりもした。


『次の休みって空いてますか? 良ければご飯でも』


 時間が止まる。はいと2文字送るだけなのに体は熱くなり、息は浅くなる。私は興奮した挙句『ふえぇ』と返信し、『どっちやねん』と関西弁でツッコまれた。


 なんとか正気を取り戻し、再来週の日曜日にレストランの前で待ち合わせとなった。たまに電車で会う時にも話すようになりだんだんと距離が近くなってゆくのを感じた。


 当日、私は気合いの入った服をかき集め、落ち着いていて、それでいてお淑やかな印象を持つ服を身に纏った。もうすぐクリスマス。夕日がまだ顔を出しているにも関わらずチラホラと自重気味にイルミネーションも光出していた。


「お待たせしました」


 スーツに近い格好で現れた彼は、やはり私より少し年上の様なしっかりした印象で、私の背伸びした感じが目立ってしまう。


「黒いドレス。似合ってますね」


「ありがとう……ございます」


 近い様で遠いその距離はもどかしく、手を伸ばしても、すんでのところで逃げられてしまう。


 イタリアンなその店は料理名すら聞いたことのないものばかりで、お任せのコース料理らしく、綺麗にフォークやらが並べられていた。


「こんな高いとこ、よく来るんですか?」


「まさか、今日が初めてですよ。社長に紹介してもらいました」


「そうなんですね」


 初めに出された前菜をどう攻略しようか吟味する。ふと彼に目をやると同じ様にフォークで刺す場所に悩んでいた。


 その後もオシャレな料理が出て来て、2人でこれはどう食べるのか相談したり、いつものように談笑したりして食事を楽しんだ。


 お値段を見てしまったら絶対に顔に出てしまうので値段は見なかったが、財布には福沢諭吉が5人控えているためそこは心配無かった。


 私は少量のシャンパンを飲んだが彼はお酒を飲まない様で、あまり飲む気にもなれず酔わない程度でやめておいた。私もあまり酒の強い方ではない。


 やがてデザートも食べ終わり、席を立つ。私が財布を取り出そうとすると、彼はそのまま出口に向かった。私に払わせる気か? と思ったが先に払ってくれていたみたいだ。カッコいい。 


 外に出ると一等星が空に浮かんでいた。控えめなイルミネーションもあいまって、宇宙の中にいるみたいだった。


「今日は楽しかったです。ありがとうございまっ……」


 お礼を言おうとすると唇を人差し指で抑えられる。私はカッと熱くなる。


「舞香さん。私と付き合ってください」


 彼は頭を下げた状態で私の方に腕を伸ばす。初めての光景に戸惑う。私はその手を取って、返事をすればいいだけ。まずは、返事……


 浅くても息を吸って、思いを声にする。瞳がすでに潤んでいる。泣くな、まだ泣くな。返事をしてからだ。


「ふぇぇ」


 私はそんな変な声とも言えない声と共に手を握る。彼はそのまま私を引き寄せ、抱きしめてくれた。


 年が変わる頃には同居を始め、2人の生活が形を成した。家事も分担し、洗濯、料理は私。買い出し、掃除、ゴミ出しは彼が受け持つこととなった。


「今日はいつ頃戻ってくる?」


「今日は早上がりだから晩御飯は、僕が作っておくよ」


「そう。よろしくね」


「うん。じゃあ行ってくるよ」


「行ってらっしゃい」


 彼は付き合ってから一人称を僕に変えた。無意識かも知れないけど。距離が少し近くなった感じがして嬉しい。いや、現に近づいたんだ。


 仕事が終わり家に帰る。いつもは私の方が早いので返事がないが今日は返事がある。家を開けると、いい匂いと同時に声が聞こえる。


「おかえりー」


「ただいま」


「ご飯にする? お風呂にする? それとも、僕?」


「ご飯」


「素直なことで」


 「ははっ」と上品に笑いながらカバンとコートを持ってくれる。彼の料理の腕は凄まじいもので店に出しても引けを取らないレベルのものだった。だから休日は一緒にお菓子を作ったりもする。


「はい、コレ、上げる」


「え? 何これ?」


 私は綺麗にラッピングされた箱を渡す。今日は彼の誕生日。


「誕生日プレゼント。いつもありがと」


「ふぇぇ」


「私の真似しないで」


 彼は丁寧に包装を剥がすと目を輝かせた。それはお高めの腕時計だ。多分彼がコレクションしている中でも1番か2番を争うほどで、給料にしてまるまる三ヶ月分である。


「ありがとう。これからもよろしく」


 私と彼は抱きついたあと、優しく唇を重ねた。そして腕を腰に回す。彼の左手が私の後頭部を支える。一度お互いを見つめ合い。もう一度、今度は深いキスをした。


 付き合って一年弱。私たちはついに結婚した。小さめの結婚式でも家族は快く「ふぇぇOK」を出してくれ、取り行われた。私の苗字も天野から天野へと変化した。してなかった。


 タキシード姿の彼は大人びていて、安心感と心強さは誰にも負けないと思っている。私はというと、そんな彼が褒めてくれるくらいには可愛いらしい。今だに可愛いと言われると照れてしまうのでチョロいと言わざる終えない。


 三十路みそじも近づき始め彼が会社で昇級したのち、私は専業主婦へと移行した。貯金も十分過ぎるほどあり、キャリアウーマンの社会への風当たりが今だに強めなこともあり2人で相談して決めた。


 ただ、彼はそれから仕事が忙しくなり帰ってくるのが遅くなった。


「おかえり」


「あぁ、うん。ただいま」


「お疲れ様。ご飯出来てるけど、先にお風呂に入っちゃう?」


「そうだな。先に風呂入ろうかな」


 彼は疲労が溜まっていて、返事もどこかそっけない。それでも私は彼に何もしてあげることができなかった。


 そんな毎日が過ぎ去る。彼は30過ぎで課長を任されていて、体力的にも精神的にも参っている様子だった。帰りも一段と遅くなり、日付を跨ぐ寸前に帰ってくることも多くなった。


 子供が欲しくないと言えば嘘になる。でも目の下にクマを生やし、休日も一日中眠っている彼にそれを言うのはあまりにも酷だった。


 やがて彼の口癖が「疲れた」になり、「しんどい」へと変わっていった。それでも彼は私の誕生日プレゼントや結婚記念日にはプレゼントをくれる。でも、決まって次の日は帰ってこなかった。徹夜で仕事でもしているのだろう。


 私がいるから彼はしんどい思いをしている。そう思うとやめて欲しかった。しんどいなら逃げて欲しかった。私が欲しいのはプレゼントでもお金でもない。彼自身だから。


 そんなことを話す暇もないほど彼は追い込まれていった。休んだら余計に仕事が溜まる。相談しようにもその時間がない。私に割く時間すらもったいないと思ってしまった。


 私の話を聞く暇があったら彼に休憩して欲しかった。彼は趣味の腕時計すら触らない様になり、埃をかぶっていた。それでも私があげた時計だけは毎朝綺麗に磨いてから仕事に行くのを見て胸が張り裂けそうだった。


 ある日。彼は帰って来て早々こう言った。


「しんどい……楽になりたい……」


 私にできることは何も無かった。彼をこの地獄から解放する方法。見ているだけでしんどくて、助けようにも手段がなくて。今ここにあの日の彼の様に、助けられる人はいない。


 私が助けなきゃいけないのに。私がなんとかしなきゃいけないのに。そんな思いが脳内を埋め尽くした。


 彼を助ける方法がたった一つしか思い浮かばなかった。でもそれを私はしたくなかった。私は彼をこれほどまでに愛している。それでも、私がいるから彼は頑張ってしまう。辛い思いをしてしまう。


 それならいっそ……だから、だから私は、彼を


▼△▼△


 スーツの上から溢れ出す赤い液。突き刺さったナイフが彼の体にそびえ立つ。冷たくなった体からぬるくて少し熱い液体が流れ出す。


 私の膝の上で寝ている彼は鼻息ひとつせず眠っている。私は彼を1番に愛していた。1番に思っていた結末。


 だからそう。これはです。

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これは『コイ』です。 赤目 @akame55194

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