第6話「化け物・4」

 なんということだ! 神はいた! ――なんてふざけたことを言っている場合ではない。

 振り向くと、声の主は公園の入口から手を振りながら入ってきていた。

 落ち着いたベージュのマフラーを巻いた、ハーフアップの黒髪がよく似合う、上品で華やかな大人の女性といった感じの人だった。だが、顔周りを注視しようとしても、思わず目を引いてしまったのは、その胸。厚手のコートの上からでもわかる――すごい。とにかく、すごい。すごいとしか言えない。語彙力とおさらばしてしまうくらい、すごかった。きっと夏にでもなって、体のラインがわかりやすい服でも着てしまえば、道ですれ違った十人中十二人が思わず二度見をしてしまうことだろう。

 そして、歩き方もなんかエロい。モデル歩きというのだろうか、ファッションショーとかあまり見ないから詳しくは知らないけれど、腰を横に振るような歩き方で、自然と意識が惹き付けられてしまう。

 まだ雪が降っていたら、紙吹雪舞うステージの上を歩くようで、晴れ晴れしかったたろうが、生憎といつの間にか雪は止んでいた。その代わりと言ってはなんだが、ちょうど雲の隙間から差し込んだ月光で地面の雪が青白く輝いていて、その中を優雅に歩く姿は神秘的で、言いようもなく綺麗だった。

 そうやって、彼女は道路沿いの桜の木の根本で座り込む私達のそばまで歩いてくると、何の脈絡もなく、突然、蒼勇の背中に乗っかかるようにして抱きついた。


「ええ!?」


 思わず身を引いてしまった。そんな私を蚊帳の外に置いて、女性はその豊満な胸部を押し付けながら、


「こらこらぁ。悪い蒼勇ちゃんにはお仕置きにおっぱいの刑だよ~」


 にんまりと嬉しそうに言って、もっと押し付けた。女性の服の、蒼勇の背中に接している箇所が、その中で何かが押し出されたように、むにゅっと膨らんだ。本人は純粋にからかっているつもりかもしれないが……この絡み方は到底シラフとは思えない。私の中で彼女への印象が、雅やかな女性から、漫画とかに出てくるようなエッチなお姉さんへと降格した(人によっては昇格かもしれないが)。

 それはさておき、当事者である蒼勇はというと、その体勢のまま首だけ振り向き、冷めきった目をその女性に向ける。


「本当に酷い罰ですよ」

「もう、素直じゃないねぇ」


 皮肉っぽく言うがまるで相手にされず、お姉さんは微笑ましいものを見るようにふふっと笑う。すると、我慢しきれないとばかりに蒼勇は語りだした。


「いつも言ってますよね? 俺は確かに大きいのが好きですけど、あなたみたいに恥を知らずで所構わず押し付けてくるようなのは趣味じゃないんですよ。むしろ萎えるんですよ。やっぱり、例えばこう、俺が『触るよ』とか言ったら、『うん』って顔を真赤にして恥ずかしがりながらも頷いてくれるような、ちょっと緊張が伝わってくるけど、でもそれを超える喜びを感じとるのもわかるような、そういうのが至高なんですよ」


 蒼勇はおっぱいの下で、おっぱいを背負いながら、恐ろしいほど真剣な目つきで、大真面目に語ってみせた。

 だが、


「よくそんな赤裸々に話せるね。正直、キモい」

「ほんと、そんなキモいこと女子二人の前で自信満々に語って、恥ずかしくないの?」


 揃って大バッシングを受けた彼は「うるさい!」と声を張りながら、上に乗ったおっぱい星人、もといお姉さんを跳ね除けて上体を起こした。胡座をかいたまま、大袈裟におっとっととたたらを踏むお姉さんを下から指差して、


「あと、恥ずかしげもなく抱きついてくる奴にだけは恥を語ってほしくないです」


 それは、うん、その通りだ。

 さて、皆が一度落ち着いたところで、私は尋ねる。


「それで……、どちら様ですか?」


 突然現れたお姉さんは、まあおおかた蒼勇の友人か先輩か、或いは……彼女、とかなんだろうけれど、まだ名前も何も聞いていない。


「いきなりごめんね。紹介するよ。このおっぱいは果穂さん」

「やっほー! 真実ちゃんよろしくね!」


 蒼勇がお姉さん――果穂さんのほうを示して言うと、果穂さんはこちらを見ながら手を振った。おっぱい呼ばわりには……触れないつもりらしい。


「よろしくお願いします」


 頭を下げると、蒼勇は紹介を続ける。


「果穂さんは俺の仕事仲間で、さっきまでは別行動しとったんだけど、ちょっとこっちの都合で合流することになった」


 ということは、果穂さんも怪異に携わる仕事をしているのか。訳もなく似合うな……あれ? と、ここにきてやっと違和感を覚えた。


「果穂さんどうして私の名前知ってるんですか!?」


 ぎょっとして、思っていたよりも大きな声を出してしまった。あまりにさらっと私の名前を呼んだものだから、違和感を覚えるのに時間がかかってしまったのだ。


「それは、ずっと蒼勇ちゃんに電話繋いでもらってて、私も真実ちゃんの話聞いてたからだよ、ね? 蒼勇ちゃん」

「ああ」


 面倒くさそうに唸って、蒼勇はコートの裏ポケットからスマホを取り出して見せた。それは通話中の画面になっており、そこに表示された通話相手の名前は、おっぱいだった。

 二重の意味でゾッとした。


「真実がここに蹲っとんの見つけて話しかける前から、リアルタイムで情報を共有するために通話繋いどったんよ。だから、果穂さんも今の状況は全て把握しとる。ずっと内緒にしとってごめん」

「別にいいけど……」


 遠慮がちに呟いて、ふと、私が駅で出会った鬼のことか何かを話していた時に、蒼勇が電話をすると言ってトイレに駆け込んだことを思い出した。

 あれは何だったのか尋ねると、


「ああ、うん、それは果穂さんに合流しようってことを伝えた時だね。真実の前でスマホ取り出して画面でも見られりゃあ、それまでずっと通話繋いどったことがバレるだろ? だからカモフラージュのためにわざわざトイレまで行ったって訳」

「なるほど。……でも、だったらその時に事情を話して、私の確認取れば良かったのに。そんなプライバシーの鬼でもないから、多分問題なく承諾してたよ」

「そうは言うけどな、それは結果論だ」

「確かに……」


 後からなら何とでも言える。ならば嫌がられる可能性を考慮して蒼勇がずっと秘匿していたのにも筋が通るか。

 納得した私を見て、蒼勇は珍しくちょうど私が聞こうとしていたことを察して、頼まずとも自分から話してくれた。


「果穂さんを呼んだのは、こればかりは本当に認めたくないけど、彼女のほうが俺より怪異の知識が豊富だから。俺にはわからんことでも彼女にならわかるかもしれんから。こればかりは本当に認めたくないけどね」


 二回も言った。それも本当に悔しげに。それほど彼にとっては屈辱的なことなのだろう。

 認められた果穂さんのほうはというと、えっへんと胸を張っていた。ボインなお胸が更に強調されて、思わず二度見をしてしまった。


「とは言っても、あくまで俺達はどっちもバリバリ武闘派だから、実は頭使うのはあんま得意分野じゃないんだ。だから、専門のやつらと比べたらあんま頼りにならんかもしれん。こんな女性を気取っとる果穂さんも、戦闘になると殴ることしか能のないゴリラに――痛ッ!」


 流れるようにスムーズに悪口に移った蒼勇の言葉は途中で途切れて、軽い悲鳴へと変わった。蒼勇の隣に並んで立つ果穂さんが、ボカッと蒼勇の頭を殴ったからだ。

 蒼勇は殴られた後頭部を押さえながら、勢いよく振り向く。


「ほら! 言ったそばから殴りやがった! 親父にもぶたれたことないのに!」

「蒼勇ちゃんが変なこと言ったのが悪い」

「うん。私もこれは蒼勇が悪いと思う」


 果穂さんの意見に賛同すると、蒼勇は非難の視線を向けてきた。それを、果穂さんは年長者の余裕のようなものを崩すことなく無視してこちらを見る。この時初めて、斜めに流れる前髪の下にある彼女の顔をしっかりと見たが、丸顔に大きく可愛らしい目と、思っていたよりも童顔だった。年齢の割に幼く見える顔立ちをしているのか、或いはただ本当に年齢が低いのか、一見しただけでは判別は付かないが、しかしこの妖艶な雰囲気は前者にしか醸し出せないだろうとも思った。

 彼女はそのぱっちりとした目の目尻を下げて言う。


「真実ちゃんもああやって無神経なこととか沢山言われて困らせられたでしょ?」

「ええ、まあ……?」


 開けっ広げな聞き方をされ、返答に困ってしまった。


「ごめんね? うちの蒼勇ちゃんも悪気があってやってるわけじゃないから……」


 我が子のことを話す母親のような口調。その調子のまま言った。


「ただ単に、度し難いくらいのポンコツなだけで」

「あ、やっぱり、他の人にもポンコツって思われてたんだ」

「誰がポンコツだ。そんでもって果穂さんのものになった覚えはない」


 話題の当人が恨めしげに口を挟んできた。それを果穂さんは、やはりやり慣れた風に無視して、私に向かって続ける。


「でも、嫌なことを言われた時は、もっとずばっと言ってやってもいいんだよ? というか、むしろそうして? そうでもしないとこのポンコツは気付かないから」

「と、ゴリラが申して――」

「――私は人間じゃい!」

「痛ッ!」


 ようやく相手にされた蒼勇は、しかしまたもや頭をガツンと殴られて悲鳴を上げる。意地を張って懲りずに茶々を入れる蒼勇は、大人っぽい気配の果穂さんと並ぶと殊更子供っぽく見える。だが、二人は何処となく似た者同士のようにも見えて、なんだか歳の離れた姉弟みたいだと思った。

 もっとも、それは現実的にはあり得ないけれど。本人達曰く、蒼勇は鬼が混じってて、果穂さんは人間だっていうのだから……え?

 そう考えて、ようやく、遅すぎるくらい今更、気が付いた。その根本的な矛盾に。


「ちょっと待ってください」

「待たない」


 即答だった。


「え?」


 思わず声を漏らすと、果穂さんは可笑しそうにクスッと笑った。


「冗談だって」


 話を切り出す時に『ちょっと待って』と言ってしまうのは私の口癖なのだ。スルーしてほしい。だがそれをスルーしてくれない辺り、やはり二人は似ているけれど、


「そういう面倒くさいところは別に似てなくていいのに……」


 溜息が出てしまう。


「ごめん、ふざけすぎちゃったね」


 そう言って果穂さんは話を本題に戻す。


「それで、どうしたの?」

「確認なんですけど、果穂さんは人間なんですよね?」


 私も切り替えて尋ねると、肩を竦めて答える。


「見ての通り、人間だけど?」


 やはりそうなのか。やっほーと言って登場した果穂さんが、何ら特別なことはないかのように、やっほーと言って私に話し掛けたものだから、違和感が全く自分の仕事してくれなかった。危うくそのまま気付かずに、自分の怪異としての特性をうっかり忘れるところだった。


「なら、どうして私の姿が見えるんですか?」


 ――私が人から知覚されないことを。


「ええ! 今更!?」


 裏返った声。果穂さんは目をパチパチさせて驚きを露わにする。だが、そんな反応をしたいのは私もだ。何故今の今まで気付かなかったのか。


「最初に聞かれなかったから、もうわかってるもんだと思ってたよ……」

「すみません」


 口調から呆れられたように感じて、不安から咄嗟の反応で謝ってしまった。すると、果穂さんは脇の前で両手を振って、顔を赤くして慌てたように言う。


「ああ、いや、ごめんね! 責めてるわけじゃなくて! ただびっくりしちゃっただけで」

「そう、ですか」

「それに、わからないってのも別に悪いわけじゃない。それならそれで楽しみが増えたからね」


 言われた意味がわからず、私は首を傾げる。


「このおかげで楽しい質問タイムが出来たから」


 そう言う果穂さんは、今までの余裕のある陽気な調子に戻っていた。


「質問タイム? 何ですかそれ」

「それは後のお楽しみ~」


 からかうようにはぐらかされた私が何か言い返す前に、


「どうして真実の姿が見えてるか、だったね?」


 と確認する。私がこくりと頷くのを見てから、言った。


「それは――私が真実ちゃんに叶えてほしい願いを予め考えてきたからだよ」


 それを聞いた瞬間、心臓に氷で出来た杭を打たれたような気がした。

 全く、油断していた。まさかこの話の流れで、その話題に移るとは思ってもみなかった。寝耳に水、どころの騒ぎではない。寝耳に液体窒素だ。

 硬直して声も出ない私に気付いているのか気付いていないのか、果穂さんは続ける。


「銀さん、って呼んでるんだよね、真実と魂を交換した悪魔。ほら、そいつも同じようなこと言ってたんでしょ?」

『でも、ボクにお願い事があるからボクが呼ばれたんだよ?』『ボクにお願い事がない限り、ボクと話せることはないんだよ』


 銀さんと初めて夢の中で会った時、確かにそんなことを言っていた。

 今までその言葉の意味を深く考えたことはなかったが、これはつまり、銀さんに叶えてほしい願いを持つ人間だけが、銀さんを知覚できるようになるということか。

 それが正しいならば、願いを持っていれば、純粋な人間であっても、それこそ私がまだ人間だったのに銀さんの姿が見えて手に触れることが出来たのと同じように、私を問題なく知覚できるということになる。

 そういう理屈で、果穂さんもまた私の姿を……

 そう考える私に向けて、果穂さんはその大きな目の目尻を下げて尋ねた。


「――真実は銀さんに、どんなお願いをしたの?」


 彼女は無遠慮に、無警戒に、無造作に、純粋な好奇心のみで、私の胸の中にある地雷原に足を踏み入れてきた。


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