第3話「化け物・1」
それを告げられた瞬間、時が止まったような気がした。
いや、こうなってしまえばいっそ、止まるだけでなく巻き戻ってほしいとさえ思った。時間を巻き戻して、記憶を消して、その発言を聞かなかったことにしたかった。
「まさか、この期に及んで自分がまだ人間だと思っとんのか?」
頭を強くぶつけたかと思った。目眩さえした。言葉の暴力とは、本当はこういうことを指すべきだろう。
「私が、人間じゃない、化け物……?」
確かに、その可能性を考慮しなかったと言えば嘘になる。人から見えず、聞こえず、触れられず、雪に足跡も作れない。そんな存在は人間とはとても呼べない。幽霊などと呼んだほうが条件に適っている。
しかし、そんな考えはすぐに捨てた。当然だろう。化け物、なんていうのは、どこまでいっても人間の頭と創作物の中にしか存在しない、空想のものだと思っていたからだ。いや、誰もがそう思っているだろう。
それが現実のものとして我が身に降り掛かったとして、それを本物だと、ひいては自分が化け物になったなどと、誰が容易に認められるだろうか。
「そうだ」
そうしたつもりはなかったが、無意識に心の声を漏らしてしまっていたようで、私の呟きを聞いた蒼勇はその内容を肯定する。慈悲など一切感じさせない、冷酷な調子だった。
それ拍子に、私は我に返った。知らず私の(白髪の君の)しなやかな手はぶるぶると震えていた。
「ここまでショックを受けるってことは、やっぱり、真実はついさっきまで人間だったのか?」
絶望の沼から顔を上げた私を、蒼勇はその鋭い蒼瞳で射抜いて尋ねる。今までのような気安い感じは完全に消え失せていた。
未だ自分が人間でなくなったことを受け入れられてなどいないが、
「うん、たぶん。こうなってからまだ数時間しか経ってない」
「やっぱりそうか。なら悪いことをしたね。だけど、これは絶対に理解してもらわないかんことだから。前提を確認させてもらうで」
言い回しに嫌な予感がして、心の準備など微塵も出来ていないが、せいぜい息を呑んで身構える。
「真実はもう、人間じゃない。いや、厳密にはちょっとだけ人間も残っとるけど、ほとんど化け物だ」
「そう、か……」
私は俯いて、止めていた息を漏らす。
化け物。
改めてそう言われても、実感があるようなないような不思議な感じだが、しかしその言葉には鋭い棘があって、それに胸を抉られたようだった。
「じゃあ、私が人から見えなくなって、触れられなくなったのは、私が化け物になったから……?」
恐る恐る尋ねる。こんなこと聞かなくても答えなどわかりきっているが、聞かずにはいられなかった。
「そうだ」
「体の感覚がないのも、ポテトに触れないのも、化け物だから?」
「そうだ」
「そうか……。でも、どうして、私が化け物に……」
口に出してすぐに、それが愚問だと気付いた。私が化け物になってしまった瞬間は考えるまでもなく明確なのだから。
真剣な眼差しを送ってくる蒼勇を改めて見返すと、不意に、何故今まで思わなかったのが不思議なくらい基礎的な矛盾に気が付いた。
「そもそもだけど、人から見えないっていう私を、どうして蒼勇だけは見えるの?」
これは蒼勇が私を知覚出来ることを確認して、まず初めに抱くべき疑問だった。
「それは、俺が純粋な人間じゃないからだ」
硬い口調で答えてから、蒼勇は「あ」と、何か思いついたように眉を上げた。
「別にやましい人間って意味じゃないぞ?」
そう言って、にやにやと意地悪そうな笑顔を浮かべる。
つまらないギャグ。しかし、逆にそのおかげでいい具合に気が削がれた。あえて淡々と返す。
「大丈夫、そこは勘違いしてない」
「良かった良かった。これで変態の烙印を押されたら俺、どっかの誰かさんみたいにピーピー泣いちゃうところだったよ」
「ちょっとぉ? デリカシーどこ行った?」
何処かの誰かさんよろしくの泣き真似をする蒼勇。そのデリカシーの無さに青筋を立てる。
こういう弄りって、もっと距離が縮まってからでないと、一つ間違えたら関係が破綻しかねない類のものではないのか? そんなことを平気で言ってしまうとは、大胆なのかただ無神経なだけなのか、やはりよくわからない(不純な)人だ。
つい苛立って意識がそちらに向いてしまったが、もちろん本題を忘れてはいない。
「純粋な人間じゃないって、じゃあどういうこと?」
質問を、軽蔑たっぷりの冷ややかな視線とともに送る。私が冗談を続ける気がないとわかったのか、彼は手で涙を拭くような仕草をするのを最後、一転して、表情からふざけるような色が抜けた。
「そのまんまだよ。人間以外の何かが混じっとるってこと」
「人間以外の何か……」
「そう。俺はほとんど人間なんだけど、生まれつきほんの少しだけ鬼が混じっとるんだ」
なんでかは未だにわからんのだけどね。付け加えて、彼は困ったように笑う。
鬼が混じった人。そんなものまで現実に存在するのか。感覚が麻痺して最早驚きすら湧かなくなってしまったが、非現実的なことも休み休み言ってほしい。
しかし、彼の言には信憑性がある。鬼――その単語から連想されるのは、やはり駅で遭遇したあの化け物。蒼勇と初めて顔を合わせた時に、あの化け物と似た嫌な感じを覚えたのは、蒼勇も鬼だからということならば腑に落ちる。
「大抵の場合、化け物になれば、普通人間には見えん他の化け物を見えるようになるものだ」
「だから、蒼勇には私が見えるんだね」
「そうだ」
ということは、あの化け物も蒼勇と同じで私が見えていた。確かめようもないが、あれと目が合ったというのも気の所為ではなかったかもしれない。
「そうか……」
目線を落とし、白のワンピースから伸びる白い脚を見やる。この体は人からは見えない。もともと自分の体ですらないうえ、触覚もないものだから、色々と不思議な感じだ。
その足を伸ばして、蒼勇の傍、地面に転がっているくしゃくしゃの紙袋をつま先でつつこうとする。もちろん、当たると見えたその瞬間、つま先は紙袋に吸い込まれていった。傍から見れば、水面につま先をつけているような様に見えるだろうが、紙袋に触れる感覚がないため、本人からすれば全く異なる印象を受ける。それを実際にやった経験がないため想像にすぎないが、3Dホログラムに触れようとするときっとこんな感覚なのだろう。
こんな風に人や物は触れないから、雪に足跡も出来なければポテトも掴めない。
「あれ?」
そこまで考えて、またおかしな点に気が付いた。
「ポテトはすり抜けるのに、どうして、その……」
「ん?」
「思い出すだけで恥ずかしいけど……、その、どうして蒼勇には、抱きつけたの?」
羞恥が全身を虫のように這い上がってくる。彼は対照的に、羞恥などちりほども感じさせない様子だが。
「さっきも言ったけど、俺は人だけど鬼が混じっとるからね、この世の住民じゃない。だから俺のことは普通に触れるよ」
そのことは既に知っている。私が聞きたいことは別にあるのだ。
「……違う。服に触れたこと」
もう顔が見られなくなって、顔を伏せる。
蒼勇の肉体に触れられることは予想がついていたが、その辺の物と何ら変わりない彼の服に抱きつけたのはおかしいはずだ。そう思っての質問だったが、
「服? 服は触れとらんかったぞ?」
「え?」
弾かれたように顔を上げると、蒼勇はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
嘘でしょ? まさか……
「俺の体に直接抱きついて、顔擦りつけてきたやん」
私は言葉を失った。よくよく考えてみると言うまでもなく当然のことなのに、どうしてこんな盛大な勘違いをしてしまったのだろう。
私の体は服をすり抜けていた。私が抱きついていたのは服ではなく、その内側にある蒼勇の肉体だった。ということは、涙とか鼻水とか諸々の液体も、肌に直接べっとりとなすりつけてしまったという訳で……
「あああ! 誰か私を殺してくれ!」
私は心のなかで叫ぶ。夜中に誰もいないと思って大声で歌を歌っていたら、ふと曲がり角からそこまで仲が深くない知り合いが現れたという、人生史上最も恥ずかしかった経験を彷彿させる凄まじい羞恥心に、ダッシュで逃げ出したい衝動に駆られた。
「なんだ、服に抱きつけたと思っとったんか」
そんな私を見ておかしそうに笑う蒼勇。
蒼勇。
鬼が混じった人。こんな荒唐無稽な事態を前にしても全く動じずにいて、何なら軽口を叩く余裕すらある青年。――一体何者なのだろうか。態度や口ぶりから察するに、化け物と関わるのには慣れているようだが……
羞恥を我慢して見ると、彼はポテトを一本手に、未だにケラケラと笑っていた。彼は私の視線に気付いて首を傾げる。
「どうした? まだ質問がありそうな顔だけど」
うげ。バレた。
「私が化け物になっちゃったことはわかったけど――それ以上のことは、蒼勇はどこまで知ってるの?」
そう尋ねた声は、思っていたよりずっと硬かった。
蒼勇は数回瞬きをしてから答えた。
「ほとんど何も知らん」
と。
「え……?」
期待していたものとは程遠い返答に、私は当惑する。
しかも、ポイッと捨てるような投げやりな口調だった。実際、肩を竦めて、指で摘んだポテトを投げ捨てるような仕草をしていた。
「じゃあ、私は――人間に戻れるの……?」
「さあ、わからん」
「わからんって……」
私からしてみればこの上なく重要な事柄なのに。
それをぞんざいにあしらわれたことがじりじりと焦燥を募らせる。
「どうして私が化け物だとはわかるのに、人間に戻れるかはわからないの?」
「いや、さっき言ったやん。真実のことは何も知らんって」
躍起になって問い詰めるが、蒼勇はどこ吹く風といった様子で受け流す。
「真実が化け物だってことはわかるけど、果たしてどんな化け物なのか、どうして化け物になったのか、どうすればもとに戻れるのか、どれも俺にはわからん」
「嘘でしょ……」
薄情に切り捨てられ、私の心は絶望に塗り潰される。
私がどんな化け物か、蒼勇にすらわからないのに、私にわかるはずもない。化け物になった事実だけ伝えられて、そのまま蒼勇に見放されてしまったら、
「――私はこれからどうすればいいの?」
そんなつもりはなかったが、いつの間にか縋るように、或いは見方によっては媚びるように蒼勇を見つめていた。
「どうしてそれを俺に聞くんだ?」
蒼勇はまたしても他人事のように肩を竦める(彼にとっては実際他人事だが)。
「じゃあ逆に、人から見えない私が、蒼勇以外の誰を頼れって言うの?」
「さあ」
「さあ、って……。蒼勇からしたら私なんて有象無象の化け物なのかもしれないけど、私には蒼勇しかいないの!」
彼に見捨てられるかもしれないという恐怖に駆られ、私は興奮したままに叫ぶ。自分が告白まがいな台詞を口走っていることにすら気付かないほど、私は唯一の頼みの綱である蒼勇を引き留めるのに必死だった。
その必死さが伝わったのか、或いはただ鬱陶しくなっただけか、蒼勇は呆れたように額を押さえながら嘆息する。
「いいや、それは嘘だ。俺しかおらんわけはない。真実が頼るべきは他におるだろ」
力強い口調でそう言われたものの、他に頼るべきものと言われても、思いつくものなど一つしかない。
「何? その辺の一般通過化け物を頼れって言うの? 無理だよそんな――」
「そんなことは言っとらん」
「……ッ!」
自棄になったような私の言葉を食い気味に否定して、蒼勇は、その蒼瞳を更に鋭くしてこちらを睨んだ。矢じりのような眼光に射抜かれて、気圧される私。引き攣った喉の隙間から情けない声が漏れそうになる。
「いつも一番近くにおるだろ、そいつが。そいつに聞け、これからどうすればいいのか。これからどうしたいのか」
投げやりに聞こえる声色とは裏腹に、内容は私を真摯に諭すようなものだった。
「いないよ、そんな人」
しかし、冷静さを失っている私はその導きを無下にした。端から思案を巡らすこともせず、弱々しく否定する。
「おる。誰かわからんのなら、そうだね……」
蒼勇は目を伏せてから、もう一度私を見た。その細めた目からは鋭さが消えていた代わりに、見透かすような色が差し込まれていて、私は心の内側をまさぐられたような心地悪さを覚えた。
彼はぶっきらぼうに吐く。
「――自分に聞け」
虚を衝かれた、というべきか。
嫌な予感が当たった、というべきか。
とにかく、婉曲であるようで露骨な蒼勇の言葉を聞いて――私は肝を冷やした。
いつも私の一番近くにいて、本来私が一番頼りにすべき人――それは自分。当たり前の話だ。
しかしその当たり前は、私にとっては当たり前でなかったのだ。それをこの男は、それこそ心の中を覗くように看破したのだろうか。いや、それは有り得ない。有り得ない……と思いたい。
動揺。
警戒心が跳ね上がる。
「やっとわかったか」
そんな私にそう吐き捨て、蒼勇はすぐに視線をポテトの方に向ける。そのぞんざいな態度は、確かに本心から生じたものだったかもしれないが、真に伝えたいことは別にあるとわかっていた。
「真実がこれからどうするか、それは俺の決めることじゃない。真実が自分で決めることだ」
ポテトでこちらを指しながら、大真面目に語る。
「そりゃわからんことだらけで不安なのもわかる。だからもちろん俺を頼ることは間違っとらんし、むしろ頼ってほしい。でも未来は、自分の行く末は、自分の頭で考えて、自分で決めろ。どんな選択をしたにしろ、その手伝いをするのはやぶさかではない」
厳しい口調の裏に見え隠れする優しさ。私の行く末を慮っての発言だと知れて、本当は嬉しさが湧き上がるところなのだろうが、生憎と私の内心はそれどころではなかった。私は複雑な感情をもって来るその質問に備えていた。
蒼勇は焦らすように、ポテトを一本口に放り込み、咀嚼し、飲み込んだ。その二十秒にも満たない時間が、膨れ上がった警戒心の所為で、永遠のように長く感じられた。十分に答えを考える時間を与えられた、とも言い換えられる。
「改めて聞くぞ。真実はこれからどうする。いや、これからどうしたい」
一拍の空白。
「……人間に戻りたいって言ったら、蒼勇は協力してくれる?」
蒼瞳を見返しながら、堂々と聞けたはずだ。私はせいぜい胸を張る。そうして返事が貰えると思って待っていた。しかし、蒼勇は穴が空くほど私の目を見つめるだけ見つめて、いつまで経っても何も言わない。凄まじい無言の圧力をかけてくる。
私はついにそれに耐えきれなくなって、目を伏せてしまった。夜の静けさの中で、心臓の音だけが響く。胸郭の中で、はち切れそうな速さでドクドクと鼓動を打って、暴れている。もしかしたら、蒼勇の耳にも届いているのではないだろうか。
もう駄目なのかもしれない。理由はわからないが、とにかくきっと協力はしてもらえないんだ。見捨てられたら、また一人。嫌だ。嫌だ――ぎゅっと目を瞑った時、蒼勇が言った。
「協力するよ」
実にあっさりした調子で。
私は拍子抜けした。
一瞬にして、張り詰めていた空気が霧散した。
躊躇いながら顔を上げると、蒼勇は呑気にポテト摘み食いしてこちらを見た。その目に先程までの威圧するような色はない。初めて会った時と何ら変わりない、目の形の所為で若干鋭く感じるだけの、普通の視線だった。
そこでようやく実感した。彼が私を見捨てて離れていくわけではないのだと。安堵感で胸がいっぱいになり、気付かれないようにそっと息をつくと、強張っていた私の体も弛緩して、鼓動も通常の速さに戻り始めた。
ただ、一つ気になることは、蒼勇がそんな目線を送りながら、ただもぐもぐと、黙々と、ポテトを食べ進めていることだ。承諾した旨を伝えたこと以外、積極的に何かをするような様子は見受けられない。
そのため、安堵と感謝の中に心配が芽生えて、念のため確認する。
「あれ、人間に戻るのに協力してくれるんだよね?」
「うん。協力するから、早く話してちょ」
もごもごと言う。協力はしてくれるらしい。
ただ、
「話してって言われても、何を――」
人間に戻れるかどうか知るために話さなければならないことは何か、問は途中で途切れた。声に出して初めて、自分がなんと横着な期待を抱いていて、愚鈍な質問をしたことに気が付いたからだ。
蒼勇はごくりと口の内容物を飲み込むと、当たり前のことを当たり前のように言う。
「そりゃ、真実が化け物になった経緯を、に決まっとるだろ? それを知らんと何も始まらん。今はまだ、真実が人間に戻るスタートラインにすら立てとらんでね」
こうも付け加えた。
「真実は何か勘違いしとるみたいだけど、俺は超能力者でも神様でもないからな、真実の心の内を読んで全部ぱぱーっと解決、なんて都合の良いことは出来んぞ。いや、仮に心の内が読めて、この状況の全てを理解したとしても、俺がこれを解決することは出来ん」
「どういうこと?」
「当人の問題は当人にしか解決できない――ってのが、まあ師匠の受け売りなんだけど、俺の中での定説みたいなものだ。部外者はどこまでいっても部外者なんだよ」
「そう、なんだ」
抽象的すぎて、言葉の意味はわかるがピンとこなかった。
「だから、そうだな。俺のことはしりだと思ってほしい」
「尻? 何、叩いていいの?」
「尻は叩くものじゃない。そっちのしりじゃなくて、アイフォンについてる、一時期陰謀論が流行りなんかしたほう」
「ああ、Siri」
「そう、Siri。言い付けられたらやれる範囲のことはやるし、聞かれたら答えられる範囲のことは答える。だけど、俺がやるのはそれだけ。それを聞いて、最後に判断するのは真実だ」
私はこの事態を自分で解決するのは不可能だと、私に出来ることは何もないと、早々に諦めていた。
だからこそだろうか。無意識のうちに、誰も私を知覚できなくなった中で、まるで私を助けに来たかのように現れた蒼勇を、誇張でも何でもなく、救世主か神か、何か計り知れない存在だと神聖視していたらしい。何でも知っていて、「どうにかして」と頼めば、私が何もしなくとも彼が一人でなんとかしてくれるものだと。しかし、本人の言う通り、実際は違う。そりゃそうに決まっている。
私が身勝手にも彼に求めていたのは、経緯の一切を知らない問題を解決することだった。しかし、実際にはそんなの彼にも、誰にも不可能。そりゃそうに決まっている。
少し考えればわかることだ。どうも私は焦りすぎているらしい。こういう未曾有の事態にあるからこそ、逸る気持ちを抑えて、怯む心を強くして、目下も空を流れて雪を産み落としている雲のように、余裕を持って泰然と構えていたい。心からそう思うのだが、思うだけで出来るようになるならば、如何に楽なことか。
私はせいぜい深呼吸をして、深夜の空気で肺を満たした。今だけは、頭を冷やすために、私にはもう感じられない空気の冷たさを感じたかった。
私は改めて言う。
「人間に戻るために、協力してください」
頭を下げた。すると、蒼勇はあっさりと言った。
「わかった。十万ね」
「え?」
はっきり、十万と聞こえた。聞こえたのだが、しかしあまりに事もなげに言われたものだから、一瞬本気で何のことかわからなかった。
「十万って、何? 石高の話?」
「いや、俺は大名じゃあるまいし、そんなのはいらんよ」
「じゃあ、ボルト?」
「ピカチュウか!」
蒼勇は溜息をつく。
「言うまでもなく金に決まっとるだろ」
「流石にそうか……。でも、普通にお金は取るんだね。口調が軽かったもんだから、無条件で快諾してくれる流れかと思っ――」
言いさして、そこでようやく、自分がことを断片的にしか理解していなかったことに気付いて、自分の愚かしさに呆れた。
「んなわけ。別にこれを善意と慈愛百パーセントの慈善活動でやっとるわけじゃない。これは俺の仕事なんよ。だから当然、対価は取るで」
なるほどそうか。蒼勇が言っていたのはこういうことか。
私は気付かぬ間に、蒼勇に対して都合のいい幻想を押し付けていたのか。彼ならお金などに拘らず、彼の言葉を借りるならば、それこそ善意と慈愛百パーセントで助けてくれるものと。そういうおおらかで高尚な人だと。身勝手ここに極まれりだ。身勝手さもここまで来ると呆れて物も言えない。気付いていないだけで、今この瞬間もきっと、私は常に彼を色眼鏡を通して見ていて、他にも同じような幻想をあらゆる面で抱いているのだろう。
何気ない会話から、私が無意識に、蒼勇に対して、憧憬にも似た、盲目的な期待を寄せている事実が浮き彫りになったのだった。
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