第1話

「――様……シゼリアナーゼ様…!」


誰かを呼ぶ声に目が覚めた。

夜だろうか。あたりは暗い。

見覚えのない場所だった。

四方は白い壁に囲まれているものの天井はなく、空には満点の星と、大きな木が枝を伸ばしている。

先ほどの声の主なのだろう。僕の目の前には、紫がかった銀髪の女性がいる。

いや、声から言って少年の可能性もあるか。

中性的な顔立ちと体をすっぽりと覆う黒いローブのような衣装のせいで、性別が断定できない。

最初に女性だと思ってしまったのは、どことなく神経質そうな瞳が“母さん”に被って見えたからだ。


「ああ、お目覚めになられたのですね?記憶は如何ですか?私がわかりますか?」


期待と不安、哀願と狂信……そんなようなものがないまぜになった目が僕を覗き込んでくる。

“記憶”という言葉に、びくりと肩が震えた。

夢の世界の話を求めてくる時の“母さん”と同じ雰囲気に思わず身構えて、ふるふると首を振る。


「……まだ安定しませんか?ご自身のことは如何です?貴方様の名は、シゼルニンファ、シゼルニンフ、シゼルリシア、シゼリアナーゼ……

いずれか、お聞き覚えはございませんか?」


これにもすぐさま首を振った。

どうしてそんな似たような名前をいくつも持っているんだろう。

とにかく、身に覚えは全くない。

僕の反応に、銀髪の彼女……彼が、ギリと奥歯を噛んだのがわかった。


「何故……?何がいけなかった?これじゃ話が違う……!」


虫のようにキロキロと動く視線と震える指先から、息が詰まるような焦燥感が伝わってくる。

想定外のことが起こってパニックになった時の“母さん”にそっくりで、こちらまで胃が迫り上がってきそうだ。


「あ…の……」

「っ!?」


訳も分からず弁明したい衝動に駆られて、つい声をかけてしまった。

口から滑り出る言葉は日本語ではないように思う。けれど、生まれた時から耳に馴染んだ母国語だと感じる。


「あの、ごめんなさい……ぼくは…………いえ、あなたは……だれ?」

「…………」


一瞬覗いた期待の表情はすぐに崩れて、警戒心が彼の全身を覆ったのが分かった。

失敗した。声を掛けるべきではなかったかもしれない。


「……あなたこそ、誰です?シゼリアナーゼ様ではない………シゼル、なのですか?言葉を喋れたのですか?」


問われて、初めて己の身体を見下ろした。

小さな手、細い手足。四、五歳くらい、だろうか?

少なくとも首は座っているようだし、言葉くらい喋れそうなものだが……彼の態度からすると、僕がこんな風に話し掛けることはあり得ないことだったのかもしれない。


(マズったな……)


思わず口籠る。

すでに選択を間違えてしまった以上、どんな言葉を紡いでも事態が好転する気がしない。


「そう、そうですか……つまり、シゼリアナーゼ様の××は、完全に失敗した………そう、なのですね………なんてこと……なんて愚かな………」


よほど受け入れがたいのだろう。抱えた頭を掻きむしりながら「失敗」「失敗」と呟いている彼の瞳にはもう、僕の姿は映っていないようだった。

周囲を見回す。

見慣れぬ幼い体はむき出しの裸で、細くて白い糸のようなものが手足に絡まり散らばっている。

上を見上げれば、闇夜にぼうっと浮かぶような白い木が立っていた。

広い空間は石造りの壁で囲われているが、地面は硬い土だ。

どう考えても見覚えのない場所、見覚えのない体、見覚えのない人物。

何かを問いかけようにも、唯一の話相手はもうこちらを見もしない。

何分、何十分そうしていただろう。

項垂れたり頭を掻きむしったりしていた彼は、やがてふらりと立ち上がり、引き摺るような足取りで去っていった。

銀髪の彼が退出したのち、同じ出入口から数人の人影が入ってきて、僕の身体は丁重に運び出された。

その扱いが身構えていたような酷いものではなかったので、抱きかかえてくれた人物にも声を掛けてみる。

けれど驚かれはしなかったものの、不思議そうに首を傾げられただけで返事が返ってくることはなかった。


(これは、転生……なのかな)


死ぬ直前、“前世の記憶”なんてものとは無縁の人生を生きたいと願ったはずだ。

その結果がこれなのだろうか。

こんな生は、始まりから最悪だ。


(あんまりだ……)


その後、僕は広い寝台のある部屋に軟禁された。

手足の長さは幼児のそれだが、寝返りもまだの赤ん坊のように動きはぎこちなく、最初のうちは一人で満足に起き上がることも出来なかった。

食事はミルクのような飲み物しか与えられなかったけれど、不思議と空腹感はなかった。

固形物を食べていないせいなのか、腸機能が正常ではないのか、排泄も少量の小水しか出ない。

丁重に世話を焼かれたが、交代々々で部屋を訪れる大人たちの誰一人として、僕と口を聞いてくれることはなかった。

何ひとつ状況を理解することなく、僕はその部屋で七日を過ごした。


その日、ガラスもない窓から朝陽が差し込むよりも少し前に、僕は起こされた。

これまで僕に対して一言も発さなかった世話係のような、監視役のような人から「お召し替えを致します」と声を掛けられて、ここに来て初めて見る服に着替えさせられた。

貫頭衣と言うのだろうか。一枚の布の中央に空いた穴から頭を通して着るシンプルな衣服だ。

作りは簡素だが、生地は物凄く手触りがなめらかで艶がある。

腰についた短いリボンのようなもので留められてはいるが、腋から下には大きくスリットが空いた状態で頼りない。

長い裾と病的なまでの白は儀式めいていて、“あの世界”で謂わゆる"講演会"に登壇する時に設定していた法衣を彷彿とさせる。

思わず苦い顔になった。


「今日は何かあるんですか?」


どうせ返事はないだろうと思いつつ腰紐を結んでくれていた人に問いかけると、意外にも応答があった。


「お迎えがいらっしゃいます」

「お迎え?僕はどこかに行くんですか?帰って来ますか?」

「……それほど悪いところではございません」

「………」


質問の答えにはなっていないものの、この七日間では一番まともな会話が成立したことに、妙な確信が湧いた。

おそらく、僕がここに戻ってくることはもう二度とないと思われているのだろう。


最初の夜にあの銀髪の人物から言われた言葉を思い返すに、僕の中身が彼の期待した“誰か”ではなかったことで失望され、売り飛ばされることになったとか、そんなところだろうか。

そっと溜息を吐く。

ろくな会話もなかった軟禁生活では、ここがどんな文化圏で自分がどういう立場の人間なのかもよく分からなかったけれど、周囲の望む結果を出せずに移動させられるのに、今より良い生活が待っているとは到底思えなかった。


(こんな幼児の身体で労働力になるとは思えないし、内臓でも売られるのかな……?)


自嘲しつつ、されるがままの身支度を終えると、投げやりな気持ちで案内に付いて行く。

一週間居たとはいえ、明るい時間に建物の中を歩くのは初めてだ。

無数の小さなタイルが複雑な模様を描く廊下は、同じ白を基調としているものの、のっぺりと特徴のなかったあの部屋と同じ施設とは思えない。

複雑なタイルに彩られたアーチをくぐって、観葉植物のひとつもない殺風景な中庭を抜ける。

通されたのは、応接室のような雰囲気の部屋だった。

ここに来るまでに通ったどの部屋にも言えることだが、入口には扉らしきものはなく、分厚い織布の暖簾のようなものをくぐって入室する。


絨毯を挟んで向かい合う二つの長椅子。椅子……いや、ソファと言った方がまだ伝わるだろうか?布の塊のような頼りない腰掛けだ。

その片方に座るのは、例の紫がかった銀髪の人物だった。

身なりは整えているけれど、その目元には疲れが滲んでいる。そんな顔をしているとますます“母さん”に似て見える。

もう片方の椅子に座っているのも、これまた中性的な顔立ちと色素の薄い髪色を持った人物だったが、こちらはどこか飄々とした雰囲気に面白がるような微笑みを湛えていた。


「やぁ、来たね、シゼル」


光の加減でほんのりと緑がかって見える薄灰色の髪を揺らして立ち上がるが、細身の身体はやはり女性とも男性とも判別がつかない。

この二人だけではなく、館の使用人たちも皆んな“僕”の記憶にある基準からすると性別不詳な容姿をしているのだ。人種的にそういう特徴なのかもしれない。


「わたしの名はリリヤン。君のトルドだよ」


彼だか、彼女だか……とにかく、リリヤンと名乗った人物は胡散臭い笑顔でそう告げた。

トルドという言葉の意味が分からず、紫銀髪に首を巡らせるも、見事に視線を逸らされる。

それはそうか。これから追い出す子供になんの説明が要るというのだ。

トルドというのは、人買いとかそんな意味なのかもしれない。


「ではシゼル。アナエラ様にお別れを」


手の平を向けたリリヤンの動きから言って、アナエラというのが紫銀髪の名前なのだろう。

最後の別れの挨拶の為に名前を覚えるというのもむなしい話だ。

僕はアナエラの腰かける長椅子の傍に進み出た。「さようなら」と告げようとして、その発音が日本語のものであると気付き、口ごもる。

困った。ここでの別れの挨拶が浮かんでこない。

沈黙を不審に思ったのか、アナエラも振り返り、僕を見つめた。

その瞳は潤んで充血し、置いて行かれる子供のように不安げに揺れている。

これじゃまるで僕の方が彼を捨てて行くみたいだ。


「………」


言葉が見つからなくて、結局日本式に体を折るお辞儀をして、背を向けようとした。

その直前。崩れるように椅子から降りたアナエラに、小さな身体を掻き抱かれる。

背中に回された手が震えていた。


「……お戻りをお待ちしています」


驚きに体が硬直する。

この人は僕が邪魔で追い出すんじゃなかったか。

震える手が肩に移り、アナエラの顔が間近に見える。

やや神経質だが中性的で綺麗な顔は、今は涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。


「……あなたは、わたくしのすべてです……愛しています……きっと、きっと戻って来てください……」


うっと息を詰まらせると、耐えきれなかったように嗚咽が漏れだし、次第に泣き崩れて床に平伏してしまったアナエラを呆然と見守る。

胸が締め付けられて息が苦しいのに、心のどこかで甘い悦びが湧き上がるのを抑えられなかった。

必要とされるなら演じたいという、記憶に染み付いた習性が頭をもたげる。

けれど、そんな僕の揺らぎを断ち切るように、ポンと後ろから肩を叩かれた。


「さ、それじゃ行こうか。さようならアナエラヲレ様。貴方の肩に、天の衣が舞い降りますように」


振り返れば、何でもないように笑うリリヤンの顔があった。

床に広がる銀髪を一瞥しただけのリリヤンに手を引かれて、そっと歩き出す。

幕をくぐって部屋を出るが、扉もない出口の向こうからはアナエラの呻くような嗚咽がいつまでも響いていた。

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