ぼくの影を食べた竜

とろめらいど

ぼくの影を食べた竜

 この街で、くもった空をながめてはいけません。灰色の雲がじっとりと空を覆い尽くす日には、恐ろしい竜が何頭も飛ぶからです。曇りの日が続くと、普段空高く遠くに居る竜は人の近くにまで下りてきてしまうのです。

 良いですか。竜と目を合わせてはいけません。どれだけ優しく語りかけられても、返事をしてはいけません。

 どんなに竜が美しくても、どんなに竜が可哀想でも、どんなに竜を愛してしまっても。

 約束ですよ。



 先生やお父さん、お母さんからよく聞かされる話を思い出して、学校帰りの智くんはあわてて地面に視線を落としました。ぼうっとしていた智くんに目を付けていたのか、頭のすぐ上を竜が通り過ぎていきます。

「しゅうしゅう、くるる」と竜の不機嫌そうな鳴き声がしました。竜のうろこはこすれてつやつやした音を出しています。どれも聞き入ってしまうほど綺麗な音楽を作り出していたのですが、智くんはごくりと唾を飲み込んで、竜が遠くへ行ってしまうのを待ちました。その間、じっと地面を見つめていました。雨でも降り出しそうなお天気に、地面は黒くしめっていました。

 智くんは「竜と目を合わせてはいけない。竜と話してはいけない」と、大人たちから聞いた言葉を心の中で繰り返して時間が過ぎるのを待ちました。

 しばらくすると、竜は諦めたのか秋の寒空高くへと戻って行きます。空気を踏みしめて飛び上がるような音が聞こえたので間違い無いでしょう。

 ふう、と息を吐いて智くんは帰り道を急ぎます。このところ、ずっとお日さまが出ていません。誰も外を見ないようにとどこの窓のカーテンも閉まったままです。

 智くんはこわがりです。竜の話は何だか恐ろしくて、本当は曇りの日に外に出るのだってこわくてたまりません。

 でも晴れた日に、遠く空の向こうを飛ぶ竜をながめるのは好きでした。この街の竜は真っ黒い色をしています。それが陽の光に当たって深い虹色にきらめくのです。何頭も飛んでいると、真昼の空が星をやどしたようにかがやくので、それを見るのが好きでした。

 ですがどんなに好きでも、竜に心をゆるしてはいけません。それが大人たちのよく言う言葉でした。もし竜に近付いて、目を合わせてしまったらどうなるのか。大人たちはとてもこわいことが起こるのだと言うだけで、はっきりしたことは教えてくれませんでした。こどもたちはそのせいで余計に竜をこわがります。ですがむしろ、竜への憧れを強くするこどもも居るのです。

「竜ってどんな目をしてるんだろう」

 智くんがひとりごとでそう言うと、ぽつりぽつりと雨がふりだしました。運の良いことでした。竜は雨がふると飛ぶのをいやがります。ぬれるのがきらいなのだろうといわれていますが、本当のところはだれも知りません。

 もし竜たちが低く下りてくる曇り空のままだったら、さっきの竜は智くんの一人言を聞いてまいもどってきてしまったでしょう。「こんな目だ」と言って目を合わせ、会話してきたかもしれません。

 曇りの日は言葉にも気を付けなければなりません。曇りとは曖昧なお天気、竜と人間の距離がとても近くなってしまうお天気なのです。

 持っていた黄色い傘をさし、智くんは帰り道を歩いて行きます。遠くでかみなりの音が聞こえました。空をちらりと見上げてみれば、竜の姿はどこにも見当たりませんでした。雨は強く、紅葉が地面にたたき落とされていました。


 お家のマンションに帰り、智くんは「ただいま」とあいさつをしますが返事がかえってくることはありません。お父さんとお母さんはいつも夜まで仕事に出かけていて、家には智くんひとりなことが多いのです。

 かさたてに黄色いかさをおくと、竜が出す鳴き声ににた音がしました。「しゅうしゅう、ごとごと」という音に智くんはちょっとびっくりしましたが、今のはきっと、かさがこすれて鳴った音です。こわがりな自分をはげますように、ランドセルをわざと大きくゆらして背負いなおします。

「家の中に竜が来るわけないよ」

 そうつぶやいてリビングに行って電気を点けても、まだこわい気持ちは心のすみっこにのこっていました。机の上にはおやつのドーナツと、お母さんが残してくれたメモがあります。いつもどおりの風景に、智くんはほっとしました。しめきったカーテンの向こうからする雨の音を聞きながら、メモを見るとこう書いてありました。

「おかえり。今日はあぶないこと、なかった? 竜に目をつけられませんでしたか。空がずっとくもっているのでとてもしんぱいです。カーテンは開けないようにね。九時には帰ります」

 お母さんは、智くんによくにて何でもすぐにこわがるのです。とくに、智くんがあぶないとなるとたくさん心配します。たとえばこんなふうに。

「竜が危ないのだから、曇り空の日はずっと学校なんて休みにしてしまえばいいのに」

 お母さんは曇りの日が来るたびに、学校に行こうとする智くんにこう言います。

 智くんは学校があまり好きではないので「そうだったらいいのにね」といつも賛成しますが、お父さんは新聞紙の向こうでコーヒーを飲みながら首を横に振るのです。

 お父さんは、竜と一緒に生きていくのが人間の昔からの生き方なのだと言います。竜と人は共存の関係にあるのだと。また、小さい頃から竜との付き合い方を経験していないといけない、大人になってからでは遅いのだと智くんの頭を優しく撫でました。

 智くんには難しくてよくわかりません。

 そんな朝の光景を思い出してみると、今は家の中に自分以外だれもいないことがさびしく感じられました。

 智くんは普段お父さんが腰掛けている椅子にこっそりすわってみました。そしてお父さんのようにどっしりと背もたれに背中をあずけ、おちついて息をはきます。顔をあげると、閉じきったぶあついカーテンが見えます。智くんを守ってくれているかのように重々しいカーテンです。

 そこでようやくなんだか安心できたのです。この家に今ひとりでも、いつもどっしりかまえているお父さんがいずれ帰ってくるのだから安心です。

 ほっとした智くんが手洗いうがいをして、ドーナツでも食べようかと思った時でした。

 がたん、がしゃん、と大きな物音がしました。ベランダの方からです。ガラスがめきめきと鳴り、植木鉢の割れるぱりんという音も聞こえます。あまりに突然のことで、智くんが何もできないでいるとやがて音は静かになっていきました。そうして、雨音だけがのこります。

 ざあざあ、ざあざあ。

 たった今ベランダの向こうでおおさわぎが起こったのに、それが夢かまぼろしだったかのように静かになってしまいました。それでも智くんはベランダの向こうの気配を感じ取ります。なにかいる。

 ざあざあ、ざあざあ。

 だんだんとこの静けさもこわくなってきて、智くんは早くなってくる息の音やうるさい心臓の音を雨つぶの叩き付ける音にかくそうとしました。

 智くんの家はマンションの5階です。誰も入ってくることなど出来ないはずです。ひょっとするとおとなりさんが仕切りをやぶって入ってきたのかもしれませんが、それでもこわいことに変わりはありません。

 ざあざあ、ざあざあ。

 にげた方がいい。そう考えた智くんはゆっくりと後ずさりします。ですがみしっと床がきしみました。それに反応するかのように、カーテンの奥、ベランダの向こう側から音が鳴りました。

 しゃらり。

 それはびっくりするほどにきれいな音色でした。聞き惚れるほどに澄んだ音楽の一部でした。雨にまぎれるくらい透明な音でした。

 そして声が続けて聞こえてきたのです。

「あの、すみません」

 声の感じからすると、男の人のようでした。

「すみません。ここに誰かいらっしゃいますか。とても困っているのです。どうか助けてはもらえませんか」

 ざあざあ、ざあざあ。

 智くんが返事をしないでいると、窓の向こうの誰かもだまりこみました。雨がはげしくふっています。

「あの」

 静けさに我慢できなくなったのか、窓の向こうの誰かは話し始めます。

「お腹が空いているのです。少しだけ、助けてもらえませんか」

 ざあざあ、ざあざあ。

「雨に濡れて、ようやくここまで来たのです。どうか、どうか」

 声はだんだんよわよわしくなります。智くんは何だか悪い事をしている気持ちになりました。それに、男の人が話すたびにきらり、しゃらりと鳴る音がどうにも気になってしかたがないのです。

「わかりました。では、せめて雨上がりまでここに居させてください。雨が上がれば出て行きますから」

 ため息をついて、きれいな音をまとったその人は静かになりました。

 雨ははげしくふりつづけます。しんとしてしまったベランダに「何か」はまだ居るようで、ぴりぴりした空気が家の中にただよっていました。

 智くんは自分の部屋ににげて、雨がやむまで、もしくはお父さんとお母さんが帰ってくるまでベッドの中でふるえていてもよかったのです。何も聞かなかったことにして、テレビを点けてのんびり過ごしてもよかったのです。

 でも智くんはそうしませんでした。男の人の声が本当に消え入りそうだったのでかわいそうに思ったのです。それに、あのきれいな音がどうしても気になりました。一体何が、あんなにすきとおった音をかなでるのでしょうか。

 勇気をふりしぼり、智くんはベランダの方へ近付いて行きます。ですが途中、男の人はお腹が空いていると言っていたなと思い出して、ドーナツを取りに引き返しました。ついでにランドセルの中から竹のものさしを出してもう片方の手に握ります。智くんは武器代わりのつもりでしたが、たよりないものでした。

 ドーナツを持った手をカーテンにかけ、耳をすませるとかすかにあのきらきらとした音が聞こえてきました。やはり、まだそこにいるのです。智くんの手は少し震えました。

 やっぱりお父さんとお母さんが帰ってくるのを待った方がいいかもしれない。

 ちらっとそう考えましたが、困り果てた声を思い出すと出来るだけ早くベランダに行ってあげなければならない気がしました。

 ざあっと、カーテンを開きます。重い布が取り払われると、ベランダの景色が智くんの目に飛び込んできました。

 そこに居たのは、真っ黒い竜です。手足は無く、大きな蛇のような見た目をしていました。頭には長くのびた角が生えています。雨に濡れたうろこはきらめき、竜が身じろぎすると様々な色に光りました。

 智くんがまず思ったのは、こんなに間近で竜を見るのは初めてだ、というものでした。こわくはあったのですが、近くで見てもこんなにきれいなんだなぁ、と感じた方が強かったのです。

「ああ」

 竜は智くんに気付いて声をあげます。人間のような声が竜の口から出て来るのを見て、智くんは不思議な気持ちになりました。

 そして、目が合いました。竜の目は身体や角と同じ色、真っ黒です。深い色の瞳に吸い込まれそうになりながら、智くんは言いました。

「こんばんは」

 こわい気持ちをふりはらうには、いつも通りのことをした方がいいのです。あいさつをしたのはそういう考えからでした。

 智くんががらりとガラス戸を開けると、竜の息づかいが伝わってきます。折りたたんだ身体は学校の黒板くらいの大きさでしょうか。ベランダの地面いっぱいに竜が広がり、足の踏み場もありません。お母さんが育てていた植木鉢がはしっこに追いやられて割れています。

「ああ、こんばんは」

 竜は頭をかるくさげて智くんにあいさつを返しました。身体を動かすとうろこがこすれ、あのきれいな音を出しました。

「助けてくださるのですか? 思ったよりも小さなこどもだったのですね、お前は」

 どこかえらそうな口調で竜は智くんに話しかけます。竜と会話をしてはいけないと言われていたことを思い出し、智くんはだまってうなずきました。ものさしを背中にかくして、ドーナツを差し出します。

「なんですか? 食べ物ですか。お腹が空いていると私が言ったから、持ってきてくれたのですね」

 竜はおだやかに話し続けます。

「優しくしてもらっているのに申し訳ないのですが、人間の食べ物は食べられないのです」

 智くんは首をかしげました。なら何を食べるというのでしょうか。

「中に入れてもらってもかまいませんか。ここは寒いですから」

 ぐっと竜が身体をちぢめると、かしゃん、ぱたんとうろこがこすれます。家の中が散らかってしまわないか少し心配でしたが、智くんはガラス戸を大きく開けて手招きしてやりました。竜はまん丸な目をちょっと細めたように見えます。笑っているのだろうかと考えていると、竜はふわりと宙にうかびました。

「ありがとうございます。ではお邪魔しますね」

 ゆったりと雲のようにただよい、竜はしずかに智くんの家の中へと入ってきます。家具や物にぶつかることもなく、器用にリビングにただよいました。何だか夢でもみているようで、智くんは何度もまばたきしました。

「ぼくの部屋に来て」

 やっとのことで竜に言ったのはそんな一言です。このままリビングに竜を浮かせていてはお父さんもお母さんも驚くでしょう。ベランダが散らかっているのは後で何とかして、竜がいることが出来るだけばれないようにしなくちゃ、と智くんは考えていたのです。

「お前の部屋ですね。どちらですか?」

「こっちだよ」

 竜は先ほどからあんまりにも穏やかに話すので、智くんは思わず返事をしてしまいました。もう目も合わせてしまいましたし、大人の言いつけは全て破ってしまいました。何かこわいことが起こるんだろうな、と思いつつ智くんは自分の部屋のドアを開けます。

「ここ。ベッドの上に居てね」

 竜は素直にベッドの上に身体を預けました。ほんのり濡れた身体が寒そうだったので、智くんが洗面所からタオルを取ってくるとまた目をきゅっと細めます。

「お腹空いたんだよね。竜って何を食べるの?」

 おそるおそる、竜の身体を拭きながら智くんは尋ねました。念のため、目はずっと見ないようにしています。お父さんの革靴よりもぴかぴかした身体は、タオルでぬぐうたびにあやしく光ります。

「竜、というのは大きなくくりですね。『竜は何を食べるのか』という質問には、竜によって色々だとしか言えません。鉱石ですとか、文字ですとか、煙ですとか」

 竜にも種類があるのだと彼は話しました。これは智くんも少しは知っていたことです。テレビの天気予報でたまに映り込む竜は、地域によって違った色や形をしていましたし、おじいちゃんやおばあちゃんのすんでいる田舎の竜は白っぽくて手足が生えていました。だからそれぞれちがうものを食べるのだと聞いても、そこまでおどろくことではありませんでした。

「いえ、お前が聞きたいのはそういうことではありませんね。お前は私の身を案じてくれているのです。私が、何を食べるのか聞きたいのでしょう。誰かと話すのは久しぶりで、余計なことばかり話してしまいます」

 竜は口元をしっぽでかくしました。照れているのかもしれません。しっぽの奥からしゅるしゅると息がもれ出しています。神社でかいだことのあるような、古風な香りが智くんの部屋にあふれました。竜はどうやら笑ったらしいのです。

「この街に住む私たちは影を食べます」

「影?」

「そうです。おぞましいと思いますか?」

 そう言うと、竜は智くんの顔をのぞきこみました。真っ黒な目が智くんの視界いっぱいに広がります。もう目を逸らすことはできませんでした。

「そんなこと、ないよ」

 うそをついていると誰にでもわかりそうな声で、智くんは答えます。竜のことはまだおそろしいのです。みんながあれだけ「見てはいけない」「話してはいけない」と言うのですから、竜は恐ろしい生き物のはずなのです。

「そうですか」

 竜はうそに気付いたのか気付いていないのか。竜の目を見つめてみても、考えていることがわかりません。

「では、相談です。お前の影を私に食べさせてくれませんか。出来るだけ明るい光に照らされた、くっきりとした影が良いのですが、どうでしょう」

 食べさせて、と言った時、竜は口元をそっとしっぽの影から出しました。言葉を言い終えると「こんな風に」とでも言いたげに口を大きく広げます。大人も丸呑みできそうな口が目の前に広がりました。口の奥から透きとおった鋭い牙が立ち上がるのを見て、智くんはこわい想像をしてしまいました。声を震わせて、尋ねます。

「影を食べないでってぼくが言ったら、君は怒ってぼくを食べてしまうの?」

 智くんはこう教わったのを思い出したのです。

 どんなに親切な人に見えても、知らない人についていってはいけません。何故なら、その人は君を利用したいだけかもしれないからです。そして君が思い通りにならない時は傷つけても構わないと考えている人かもしれないからです。

 影を食べられるというのがどんなことなのかはまだわかりませんが、あんな恐ろしい牙を振りかざさなければならないほど嫌なことなのかもしれません。今、竜がおそいかかってきたらどうやって逃げたらいいのかと智くんは必死になって頭を働かせます。ですが空中をすべるように飛ぶ竜は、どんなに一生懸命逃げても智くんを丸呑みしてしまうとしか思えません。どうしよう、どうしようと智くんは竹のものさしを持つ手に汗をかきながら考えていました。

 ですが竜はベッドをきしませ、「ふふっ」と人間みたいな笑い声を出しました。

「ふふ、あはは。いえいえ、まさか。お断りされれば諦めます。確かにお腹は減っていますが、まだ耐えられる程度です。それに竜は人間を簡単に食べたりしませんよ。怯えた顔をしないでください。私がとんでもなく悪い竜みたいじゃありませんか」

 くすくすと竜は笑います。何だかからかわれたようで、智くんは少しむっとして言いました。

「紛らわしいことしないで。竜に近付いちゃいけないってみんなが言うから、ぼくは君のこと、それぐらいこわいものだと思ってるんだ」

「まさか。私は気の弱い竜ですよ」

 まだ智くんは竜に疑いを持っていました。お腹が空いているのも、雨に降られたのもうそで、智くんが一人で留守番しているところに入り込もうとしたのかもしれない、と考えたのです。

「わからないよ。よく考えてみたら、竜がお腹を空かせて落っこちてきたなんて話は聞いた事がないもの。竜はすごく賢いから、雨の日にぬれないようにきちんと雨宿りの場所を持ってるって聞くもの。最初からだましてるんじゃないの」

 竜は智くんの話を効いて、だんだんと目を逸らし始めました。気まずそうにとぐろを巻いています。思っていたものとは違う反応が返ってきたので、智くんは少し考えて言いました。

「もしかして、君は竜の中でもおっちょこちょいだったりする? 食べるのを忘れたり、雨に気付かなかったりするぐらい」

 竜は口を閉じ、ぺろりと舌を出して答えました。

「お恥ずかしながらその通りです」

 決まりが悪そうな姿を見ていると、確かにこの竜は悪い竜ではなさそうに思えてきます。智くんは息を吐き出し、その場に座りこみました。竜の方も緊張が解けたのか、ベッドにだらりと身体を伸ばします。

「そう。そうなら良いんだ。みんなが話しかけちゃいけないって言ってたのは、もっとこわい竜の話だったのかもしれないね。君と話していても、そんなにこわいことは起こらないかもって、今思ったよ」

「信用してくれたのなら良いですが。こんなところで恥をかくとは思いませんでしたね」

 竜はごまかすように身体の向きを変えます。

「それで、影は食べさせてくれますか。この部屋を暗くして、明るい光でお前を照らしてくれればすぐに終わることです。普段から私たちは人間が気付かないうちに影を食べていますし、痛いと感じることも無いと思いますが」

 智くんは話を聞きながら、この竜は自分に似ていると考えていました。智くんには、周りの子が一生懸命に頭を働かせている時にぼんやりしてしまう癖があります。そのせいで友達がいなくて、また、色んなことがこわいのです。この竜も、仲間の竜の中ではそんな風なのかもしれないと思いました。

「いいよ。影、お食べ」

 智くんは勉強机の引き出しから懐中電灯を取り出し、部屋の電気を消しました。この部屋のカーテンも閉め切っているとはいえ、窓の外はもう真っ暗です。暗闇で智くんは自分の足下を照らしてみました。かかとから、くっきりと影が浮かび上がります。

「これでいいのかな」

「驚きました。本当に良いのですか。今まで人に頼んだことがありませんでしたから、どう言われるかと思っていたのですが、みなこれくらい親切なのでしょうか。ならもっと早くに色んな人間に頼めば良かったですね」

 暗闇にまぎれた竜はちらちらとこれまた真っ黒い舌をのぞかせています。ゆらめく舌は火のようです。目は懐中電灯を反射して水面のように光ります。みしり、と竜が顎を大きく広げる音がやけに大きく聞こえます。

 懐中電灯で照らした場所に、智くんの足があります。そこにそろりそろりと、竜が這い寄ってきます。どこかえらそうだった竜が床の近くにまで頭をおろしているのがわかって、智くんは知ってはいけない姿を知ってしまった気持ちになりました。まぁるく切り取られた懐中電灯の光の中に、竜が持つ半透明の牙が入ってきます。今にも智くんの足に食らいつこうとしている、と考えてしまった智くんはその瞬間、思わず足を引っ込めていました。

「おや」

 足と一緒に影も逃げてしまい、竜は食事をし損ねました。それでも不機嫌になることはなく、智くんにおだやかに話しかけます。部屋はまだ真っ暗です。表情はよくわかりません。

「こわいですか。止めておきましょうか。個人的に、人間が嫌がることはあまりしたくないのです。可哀想ですから。ましてや、お前はまだ小さなこどもです。無理はさせたくありません」

 竜は暗闇でも智くんの顔がよく見えているようです。智くんを気づかうように、竜のしっぽが手の平にそっと触れました。

「ううん。ごめんね。大丈夫。もう一回やろう」

「無理はしないでください。私も人間に見られながら食事をするのは初めてで、緊張しています。お互い、駄目そうなら止めておきましょう」

「大丈夫だよ。今度は動かないからね。君も安心して」

 智くんは手に触れている竜のしっぽを軽くにぎって、「大丈夫」と言いました。竜はしっぽをからませます。

「ではもう一度お願いします」

 懐中電灯が照らす中に足を入れ、智くんはじっと目をこらします。またそろそろと竜の牙がやって来ました。そして影へと食らいつきます。

 ぱくん。

 影以外何も無い空中を食べたように見えましたが、竜は確かに形あるものを牙で喉の奥に押し込み、ぎゅうと音を立てて飲み込みました。

 智くんは竜の口元をじっと見ていましたが、ふと食べられた自分の影の方を見て声を上げました。

「わ。うすくなった」

 影の色がほんの少し、薄くなっています。周りの影の色と比べると違いがよくわかりました。

「時間が経てば元に戻ります。気分は悪くありませんか」

「うん。おいしかった?」

 竜は拍子抜けしたように笑いました。この竜は、案外よくわらう竜なのかもしれません。少なくとも智くんは、普段空を飛んでいる竜が笑うところなど見たことがありません。今さらではありますが、人の言葉をしゃべる、というのも話で聞いただけです。暗闇で話していると、ただの人間のお兄さんとしゃべっているようだな、と智くんは思いました。

「まぁまぁな味でしたね」

「そうなんだ。なんだか残念だなぁ」

 そう答えて智くんは部屋の電気を点けにいきます。途中で立ち止まり、ふぅと息を吐きました。胸がどきどきしています。おでこには汗もかいていました。

「食べられるのってこわいね」

 竜は舌をちろりと出し、智くんの一人言に対しては「そうですか」としか言いませんでした。

 電気を点けるとベッドの上に座っているのは、穏やかな声からは想像もつかない大きな竜です。

「雨は止まないようですね」

 首をもたげ、カーテンを頭でめくった竜は外の様子をながめていました。

「止むまで居たいんでしょ」

「出来ればそうしたいですね。濡れてしまうと飛ぶことが難しくなります。無理という訳ではありませんが、体力を使うので空腹の今は避けたいところです」

「まだお腹空いてるんだ。もっと食べる?」

 竜の体格から考えてみても、さっきの食事だけでお腹いっぱいになるとは思えません。智くんはちょっと薄くなった自分の影を見ながら尋ねましたが、竜は首を横に振ります。

「有難い話ですが、時間を空けてまた影が元気を取り戻すまで待たないと危険です。私が影を食べ尽くしてしまったら、お前は存在ごと消えて無くなりますよ」

 軽い調子で竜は言いましたが、かえってそれが冗談でも何でもないことを表していました。智くんは気を許し始めていましたが、やはり竜は竜なのです。人間一人を食い尽くすことなど、この竜がやらないだけで実際は簡単なことなのでしょう。

「ぼくは君にずっと居てもらってもいいんだ。でもお父さんとお母さんに何て言おうかな。悪い竜じゃないって言って、信じてくれるかな」

「さて、どうでしょう」

 竜はその辺りのことは気にしていないようで、あいまいな返事をしました。

「ちゃんと君のこと紹介するよ。ああ、忘れてた。君、名前は何ていうの。ぼくは智」

 智くんはそう言って手を差し出したのですが、竜は動きませんでした。戸惑っているかのようです。身じろぎ一つしないでいると、何かの美術品みたいだと智くんは思いました。つやつやしたうろこや、動きの少ない目玉は彫刻のようです。

 きれいだ、と智くんは感じます。

「他の街の竜もきれいだけど、ぼくはこの街の黒い蛇みたいな竜が一番だと思う。近くで見たからかもしれないけど、中でもこの竜が飛び抜けてきれいだ」

 心の中でそう言って、竜を見つめました。もう目が合ってもこわくありません。

 数十秒くらい見つめていたでしょうか。やがてしゃらり、と竜が動き出します。しばらく考えた様子を見せ、竜はこう言いました。

「ヤト、と言います」


 この日、メモに書かれていた夜の九時を過ぎてもお父さんとお母さんは帰ってきませんでした。

 パソコンを見てみると、急な用事が入ったから家に帰れないというメールが来ていましたが、どこかよそよそしく、智くんは不気味に思いました。

「ヤト。今日はお父さんもお母さんも帰ってこないんだって」

「そうなのですか。私にとっては良いことかもしれませんね」

 今日は金曜日でしたから、明日と明後日は学校がお休みです。一日中ヤトと一緒に居られるというのは、智くんを嬉しいような、不安なような気持ちにさせました。

「ヤト、こわいことしないでね」

「心配性ですね、お前は。私は何もしませんよ。ただの弱った竜です」

 ヤトは自分で言う通り、あまり本調子ではないようでした。日付が変わるころまで智くんはヤトを観察しましたが、大体ベッドの上でじっとしているだけなのです。街で晴れた日に見かける竜は、空をあちこち駆け巡っていました。力が有り余っているといった感じで、大人たちがこどもをこわがらせるのも納得できたのです。

「一緒に寝てもいい? 一人で真っ暗な家にいるの、こわいんだ」

「最も『こわい』であろう私から離れた方が良いのでは? ベッドは譲りますよ」

 智くんが一人でお風呂や夕飯を済ませている間もヤトは智くんの部屋でじっと静かにしていました。そうしている内、だんだん、ヤトが傍に居ない方が不安になってきたのです。誰も居ない夜のリビングやお風呂場はおそろしいものが影から飛び出してきそうでした。

「ヤトと一緒がいいよ」

 智くんがそう言うと、「不思議な子ですね」とヤトはこぼしました。

 大きな真っ黒い身体がベッドをうめつくしていますが、こども一人分くらいの隙間は空いています。智くんはそこにすべりこんで毛布をかぶりました。

「何もかぶらずに寝たら風邪を引くってよく言われるんだ。君のも取ってこようか」

「もう寒くないですから必要ありませんよ。ありがとうございます」

 少し前にヤトが寒いと言ったので、暖房がつけっぱなしになっています。部屋の中の温度が高ければヤトは快適なようでした。

 ゆるいとぐろを巻いてくつろぐ竜は、時々後ろに伸びた角で胴体を器用にかいています。最初に出会った時よりもこわくないな、と智くんはヤトの身体にふれてみました。人間と同じくらいの体温が伝わってきます。黒々としたうろこは一枚一枚がぬれたように光っていました。河原の水際でたまに、つやつやとして傷一つない綺麗な石を見つけることがありますが、ヤトの身体といったらそんな石ばかりを集めてきたようなのです。石は乾いてしまうとそこまで輝かなくなりますが、うろこは雨つぶを拭ってやったあともずっとぬれたような光を失いません。ヤトの身体にはそんなうろこがきれいに整列しています。

 かしゃん、しゃらん。

 このうろこは美しい音まで立てて、ヤトを飾り付けているのです。

「何をしているのですか?」

 気付くと、ヤトが智くんを見つめていました。数分くらい、じっとだまって身体を触っていましたから不思議に思ったのでしょう。

「きれいだから、ついさわりたくなっちゃったんだ。いやだった? ごめんね」

 さっき影を食べる時、ヤトは智くんの嫌がることをしないよう気を付けてくれました。だから智くんもヤトの嫌がることをしたくないなと思ったのです。

「謝ることはありません。何か意味があるのかと気に掛かっただけです。人間と交流するなど生まれて初めてですから、お前に聞けることは聞いておきたいのです」

 智くんはちゃんと名前を言ったのですが、ヤトは相変わらず智くんのことを「お前」と呼びます。

「たださわっただけだよ」

「そうですか。それならご自由にどうぞ。減るものでもありませんから」

 もう一度智くんはヤトに触れました。つやめく身体をみていると、うろこの奥に水が流れているようです。ヤトの中には川が流れているようだとも思いました。

 しばらくそうしていましたが、智くんはだんだんと眠くなってきました。

「もう寝ようか。おやすみ、ヤト」

「はい、おやすみなさい」

 ヤトはゆるくとぐろを巻いて、智くんが電気を消すのをながめていました。部屋の中が真っ暗になると、時計の音がこちこちと耳に入ってきます。

 おやすみ、とは言いましたが、ヤトは眠るのでしょうか。竜も生き物ですからずっと起きている訳ではないでしょう。智くんは暗闇でそっとヤトの顔がある方を見ました。竜は目を開いたままじっとしています。

 寝る前まで智くんはヤトを観察していましたが、蛇と違ってまぶたはあるようです。しかしまばたきをしているところは見られませんでした。智くんの見る限りヤトのまぶたは、笑う時にちょっと目を細めるくらいの使い道しか無いみたいだったのです。

「ヤト?」

 小さな声で話しかけてみますが、ヤトは「しゅうるる」と寝息のような息づかいを返すだけです。眠っているのか、ただ考え事でもしているのか。竜というものはまだわからないことが沢山だ、と思いながら智くんは眠りにつきました。


 朝が来て、智くんが目を開けるとベッドには自分一人しか居ませんでした。ばっと起き上がって辺りを見回してみても黒い竜の姿はありません。窓に駆けよってみると、外はまだ雨であることがわかります。ヤトは雨が降っているのに出て行ってしまったのでしょうか。智くんの胸がどきどきと鳴ります。不安な気持ちでした。智くんはヤトにまだ居て欲しい、と自分が思っていることに気付きました。

 布団にはまだヤトの匂いが残っています。今は家に一人ぼっちなのだと知った智くんはかすかにヤトの残り香がする毛布を持ったまま部屋を飛び出しました。

 智くんはヤト、と言いながらリビングの扉を開けます。すると、ふんわりと浮きながら窓の外をながめる竜の姿がありました。

「おはようございます。雨はまだ止みませんね。どうしました? そんなに慌てて」

 空中で身体を軽く折りたたんだヤトはぺろりと舌を出しました。

「君がどこかに行っちゃったと思ったから」

「私がですか。お前にとっては都合が良いことなのではありませんか。邪魔者でしょう、私は」

 智くんはヤトをこわいと思ったことはあっても、邪魔だと思ったことはありません。

「何でそんなこと言うの。ぼく、ヤトと一緒に」

「昨晩、随分私を邪険にしましたよ、お前は」

 ヤトが冷たい瞳でそう言ったので、智くんは昨日のことを一生懸命思い出しましたが、何がそんなにヤトを傷つけたのか見当がつきません。

「ぼく、何かした?」

 おずおずと智くんが尋ねると、ヤトはやっぱりまばたき一つしないで智くんを見つめました。しかし、智くんがこわがって震える息を吐き出すと同時に「くしゅるる」と笑い出しました。

「すみません。冗談ですよ。眠っている時の話です。寝相。あれは無意識なのでしょう? ぐっすり眠っているとは思えないほど、えらく暴れますね、お前は。何度か蹴られたので私はベッドから下りて眠ったのですよ。それにしてもあれほど暴れるとは、起きている間に何かよほど我慢していることでもあるのですか?」

 役割の少ないまぶたがきゅっと狭められ、ヤトの黒い目を半分ほど隠します。胴体で口元をおさえて笑うさまは、上品ですらありました。

「蹴っちゃったんだ。ごめん」

 智くんはほっぺたが赤くなるのを感じながら謝ります。寝相が悪いのは知っていましたが、家族でもないヤトに言われると恥ずかしかったのです。また、我慢しているものがないかという質問には少しぎくっとしました。友達の居ない学校に行くことも、お父さんとお母さんが家に居る時間が少ないことも、自分がこわがりであることも、智くんは口に出さないだけで嫌だなぁと思っています。本当は友達が欲しいし、家では家族みんなで過ごしたいし、勇気のある人間になりたいのです。そういったものを全部ヤトに見透かされているように感じたので、なんだか焦りました。

「ヤトは朝早くに起きて何してたの」

 そうして話題をヤトの方にうつしてごまかします。ヤトはベランダをしっぽで指して言いました。

「壊したものを出来るだけ元の位置に戻しておこうと思いまして。先ほど終わりましたよ」

 智くんはカーテンをそっとめくります。雨が降っていますから竜が飛んでいることはないでしょうが、昨日のことがあったので慎重になってしまったのです。ベランダはヤトが落ちてきたのがうそのようにすっきりと片付いていました。手足も無いのにどうやって、と智くんがヤトを見ると「割と何でも出来るのですよ」と笑っていました。

 朝ご飯をどうしようかと思っていると、玄関のチャイムが鳴りました。お父さんやお母さんが居ない時は出ないように言われているので、智くんはカメラの映像を見るだけにしました。ヤトは横で興味深そうにながめていました。

 チャイムを鳴らしたのはスーツを着た男の人で、玄関のドアノブに何かビニール袋を下げたかと思うとすぐに立ち去ってしまいました。

「お知り合いですか?」

「ううん。誰かな。置いていったのは何だろう」

 誰もいないことを確認してから荷物を確認すると、メモが貼り付けてありました。お母さんの字だということがすぐにわかります。

「今日もまだ帰れそうにありません。いっしょにお仕事をしている人に食べ物をとどけてもらいます。ご飯はこの中のものを食べてください。智の好きなものが入っています。きちんと食べてね」

 智くんはヤトにメモを見せて説明しました。そうすることで寂しさと不安を紛らわせようとしたのです。

「だから朝ご飯はこの中から食べるよ。パンにしようかな。ぼくメロンパン好きなんだ。お母さん、入れてくれてる」

 朝食の間、ヤトは鼻先でビニール袋の中を探っていました。二日分ほどの食料が入っているでしょうか。どれもそのまま食べられたり、電子レンジを使うだけで良かったりと、調理しなくて良いものばかりです。

「ヤトも朝ご飯食べるよね。メロンパン食べ終わったらまた部屋に行こう。そこでお食べよ」

 いすからぶらんと垂れた智くんの足から伸びる影は、もうすっかり元通りの濃さになっていました。

「良いのですか。食べられるなら嬉しいですが」

 ヤトは申し訳なさそうに身体を捻りました。しゃんしゃん。ぱらり。とてもうすい金属の板が優しく重ね合わさったような音がします。智くんは「いっぱい食べないとまた落ちちゃうよ」と笑いました。

 ヤトの食事は昨日と同じ方法です。部屋をできるだけ真っ暗にし、懐中電灯で智くんの足下を照らします。くっきりとした影にヤトが近付き、ぱくりと口の中に押し込みました。影は色を薄くし、智くんの心臓はまたちょっとどきどきしました。ヤトがはいつくばるような体勢になるのは、食事の時だけです。

「ありがとうございます。美味しいですよ」

「ほんと? よかった」

 ヤトがほほえむと、智くんはうれしくなります。ヤトには自分しかいないのだと思うと、ずっとそばに居てあげたいような気がしました。

「次、またいただけるのでしたら夜にでも。勿論お前が嫌がるのであれば諦めます」

「ううん。大丈夫。夜だね。ねえ、普段はどうやって影を食べてるの、ヤト」

 竜の食事というものは、誰も教えてくれたことがありません。智くんは興味がわいたのでたずねてみました。

「姿を消せる竜は、よく晴れた日に人間の足下を飛んでこっそりと食べるようですね。食事中の姿を人間に見せるのは好ましくないことだとされていますから、姿を隠すのです。人間に頭を垂れる姿なんて見せては関係性が崩れますし」

 智くんの足下でゆっくりと影をのみ込みながらヤトが答えます。絶対にやりませんが、こんな踏みつけられそうな位置に竜がいることは不自然だ、という智くんの感覚は間違っていなかったようです。竜は人よりも高い位置で、人間に肩入れすることなく悠々と存在しているものだというのがふつうの人の感覚でしょう。

「ヤトは姿が消せないの? 昨日も今日も、ぼくに丸見えだよ」

「未熟なので姿を消すのは難しいのです。神社のような力のある場所でしたら、私も姿を消せます。だから若い竜は良く晴れた日、神社に訪れる人間の影をこっそり食べるのです。竜神をまつっている神社に行けば、見えないだけで大量の竜が居ますよ」

 聞いた事の無い話でした。竜は謎めいた存在でしたが、こうしてヤトと話していると色んなことがわかってきます。

「食べるところを見られたくないなら、言ってくれればよかったのに。ぼく、見ないようにしたと思うよ」

「いえ。人間に影を食べさせてくれと頼んでいる時点で私の威厳は無くなっていたでしょうから、あの時はもう手遅れでしたね。竜の決まり事というのは、人間の前で威厳を保つためのものなのです」

「威厳」という言葉の意味をヤトに聞くと、偉いことを表すこわい雰囲気のようなものだと教えてくれました。ヤトはまだどこかえらそうですが、確かに他の竜と比べるとそこまでこわくありません。

 智くんはふふっと笑い、足下で影を飲み込んでいる竜の頭をなでてみました。ヤトは嫌な顔をしませんでした。智くんはふと心配になって聞きます。

「ヤト、竜の間の約束事をやぶって怒られない?」

「ああ、怒られるでしょうね。お前が見聞きした色々なことを秘密にしてくれるなら問題無いでしょうがどうです。秘密にしてくれますか」

 怒られるのは悲しいことです。大人は「こどもを叱るのには理由がある」と言いますが、できる限り怒られたくないというのが智くんの正直な気持ちです。智くんは、きっとヤトも同じだろうと思いました。

「ぼく、誰にも言わないよ。ヤトのいげん、こわさないで守ってあげられるよ」

 ぱちりと懐中電灯を消した智くんは暗闇の中で真剣な顔をしました。ヤトは何がおかしいのか、しゅうしゅうと良い香りの息を吐き出して笑いました。あまり嗅いでいると酔っぱらってしまいそうな香りが立ちこめます。こんなにヤトが笑ったのは初めてです。

「本当ですか。嬉しいですね」

 ヤトがどんな顔でこう言ったのか、智くんには見えませんでした。


 朝食を終えた後、智くんとヤトはリビングでテレビを一緒に見ていました。雨がいつ止むのか知りたいとヤトが言ったからです。ふだんはあまり自分から見る事のないニュース番組を見て、天気予報を待ちます。

 ニュースの中で、智くんの家からそう遠くない場所にある神社が映りました。年末から年明けにかけての準備をしているようです。

「こういうところに、姿を消した竜がたくさんいるって言っていたね」

「ええ。私もこの神社にはよく訪れます。ですが今日は雨ですから竜は少ないと思いますよ。参拝者もそう居ないようですし」

 小さなテレビの画面を見ながら、すぐ後ろに寝そべる大きな竜と会話するのは変な気分でした。いつも通りのお休みの日のようでいて、全くいつも通りではありません。

 しかし、やっと天気予報が始まる頃には智くんも慣れてきて、ヤトと何でもない話をしていました。

「昨日から降り続いている雨ですが、明日の日中まで降り続けるでしょう。明日の夕方には晴れ間が見えそうです。明日も傘を忘れずにお出かけください」

 天気予報のお姉さんは、この街の近くの地図と雨雲が重なった映像を指し示して言いました。続けてこの街の名前も入った、いくつかの地名をお姉さんは並べます。

「明日は夕方以降、曇りとなることが予測されます。お伝えしました地域の竜は地上近くまで下りてくる可能性が非情に高いです。お住まいの皆様はくれぐれも空をながめないよう、ご注意ください」

 お気を付けください、とアナウンサーの男の人が付け加えたところで天気予報は終わりました。また違ったニュースが流れていきます。

「雨、明日には止むみたいだね」

 テレビの音量を下げながら智くんは振り返り、ヤトの顔を見ます。

「お別れの時も近いということです」

 ヤトは床暖房が気に入ったようで、床にべったりと身体をつけてくつろいでいました。その姿を見ていると、外に出て行っても大丈夫なのかなと智くんは考えずにはいられません。

「雨が止んだら本当に行っちゃうの。まだ調子が悪いんじゃない? 大丈夫かなぁ」

「体調は良いですよ。お前の影を二回も食べましたし」

 確かに、最初に会話した時の弱々しさは今のヤトからはちっとも感じられません。それでも智くんは心配でしたし、まだこの竜と一緒に居たいと思っていました。

「人間と交流したことが無いって言ってたよね。まだぼくと話し足りないこととか無い?」

 こう聞いたものの、本当に話し足りないのは智くんの方です。

「充分お話ししましたよ。あまり長く居るとお前にも迷惑でしょう。約束通り、雨が止んだら出て行きますよ。お気遣いありがとうございます」

 ヤトは昨日入ってきたベランダの方を見ています。明日ここを出て行く想像をしているのでしょうか。遠い目をしています。ここから飛び立ったヤトは、二度と智くんの元に戻ってこないでしょう。

 一度捕まえて自分のものになった蝶々も、虫かごから放せば野山にまぎれてしまいます。また同じ種類の蝶々を見かけても、自分が捕まえたあの蝶々かどうかはわかりません。その昔、一度捕まえた蝶々が逃げてしまってひどく泣いたことを智くんは思い出しました。

「ねぇヤト」

 小さくなったテレビの話し声がざわざわと沈黙を埋めます。

「雨が止んでも、もうちょっとだけここに居たら?」

 ヤトの頬の辺りに触れながら、智くんは言いました。竜はようやく、智くんが気づかいなどではなく、ただヤトと離れたくないから引き留めるようなことを言っているのだと気付いたようです。ええと、と考え込んだ様子のヤトは身体をくねらせて智くんの方へ近付きます。

 行かないで、と服の裾でも握るように智くんはヤトの角に触れました。ヤトの身体の中でそこだけが先っぽにかけてほんのり黄色がかっています。竜の身体の内側が、黒いうろこを突き破って出て来ているかのようでした。

「いっしょに居ようよ」

 また一人ぼっちに戻るのがいやで、智くんは角をさらりとなでます。するとヤトのしっぽが軽く智くんの身体を押しやりました。

「お前がこんなに竜を恐れない子だとは思いませんでしたよ」

「相手がヤトだからだと思うけど」

 雨はまだ降っています。竜はきっと一頭も空を飛んでいないでしょう。こんな天気では竜の好きなくっきりとした影は街のどこにもありませんし、飛んでいたら身体がびしょぬれになってしまいます。

 ヤトは「さて、どうしましょうかね」と智くんの目をまばたき一つしないで見つめました。


 智くんはお昼にコンビニのオムライスを食べましたが、お母さんが作ってくれたものの方がずっと美味しいなと思いました。そんなにたくさんは入っていませんでしたが、中にきらいなグリーンピースが入っていたことにもしょんぼりしました。

「ヤト、食べてくれないよね」

「申し訳ありませんが、そういうものは食べられません」

 あんなに大きな口をしているのだから、こんな小さなグリーンピースくらいすぐに飲み込んでしまえそうだけど、と智くんは期待したのです。しかしヤトは首を横に振るばかりでした。

 食べ物はそまつにしてはいけないと普段強く言われています。捨てるというのはやりたくありませんでした。ヤトの見ている前で、格好悪いところを見せるのもなんだか嫌でした。

 智くんは息を止め、ほとんどかまずにグリーンピースを飲み込みます。それでも苦手な匂いと味が口の中に残ったので、顔をしかめました。

「そんな顔もするのですね、お前」

 急いでお茶を飲む智くんを見て、ヤトは愉快そうです。

「ヤトは嫌いなものとかないの」

 そこらの竜に苦手なものがあるとは想像しにくいですし、聞いてみたいとも思いません。ですが智くんはヤトになら聞いてみたくなりました。

 ヤトは気分を悪くした様子もなく答えます。

「百足ですね。嫌いというか、私たちは百足の気配がするところにはあまり近付きません。昔、大百足というものが居た頃に竜と大百足は激しく争ったのです。今そこらにいるただの虫である百足に竜が負ける訳はありませんが、昔の習慣の名残で今も私たちは百足を避けます」

 お前のように顔をしかめることはありませんよ、とヤトはちょっとだけ意地悪く口の端を上げて言いました。

 ヤトの嫌いな物というよりも、竜全体の話でしたが智くんは「へえ」と面白いことを聞いた心地でした。立派で何でも好きに出来るような竜が昔の名残とはいえ小さな百足を嫌がるなんて、ヤトから聞かなければ想像も出来なかったでしょう。ヤトたち竜が一生懸命に「いげん」というものを守っているから、智くんもこう思うのでしょうか。

「それ、人間に教えていいことなの」

「確かにあまり良くありませんね」

「いげんがなくなるから?」

「その通りです。竜に詳しくなってきましたね」

 ヤトは、智くんが聞いた事には何でも答えてくれました。「人間には言ってはいけないのですけれど」とヤトが言う度、何だか自分が特別扱いされているようで智くんは嬉しくなりました。もしかすると、ぼくはヤトの友達になれたのかもしれない、と思いました。誰にも竜の秘密を話さないようにしなくては、と決心しました。


 夜ご飯はハンバーグです。今日は智くんの好きなものばかり食べていますが、どうしても一人の食事はあまり美味しく感じられません。ヤトも智くんが食べている時はじっと見守ってくれて居るのですが、お父さんやお母さんと一緒でない晩ご飯はどうしても味気ないのです。

「ごちそうさまでした」

 ヤトは手を合わせる智くんを見て「祈っているのですか」と聞きました。言っている意味が分からなかったので聞き返すと、ヤトは智くんが手を合わせるのを見て誰かに祈っているように感じたらしいのです。

「ううん。そんなことないと思う。多分、お礼みたいな感じじゃないかな、これは。食べ物を用意してくれてありがとうって」

「へえ。では私もお前に影を食べさせてもらった後は真似するべきかもしれませんね」

 智くんは「いいかもね」と言いましたが、ヤトは手が無いのにどうやって挨拶するつもりなのだろうかと考えていました。

「人間が祈りを捧げる対象は幅広いですが、その中には私たち竜も含まれます。ですから人間が祈る姿を見ると少しそわそわしてしまうのです。私に捧げられた祈りだったら、何か手立てを考えなくてはいけませんから」

「ヤト、神様みたいだね」

 智くんは神様を見たことはありませんが、物語に出てくる神様はいつも人から祈りを捧げられていました。

 ヤトは元々まん丸い目をよりいっそう大きく見開いて、智くんにぐいっと近寄ります。きらきらっと、光るうろこが智くんの目の前に広がりました。さっきまで使っていたフォークがテーブルからはねとばされて転がります。

「わ。なぁに、ヤト」

「みたい、とはおかしなことを言いますね。竜神という言葉を知りませんか。私はお前の言う『神様』とそう変わらないものですよ。そう見えませんでしたか」

 じっとりとぬれた黒い眼に、智くんの顔が反射してうつっています。人間では自然に発することなど出来ないかぐわしい香りが、ヤトの身体の内側からじんわりとしみ出して智くんを包み込みます。かしゃり、ぱたん、としゃりと竜のうろこがこすれて優美な音楽になります。大きく裂けた口の隙間から、鎌のような牙がのぞきます。

「私はお前よりも強い力を持っています。神と何も変わりません。粗末にされれば人を呪い殺す、祟り神に転じます」

 胴体が智くんの身体に絡みつきました。抱き締めるような強さでヤトの胴体が智くんを隠していきます。蛇がえものを締め上げて、飲み込んでしまう時にそっくりだなと智くんは冷静な頭で考えていました。

「私が何もしないでいるからと油断したのかもしれませんが、忘れてはいけません。私は強大な竜で、恐れられる存在です。どれほど私が竜の中で劣っていたとしても、人間一人消し去るくらい簡単なことなのですよ」

 しゅうしゅうという竜の息に、ヤトが口を大きく開く「こきり、ぱきり」という音が混じり始めます。牙が立ち上がり、智くんの喉のすぐそばまで迫りました。

「これでもまだ一緒に居たいなどと考えますか」

 冷たい声でした。しかし智くんにはどこか悲しんでいるような声にも聞こえました。黒いヤトの身体が智くんをだんだん強く絞めていきます。家には今、智くんとヤトしか居ませんから、誰も助けてくれる人は居ません。智くんは一回、瞬きをしました。腕も足も身動きが取れませんでしたから、それぐらいのことしか出来ませんでした。ヤトの牙は今にも智くんの首に突き刺さりそうです。

 もちろんこわかったし、身体はぶるぶるふるえていたのですが、智くんはヤトのした質問に答えなくてはいけない気がしました。「まだ一緒にいたいのか」と聞かれると、答えは決まっているのです。だから智くんはごくりと唾をのみこんで、返事をしました。

「うん。一緒に居たい。君は、もうただの竜じゃないから。ぼくのヤトだから」

 竜は一瞬動きを止めて、牙をゆっくりと智くんから遠ざけます。そうして智くんとしっかり目を合わせました。大きな角がゆらりと揺れます。

「お前の? 私がお前のものになったと言うのですか」

 軽蔑するような、戸惑ったような、怒ったような、泣いているような声でした。ヤトの表情は相変わらずわかりにくく、どの感情が正解なのかはわかりません。

 智くんはうなずきます。

「そうだよ。ぼくの影を食べて、ぼくが頭を撫でて、ぼくと一緒に眠ったヤトだから」

 竜の神々しくまがまがしい身体は少しずつ智くんから離れていきます。締め付ける強さは抱き締めるような強さへ、そして手を握るくらいの強さへ、最後はほとんど触れているだけになりました。

「一緒に眠ったって言ったら君は違うって言うかもしれないね。けっとばしてごめん」

 智くんが「ごめんね」と笑うと、ぱたりとヤトのしっぽが床に落ちました。黒い竜は完全に離れていきます。

「ヤト?」

 智くんがなるべく優しくたずねてみても、竜は黙り込んで返事をしません。

「どうしたの、ヤト。大丈夫だよ」

 ヤトが本当に神様なのだとしたら、人間のこどもに心配されるなど嫌なはずです。気分を悪くしてしまうかもしれません。ですがヤトは「かしゃり、ぱしゃり」とうろこを鳴らしてリビングにたたずむように浮くばかりでした。

「ヤト」

 智くんは何と言えばいいのか迷って、ヤトの名前を何度も呼びました。黙っているヤトに呼びかけながら、智くんはさっき自分が言ったことについて考えます。

「ああ、どれだけヤトがこわいことをしても、どれだけぼくを傷つけようとしても、ぼくはもうヤトのことが嫌いになれない。だってヤトはずっと優しかった。ぼくと一緒にいてくれた。それは変わらないことだから」

 そう考えながら智くんが竜の名前を繰り返していると、ヤトはやっと口を開きました。

「あまりその名前を大声で呼ばないでください。他の竜が聞くかもしれません。そうすると少々ややこしいことになりますので」

 さっき起こったことについては何も言わず、ただそんな注意だけを言いました。ひとまず智くんはひそひそと返事をすることにしました。

「うん、わかった。気を付けるね」

「聞き分けが良くて助かります。少し、考え事をしたいのでひとりにしていただいても良いですか。何処に行くのが良いでしょうね。ベランダはどうも冷えるので遠慮したいですが、お前がどうしてもと言うなら外に出ますよ」

 ヤトはちょっとではありますが、いつもの調子を取り戻したように見えました。

「ぼくの部屋に居たらいいよ。ぼく、食べたものの片付けをしたりテレビを見たりでしばらくこっちに居るから。部屋に入りたい時はノックするね。それでいい?」

 ではそれで、とヤトは答えました。微笑んだような口元からは、もう牙が見えることはありません。

 リビングから廊下へと飛んで行こうとしたヤトですが、途中で振り返って智くんにこう言います。

「こわがらせて申し訳ありません。ですが竜など、早く追い出した方がお前の為です」

 智くんが答えを探しているうちに竜は飛び去ってしまいます。床に転がったままのフォークが寂しそうに光りました。


 一時間ほど智くんは一人で過ごしていましたが、夜がふけてくるにつれて何だか不安な気持ちも大きくなってきました。お父さんとお母さんがいないのもそうですが、ヤトが遠くに行ってしまう気がしたのです。

 智くんはあまりうるさくないようにそっと自分の部屋のドアをノックしました。

「ヤト、入ってもいい? 君も晩ご飯にしようよ」

「どうぞ。ええ、お前が良いと言うのなら食事にしましょう」

 部屋に入ると、ヤトはベッドの上でとぐろを巻いていました。智くんが近付くと、奥に詰めてくれます。空いた隙間に座った智くんは「何を考えてたの」と聞きましたがヤトは「何でしょうね」としか言いませんでした。

「明日になってヤトが行っちゃったら、ぼくこの家に一人きりだよ。お父さんもお母さんもまだ帰ってこなさそうだし」

「案外、親御さんはすぐに帰ってくるのではありませんか? その時に私が居ると説明に困りますよ。もっと喜びなさい。やっと出て行くのだと」

 ヤトは無茶なことを言う、と智くんは思いました。あんなに優しくしておきながら、お別れするのを喜べだなんて無理な話です。これは、ヤトが竜だから人間の気持ちになって考えるのが苦手なのか。それか、ヤトは竜の中でも智くんと似て友達が居ないから友達との付き合い方がわからないかのどちらかだと智くんはあたりをつけました。

「ヤト、友達とかいるの」

「何です、急に」

「ぼくには友達が居ないからヤトはどうなのかなって、聞きたかったんだ」

 これはほんの少しうそでした。本当はヤトにもっとお別れを悲しんでほしくて、友達とお別れするのはさびしいことなんだよと言ってやりたくて飛び出した質問です。

「居ませんね。私は飛ぶのが遅いですし、影を食べるのに時間がかかります。付き合っても楽しくない竜なので友達は居ません。それが何か?」

 何だか自分の話を聞いているようだな、と智くんは思いました。智くんも、自分に友達がいないのは付き合ってもいい事が何もないからだと考えているからです。ぼんやりしていて、話しかけられても楽しい会話がなかなか出来ません。

「ぼくたち、似てるよ」

 そう言って智くんはヤトの首の辺りを撫でました。うろこは昨日よりもつやつやとしています。しばらくヤトは撫でられていましたが、時計の長い針が三周するくらいの時間が経つと少し身体を動かして智くんの方を見ました。

「これも、ただ触っているだけですか。昨日のように」

 智くんはヤトを撫でる手は止めずに考えてから、答えます。

「ううん。仲良くなりたいって意味」

「人間の作法とは難しいものですね」

 ヤトは呆れたような口ぶりでしたが、智くんの手から逃げるようなことはしませんでした。真っ黒いうろこを撫でていれば、気持ちが伝わるのではないかと智くんは思ったのです。今日のヤトのうろこは智くんの姿を反射するくらい輝いています。まるで鏡のようです。だからそこに触れていれば、体温が徐々に伝わるのと同じように気持ちもヤトの中に染み入っていくのではないかと思いました。

「ぼくたち、友達になれる?」

 やや緊張しながら、智くんは思いきって尋ねました。こんなことを言ったのは生まれて初めてです。

「お前は」

 ヤトは言葉の途中で智くんの首元に頬を寄せました。あたたかくも冷たくもない不思議な温度がさらさらと流れて行きます。

「一度思い切るとどこまでも大胆なこどもですね」

 夕食後に起こった、今にも食べられそうなとげとげしい触れ合いとは違う、おだやかな触れ方でした。お母さんが頭を撫でるような優しさに、智くんは驚きながらも嬉しい気持ちになりました。しっぽでさわられたことはありましたが、あれは握手のような感覚でした。今の頬ずりはもっと、もっと親しげな何かに感じられました。

「もう寝る時間が近いのではないですか。私の食事を済ませて、今日はもう眠りましょう」

「そうだね、ヤト」

 友達になれるかどうかの返事はありませんでしたが、智くんは満足でした。

 部屋の電気を消すと、ヤトは暗闇に紛れ込みます。でもヤトから香ってくるにおいや、奏でる音が確かな気配を感じさせます。手にした懐中電灯のスイッチを押すと、ヤトのしっぽがするするととぐろの中へしまわれていくところでした。

「ね、ご飯の前にちょっとだけ遊んでもいい?」

「私とお前が一緒に遊べる遊びがありますかね。まぁ、お好きにどうぞ」

 ヤトはそう言いながらも「しゅうう」と落ち着いた息を吐き出したのできっと快く了解してくれたのでしょう。

 智くんは壁に向かって懐中電灯の光をあてました。壁紙が丸くきれいに切り取られるよう調節して、足で押さえます。少し行儀が悪いですが、ヤト以外見ていないのだからかまわないと思いました。

「ええとね、こうして、こうかな」

 智くんが光の中に手をかざし、少し試行錯誤していると壁に影絵の犬が浮かび上がりました。

「あ、ほら出来た。見てヤト。わんちゃんだよ」

 わんわん、と言いながら犬の口を動かすと、ヤトは暗闇の向こうで笑いました。しゃらりという音は、真っ暗な部屋の中で聞くとより謎めいて美しく聞こえました。

「面白い遊びですね。人間の手先が器用だということがよくわかります」

「ね、おもしろいよね。影絵の本があったなぁって思い出して、見てたんだ。他にも出来るよ」

 その後も智くんは狐や白鳥、カニなどを作ってみせました。ヤトはどれも「すごいですね」と言って見ていました。最後にはばたいて飛んで行く鳥を作った時、竜がベッドの上から下りてくる気配がしました。

「ああ、これは美味しそうですね。食べても良いですか?」

 壁紙を丸く切り取った光の中に、ヤトの横顔が影となって映り込みます。智くんのすぐ目の前に近付いてきたヤトは、影よりも真っ黒です。

「私も遊びに混ざりたくなっただけのことですよ」

 そうヤトは言いました。「食べても?」と影絵の鳥に視線をやる表情は、懐中電灯の頼りない明かりに照らされています。何の悪気もないのだと智くんにはわかりましたし、ヤトが遊びにのっかってくれるなんて思いもしませんでしたから、深く考えるよりも先に「うん」とうなずいていました。

「それでは」

 ヤトが大きく口を開き、影の鳥へと迫ります。大きな牙が鳥を捕まえようとします。鳥はただ食べられるのをじっと待っています。ひらり、と智くんは鳥を小さく羽ばたかせてみましたが、何だかかわいそうに思えてすぐにやめました。

 ぱくり。

 ヤトの頭が影絵の鳥を覆い隠しました。牙でぐいぐいと口にふくんだ影を喉のおくに押しやります。智くんはその間、ずっと手を鳥の形にしていましたが胸がざわざわしました。影を飲み下したヤトが離れて行くと、少し薄くなった影絵の鳥が残ります。

「この鳥、もう死んでしまったね」

 智くんは鳥の形に組んだ指をはらはらとほどきながら、ぽつりとそう言いました。言ってしまった後で、今のがヤトに聞こえていなかったらいいなと思いました。食べるのは悪いことではありません。智くんも食事をします。生き物の命をもらっています。でも今の言葉はヤトだけを責めるようで、嫌な言い方だったと思いました。

「ごちそうさまでした」

 ヤトは静かにそう言いました。

 智くんはぱちりと懐中電灯を消します。暗い部屋の中、手探りでベッドの方へ行きました。思ったよりも長く影絵で遊んでしまい、あくびがいくつも出ました。

「寝相には気を付けるから、今日も一緒に寝てほしいな」

 天気予報が当たっていれば、これがヤトと過ごす最後の夜です。別々に眠るのはさびしいと智くんが言うと、ヤトは「仕方ありませんね」とベッドの上に降り立ちました。

「ありがとう。おやすみ、ヤト」

「おやすみなさい」

 ベッドの上はヤトの身体でいっぱいです。智くんはヤトにもたれかかるようにして眠ることにしました。暗闇の中でもしっとりと光るうろこに耳をつけて、目を閉じます。ごうごうという低い音が流れていました。ヤトの息づかいなのか、心臓の音なのか、血液が流れている証拠なのか。答えははっきりしませんでしたが、一つの想像が智くんの頭の中に浮かびました。

 ヤトは一筋の大きな川です。身体の中にごうごうと水が流れています。だから水が跳ねるようにきらめく音が奏でられるし、行きたいところへ流れるように飛んでいけるし、なかなか捕まえていられません。ヤトはごうごう、ごうごうと流れて行きます。人間一人では川の流れを止めることなどできないのでしょう。時に川は荒れ、人を傷つけることもあるのでしょう。それでも智くんはこの優しい川と、いつまでも友達で居たいのです。


 ピンポン、という音で目が覚めました。玄関のチャイムだと気付いた智くんは眠い目を擦りながら起き上がります。ヤトは昨日眠った時と同じ場所に居たので安心しました。窓の外はまだ雨です。ヤトはまだ眠っているのか、目は開いていましたけれどじっとして動きませんでした。

 一人でリビングに向かった智くんが玄関のモニターを見てみると、スーツを着た知らない男の人が映っていました。昨日、ご飯を届けてくれた人ともまた違う人のようです。出ないことにしよう、と決めた智くんは念のため、モニターの映像をながめていました。

 すると、男の人はポケットから紙を取りだしてカメラの方に見せました。そこにはこう書いてあったのです。

「竜が、ここに来ているね?」

 智くんは思わず声を上げそうになりましたが、口を手でおさえました。どこからヤトのことがばれてしまったのでしょうか。ヤトと出会ってから外には出ていないし、窓も開けていません。ヤトの姿はどこからも見えなかったはずです。

 紙には続きがありました。

「竜のことで大切な話がある。下で話をしよう」

 玄関前の男の人は、しばらくカメラの方をじっと見ていましたがやがて去っていきました。こつこつ、と遠ざかる足音が玄関の扉のすぐ向こうから聞こえてきたのが智くんにはおそろしく感じられました。そして「どうしよう、どうしよう」という考えで頭の中が一杯になってしまいましたから、ヤトがすぐ傍に来ていたことにも気付かなかったのです。

「おはようございます。お前、昨日は大人しく眠っていましたね」

 智くんは心臓をどきどきさせながら「おはよう」と言いました。今起こったことをヤトに知られたくなくて、息を必死に整えます。しかしヤトは玄関の方をじっと見やりました。

「百足の気配がしますね。誰か、来ていました?」

「昨日と同じだよ。知らない人」

 うそは言っていませんが、智くんは後ろめたい気持ちになりました。朝ご飯にパンを食べましたが、その味を感じている余裕もありませんでした。いつものようにぼんやりしていたら、玄関にまたあの男の人が来てヤトにひどいことをしたり、連れ去ったりしてしまうのではないかと思ったのです。

「ちょっと出かけてくる。ヤトはまだ外に行かないでね。ぼくが帰ってくるまで待ってて」

 片付けもそこそこに、智くんはマンションの一室を飛び出します。ヤトがどうしたのかと聞きましたが、上手く説明できませんでした。

 マンションの廊下はいつも人通りがなく静かですが、今日は一人も人が居ません。世界全部がヤトと智くんの仲をとがめているように感じられて、不安が胸に押し寄せます。智くんはつきまとう不安やこわい気持ちを振り払うように、誰も居ない廊下を走り抜けました。エレベーターのボタンを押して一階まで辿り着くと、ささやかなロビーにようやく一人の人影があります。ソファにゆったりと腰掛けている男性は、朝一番に智くんを訪ねてきた男の人に間違いありませんでした。ロビーは玄関に近く、雨音がざあざあと聞こえていました。

 息を切らせて智くんが近付いて行くと、男の人は少しだけ口元を緩めて立ち上がります。

「智くんだね。待ってたよ」

 握手をしようと手が差し出されました。その反対側の腕に付けられた腕時計が深い赤色の盤面をしていて、智くんの印象に残りました。


「メモを見てくれてありがとう。早起きなんだね、君は」

 男の人はソファに座るようすすめ、ごく普通の大人がするように智くんの目を見て話しました。ただ、智くんは目を合わせる気分ではなかったので男の人の手元ばかり見ていました。

「おじさん、誰なの」

 早くヤトについてこの人がどれだけ知っているのか聞きたくて、智くんは世間話にろくに返事もしないでそう聞きました。男の人は「レン」と名乗りました。そして、智くんが切羽詰まった顔であることに気付くとすぐに本題を話し始めました。

「君の家に竜が居るね? 竜はとても危険な生き物だ。早く追い出してしまわなければいけない。だが追い出すにもやり方がある。その方法を、俺は君に教えに来たんだ」

 ヤトも、このレンというおじさんも、似たようなことを言うなと智くんは思いました。智くんのことを、竜がどれほど恐ろしい生き物かまるでわからないこどもみたいに見ているのでしょう。智くんはヤトのこわさも充分わかっているつもりです。その上で、友達になりたいし、なれると考えています。

「ヤトは、放っておいて出て行くよ。雨が止んだら出て行くって最初から言ってるんだ。ぼくが引き留めても聞いてくれないんだ」

 思いがけず、すねたような口調で智くんは言います。

「竜の名前かい? ヤトというのは。君が付けたのではなく、竜が名乗ったのか」

 こくりと智くんは頷きました。それのどこがいけなかったのか、レンは大きくため息を吐いて顔を手でおおいました。

「それは本当の名前じゃないだろうな。『ヤトノカミ』というのが、この街にいる竜の種族としての名前だ。ヤトとは恐らく、そこから二文字取ってきただけの簡単な偽名だよ。

 この街にいる竜ならどの個体でも自分のことだと錯覚するだろう。具体的に言えば、君がうっかり『ヤト』と外で口にでもすれば大勢のヤトノカミが集ってきてしまう。とても危険なことだ」

 レンは「こんな小さなこどもにひどいことをする」と同情した目で智くんを見ました。本当に可哀想にと思っている目でした。レンは決して智くんのことは馬鹿にしていませんでしたし、慰めようとしていました。でも智くんには全部とても嫌なものに感じられたのです。

「ヤトは悪い竜じゃない。ぼくに優しくしてくれた。

 おじさん、ヤトを見たこともないのに勝手に言わないでよ。初めて出来た友達のこと、そんな風に言わないで」

 ざあざあ、ざあざあと雨が降っています。夕方に止むとは思えないほど降り続いています。

「君の傍に居る『ヤト』は君のことを思いやってなんかいない。そうじゃなきゃ、そんなおそろしい名前を教えない。まるで君が竜に狙われるよう仕向けているみたいじゃないか。

 智くん、ヤトは悪い竜だ。君を騙そうとしている」

 智くんは小さな怒りや不安をごまかす為に足をゆらゆらさせ、レンは何とか智くんをなだめようと低い声で淡々と話しました。

「二日前に竜が落ちる姿を確認した。それからこの周辺は立ち入り禁止になっている。君のお父さん、お母さんが帰ってこないのはそれが原因だ。竜を大人しく立ち去らせなければ、君の日常は帰って来ない」

 お父さんとお母さんの話が出て来て、智くんは初めて心が揺れました。ヤトと家族のどちらが大事かと聞かれると、答えられません。

「竜の扱いは難しい。ちょっとしたことが災害を引き起こす。君の家に居る竜を刺激しないよう、最大限に注意しているんだ。君をいち早く家から助け出せなかったことは申し訳ないと思っている」

 レンは深い赤色をした腕時計をちらりと見ました。分針の動きを神経質に追った目はその鋭さをたもったまま智くんのほうへと注がれます。レンは智くんを慰めたり、謝ったりと悪い大人ではないようですが、そのどれもが智くんにとっては的外れでした。

「君の身も危ないんだ。

 そうだな、竜は影を食べる。君の家で何か食べる素振りはあったかい?」

「ぼくの影を食べた。おいしいって言ってたよ」

 このロビーはどこからも離れた特別な場所のように感じられます。レンと智くん以外の人間は誰一人通りかかりませんし、雨に遮られて外の音はざあざあという音以外何も聞こえてきません。

 レンはテーブルの下をのぞき見るようにして智くんの影を確認しました。それで、智くんは今朝ヤトに影をあげるのを忘れていたことを思い出したのです。「ヤト、ごめんね」と心の中で呟いて、こんな風に思うこともレンはため息を吐いて可哀想にと言うのだろうなと考えました。

「ヤトノカミは、影を通して人間の信仰心を食べている。

『信仰』ってわかるかい。簡単に言うと、何かを信じることだ。竜は人間の信仰がないと生きていけない。竜をこわいと思う気持ち、竜を尊敬する気持ちで竜は生きている。

 竜が自分達をえらそうに見せかけるのは、生きる為だ。人間に恐れられたいからだ。尊敬されていたいからだ」

 ざあざあ、ざあざあ。

 レンから聞く竜の生態は冷たさがまとわりつきます。ヤトと竜の話をした時に感じたわくわくする気持ちは欠片もありません。

「君に優しくしたのは、君の影を食べたかっただけだろう」

「そんなことない」

 レンがあまりに強く断言するので、弱気な声になってしまいました。もしかしたら、本当にレンの言う通りなのかもしれません。今まで大人たちが繰り返し竜について注意してきた声も重なるようで、智くん一人が違う考え方を持ち続けるのは難しかったのです。

「いいかい。竜は簡単に人を殺す。今、俺が心配しているのはその『ヤト』とやらに君が殺されないかということだ。出来る事ならこのまま君を保護したい。でもきっとそれは竜の機嫌を損ねることになる。ここら一帯が洪水にのまれることになっても困るじゃないか」

 ヤトは大きな川みたいだし、神さまとそう変わらないと言っていたので、洪水なんて簡単に起こせるのでしょう。ヤトが黒くにごった水になって、街をあばれ回る姿なんて智くんは想像したくありませんでしたが、ヤトならやれるだろうと思いました。

「一つ確認なんだけれど、君は『ヤト』をこわがっていないね?」

「うん。ヤトは優しいからこわくないよ」

 ざあざあ、ざあざあ。

「竜に心を許してはいけない。竜と人が一緒に暮らすことは出来ないんだよ。竜を愛してはいけない。好きになってはいけない。

 竜の生態をもう一つ教えてあげよう。彼らは信仰のつまった影を美味いと感じる。だがそれ以上に美味いと感じるのは、自分達への愛や好意がつまった人の血肉だ。彼らは人間に愛されれば、そのお返しだと言って人間を一家全員まとめて食べる。それが竜という生き物の考え方なんだ。言葉で説得できる相手ではない。

 ヤトを好いてはいけない。ヤトに好かれてはいけない」

 昨晩、ヤトがぼくの喉元に牙を突きつけたのはどうしてだったのだろう。ぼくを突き放すようなことを言うのはどうしてなのだろう。その答えが今のレンの言葉にある気がしました。

「ただ一つ逃げ道があるんだ。竜が人を食べるのはね、人間が『食べても良いよ』と言った時だけだ。じゃあそんなことを言わないようにしながら竜と付き合えば良いと思うかもしれない。だが竜は賢い。言葉巧みに『良いよ』と言わせる。だから竜と決して話してはいけない。話そうとする切掛けも与えてはいけないということになったんだ。

 大人たちはしつこいくらい、この話を何度も君にしたんじゃないかな」

 でも君は言いつけを破った、とレンは何回目かわからないため息を吐いて俯きます。ちらりと見えたネクタイに、百足の柄がしずしずと縫ってありました。このおじさんは竜が嫌いなのだな。ヤトから聞いた話を思い出して智くんは一人で納得しました。

 ざあざあ、ざあざあ。

 マンションの外には立ち入り禁止のテープが貼られていて、何人もの大人が竜をどうしたものかと困ってうろうろしているのだとレンは言いました。人が殺されるのも食べられるのもいや、災害が起こるのもいや。俺たちは何も失いたくないから、何もできないんだよと彼が言うと、腕時計がチカリと光ります。

「だから君にお願いしにきたんだ、智くん。竜をそっと追いはらって欲しい。怒らせることも殺されることも食べられることもなく、そっと追い出してほしい」

 ざあざあ、ざあざあ。

 どしゃぶりだった雨は、少しずつ弱くなってきています。

「それ、どうすればいいの?」

 レンと考え方は合いませんが、一応聞いておこうと智くんは思いました。

「簡単なことだよ、簡単なことだ。

 こわいと思う気持ちはヤトを強くするから今さらこわがるのは良くない。

 こわがるんじゃなく、嫌いになりなさい。そうすればヤトは他の人間を求めてどこかへ行くだろう」

 こんなに好きになったのに、と智くんは思いましたがレンの言ったことは忘れないように頭の中で繰り返しました。洪水が起こる、殺される、食べられるなど物騒なことばかり聞かされて弱気になっていたのです。

「おじさん」

 レンはもう言うべきことは全部言い終わったようで、ソファから立ち上がりました。

「昨日まで、ずっと俺たちは竜が勝手に出て行くのを待ってたんだ。でもなかなか出てこないから、もう君が殺されているという想像までしてた」

 智くんの呼びかけは小さな声でしたから、届いていないようです。

「雨が上がる前に君と話せて良かった。君が何も知らないままだというのが、俺は一番いやだった」

 智くんはこの、悪い人ではなさそうなおじさんに一つ聞いてみたいことがありました。

「ねえおじさん」

「何かな」

 雨音はさらさら、というくらいの音に変わっています。

「おじさん、竜がきらいそうなのに竜にくわしいね。どうして?」

 レンはもう智くんの方を見ませんでした。マンションの入り口の方へと足を向けます。

「昔、俺の母さんがヨルって竜を愛してしまった。母さんはヨルに食べられた。それからずっと、俺はヨルにねらわれ続けている。母さんの息子だからだ。迷惑な話だよ。こんな思いをする人間をもう一人も増やしたくない。

 人間にしがみつく竜はみにくい。『ヤト』のことも気高い竜のままにしてやった方がいいよ。俺は綺麗な竜が好きだった」

 腕時計の赤色がちかっと光ります。智くんは、百足の頭もあんな風に深い赤でちらちら光るのだっけと思い出していました。


 部屋に戻ると、ヤトは「遅かったですね。どうしました」と尋ねてきました。時刻は昼と夕方の間です。もう雨は上がりそうでした。時間が無い、と智くんは思ったのです。だからつい、ぽろりと口に出してしまいました。

「ヤト、ぼくのこと食べたい?」

 その言葉を言い終わらない内に、ヤトの瞳に緊張がはしるのが見えました。空気を大きく吸い込み、ヤトの身体がふくらみます。うろこがぱしりぱしりとひび割れるような音を出しました。

「影じゃなくて、ぼくの身体のことね。昨日のはきっとぼくをこわがらせるためのお芝居だったんだろうけど、ヤトの本当の気持ちが聞きたいよ。ヤト、ぼくのことどう思ってるの」

 ヤトは頭をうずめるように丸くなりました。

「わたしは」

 こもった声が真っ黒い竜の身体の奥から聞こえてきます。

「ああ、ああ」

 苦しそうな声は痛々しくて、智くんの心まで傷つきました。こんな風にヤトに聞くんじゃなかった、もっと大人たちがするような遠回りな言い方をすれば良かったと思っても、もう時間は戻りません、

「誰から聞いたのです、一体誰から。どの竜が漏らした」

 いつも穏やかだった声色は低く低くなり、うなるような呪うような音に変わっていました。

 丸くからまった身体の隙間から、ヤトの黒い目玉がらんらんと智くんの方を見ています。蛇が狙いをさだめた時の目によく似ていました。

「竜が人間を食べる時、どんな思いを抱いているのか、お前は知っているのですね!」

 ヤトはそう叫び、かっと口を開いて智くんの方へと飛びかかりました。何の準備も出来ていなかった智くんは倒れ込みますが、尻餅をつきそうになったところにヤトの身体が滑り込んできました。するするとヤトの胴体が絡みつき、智くんの身動きを封じます。抱き締めるよりも強く、締め上げるよりも弱く。

 大きく開いた口からむきだしの牙が鋭く飛び出します。勢い良く、今度こそ智くんの首元へと迫りました。しかし、ゆるゆるとその速度は落ちていきました。

「ためらいなく、食べられれば、どんなに良かったか」

 噛みしめるようにヤトは言います。

「私たちにとって人を食べるということは、その人間のからの愛を受け取ったということです。血肉を食べるとは人間からもらった愛に応える行為です。私はそんなことだけはしたくなかった。人間なんて好きになる価値も嫌いになる価値もない生き物だと思っていましたから。どうでもいい生き物を自分の身体の中に取り入れて愛を証明するなんて、私は絶対に嫌でした」

 蛇は涙を流せないのだ、とどこかで聞いた話を智くんは思い出します。ヤトが本当は泣きたいのかもしれないと思ったからです。竜であるヤトにどこまで蛇の話が通用するのかは分かりませんが、少なくとも今、ヤトは涙を流していないにもかかわらず泣いているように見えたのです。

「どのみち、竜の威厳を失わせるような姿を見たお前を生かしておくことなど考えていません。最初は殺そうと思っていたのです。ですから今、別れ際に私がする選択は二つだけです。殺すか、食うか。お前の好意などどうでも良いのか、受け入れるのか」

 ヤトの口元からしゅうしゅうと息が漏れ、けむりとなって立ちこめます。

 君のことなんか嫌いだ、と拒絶するべき時は今でしょう。竜は智くんが愛情を持っていることを信じて疑っていません。レンの言った通り、智くんの命を守るための言葉はそれしかありませんでした。今であれば、嫌いだと言われたヤトが戸惑った隙に逃げ出せるでしょう。それで、ヤトは智くんを諦めるかもしれません。

「お前は、お前は何も知らないで私の選択を待っていれば良かったのです。私の好意のあるなしなど、人間に知られたくありませんでした。竜にさえ知られたくないのに」

 智くんはけむりの中でヤトを見つめます。目が、きらきらとしていました。とてもきれいでした。ばちり、とヤトの角の先で火花がはじけます。レンは、こんなヤトのことを指して『みにくい』と言ったのでしょうか。

 智くんは顔をほころばせます。

「ヤト、大好きだよ」

 智くんはヤトのことが好きです。話していると楽しいし、ヤトは智くんがぼうっとしていてもじっと待ってくれます。よく笑ってくれるし、嫌なことはしません。

 智くんはヤトの瞳が好きです。ヤトのうろこが好きです。七色に輝いてはしゃらりと音をまとうヤトの動きが好きです。七色を全部ふくんだ黒色が好きです。

「殺したかったら殺してもいいよ。ぼくは君のこと好きだから残念なことだけど。

 食べたいなら、食べてもいいよ。ぼくのこと食べ尽くしてもいい」

 ヤトの匂いが好きです。遊びに付き合ってくれるところが好きです。ヤトの全部が好きでした。

「お前はばかなこどもです。こわがるか嫌うかしなさい」

 竜は静かにまばたきをしました。古めかしい香りがけむりに乗ってふうわりと智くんの鼻をくすぐります。

「その告白で、私の食べようという気持ちが固まってしまったのですから、本当にばかですよ、お前は」

 竜は口を再び開きました。立ち上がった牙は半透明に向こう側を映し出します。

「いただきます」

 智くんはヤトと自分が同じ気持ちだということにはほっとしました。ですが後悔もありました。食べられてもかまわないのは本当の気持ちです。ただ、どうしてもこわさを捨てることはできません。ヤトの身体にぐるぐると巻かれながら、智くんはふるえていました。そしてあることを言い忘れていたと思い出したのです。

「あ、でも食べるなら少し待って。ぼく、お父さんとお母さんのことが気になってるんだ。ヤトの仲間は好きになった人間の家族まで一緒に食べてしまうって聞いたから。

 ぼくのことを好きになってくれたんだから、ぼくのことは食べてもいいよ。でも他の人は止めて欲しいんだ。ね、おねがい。おねがいだよヤト」

 ヤトはようやく、ふふっと笑いました。

「命乞いもそれくらい必死にしてください。私が不安になります。人間はもっと自分勝手な生き物だと思っていましたから、拍子抜けしていたところです」

「ごめん。でも難しいよ。急だったもの」

「そうですか」と言ったヤトはじっと何事か考えていましたが、次第に智くんに巻き付く身体を緩め始めました。

「気が変わったの?」

「どうでしょうか。ただ、お前を食べるにはもう時間が無いようです」

 ヤトはきらりと音を残しながら智くんから離れていきます。そしてやって来たベランダに向かうと器用にカーテンと窓を開けました。

「明日、食べに来ます。約束です」

 竜が今までで一番優しく微笑むと、お日さまの光に照らされたうろこがきらきらと燃えました。雨はいつの間にか止んでいたようです。智くんはヤトに見とれて、眩しさに目を閉じました。次に目を開けたとき、ヤトはもう夕暮れの空の彼方、遠く高い場所へと飛び立っていました。部屋にはヤトの残したけむりだけがもくもくとゆれていました。



 マンションに落ちてきた竜は帰っていきました。部屋に居たこどもを殺すことも食べることもせず、災害を振りまく気配も見せず帰っていきました。レンたちの見張りは終わるかと思われて、みんなほっとしました。しかし、智くんに事情を聞くとまた明日来る約束なのだと言われたのでまた重苦しい空気になってしまいます。

 夕暮れが過ぎて夜がやって来ました。曇り空で、みんな下を向いて帰ります。レンもその中の一人でした。じっとレンが地面をにらみつけるようにしながら帰っていると、声がかかります。

「レン、こんばんは。素敵な天気だね。曇りの日は人間と竜の境界が曖昧だ。今日はヨルに食べられるにはもってこいの日だよ」

 きゃりきゃり、とうろこの重なる音とともに、喉元がほんのり黄色いヤトノカミが下りてきていました。これがヨルです。レンのすぐ横を泳ぐように飛びます。レンは何も言いませんでした。

「絶対に痛くしない。ヨルはレンのことが大好きだからね。ねぇ、今日も気分じゃないのかい」

 レンは腕時計を確認し、帰り道を急ぎます。

「また無視だ。構わないのだけどね」

 ヨルは楽しげに話し続けました。くるりとお腹を上に向け、竜はたわむれるように飛びます。空にうっすら見えるお月さまと、ヨルの喉の黄色い模様はそっくりでした。

「じゃあ、レンが年老いて死んでしまったら、その時ヨルのお腹に入れてもいいかい」

「良い訳ないだろ」

 吐き捨てるようにレンが言うと、くるくるとヨルはその場で回りました。

「わあ。返事してくれたね。何年ぶりだろう」

 竜はしゅるりと飛び上がり、レンの行く手を阻みます。

「ヨルと一つになろうよ。血肉を失うだけのことだよ。レンの父親も母親も、祖父母も兄弟もみんな最後には『いいよ』って心から言ってくれた。だからレンも同じが良いだろうと思う。レンも早く来るといいねと言っているよ。こわいことではないのだから、ねえ、こちらをむいて、レン」

 レンはヨルに触れることもせず、横を無理やりすり抜けて行きます。ネクタイを軽くゆるめると、ヨルはびくっとして道を開けるのでそれを利用したのでした。

「レンは母親のアオイ似だね。似ているのは姿だけだけれど。アオイはヨルに名前をくれた。ヨルに一番優しくしてくれた。ヨルもアオイのことが一番好きだった。だから一番に食べた」

 苛立った様子を何とか隠して、レンは時計を見つめます。もうすぐ時間でした。三、二、一、とレンが心の中で数え終わるとヨルがぐいと顔を背けました。

「ああ百足の嫌な気配がする。今日はこの辺りが限界だね。退散するよ」

 一族の生き残りを狙う竜は執念深い。レンは経験でそのことを痛いほど知っています。

「百足を身に着けたのは良い考えかもしれないね、レン。でもヨルはそんなことでレンを嫌いになったりしないよ。愛が深いと言われているからね、竜ってものは」


 レンの所からきゃりきゃりと身をよじり、ヨルは曇り空の低いところを飛んでいきます。レンの他に食べたい人間も居ないのですが、曇りの日はつい癖で人間に近いところを飛んでしまうのでした。

 誰も彼も、竜と目を合わせないように目を伏せて歩いています。下を向いた頭を上からながめながら、ヨルは空を飛んでいきました。山にある洞窟にでも行って休もうか、などと考えているとあまり知らない竜が横に並んできました。ヤトです。

「ああ、君の名前は何だっけ。忘れてしまったな。思い出すから少し待って」

「名前などどうでも良いのです、ヨル。私はあなたのことを知っているのですから」

 二頭の竜は曇った夜空の中、雲をかき分けながら飛びました。

「あなたは人間を食べたことがあるのですよね」

「そうだよ。でもヨルはまだ食べ残しているからね、不完全だ。愛した一族はみんな根絶やしにしないといけない」

 ヨルはぐるりと身体をひねりました。昔に食べた人間のことを思い出しているのか、うっとりとした表情をしています。ぼんやりとした月の光をあびて、黒い身体は銀色に光りました。

「他の方には言わないで欲しいのですが、私も人間を食べようか迷っているのです」

「わあ、君もか。人間はいいよね。愛しがいがあるよ」

 ヤトはそれにすぐ「はい」と言えませんでした。悩んでいたのです。明日のことを考えると、気持ちがぐらぐらと揺れ動くのです。

「ゆううつそうな顔をしているね。そう深く考えず、食べた方がいいよ。ヨルも十三年前、アオイを食べるかどうかでずいぶん迷った。けれど食べて後悔したことなんてなかったよ」

 竜が人間を食べる前にためらう理由は色々です。ヨルはそれを聞かせてくれました。ヤトに優しくしたかったのか、思い出を話したかっただけなのかはわかりません。

「ヨルはアオイが好きだったけれど、中でも声が一番好きだった。喉をかわいらしくふるわせて『ヨル』と呼んでくれるのが好きだった。それで、最上の愛をおくるのをためらった。食べてしまえばもう二度と喉がふるえることは無いからね。血肉はヨルのお腹の中で全てとけてしまう」

 ヨルは話しながら、だんだんと飛ぶスピードをあげました。ヤトもその後を追いかけていきます。冬のつめたい空気を切り裂くように飛ぶと、冷え切った空気は風になってびゅうびゅうと悲鳴をあげました。

「でもね、人間の命なんてどうでもいいものだよ。ヨルたちは竜だ。竜は人間をあわれまない。人間のちっぽけな命より、自分が愛したいかどうかで全部決める。乱暴に、あらあらしく自分勝手に在るのが竜だ。死んでしまうのがかわいそうだとか、食べてしまったら何が失われるのかとか、そんなことを考えていたらヨルたちは竜でなくなってしまうよ」

 何だかヨルの言い方は、ヤトにお説教をしているようでいて、ヨル自身に言い聞かせているような言い方でもあるなとヤトは感じました。

「君はあまり話さない竜だね。ヨルはついつい話しすぎてしまった」

 黄色がかった喉のうろこをきらめかせ、ヨルは口をつぐみました。ヤトが話すのを待っているのです。ヤトはびゅうびゅうと鳴る風の中で、前だけを見て飛びながら深く考え込みました。ヨルはヤトの考えがまとまるまでの間、寄り添うように飛んでくれました。

 やがて、ヤトは慎重に口を開きました。

「あなたは、人間をあわれんでいるように見えます」

 今度はヨルが黙る番でした。ヤトのすぐ傍を飛ぶ竜は、相槌代わりにきゃらりと身体をゆすらせるだけです。

「人間の命をどうでもいいものだと思っていたら、十三年前だなんて細かい年数を覚えていないのではありませんか」

 長く生きる竜にとっては、一年ごとの区切りなど覚えておくのがわずらわしいほどの短い区切りです。百年、千年といった単位でものごとを語るのが普通の竜でした。ヨルは小さく何か呟きましたが、風に流されてヤトには聞こえませんでした。

「それに、アオイという方の一族を根絶やしにするのに手間取っているようですが、手加減しているのではありませんか。あなたは、アオイの親族から、アオイと同じ匂いのする人間から、またヨルと呼んでもらえる日を待っているのではないでしょうか」

 しゅうしゅうとヨルは息を吐き出しました。怒っているのかとヤトは思いましたが、ヨルは黙ってヤトの傍を飛び続けています。ただ、飛ぶ速度はまた少し速くなったでしょうか。

「全て私の勝手な考えです。気分を害されたら申し訳ありません」

 ヤトが謝ると、ヨルはぺろりと舌を出して呼吸を整えます。

「君は友達を作るのに苦労しそうだね。でもヨルは君のことが嫌いではないよ」

 ふと辺りを見渡すと、街の周りにある山の方まで来ていました。あんなに飛び続けたのだから、当然のことでした。しかしヤトはこんなに遠くまで来てしまったことに驚いていました。考え事をしていると、時間も景色もあっという間に流れて行きます。

 ヨルは山の中の方へと飛ぶ方向を変えました。ヤトもその後に続きます。地面近くまで下りていき、一つの洞窟に辿り着きました。ヨルが今晩休む場所なのでしょう。

 ヨルは身体を洞窟の中に落ち着けると、外で見ているヤトに向かって言いました。それはとても落ち着いた声でした。

「竜はあらあらしく在り、人間をあわれまず、乱暴に人間を愛する。これは理想の話だよ。ヨルは自分のことをそういう竜だと思っている。君もそういう竜でいた方が強くいられる」

 曇った夜の中でも、洞窟の中はとびきり暗くなっています。ヨルは暗がりに身を隠し、声だけがヤトに届きました。

「それをつらぬけるほど、強くはないようです。私も、あなたも」

 洞窟の中からくしゅるる、と笑うような声が聞こえてきました。

「初対面の竜に対して、君は踏み入ったことばかり言うね。ヨルのことなど、誰にもわからないよ。でも君に色々話しすぎたヨルも悪い。

 もうおやすみ、今晩は悩まずによく休めそうかい。君の名前は思い出せずじまいだったね」

 そう言って、ヨルは洞窟の奥の方へと姿を消しました。

 ヤトは「おやすみなさい」と言って空へ飛び立ちます。空は夜が深まるにつれて、少しずつ晴れてきたようでした。月がさっきよりも強く、ヤトの身体を照らします。

 ヤトは悩んでいました。智くんを食べることで、自分が変わってしまうことがこわかったのです。そして、智くんが居なくなってしまうという、とても単純なこともこわかったのです。

 それにヤトは、智くんから「家族は食べないで」と言われたことがずっと心の中に引っ掛かっていました。

 智くんの悲しむことはしたくありません。しかし智くんを食べてしまえば、きっとヨルのように、智くんの面影を求めてあの子の一族にも手をのばしてしまうでしょう。

 そんな心配とは関係なく、智くんを食べたい、あの子の示してくれた愛情に精一杯の愛で返してやりたいと思う気持ちはヤトの中で暴れ回っています。

 どうしたものか、とヤトは夜空を飛び続けました。答えは夜空のどこを探してもありませんでした。



 ヤトがマンションから居なくなった次の日の朝、智くんの家にレンが訪ねてきました。ここには竜が戻ってくるからまだ他の人を入れる訳にはいかないらしく、智くんはお父さんとお母さんにまだ会えていません。

 レンはやっぱり赤い腕時計をして、百足が縫われたネクタイをしていました。そして玄関から入ってくることもなく、智くんにこう言いました。

 一晩経てば「ヤト」も冷静になっているだろう。嫌いだと伝えてももう意味は無い。もう取るべき行動は一つだ。

 何も言ってはいけない。好きだと言えばヤトノカミは君を愛して食べ、嫌いだと言えば機嫌を損ねたヤトノカミが君を食べるだろう。

 もう何も興味が無いと言うように、見えてもいないと言うように黙るんだ。それを貫き通せば良い。いいね。

 真剣な顔をして話し終えたレンは、智くんの返事を聞くこともなく去って行ったのでした。早くしないとヤトが来てしまうと焦っているようでした。

 昨日の晩に智くんが大人たちの話を聞いたところ、ヤトがマンションをいったん離れたうちに智くんをここから連れ出してどこか安全なところに隠れようという話もあったのです。しかし智くんが居なくなればヤトは機嫌を損ねてこの街が全部水底に沈んでしまうかもしれないと大人たちはその作戦を諦めました。レンはその決定に嫌な顔をしていました。

 けれど智くんはヤトとの約束を破りたくなかったので、それでいいと思っていました。ただお父さんとお母さんのことだけが心配でしたし、ヤトに食べられる前にもう一回くらい二人に会いたい気持ちがありました。

 智くんはベランダの窓もカーテンも開けっ放しにして、ヤトを待ちます。

「約束だからね」

 ぽつりと呟き、智くんはリビングの床に座りました。空は晴れています。はるか遠くの空に時折何かが光っているのは竜のうろこでしょう。ですがどれもヤトではありません。智くんは、どれだけ遠くてもヤトの光を見分けられる自信がありました。

 智くんはヤトを待ちました。慣れ親しんだ部屋とのお別れをしながら、晴れ渡る空を見つめてヤトを待ちました。

 けれども、ヤトはいつまで待っても来ませんでした。

 昼になり、夕暮れになり、日が沈んでも竜は来ませんでした。

 一日が終わってしまうと、おそるおそるレンたちがやって来て智くんに話を聞きましたが智くんにも何もわかりません。

 それから一日経っても、二日経っても、一週間経っても、一月経ってもヤトは来ませんでした。

 段々と智くんの日常が戻って来ます。お父さんとお母さんは家に帰ってきて、たくさん智くんを抱き締めたあとに言いつけを守らなかったことを叱りました。マンションの空気は緊張したものではなくなりました。レンたちは時々様子を聞きに来ますが、いつも智くんのお父さんに「何も起こっていない」と言われて帰るだけです。

 ヤトは、智くんと過ごした日がうそだったかのように消えてしまいました。

 ただ一つだけ、前までと違うことがありました。

 いつの間にか、ヤトが最初に現れたベランダに一本の杖が落ちていたのです。百足の柄が絡みつくように描かれている、古めかしい杖です。まるで竜のうろこから切り出したかのように黒々としていました。光が当たると夏の川が飛沫をあげるようにきらめきます。これは、ヤトが笑った時に見えたうろこのかがやきとそっくりなのです。

 智くんは、竜と百足についてヤトが何か言っていたことを思い出しました。

 この杖はヤトがくれたものなのでしょう。そして、ヤトはもう二度とここに来ないつもりなのでしょう。

 ヤトが最後に残してくれた意思なので、この杖はずっとベランダに置いています。それからというもの、ベランダから竜を見かけることは無くなりました。

 ヤトが来る事なく、冬が終わっていきました。


 春の曇った日のことです。桜がひらひらと舞う中を、学校帰りの智くんは人通りの多い道を歩いていました。ゆるい陽射しが、輪郭のぼやけた影を地面に作り出しています。曇り空を見上げないようにしながら智くんは歩きます。

 ヤトのことは忘れた方が良いのかもしれません。けれど智くんはざあざあという雨音にヤトが来た日を思い出します。ごうごうという音がすれば、ヤトの身体にくっついて眠ったことを思い出します。きらりと光るものを見つければ、ヤトのうろこを思い出します。

 しゅるりと、黒い大きな竜が人間たちの頭上を通り抜けていきます。しゃりり、と上品な音を立てていましたが、誰も竜の方を見ないので飛び去ったようです。

 ヤトがいなくなってから曇りの日は何度かありました。ですから、智くんのすぐ近くを飛ぶ竜も何頭かいました。けれどどれもヤトではありませんでした。竜はどれも良い匂いを漂わせてきれいな音をまとうけれど、一頭一頭、違いがあるようなのです。智くんはいつも、近付いてきた竜の香りにヤトとは違うなと思いましたし、立ち去っていく時のうろこの音に耳をすませては「やっぱり違った」と思いました。

 智くんは、竜のことが好きなのではありませんでした。ヤトだから好きだったのです。

 さて、先ほどの竜はかなり大きな龍だったようで、立ち去る時に大きな風を巻き起こしました。それで智くんの帽子は飛んでいってしまいました。思わず智くんは「あっ」と言いながら帽子の行方を目で追いました。あまり空を見つめないよう、手で目元を隠してはいたのですけれど。

 その時、はるか遠くに飛ぶ竜を見ました。晴れた日でもないのにめずらしいな、と智くんが考えたのは一瞬のことです。その竜は悠々と飛びながら、智くんの方に顔を向けていました。

 目が合いました。

 いけない、と智くんは目を逸らそうとしました。けれど不思議なことに、竜の方から顔をそむけたようです。

「ヤト?」

 智くんは小さな声で呼びました。不思議な竜から目が離せませんでした。

 ぱさりと離れたところに帽子が落ちます。誰かが上を見上げたまま動かない智くんを心配して近寄ってきています。

「君、空を見上げてはいけないよ。竜が飛んでいる」

 親切な誰かが帽子を拾い上げ、智くんに話しかけています。でも智くんは竜に目をこらしていました。あともう少しお日さまが強く照っていれば、黒いうろこがきらめいてその光の様子でヤトかどうかわかったでしょう。しかし分厚い雲がお日さまをかくしていました。

 竜はこっちに来ようともせず空を駆けています。あれはヤトかもしれない。智くんはだんだん、ヤトに違いないと考え始めました。

 竜が目のあった人間を放っておくなんてことは決してないのですから。そんなことをするのはヤトだけです。智くんを食べる約束を破ったひどいひどい竜のヤトだけです。

「待って。待ってよヤト!」

 智くんが遠くを飛ぶ竜に聞こえるくらい大きな声で呼びかけます。すると途端に、周りの空気がざわざわし出しました。

 しゃんしゃん、しゃらり、かしゃららら、とあちこちからうろこの音が鳴り始めます。智くんは、レンが言っていたことを思い出しました。

「君がうっかり『ヤト』と外で口にでもすれば大勢のヤトノカミが集ってきてしまう」

 ヤトノカミが集まってきています。空は竜の黒い身体で黒っぽくなりました。ただでさえ雲にかくれて弱くなっていたお日さまの光は完全にさえぎられてしまいます。

 まるで夜中になったような有り様に、そこらを歩いていた人たちもみんなざわめき出しました。

 呼ばれた、人間に呼ばれた、小さい人間が私たちの名前を大声でさけんだ、それもこんな曇った日に。遊んでやろうか、罰をあたえてやろうかと竜はきれいな音を重ねながら何頭も集まってきます。みんな、智くんのことを探していました。

 街を歩く人は建物の中に逃げた方が良いと騒ぎ出しています。智くんはその場から動けないでいました。帽子を拾ってくれた誰かは、呆然としている智くんを抱き上げようとします。

 けれど人間よりも竜の方が動きはずっとすばやくて、力も有り余っていて、もうここで全て終わってしまうのだと思われました。

 その時、ぴしゃり、という音と一緒に雷が光りました。ヤトの角から散った火花と大層よく似た色をした雷でした。一瞬あとに、ばりばりと空気を引き裂き、ヤトノカミの群れを突っ切って見覚えのある竜が地面に降り立ちました。

「私のものです。手を出さないでください。私の名です、ヤトというのは」

 抱きかかえられた智くんのすぐ傍に立ち、こわい顔をして竜たちを睨みつけているのは間違いなくあのヤトでした。集まった竜は本気の喧嘩などする気が無かったのか、どこかへ散らばっていきました。

「君、竜だよ。危ないから一緒に行こう。逃げた方がいい」

 智くんは知らない男の人に抱えられました。本当はヤトに向かって何か言おうとしたのですが、言葉が出て来ません。ヤトは約束を守りに来たのでしょうか。今から智くんを食べてしまうつもりなのでしょうか。

 ヤトと智くんはお互いを目で追いました。ヤトの身体にはまだぱりぱりと雷のあとがくっついていて、きっと男の人が引き離していなくても、ふたりが近づく事は出来なかったでしょう。

「ややこしいことになるから呼んではいけないと言ったではありませんか」

 おだやかに笑ったヤトはそう言います。ふたりの距離は離れていきます。

「もう呼ばないでください。わざわざ名前を言わなくても、ずっとお前を見ていますから。私の智」

 男の人が乱暴に、智くんの頭に帽子をかぶせました。視界がおおわれて目の前が真っ暗になります。何とか智くんが帽子のつばをぐいと上げると、ヤトの姿はさっきよりも遠くなっていました。

「私の目を見て、私に名前を教わって、私に見守られる智ですから、『私の』と付けてもきっと構いませんね」

 智くんは何も言いませんでしたが、ヤトは元々周りの音など聞いていないような様子でした。ずっと一人言を喋っているようなのです。智くんの喉の奥で言葉はからまったようになっていて、何一つ上手く出て来ません。ようやく出て来そうだったのは「ヤト」という言葉だったのですが、もう呼ばないで欲しいと言われてしまった後だったので黙るしかありませんでした。

 ヤトはしゃりんと首をひねり、丁寧に智くんに頭を下げました。

「では。もうお前にこうして関わることはありません。私は弱い竜なので、お前もお前の家族も食べそうになります。そうするとお前が悲しむので、いっそお前に深く関わらないようにしようと決めたのです。今日は力を使いすぎて疲れ果てているので食べませんけれど、次はどうなるかわかりません」

 智くんを抱えた男の人が近くにあったビルに駆け込むのと、ヤトが飛び立つのは同時でした。

 それきり、竜がこの街に降りてくることは滅多になくなったのです。

 ただ、智くんは気付いています。神社の前を通ったあと、影が少し薄くなっていることがあるのでした。ヤトの仕業かは解らないけれど、竜がこっそりと人間に近寄った跡なのだと、数少ない人間だけが知っています。



 この街で、空に向かってヤトと呼んではいけません。晴れの日も、雨の日も、どんな天気でもです。

 それはある一頭の竜の名前です。ヤトという竜は、仲の良い一人の男の子を食べたがっています。だからこの街で誰かが「ヤト」と呼びかけると、男の子に名前を呼ばれたのだと思ってどんな天気の日だろうと下りてきてしまうのです。お腹を空かせて、大きな口を開けてやってくるのです。

 だから決して、ヤトを呼んではいけませんよ。

 竜を間近で一目見たくても。ヤトと仲良くなれる自信があっても。どうしてもヤトに会いたくても。

 竜と人は交わらない方がきっと幸せなのですから。

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ぼくの影を食べた竜 とろめらいど @RinDraume

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