恋愛学講義

梨本モカ

恋愛学講義

 神様、どうかこの恋を叶えてください。一体何度、そんな願いを聞かされたことだろう。手を貸したい気持ちはある。それは本当だ。しかし、悲しいかな。わたしは学業の神様であって、恋愛は管轄外だった。

 わたしのところに恋愛成就の願い事が持ち込まれるようになったのには、単純明快な理由がある。わたしのまつられている神社が恋愛映画のロケ地として使用され、その映画が大ヒット。つまり、いわゆる聖地巡礼だ。

 とはいえ、それももう、十年前のこと。今では元通りの閑散とした境内が戻っている。管轄外の願い事の山に頭を悩ませる必要はなくなっていたが、相変わらず、恋やら愛やらという話を聞かされることはある。彼ら彼女らのことは、わたしなりに手助けしてきたつもりだ。その効能が学業に関わること、例えば試験の点数のような形でしか現れないのが玉に瑕というものだけれども。

 そうして日々の仕事をこなし、年の瀬を乗り切ったわたしは、気楽な気持ちで新年を迎えた。今となっては、初詣に来るのはご近所さんくらいのもので、全く忙しくはないのだ。

 だから、彼女があの願いを口にしたのは、わたしにとって寝耳に水もいいところだった。彼女、桜井芽衣は、幼少の頃からかれこれ二十年近く、この神社に通っている。特別に信心深いとかではなく、近所の神社を習慣的に詣でているだけなのではあるが、わたしは姉のような気持ちで彼女の成長を見守ってきた。

 十年前の映画騒動のときには、「学業の神様が恋愛相談に応えるなんて、大変ですよね」と、わたしをいたわってくれた。もちろん、彼女にわたしの姿が見えている訳ではないが、わたしはその気遣いが嬉しかった。

 その芽衣が、きっと元旦は朝一番にやって来るだろうと思っていたら本当にその通りだった芽衣が、あんなことを願うとは思ってもみなかった。

「神様、どうかこの恋を叶えてください」

 彼女ははっきりと声に出して言った。驚きのあまり顔を出したわたしは、彼女と目が合ったような錯覚さえ感じた。

 わたしの方を見て、思わせぶりに微笑まなかっただろうか?

 いや、そんなはずはない。霊感も超能力もその他の特殊な力もない彼女には、わたしを見ることはできない。きっと気のせいだ。笑ったのだとしても偶然だ。そんな風に言い聞かせたが、願い事に込められた彼女の切実な想いを無視することはできなかった。

 学業の神様が恋の願いを叶えることはできない。彼女はそれを分かっているはずだ。それでもなお、わたしに願わずにはいられなかった。ここで彼女に力を貸せないのでは、わたしは何のために神様としてまつられているのか分かったものではない。

 管轄の問題で制約は多いが、手段はあった。学業関連にしか役立たないわたしの神様パワーについては諦める。神様としての力の大半を封じて人間になり、友人として彼女を手助けするのだ。わたしはほとんど普通の人間と同じになるが、問題はない。何にせよ、アドバイスくらいしかできないのだから。

 決めるが早いが、わたしは桜井芽衣の友人、水卜琴子となった。少しばかり彼女の記憶や認識に干渉して、いつどうやってわたしと友人になったのかは気にならないようにさせてもらった。そして、全てが済めば、彼女の記憶から水卜琴子という人物は消える。

 わたしは元からそこにいたかのように芽衣の隣に姿を現し、当面の代理を任せることになった後輩に詫びた。正月とはいえ忙しくはないので、人間で言えば二十代前半くらいのわたしと比べても年若い後輩の神様であっても、何とかなるはずだ。泣き言が聞こえたような気もしたが、神様パワーを封印したわたしにはもはや関知できなかった。

「そろそろ行きましょうか、琴子さん」

 芽衣がわたしに呼びかけた。一緒に初詣に来たことになっているのだ。

「そうね、芽衣。この後の予定は?」


 そんな訳で二月十三日の夜、バレンタインデーの前夜。よその国の聖人にちなんだ祭日に日本の神様が関わっていいものなのか何とも言えない気持ちだったが、チョコレート会社の販売戦略に乗っかって意中の相手に想いを伝えるという芽衣に付き合って、わたしは彼女が試作するお菓子の味見をしていた。

 チョコレート会社がどうのと言っておきながら、彼女はカヌレを作っていた。カヌレというものは先月、琴子として彼女の友人になってから初めて食べたが、とてもおいしかった。聞けば、日本ではここ数年でよく見かけるようになったフランスのお菓子ということだった。神様は神社を離れて自由行動できないので、知る機会もなかった。その点、次々に新たな魅力に出会うことができるなんて、人間はずるいと思う。しかし、そうしたものを生み出しているのも人間だ。わたしが羨む訳にもいかない。

 とりあえず、芽衣が勧めてくれた色々なお菓子の中では、カヌレが一番好きだ。おいしい。

 ここ一か月、ほとんど毎日のように芽衣と会った。わたしに恋愛のことはさっぱり分からなかったので、学業の神様らしくたくさん勉強して、彼女にアドバイスしてきた。しかし、残念なことに、わたしが参考にした恋愛指南本に書かれているようなことは、芽衣に限らず、世間一般の女性たちには常識らしかった。

「琴子さんって、見た目はミステリアスな美女って感じなのに、中身はかわいいですよね。恋に恋する女の子、みたいな」

 そんなことを言われてしまった。その感想でわたしのアドバイスの程度が知れるというものだったが、わたしは恋に恋しているつもりはない。

 かわいいと言うなら、芽衣の方だ。彼女のことは小さい頃から知っているが、ずっと変わらず、優しく穏やかで、包容力があって人格者だ。頭がよくて料理上手で、気が利いて物怖じしない。おまけに見目もいい。

 正直なところ、彼女に好意を寄せられて断る男がいるとは思えなかった。

 相手は長年の想い人で、ようやく気持ちを伝える勇気と決心が持てたのだという。

 わたしは必要なかったんじゃないかと思いもしたが、芽衣がいかに魅力的でも、恋愛は双方の気持ち次第だ。なぜか彼女は自分の想いを受け入れてもらえるとは思えないと不安がり、相手の男のことだけは絶対に教えてくれない。

 敵を知らなければ、勝てる戦いに敗れることもあるのだから、これには困った。芽衣が想いを向ける相手のことが分かれば、その相手について分析して、よりよいアドバイスができるかも知れないのに。

「芽衣。結局、告白する相手のことを教えてくれるつもりはないの?」

 カヌレの焼き加減を確かめる彼女の背に声をかけた。彼女は振り向かずに返事をした。

「今は言えません。明日、上手くいったら教えますから」

「……そう」

 その頃には、彼女はわたしのことを忘れている。神社にまつられた学業の神様のことは覚えていても、水卜琴子という友人に関する記憶は消えてしまう。わたしが望むなら、彼女の記憶を残してしまうこともできるが、神様という立場に私情を挟む訳にはいかない。彼女一人に、これ以上の肩入れは許されない。

「琴子さん。あーん」

 言われるままに口を開けると、一口大に切ったカヌレを押し込まれた。

「どうですか?」

「おいしい。芽衣のお菓子は世界一」

「もう。何食べてもそういう感想じゃないですか」

「だって、事実だから」

 芽衣は「琴子さんの意見は参考にならないことが分かりました」と言い出し、わたしは彼女の家から追い出されてしまった。明日、彼女が出かける前に会いに行って、それで終わりにしようと決めた。結果がどうなるとしても、彼女の願いには十分に応えられたはずだ。

 二月十四日の朝、うんとおしゃれした芽衣はとても素敵だった。彼女はわたしを見て微笑み、きれいにラッピングした包みを見せてくれた。カヌレは上手く焼けたという。

「それじゃ、がんばってね、芽衣」

「ありがとうございます。琴子さんは、今日はどう過ごすんですか?」

「うーん……家にいるかな」

「分かりました」

 そうして、芽衣はわたしの前から去っていった。歩み去る彼女の背を見送りながら、わたしは胸の苦しさを忘れようとした。

 本当は、彼女にわたしのことを覚えていてほしかった。

 彼女と過ごす時間はとても温かくて、幸福だった。ずっと側にいてほしかった。

 そんな願いを持ってしまったことを、わたしは忘れなければならない。こうなっては、彼女の記憶を消すだけでは足りない。わたし自身の記憶も封じなければならない。

 神様が特定の人間に必要以上の思い入れを持つのは許されないことだ。

 それでも、この気持ちは否定できない。わたしは彼女を愛している。


 泣きたい気持ちを堪えて、境内に続く石段を上がった。誰もいないだろうと思っていたが、見覚えのある後ろ姿があった。少し前に見送ったばかりの芽衣だった。相手の男に会いに行く前に立ち寄ったのだろうか。彼女に見つかる前にこの場を離れようと、わたしは石段を引き返そうとしたが、手遅れだった。

「琴子さん」

 仕方なく振り返った。彼女の顔を見ると、ずっと我慢している涙が溢れてしまいそうだった。

「どうしてここにいるの、芽衣」

「分かりませんか?」

 彼女は決然とした表情を浮かべて、つかつかとわたしに歩み寄ってきた。彼女は右手を伸ばして、わたしの目から零れた滴を拭った。

「あなたに会いに来たんです、琴子さん。いいえ、神様」

「え……」

 訳が分からなかった。どうして彼女は、わたしを神様と呼んだのか。どうして彼女は、わたしの頬に手を添えたままなのか。どうして彼女は、キスでもするかのように顔を近づけてくるのか。

「芽衣……?」

「黙って」

 至近距離で囁かれて、頭の芯が融けるように熱くなった。わたしは言われた通りに黙って、目を閉じた。わたしの唇に、彼女のそれが重ねられた。

「もう、分かりましたよね?」

 しばらくして互いの身体が離れた後、彼女は詰るように尋ねてきた。なぜかぶっきらぼうに差し出された包みを、わたしは受け取った。

「これはあなたにです。カヌレ、好きですよね」

「……ええ。でも、待って。どういうこと? 色々とお菓子を勧めてくれたのは、わたしの好みが知りたかったから?」

 言いながら、もっとほかに聞くべきことがあるはずだと思ったが、わたしはまだ思考停止していた。芽衣はわたしを好きで、わたしが神様だと知っている?

 いや、それ以前に、どうして、まだわたしのことを覚えている? わたしが神社に戻った時点で、彼女の中で水卜琴子という人物は消滅したはず。

「想像以上の鈍さというか何というか。でも、そういう抜けたところも、かわいくて好きなんですけどね。神様のことは、子どもの頃から見てきましたから」

 えっと……?

「ずっと、わたしの姿が見えていた、ということ?」

「そうですよ。神様は見られてないと思ってるみたいだったので、話しかけないようにしてましたけど」

 彼女は拗ねたように言った。おそらく、わたしは自分が話しかけられたことに気づかずに、彼女を無視してしまったことがあったのだろう。他人から自分の姿が見えていないと思い込んでいると、ありがちなこと、かも知れない。

「いつぞやのような観光客はともかく、昔からこの辺りに住んでる人はみんな、神様のこと、見えてますよ」

「どうして誰も言ってくれなかったの……」

「触らぬ神に祟りなし、とか?」

 うかつに接触して問題が起こっては困ると思われていたらしい。それに全く気がつかなかったとは、わたしは思いのほかポンコツだったのかも知れない。

「でも、待って。わたしが神様だと分かる理由は分かったけど、琴子だって分かるのはどうして? あなたはもう、わたしを忘れたはずなのに」

「神様パワー的なもののことは知りませんけど、ずっと神様として知っていた人のことを、急に琴子さんとして知っているなんてことになれば、矛盾に気づくのは当然です。たぶん、そのせいで効果がなかったんですよ」

 効果がなかったのだと聞いて、わたしは自分が安堵していることに気づいた。こうまで失敗を重ねては神様としての沽券に関わりかねないが、そんなことはどうでもよかった。芽衣がわたしのことを覚えていてくれる喜びに比べれば、わたしの面目など物の数ではない。

「というか、私の記憶を消そうとしたんですよね。酷いじゃないですか」

「それは、仕方なくて。そのせいで嫌われてもしょうがないって分かってるけど、でも……」

 許してほしい、とは言えなかった。結果的に効果がなく、そのことを嬉しく思ってはいても、必要な措置だったという考えは変わっていない。

 でも、許してほしかった。また涙で視界が滲んできた。

 芽衣はわたしの頬を両手で包むように挟んだ。

「もう一回キスさせてくれたら、許してあげないこともないです」

 わたしはうなずいた。

「……うん。キス、してほしい」


 これから先、どうするべきなのかは分からない。人間同士のように芽衣と付き合うことはできない。いつまでも水卜琴子でいる訳にもいかない。しかし、芽衣から琴子についての記憶を消すことはできず、神様に戻ってもわたしの姿が見えなくなることもない。

 それならば、今しばらくはこの温かさの中にいることは許されるだろうか。残酷な考えだと分かっているが、わたしと芽衣の歩む時間の長さは遥かに違う。彼女がわたしの側にいてくれる間だけ、わたしにとっては短い微睡みに過ぎない間だけでも。柔らかくて幸福なひとときを、求めたかった。

「何か難しいことを考え込んでますね」

 わたしの髪を手で梳きながら、芽衣はどこか眠たそうな声で話した。

「あなたのそういう、いつも真面目で一生懸命なところが好きなんです。色んな人の願いを叶えて、叶えて。私のところにも来てくれて。大丈夫。自分の幸せのことを考えたって、誰も怒りませんよ」

 彼女の愛おしさを再確認したところで、わたしは心を決めた。

「じゃあ、もうしばらく琴子でいるから、わたしを幸せにしてね、芽衣」

「もちろん。愛してますよ、琴子さん。神様」

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