さよなら天国

踊る猫

第1話

そして今日は休みだったので、きみは朝いつものように朝の日課としてきみが「跳舞猫日録」と名付けた日記を書く。そしてその後グループホームを出て図書館に行く。図書館できみは、ずっと大好きで追いかけてきた小説家であるポール・オースターの作品『冬の日誌』『内面からの報告書』を借りる。でも、まだきみはそれらの作品を読まない。きみは発達障害者だからなのか、実にいろんなことに目移りしやすく1度に2冊も3冊も本を同時並行で読んでしまうタイプの人間だ。でも今きみが読んでいるのは、やはり図書館で借りたカレン・チャンの回想記『わたしの香港』だ。この本は実に面白い、ときみは感じている。もともときみは香港の政治に少しばかり(文字通り「少しばかり」だけど)関心を持っていたのだった。でも、カレンのこの本から見えるのは香港の姿ばかりというわけではない。むしろ、彼女自身が複雑な香港の教育事情の中で心を引き裂かれてしまうその生きづらさも生々しく伝わってくる。きみはそうした本に弱い。率直に書かれた、実に「刺さる」1冊だという印象を感じる。この本は今年のベストテンに入るかもしれない。


きみはそのカレンの本をブラーの『パークライフ』を聴きながら読む。カレンの本は彼女の青春を描いた本だが、きみにとっては『パークライフ』も青春の1枚だ(そして思わずきみは「ぼくはまだ青春を引きずっているのかな」とひとりごちてしまう)。突然、きみは「ぼくも自分の回想録を書いてみたい」と思い始める。きみはいつも考えている……きみ自身にあとどれくらい時間が残っているのかを。いや、不治の病に侵されているわけではない。きみについてはきみのグループホームのスタッフも「実に健康体ですね」と太鼓判を押している。だけど、きみはいつも「今日ぼくは死ぬかもしれない」「今この心臓が止まったらどうしたらいいんだろう」と考えている。いつかきみはオードリー・タンが、いつ死ぬかわからないから長期計画を定めず1日1日決めたことをやり切るのだと語っていたのを読んだことがあった(『何もない空間が価値を生む』に記されている)。それにきみは共感を抱いたことがあるのを思い出す。なら、そこから考えて「今できること」はぼく自身の回想録を書き始めることではないかと考える。


どこから書くべきだろう、と考える。まずタイトルはどうしようか……きみはいつもの悪いクセで「引用」とうそぶいて既存の固有名詞をパクることを考える。そして、「いつか女王様が」というタイトルを考える。これはもちろん「いつか王子様が」のパクリというかパロディ(のつもり)だ。だけど、今から書くものは初々しい10代の子でも読んでもらえるものにしたい。なのであまりエッチなものにはしたくない。それでいろいろ考える。「けらいのひとりもいない王様」(これは友部正人の作品のタイトルだ)や「Farewell Kingdom」(これはWorld's End Girlfriendの作品から)といったタイトルをヒネることを考えたりする……そんなこんなですったもんだのあげく、「さよなら女神」「さよなら天国」「さよならベルダンディー」(最後のこれは『ああっ女神さまっ』というマンガにあやかったもの)というタイトルが候補として思い浮かぶ。「さよならベルダンディー」は少し読者を選ぶと思ったので外す。そして迷った挙げ句「さよなら天国」を選ぶことにする。


「さよなら天国」……思えばきみはずっと自分の寝室を「天国」に見立ててそこでひきこもって暮らしていた。もともときみは外に出て人と社交的にあれこれ活動するのが苦手なインドア派の人間だけど、大学を卒業する頃になって酒に溺れ始めてからはきみはずっと部屋で酒に溺れて毎日を過ごし、思うことといえば「もうダメだ」「生まれてきたのが間違っていたのだ」といったことだった。ああ、なんと浅はかな人生だったことだろう。その後40になって、きみは「こんな人生をこのまま生きて死ぬのが悔しい」「これじゃ自分にさえ負けている『負け犬』じゃないか」と思って酒を止めたのだった。その後、運命的な出会いがあり……その人たちとの出会いを通してきみはきみの「天国」から出ていく決心をし始めたのだった。さながらヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』の登場人物の天使が恋に落ちて、そして地上に降り立って「血を流す」人間として生きていくことを選ぶように……カッコつけすぎだろうか。これから、きみはそんなことを書いていきたいと考えている。再び、いつものように「あとどれくらい時間は残っているのか」について考えながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る