サキとブチ ~神竜様は異界の女をつがいにお選びになられました~

笛吹ヒサコ

【通夜に来たドラゴン】 咲「わたし、本当に死んじゃったみたい」

 その日、東雲咲はいつもと変わらず、遅刻ギリギリの時間に住んでいるアパートを出た。三十路まで残り半年を切り、このままではいけないと、ついついダラダラしがちな私生活改善計画は、なかなか難易度が高かった。それはさておき、ここで重要なのは彼女にとっていつもと変わらない普通の朝だったということだ。ここ最近、同じ夢を見続けるとか、お気に入りのマグカップが割れたとか、予兆なんてまったくなかった。

 けれども、そういうものかもしれないと、咲はしみじみ思うのだ。

 人間誰しもに、人生の終わりに兆しなどない。もしも、死の前兆があったら、きっとロクなことにならない。咲も、あの朝死ぬとわかっていたら、せめて貯金を全部使い切るように豪遊したかた。


(ま、わたしレベルの豪遊なんてたかが知れているけどね)


 ため息をついて肩をガックリ落とすところだけれども、つく息も落とす肩ももうない。

 これが夢でなかったら、咲は俗に言う幽霊になっていることになる。

 夢にしても、自分の通夜を天井近くの視点からただひたすら見下ろすだけというのも、なかなか趣味が悪い。

 けれども、咲は理屈抜きで確信していた。自分は間違いなく死んだのだと。

 幽霊と言えば体が透けるものだと思っていたけれども、どうも違うらしい。透ける体すらないようで、見自分の葬儀を見下ろしている目もおそらくないのだろう。鏡がないし、そもそも鏡に映らないだろうから、確かめようがないけれども。

 それにしても、自分のお通夜を見下ろしているというのに、咲はずいぶん冷静だった。というよりも、現実味がなさすぎるのだ。死んだという疑いようのない実感はあるというのにだ。

 読経にまじって鼻をすする音を立てたのは、母だ。バイタリティあふれるおかげで、歳の割に若く見られることもある母が急に老け込んで見えるのは、しばらく会っていなかったからではなさそうだ。おそらく、喪服に身を包み、娘に先立たれた悲しみが老け込ませたのだろう。

 父は父で、涙をこぼすまいとして時折ぐっと顔を天井に向けている。もともと老け顔だったこともあって、母ほど老け込んでは見えなかったけれども、はやりそうとう心労がたたっているはずだ。


(母さん、父さん、兄ちゃん、お義姉さん、ケンちゃん、みんな……なんか、ごめん)


 実家の近所のオジさん、オバさん、同僚、上司、中学高校の同級生に、大学のサークルでお世話になった先輩――こんなに集まってくれるなんて思わなかった。

 なんだか申し訳ないと思うだけで、なんて薄情なのだろうか。――実のところ、咲は冷静に見下ろしているつもりで、感情が追いつかず麻痺してしまうほど混乱していた。東雲咲が本当に薄情だったら、これほどの人が駆けつけてくれないのだから。

 信心深くなかったせいか、読経の効果をまったく感じられない。読経の効果がなんなのかいまいちよくわかっていないけれども、町中に流れるBGMのように右から左へと聞き流しているようでは、効果がないというのは間違っていないはずだ。

 通夜は粛々と進んでいく。


(ていうか、もっとマシな遺影なかったのかな)


 祭壇の遺影が気に入らない。なぜ、成人式の写真なのだ。金髪にキツい派手なメイクの振袖姿の遺影は、さすがにないだろとない頭を抱えてくなる。


(ま、なかったんだろうな)


 家族が用意できる同居していない娘の直近の写真が他になかったのだろう。

 もっと頻繁に帰っていれば、ましな遺影になっただろうか。


 それにしても、お迎え的な何かはまだだろうか。ただひたすら自分のお通夜を見下ろすというのは、無自覚でも精神的にくるものがあったはずだ。

 このままお迎え的な何かが来なかったら、どうなるのだろうか。

 それ以前に、お通夜が終わっても、告別式が終わっても、火葬されても、このしみったれた葬儀場の天井付近から動けない可能性もあるのでは。

 未練らしい未練もないのに、葬儀場に地縛霊とか嫌すぎる。


(そもそも、わたし、なんでこんなところにいるんだっけ)


 気がついたときには、自分のお通夜を見下ろしていた。いつからそこにいるのか、わからない。いくら思い返しても、曖昧でもやもやする。


(あれ? というかわたし、なんで死んだんだっけ)


 いつも通り遅刻ギリギリの時間にアパートを出たのは、しっかり覚えている。その後、何が起きたのか。

 肝心な記憶が曖昧なままなのは、どうも落ち着かない。

 死んだ日の朝の行動を、一つ一つ丁寧にたどっていくことにした。


(……で、駅に向かう通りに出た。それから、えーっと……目?)


 不意に脳裏をよぎったのは、巨大な目だった。

 思い出すだけでゾッとするその瞳は、明らかに人間のものではない。なにかの映画で見た巨大なドラゴンの目そのものだった。

 混乱しているのだろうか。ありえない。馬鹿馬鹿しい。


(えーっと、駅に向かっている途中で……あ、横道から飛び出してきた車にはねられたんだ)


 ものすごい勢いで飛び出してきた車がぶつかってきた衝撃が蘇る。痛みよりも衝撃。体が宙に浮く感覚、それから通りのアスファルトに叩きつけられる直前に見たのは――


(え…………なんで?)


 あの目だ。あの、巨大な目。燃えるような目。縦長の瞳孔が伸縮するのがわかった。

 衝突した衝撃のせいで天地がひっくり返った横道の向こうにあったコンビニに、街路樹に、通りのアスファルト、朝の送迎で渋滞気味の車の列に、歩道を突っ切る自転車に乗る学生――スローモーションで逆さまに映る日常のワンシーンをぶつ切りにするように視界いっぱいに割り込む目。自分を撥ねた車への恐怖心が最期の最期に見せた幻覚だろうか。

 なにがともあれ、なぜ死んだのかははっきりした。ひき逃げだ。


(で、この状況は何?)


 アスファルトに叩きつけられるのと同時にブラックアウトしたのは、即死だったからだろう。

 問題は、その後だ。

 なぜ、いつから、お通夜を見下ろしているのだろう。それだけは、どれだけたどっても曖昧模糊としてはっきりしない。


 見下ろしている葬儀場では、焼香のために人がお行儀よく列を作っていた。


(なんか、本当にごめん)


 咲に限ったことではないけれども、こんな世の中では将来に大した希望も持てなかった。そのせいか、未練らしい未練がない。

 ただただ、両親や家族には先立つ不孝を許してほしいし、駆けつけてくれた人たちには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 すすり泣く声が聞こえるたびに、咲まで泣きそうになった。


(ごめん、本当にごめ……え?)


 葬儀場に、変なのが混ざっていた。どこからどう見ても弔問客ではないし、なんなら変質者だというのに、誰も気づいていないのか。焼香の列の最後尾に並んだソレは、まるで世界的に有名な怪獣の着ぐるみだった。背中に翼竜の翼がはえているから、別物だろうけれども。

 茶色の鱗に赤い鱗が混ざったまだら模様のドラゴンは、咲にあの恐ろしい燃える目を想起させた。けれども、前に並ぶ中肉中背の上司と変わらない大きさに困惑する。どういう仕組みなのか、ときおりパタパタと翼が動いている。キョロキョロと落ち着きのない様子は、どこか滑稽だった。明らかに、場違いだ。


(やっぱり、誰も気づいていないのかな)


 幽霊になった咲に誰も気づかないように、珍客に気づかないということだろうか。

 不意にまだらドラゴンが天井を見上げたかと思うと、グルリと咲を振り返った。


(あ……)


 目が、あった。

 あの目だ。あの、燃える目。

 まだらドラゴンは、間違いなく咲に気づいた。燃える目が、嬉しそうに輝く。と、ドラゴンはグワッと口を開いた。大きく開かれた口が迫ってくる。


 食べられる!!


 咲は再びブラックアウトした。




 世界の中心の火山の火口から飛び出した神竜は、巣へと急ぐ。急がねばならなかった。

 重く立ち込める雷雲を一気に突き抜け、太陽を遮るものがない上空へと出れば、巣である浮遊神殿が目前に浮かんでる。ほとんど勢いをそのままに巣に飛び込んだ神竜は、苦しそうにうめく。巨大な神竜のうめき声に、浮遊神殿全体が激しく揺れる。

 しばらくうめきながら体を悶えさせて苦しんだ神竜は、こらえきれなかったのかむき出しの岩の床に向かって大きく口を開けて黄金の炎を吐き出す。長々と勢いよく吐き出し続ける黄金の炎は不思議なことに、燃え広がることはなかった。ようやく吐ききった神竜の息は荒い。肩を上下させるほど荒いけれども、それほど苦しげではなかった。ひと仕事終えた疲労感やら達成感、安堵感などが入り混じった息はしかし、巨大な神竜だけあって暴風にちがいないのだけれども。

 息を整えながら、神竜は吐き出した床をじっと見下ろしている。黄金の炎はすでに消え去り、赤茶けた岩肌に残った真っ黒い炭は人の形をしていた。鼻息を吹きかけると、パラパラと炭が剥がれていく。黒い炭の下から現れたのは、一糸まとわぬ美しい女だった。

 ゆっくりとその鼻先を近づけるようとして、ピクリと動きを止めた。

 ただならぬ事態に、人間たちが集まってきた。


「いかがされましたか、神竜様」


 渋々名残惜しそうに女から視線を外した神竜は、人間たちを振り返ると驚くべきことを厳かに告げた。

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