第5話俺はもう手遅れだ

 そこにカララッと控えめに保健室の扉が開いて、誰かが入ってくる。


「恭平くん、大丈夫?」

 入ってきたのは姫乃だ。

 あのあとついて来た、のか?


「姫乃、なんで……」

「さすがに朝からあんなに青い顔されると心配するよ。

 ……他に誰もいないね」


 実際なぁ、なにがダメって。


 隠れて浮気していることであり、そこをキッチリ筋通した後で付き合うのならよかったのだが。


 寝取り浮気する奴らは、隠れて浮気する背徳感とかそんなのが良いのかねぇ〜?

 ペッ、ゲスめ!


 ハイ、俺のことですね。

 ……姫乃もそんな罪に引き込んですまん。


 記憶の中で姫乃とそういう関係になってから、俺たちは学校で2人っきりになるのは出来るだけ避けていた。


 姫乃もそれが許されざる関係だと理解していたからだろう。

 なのに姫乃は今、ここに来てしまっている。


 どうして、と思うが言葉にならない。


 姫乃は横髪を邪魔にならないように耳にかける。

 少し顔を赤くしながらのその仕草に俺は無意識に見惚れてしまった。


 流れのままに姫乃は体温を確かめるように、そっと手のひらで俺の頬に触れる。


 異性の肌に意識して触れるということは意外とハードルが高い。


 それは相手に触れるという意識と、相手に触れられることを許容する互いの意識が働かないければならないからだ。


 ……そういえば記憶の中でも、姫乃が俺以外の誰かに触れているのを見たことがない。


 そうだとすると、俺たちの意識にすでにその領域に踏み込んでしまっている。


 そこからなにが起きるのかを考えることもできずに、俺は姫乃の深く澄んだ黒い瞳を見続けてしまう。


 そうして、姫乃の唇が俺の唇に深く重ねられた。


「んっつ」

 姫乃から漏れた、その喘ぎが俺の脳髄の理性の全てを焼き尽くす。

 その唇を離したくはないと俺の存在の全てが叫び転がり回る。


 その手は突き放そうとしたものだったのか、それともしがみつこうとしたものか。

 互いの右手と左手が指を絡ませて繋がる。


「んっ……」

 すり合わせた唇と絡み合った両手から、さらに脳髄が溶けてしまいそうなほどの甘さが伝わる。


 そのまま姫乃と唇を重ねながら、恋人繋ぎをしてしまった右手に力が入った。


 カタッと廊下の向こうから音が僅かに届いた。

 咄嗟にどちらかが慌てるように唇を離した。


 熱を持った視線が絡み合ったまま。


 この姿を誰にも見られてはいけない。

 誰が見ても、いまの2人の表情は見せ合ってはいけないものだった。


 そこで聞こえた音に警戒したが、聞こえた音は別の部屋の扉の音のようで、俺たちがいる保健室に関わる音では無さそうだった。


「あっ……、じゃあ私、行くね」

 僅かに甘い響きを匂わせて姫乃はそう言って、俺たち以外、誰もいない保健室を出て行った。


 誰も居なくなった保健室のベッドで腕で目を隠す。

「なん、なんだよ……」


 俺の初めてのキスはあまりに甘過ぎた。


 人生の全てを塗り替えてしまうような、そんな絶望にも似た甘美な口付けだった。

 姫乃の唇はなまめかしくうるんでいた。


 もっと味わいたい。

 もっと永遠に味わいたい。

 姫乃を抱き締めながら。


 もうどうでもういい、彼女が欲しい。

 親友の彼女を抱き締めながらどこまでも堕ちていきたい、と。


 重ねられたその唇は苦くも辛くもなく。

 ただひたすらに甘かった。

 それが皮肉でもある。


 おそらくは姫乃にも俺への行動を止めることができなくなっているということ。


 姫乃も俺に快楽を求めて口付けしたのではなく、身体の奥底から湧く熱に動かされてしまったのだと。


 俺には確信があった。


 ただの1度。

 ただの1度でも再び姫乃と繋がってしまったら、今度こそ俺は……俺たちは永遠に離れることができなくなるだろう。


 それがどれほどの不幸を周囲に撒き散らすことになろうとも。


 寝取り浮気は当人たちよりも周囲にこそ、耐えきれないような傷をばら撒く。

 それこそが寝取り浮気の許されざる深い罪だ。


 ……そしてそれは俺が心の底から憎む罪でもある。

 それだけは絶対にダメだ。


 俺はベッドに横になったまま、睡眠不足で偏頭痛がする頭を押さえる。


「ダメだ……、手遅れになる前に早くしないと」

 すでに俺の中では手遅れかもしれないが。









 だが気づけば気絶するように眠っていたらしい。


 人はどんなに辛くても寝てしまえるらしい。

 人体ってスゲェー。


 そんなどうでも良いことを思いつつ、俺は保健室の乳白色の天井を見ながら深くため息を吐く。


 俺の記憶違いで本当は姫乃は真幸の彼女などではなく、俺の彼女なのではないかと期待する心が全くなかったわけではなかった。


 真幸がもっと嫌なやつだったら。

 そう一瞬でも思ってしまった俺こそが最低だ。

 理由を誰かや何かに求めてはいけない。


 不倫や浮気や寝取りをどれだけ純愛のように正当化しようとも、そこにはおぞましいナニカが存在する。


 それでも。


 触れた唇の感触と、なによりあのときの姫乃があまりにも綺麗で。

 俺はそれを思い出し、熱が起こりそうな身体と気持ちをグッと抑える。


 ダメだと思いつつ、もう一度抱きしめたいとさえ思ってしまう。


 マズいマズい……、俺はもうダメかもしれん……。

 聖なる30歳童貞は生身の女性に弱いのだ。


 アア、悲しき事実。


 元のチャラ男恭平の気持ちもわからないが、姫乃の気持ちもわからない。

 騙された、とは思っていないのだろうか。


 聞いた話でしかないが、たとえば不倫中などはまるで恋をしたように浮かれた気分になることがよくあるらしい。


 変わり映えのない生活にちょっとした刺激で人生にハリを与えるのだそうだ。

 俺などはそんなことでしかハリを得られない人生は嫌だと感じるが、童貞ゆえの感覚なのかもしれない。


 あと変わり映えしない人生というほど、安定した人生を送ってもいない。


 姫乃もそうなのだろうか?


 理想を押し付けるようだが、人の不幸を気にせずひとときの快楽に溺れてしまうタイプであって欲しくないと思う。


 せめて誰かを心から一途に思える人であって欲しいと願ってしまう。

 彼女自身の優しさに触れることがあるから余計にそう思う。


 ……けど、現状がそれを否定しているんだよなぁ。


 そうでないと、姫乃は俺を心から好きだと思っていることになってしまう。

 彼氏がいるのに、それはおかしいことだ。


「……それはさすがにないか」

 どうしようもない俺の願望だ。


「起きたなら早く出ていけ」

 俺の独り言に誰かが素早く反応する。

 まあ、この部屋の家主というか、保険医の先生なんだけど。


「マキちゃん先生、その言い方はないんじゃない?

 可愛い生徒だよ?」


 小牧冬こまきふゆ、三十路に届くかどうかだが、見た目にはどこか可愛らしさのある保健医だ。


 ひっつめ髪をぞんざいに一本にまとめているが、性格的に大雑把なのもあるが彼女の雰囲気にその髪型はよく似合う。


 口元にタバコを運べないのが、残念なのかペンをそのふっくらとした唇に押し当てて書類仕事をしている。


 出会いがないとぼやきながらの独身。

 大学を出たあたりでは合コンや婚活に勤しんだらしいが、しっくり来なかったらしい。


 ちなみに30歳の俺には適齢期で十分許容範囲だ。


「恭平、お前まだ家で眠れないのか?」

「あー、いえ、今日はスマホの見過ぎで夜更かしですよ?」


 記憶でもそこまでマキちゃん先生に言ってたようだが、チャラ男恭平はあまり家では寝付けていないようだった。


 ……と言っても、ここ半年ほどはそうでもなかったようだが。

 その半年という期間が姫乃と関係を持ち始めた期間なのは、どうにも心がざわつく。


 関係あったりしないよな?


「マキちゃん先生に追い出された俺は仕方がないので、泣く泣く保健室をあとにするのでした、と。

 あ、マキちゃん先生。

 今日は大人しく出ていく代わりに今度はベッドでデートをよろしく!」


「その気もないのに誘うんじゃないよ。

 言質取られるぞ?」

 俺の軽口にマキちゃん先生は呆れ100パーセントで答える。


「大丈夫ですよ、言っても問題ない人にしか言わないんで〜」

 俺はそれを笑みで返して手を軽く振りながら保険室を出た。


 いまの俺が記憶を失う前よりマキちゃん先生を信用しているかは怪しい。


 記憶の中、だったら俺で練習してみようか、そんなありきたりな誘い言葉で姫乃と関係を持ったチャラ男の俺。


「チャラ男も俺も、嘘ばっかだな」

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