プラシーボの悪魔はひそやかに。

花野井あす


 アディソンは自分の顔を、躯を、魂を好まなかった。

 

 だから、鏡も、窓も、刃物も、湖も嫌い。自分を映すものすべてを忌み嫌い、視界に入らぬようにしていた。若しも何かに自分の姿が映し出されるようなことがあるものなら、低くひしゃげた声で叫び、咽び泣いた。

 

 神さま、これはなんと酷い仕打ちなのですか!

 

 なぜわたしを此の様に醜悪にお産みになったの!

 

 なぜわたしの魂をこのような牢獄にに閉じ込めなさったの!

 

 ごつごつとした、柔らかさのない醜い躯!

 

 嫌らしいことばかりを考えてしまう下劣なこころ!

 

 アディソンは上背のある身を猫背に縮めて、大きな手のひらで顔を覆い、しくしくと泣いた。

 アディソンは一人部屋の中で、何にも、誰にも映らぬようひっそりと生きていた。


「マム、マム。いないの?」

 

 鬱々とした暑さの、初夏の夜。アディソンは母親を呼びながら、ふらふらと家の中を彷徨っていた。どの窓にもテープで貼り付けたようにびっしりとカーテンが閉められており、外の様子は見えない。

 

 壁にかけられた硝子窓のない時計が11:30を示していることから、昼か夜のどちらであろうと考え、更に昼飯を食った記憶があることから夜と判断したわけなのだが――アディソンは母親がキッチンにもリビング・ルームにも居ないことを不安に感じた。


 未だ仕事から帰ってきていないのか。今日、母親は出掛けることを言付けていただろうか。

 

「マム?」

 

 アディソンは母親の寝室の扉が少し開いているのに気がついた。そろそろと覗き込むと、なにか光っている。おやすみのキスも無く、先に休んでいるのだろうか。

 

「マム、いるの?」

 

 返事はない。ぐっすり眠っているのかもしれないし、未だ帰っていないのかもしれない。アディソンは母親に勝手に部屋に入ってはいけませんと言い聞かされていたが、光っているものがなにか無性に気になり、そうっと部屋に入った。

 

 ――鏡!

 

 アディソンは咄嗟に顔を手で覆った。視界に映った「光っているもの」は鏡であった。細工の凝ったの木彫りの枠に収められている美しい鏡だ。アディソンは映ったものを見るまいと懸命に俯いた。

 

 ――なぜこの家に鏡があるの!

 

 母親に裏切られたような気分であった。この家には何かを映すものすべてを置かないでほしいとあんなにも懇願したのに。

 

 母親はアディソンがおいおいと涙を流すたびに、「嫌なものはすべて、ここには置きませんよ。」と優しく声を掛けてくれたのに。あれは嘘だったのか。

 

「ねえ、泣いているの?」

 

 矢庭に、穏やかで、ころころと鳴る鈴のように愛らしい声がした。

 

 何事かと顔を上げると、鏡の中にはこれまで見た中で一番美しい、若い娘がいた。



 女は実に美しかった。

 

 艷やかな亜麻色の髪に、宝石を埋め込んだような光り輝く碧色の瞳。陶器のように滑らかで、透き通るような白い肌。頬とぷっくりと膨らんだ小さな唇は薄桃色。

 

 そして何よりも、なだらかな曲線を描く躰からは愛らしさの奥に艶かしさを感じた。アディソンは身震いした。其のこの世の者とは思えぬ美しさから目を離せない。

 

「あなたは、だれ?」

 アディソンはか細く、しゃがれた声で訊ねた。


 女は目を細め、淑やかに口元へ手を添えると、小鳥が歌うが如く、軽やかに微笑った。

「めずらしいお客さま!わたしはイーヴァ。イーヴァと言うのよ。怖がりなかた!」

 

「イーヴァ、君はどうして鏡なんかに閉じ込められているの?」

 

「いいえ。閉じ込められているのではないわ。」

 

「では、いったいどういうことなの?」

 

 イーヴァは「せっかちさんね。躯ばかりが大きなかた。」と伸びやかな声で言う。笑った顔がさらに彼女の美しさを引き立てた。細く、白い人差し指を口元に当て、イーヴァは続けた。

 

「これは魔法の鏡なのよ。わたしは好きなときにここへ来て、好きなときに居なくなるのよ。」

 

「魔法の鏡……?」

 

「ええ、そうよ。わたしたち、きっと運命なのね。」

 

「運命?」

 

「だって偶然同じときに魔法の鏡を見たんですもの。きっとこれは必然なのよ。」

 

 運命。必然。穏やかで、耳あたりの良いイーヴァの声で紡がれる言葉は神秘さを感じ、アディソンは「悪くない」と感じた。

 

「わ、わたしはアディソンというの。」


「アディソン。アダム!とても素敵なお名前ね。」

 

 アディソンはこの名前が嫌いであった。神さまが一番はじめにお創りになった男の名前。其の名が自分の醜穢さを象徴しているような気にさせるのだ。

 

 しかしほんの少しだけ、好きになれそうな気がした。イーヴァの言葉からは世辞や皮肉のようなものを感じない。花や小鳥を愛でるようにこころから賛辞を述べているような純粋さを感じるのだ。


 アディソンはおずおずとイーヴァへ訊ねた。 

「ねえ。わたしたち、お友達になれる?」

 

「ええ、もちろんよ。」

 

 およそ汚れというものから無縁そうな無垢な笑顔をイーヴァが向けた。なんと眩い清らかさ。アディソンはもっともっと、彼女と言葉を交わしてみたくなった。

 

「イーヴァ。また明日、同じ時間に会えるかしら。」

 

「もちろんよ、アディソン。わたしたちきっと気の合うわ!」


「ありがとう、イーヴァ。あなたに会えて本当に良かったわ。」

 

 不器用な笑みをアディソンが浮かべると、イーヴァは満面の笑みで答えた。


「私もあなたに出会えてうれしいわ!」

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