第10話 第一王子様の事情
アシェラッド殿下は私の顔をまっすぐに見つめ、一瞬困惑したように眉を寄せた。
元婚約者の顔にうりふたつ……っていうか本人だけど、まったくの別人アピールをしたほうがいいかもしれない。
「こ、近衛騎士バート隊所属、騎士見習いのマックと申します!」
敬礼すると、殿下がはっとする。我に返るかのようにまばたきをした瞬間、自嘲気味に微笑んだ。
「……そうか。じゃあ、きみがウェインを怒らせた張本人かな」
「えっ!」
「舞踏会の夜にテイラー司祭が挙動不審だったから、なにがあったのか内密に聞いたんだ。弟を転ばせたのがきみなら、なにか褒美をあげなくちゃいけないな」
「い、いえいえ、そんな! むしろ無礼を働いてしまったのに、褒美だなんていただけないです!」
殿下が笑った。
「いいや。弟には無礼なことをするくらいでちょうどいいんだ。その勇気ある者がこの王宮には少なすぎる。だから、きみにはお礼を言わなくてはね。ありがとう」
「め、めっそうもないです!」
なんという、できたお兄さん! 落ち着きと品格、私のような下々の民(元伯爵令嬢だけど)にさえ礼儀正しい育ちのよさ。これぞ王子様と呼べる王子様の弟が真反対の暴れん坊だなんて、遺伝子のいたずらにもほどがある!
「じゃあ、バートがきみをここの見張りにしたのか」
「そうです」
「さすが、バート。賢いね」
アシェラッド殿下によれば、この書庫には書庫長がいるらしい。王族のご子息らに歴史を教えてきた引退済みの先生だけれど、ウェイン殿下は幼いころの記憶もあって苦手らしく、そういう事情でここを避けているのだそうだ。
「書庫長さんがいるなんて、知りませんでした」
「本当は常駐しなくてはいけない立場なんだけれど、気まぐれな方だからいつあらわれるか誰にもわからない。それもまた弟の恐怖を誘うんだろう。とはいえ、弟は友人の領地に赴いているから、しばらくは戻らないよ」
柔らかい声音でそう言って、アシェラッド殿下は手にしていた鍵を鍵穴に入れた。
「戻ったころには、きっときみのことも忘れているだろう」
ぜひともそれを期待したい……っていうか?
「この中にお入りに?」
「うん。この鍵は書庫長から特別にお借りしてる代物でね。一人になりたいとき、ここに隠れるんだ。ここなら誰も来ないから」
小さく笑い、扉を押す。天窓から光が差し込む書庫は、思いのほか狭かった。四方が書棚に囲まれた円形の空間で、かなり古そうな巻物から革表紙の書物などなどが整然と並んでいる。真ん中にこじんまりとした円卓が置かれてあり、その上にも書物が積み重なっていた。
「うわ……やっとはじめて見ました。魔法使いの書斎みたいですね」
思わず言うと、アシェラッド殿下が笑った。
「同感だよ」
「ここにある書物は、どなたも読まれないんですか?」
「うん。どれもかなり古いうえ、すでに没落して名を消した貴族の血筋についてとか、あまりためにならない読みものばかりでね。貴重な書物はほかの書庫にあるから、結果的に誰も来ない場所になってしまったんだ」
「なるほどですね……」
殿下が中に入る。どんな事情があるのかはわからないけれど、一人になりたいのならそっとしておいてさしあげよう。
「扉を閉めます。誰も来ないと思いますが、もしも殿下をお探しの方がいらしたら、ここにはいないと伝えます。お好きにお過ごしください」
振り返った殿下は、ちょっと驚いたように目を見張る。それから、控えめに微笑んだ。
「ありがとう。助かるよ」
* * *
シエラさんの元婚約者さんと、話してしまった……!
殿下には、すでに新しい婚約者さんがいる。高貴な方々のご結婚事情なんてド庶民の私には想像することしかできないけれど、絶対に大人の事情が絡みまくっているはずだ。
いまの婚約者さんとの幸せを、水琴としての私は切実に願っている。けれど、はたしてシエラさんはどうなんだろうとふと思った。
それに、殿下は? 彼はシエラさんのことを、どう思っていたんだろう。
いまさらにもほどがあるけれど、そもそも私、シエラさんについてざっくりとした事情以外、たいして知らない。これまでの日々が目まぐるしくて、グレンさんとの関係についてだって、満足に知ろうとしないままきてしまっている。
私がこうしてシエラさんの〝中の人〟になったことには、もしかすると深い意味があったりするんだろうか。そうだとしたら、いったいどんな理由だろ。
シエラさんはどんな思いで、逃げきれたはずの隣国からこの国に戻ったんだろう。戻って、いったいなにをしようとしていたのかな――。
――ギ。
扉が小さく開き、私は我に返って振り返る。アシェラッド殿下が顔を出した。
「ご休憩は終わりですか?」
「いや。きみと少し話したい」
「え?」
「地位とか立場とか関係のない、お世辞や社交辞令のない会話に飢えていてね。よければ少しつきあってくれないかな」
笑顔がどことなく弱々しい。この王子様はよく笑うけれど、なんでだろう。どうにも訓練された笑顔に見えることがなくもなかったりして。
「い、いいですけれど、見張りは……?」
「うすうすわかっているだろうけれど、いらないよ」
ですよね、知ってます。
中に入り、扉を閉める。円卓を前にして殿下が座った。
「どうぞ、座って」
「は、はい」
正面に腰を下ろす。おおお……あらためて間近で見ると二次元度がすごい。
うつむき気味なときの雰囲気とか、なんとなくだけれどグレンさんに似ている気がしたりして。髪や瞳の色は違うものの、眉のかたちとか視線を落としたときのまつげの感じとかがすごく近い。きっとグレンさんも殿下もかなりのイケメンなので、結果的に似た感じになるのかもしれないな。
しかし、まさか王子様と二人きりを経験できるとは思わなかった。これがハードモードな人生をのりきってきた私へのご褒美なら両手をあげて歓迎したいけれど、これまでの経験からして、のちに突き落とされる地獄の序章というパターンも捨てきれない。
いかんせん、ついていない私のことだもの。気を抜かないようにしないと!
「バートの隊にはグレンもいたよね」
「はい、おります」
「僕が十代前半だったころ、彼も騎士見習いだった。それで、よくここの見張りをしていたよ」
「そうなんですか?」
「うん。弟と同い年の彼とは、妙に気があってね。当時の書庫長は僕らを平等にかわいがってくれて、一緒におしゃべりすることを許してくれた。だから、こうしてここで見習いと話すのはきみで二人目だ」
そうだったんだ。グレンさんと仲良しだったと知って、なんだかちょっと嬉しい。
「弟には悪いけれど、よく思ったよ。グレンが弟ならよかったのに……なんて。あ、これはグレンに内緒にしてもらえるかな。恥ずかしいから」
「大丈夫です、言いません」
殿下が笑う。と、私を見つめた。
「……きみは、貴族ではないのだよね。だったら知らないだろうけれど、きみの顔は、僕のよく知っている人物にとても似てる。だから、さっき少し驚いたんだ。もっとも、性別も印象も雰囲気もまったく違うから、そう思うのは僕くらいだろうけれどね」
そう言うと、やっぱり訓練されたような笑みを浮かべる。それから息をつき、疲れたように両手で顔を撫でた。
「ああ……まいったな。ずっとここでこうしていたいけれど、そろそろ戻らなくては。フィオナ嬢と仲良さそうなふりをして、挙式の練習をしなくてはならない。そのあとはどこぞの貴族主催の祝賀晩餐会だ」
おや? 仲良さそうな〝ふり〟とは、これいかに……?
困惑を隠せなかった私に気づき、殿下は苦く笑う。
「マズいことを言ったみたいだ」
「だ、大丈夫です。本当に誰にも言いませんから」
ありがとう、と殿下はつぶやく。
「……そう。僕は彼女を好きじゃない。いや、そもそも誰のことも好きじゃないし、好きになったこともない。全部が公務のように思えてしまうと、すべてがただの仕事になる。手をつなぐことも見つめあうことも、ときに哀しむことすらもね」
あ……そっか。だからだ。
だからこの王子様の笑顔は、訓練されたように見えることがあるんだ。おそらくこの方にとっては、笑うことも〝公務〟だから。
いやいやいやいや、そんなのキツイに決まってますって、王子様!
少しでも公務から気持ちが離れられるきっかけが、なにかあればいいのに。
なにか……なにかこう、趣味的なものというか……。そう、推し活的な!
「じ、じゃあ、もしも今度ここにいらっしゃることがあれば、殿下の好きなものをひとつ持ってきてください」
「好きなもの?」
「そうです。お仕事とかまったく関係なく、食べものでも絵でもいいですし、本でも動物でも、とにかくなんでもいいです。きっとひとつくらいはあるはずですから、それを僕に教えてください」
こんなことしか思いつかなかったけれど、気晴らしになったらいいな。
「仕事抜き? それは難しいな」
「きっとあるはずですから、思い出してみてください。むしろ思い出せるまで、ここにはいらっしゃらないでください」
アシェラッド殿下が、くしゃりと表情を和らげた。お、なんだかいい感じのお顔?
「そうか。それは困るから、なにがなんでも思い出そう」
私を見つめる。
「はじめて純粋な楽しみができたかもしれない。感謝するよ、マック」
おお、やっとちゃんと笑った! いい感じじゃないですか!?
そのときはじめて、訓練されていない笑顔を見せてくれたのだった。
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