第5話 迷子

 将来、その場所に行くつもりも、行く予定もなければ、教育機関で叩き込まれる地理の知識など覚えているはずもなかった。特に国を流れる川なんて、フジノは覚えるのが苦手だった。真面目に勉強していれば自分がどこに迷い込んだか、わかったのかもしれない。と、そんな種類の後悔が次から次へと頭の中に湧いてくる。


 川の側で少し休み、体力を僅かに回復させたフジノは、痛みと怠さに耐えて、唯一の武器の刀を杖のようにして移動していた。雨風を防げる場所にまずは行こうと、何とか目標を決めたのだ。その先は考えていないし、考えるのも怖かった。


(山籠りするなんて、みんなに言ってしまった。今日は絶対に誰も助けに来ない)


 一歩を踏みしめるたびに痛みと疲れで、地面に倒れてしまいたくなる欲求が襲ってくる。今のフジノにとっての幸運は魔物が襲ってこないことだが、そんな幸運でさえ今の彼女を前向きにするには、まるで足りなかった。


(妖精が使えない場所に、そんな場所まで南大門の人達が助けにくるはずもない)


「くそっ。くそっ……なんで、こんな」


 フジノが目指している場所は、かすかに見えた高い位置にある大岩だ。この暗がりで本当にそれがあるかどうかは不明だ。夜の星明かりが見せた幻かもしれない。加えて、何の安全の補償もない。しかし、双子山の儀式場と近いイメージを見た彼女は、存在と安全の根拠もない大岩を目指し、それに縋るしかなかった。


「あの野郎、許さねえからな」


 自分をこんな目に合わせた素性の知れない敵に対する恨み。誰も聞いてくれないのに言葉を吐き出し続け、自分の内側にある暗い気持ちが落ち着くまで、フジノは感情に任せて言葉を小さくつぶやき続ける。湧き上がる怒りによって、恐怖を誤魔化して、不具合だらけの自分の体を動かしている。


 愚痴を吐きつつも足を進め続けたフジノは坂道の僅かな傾斜にめげそうになるが、後少しという気持ちで粘り、ようやく目的地に到着する。


 冷静であれば暗がりで迷いなく足を進めるのは避けるはずだが、これ以上の危険など頭の片隅にもない彼女は愚直に進み続けた。そして、緊張の糸が切れて、体の力は自然と抜けて崩れるように横になる。


 体を止めると忘れていた後悔が再び脳内に戻ってくる。妖精の助言に反抗せずに従うべきだったのか。ナツキの忠告を聞き入れていれば、冒険者ギルドの宿舎で休めていたのに。など今日の後悔だけでフジノの心は弱っている。


 妖精は頼れない。絶対の信頼を置いていた無敵の武器も使えない。それを取り上げられた自分の弱さに怒る気持ちはもうなく、ただ悲しかった。


 みんなが私の異変に気付くのはきっと遅いだろう。見栄を張って山籠りなんてするんじゃなかった。もし、万が一だれかが助けに来るとしても、妖精システムの圏外に助けが来るはずもない。あの町の人達は、私のように妖精がなければ弱い人間ばかりなのだから。


「…………」


 大岩同士の小さな隙間。大柄な男性なら通れないだろう、その天然の休息所でフジノは刀を抱いて小さく丸まった。もう何も考えず、後悔ばかりが繰り返される。すでに自分を攻める対象が今日だけでなく、過去の自分にまで及んでいる。まだ祖父が生きている時代、十歳の頃に初めて祖父から刀の修行を付けてもらった記憶。尊敬している祖父に「お前に刀を使う才能はない。戦うのもやめろ」と言われたことだ。私が悪かったのはわかるが、何がいけなかったのだろう。


 目を閉じて、ときおり鼻をすすりながら震える体を自分自身で抱きしめ、眠るのを待つ間、自分の何が祖父を怒らせたのかフジノは気になっていた。


――フジノが十歳の頃。祖父のトウジロウが扱う刀術に憧れたフジノは何度もねだっては断られる。いつもは厳しい母の口添えもあり、ようやくトウジロウはフジノに刀術を教えると決めた。


 冒険者ギルドに登録していたトウジロウは、現在よりも少し狭い南大門西端部の巨大訓練場で修行を付けてくれた。今思えば、孫自慢がしたかったのかもしれない。自分で言うのも何だが、母と違って祖父の厳しさには、確かな愛を感じていたのだ。


 簡単な討伐クエストに連れていき、実戦の空気を経験させると大きなトウジロウの背中に付いていったのを覚えている。


 山の麓にまで逃げてきたヤマイヌの討伐だった。群れから置いていかれ、獲物を満足にとれず、人の領域まで逃げてきた痩せたヤマイヌ。祖父は私に「あれを斬れ。お前には出来るはずだ」と言った。


 私は祖父の言葉を合図に、教わった踏み込みを使って、獲物との距離を一気につめて、横腹に居合斬りを一閃、返す刀で二つ目、距離をとっては斬撃を何度も繰り返した。練習通りに出来ると嬉しいのと同じだった。「やめろ」と祖父の冷たい声が聞こえるまで、十回以上は獲物を斬り、それでもまだ奴は倒れておらず、息があった。


 祖父は弱りきって傷だらけになっても地にふさないヤマイヌを一太刀で仕留めると、「お前に刀を扱う才はない。戦うのもやめろ」と、そして「俺は鬼を育てるつもりはない」と言い捨て、祖父は私に背中を向けて遠ざかっていく――


 あの頃と私は変わった気はしない。最近も似たようなことがあった。格上だといわれる、あのイワザルを相手にした時だ。ふざけた力を手にして、遊び感覚で戦っていた。あれが、何故いけないことなのかは答えられないが、その姿勢がこの危機を招いた事はわかる。


 だが勘弁して欲しいという気持ちもある。八歳の頃から妖精システムの画面投げが使えたのだ。大した努力もしていないのに使える強力な力を手元に育ち、自分で努力して欲しかった力が祖父の刀術だったのだ。






 一夜明けて、見知らぬ場所で朝を迎えたフジノは喉が乾いていた。少し動かすだけで鈍い痛みが走る体をゆっくりと動かして、岩の隙間から出る。


 反射的に伸びをしようとして激痛に気付く。体調は最悪だ。出血がないのが救いだがしばらくは小さなヤマイヌ相手にも戦えないだろう。


(川はあそこか)


 昨夜、川からここまで歩いてきた道のりを思い出し、そこまで遠い距離じゃないと水を求めて、刀を杖代わりにして転ばないように、少しでも負担を全身に分散しようと考えて歩く。


 岩があった場所は背が低い草しか無く歩きやすかったが、背の高い木々が間隔を開けて生えている場所では違った。大地に張った根に足をとられないよう気をつけたり、折れて倒れている木のせいで、何度か遠回りをしたりと時間がかかった。


 足を踏みしめるたびに木の葉が破れて、不快ではない独特な匂いが鼻にくる。足が木の葉で滑るようになる頃には、川の音が耳に聞こえる距離まで進んでいた。


 なんとなしに早くなる足。体が痛みをあげない範囲で急いで川に向かい、フジノは半日ぶりに水を飲めた。水源が近くにあるのは不幸中の幸いだったとフジノは少し喜んだ。満足するまで水を飲んだ彼女の頭には、これからどうするかを想像する程度の余裕が生まれた。


 水は確保できたとしても、食料がない。川の水で顔を洗いながら過去の知識を思い出すが、いいのがない。身近にいた人間は町から離れない人ばかりだし、山に泊まるフジノが異常視されていたくらいだ。山で食べられる物の知識なんて誰にもなかった。


(まじめに勉強しておけばよかった)


 ふと、何かが近づく気配を感じた。フジノは慌てて逃げようとして、思う通りに動かない足がもつれ転んでしまう。急速に近づく気配に逃亡を諦めて、息を潜めて待つことにした。


 何者かはバシャバシャと豪快に川の水を使っているのが、フジノの耳に聞こえる。おそらく魔物だろう。水分補給で喉を鳴らし、水気を払うために体を震わせているのがわかる。フジノの脳裏には大型の魔物が思い浮かぶ。


 徐々に気配がこちらに近付いてくる。魔物の鼻息の音が短く繰り返される。生ぬるい風が少しだけフジノに届くと、彼女の心臓の鼓動は強くなり、体が強張っていく。抑えようとしても彼女の体が早く大きく呼吸をしたがる。


 もう限界だと感じたフジノはゆっくりと立ち上がり、一番近くの木に隠れようと移動する。しかし、踏みしめた木の葉の音で魔物は彼女に気付いた。


 反射的に魔物がいる方向を見るフジノ。そこにいたのはイワザルだった。頼れる武器が使えない今、遭遇したくない魔物の一つ。


(ずるい技に頼った罰かもね。そんな気がしてきた)


「■■■■―!!」


 イワザルが叫ぶ。ビリビリと全身で威圧を受けて、フジノは振り返る。どうせ逃げられないなら、やるだけやってみようと。フジノはトウジロウの形見の刀を抜いて、記憶を頼りに双子山の儀式場で繰り返してきた構えをした。

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