第2話 音楽
愛華は音楽も好きだった。自分で演奏するわけではないが、聴くのは好きで、特にクラシックに関してはよく聴いていた。それでも小学生の六年生の頃までは好きだとは思いながらその曲の作曲家はおろか、曲の名前も知らなかったのだ。
「クラシックというと、作曲家を知らないのと、曲名を知らないのとでは、どっちがマシなのかしらね?」
と愛華は小学生の時の音楽の先生に尋ねた。
小学生というと、担任の先生が卒業まですべての教科を教えるものだと思っていたが、実際には五年生から後は、専門の先生がいた。それは音楽だけではなく、図工の先生も同じだった。要するに高学年になると、芸術的なことは専門の先生に任せるようになっていたのだ。
ただそれが愛華の学校だけのことなのか、それとも他の小学校も同じなのか分からなかったが、
「そんなものなんだろう」
と思い、必要以上に考えないようにしていた。
小学生の頃の愛華は、芸術が大嫌いだった。
音楽はもちろんのこと、図画工作においても同じで、作文などのような文芸に関してもまったく嫌いだったと言ってもいい。小学生なのだから、一度くらいはどれかの科目で先生から少しくらいは褒められることもあるだろうに、愛華の場合はまったくなかった。自分でも嫌いだと思っていたからなのだろうが、一度嫌いだと思うと、とことん嫌いになるのが愛華の性格だった。
芸術の中でも一番最初に嫌いになったのが、音楽だった。
歌うのも嫌い、楽器の演奏も嫌い、楽譜を見るなど、まるで外国語を見るかのようなまったく別世界の譜面を見ることなど、最初から毛嫌いするに十分だった。
愛華にとって、図工に関しては、絵画は嫌いだったが、工作はどちらかというと好きな方だった。特に木工細工などは家でもベニヤ板などを買ってきて、庭で黙々と何かを作るという時期が続いたこともあった。
「へえ、芸術が嫌いなくせに、木工細工なんかするんだ」
と、親からまるで他人事のように冷やかされたが、別に臆することもなかった。
元々、嫌いではない親であったら、他人事のような冷やかされ方をしたら、恥ずかしさからか、嫌になるものであるが、
「嫌いな親から少々のことを言われようと、別に気にすることはない」
と、割り切っていたのだ。
愛華の両親は愛華が小学三年生の時に離婚した。その理由が何であるかなど知る由もなく、愛華にしてみれば青天の霹靂だったのだが、時間が経つにつれて、最初から分かっていたような気もしていた。
考えてみれば、家族で一緒にどこかに行くということもなく、いつも自由ではあった。他の家族のように、親からどこかに連れて行ってもらったなどという「自慢話?」を聞かされても、羨ましいという気持ちにはならなかったが、親と一緒にどこかに行くという気持ちがどんなものか、想像してみることはあった。
しかし、実際にないのだから、想像のしようもないというものである。家族が皆一緒になって食事をしたという経験もほとんどない。それは家での食事であれ、外食であれ同じことだった。
愛華の家は共稼ぎで、愛華はいわゆる、
「カギっ子」
だった。
家の鍵は愛華が自分でも持っていて、いつも誰もいない部屋に帰る。学校から帰る途中、どこかからおいしそうな匂いがしてくるのをいつも感じていた。
「ハンバーグだわ」
と勝手に思い込んでいたが、家でハンバーグを作ってもらった経験があったわけではない。
あれは、友達の誕生日会の時だっただろうか。あまり友達の家にもいかない愛華が唯一思い出として残ってることだった。別に親から、友達の家に行くことを止められていたわけでもないが、友達に誘われても行く気にはなれなかった。
むしろ、誘われた時こそ、行く気にはなれない。
なぜなら、友達が誘うということは、
「きっと、幸せな家庭を見せつけられるに違いない」
という思いが先にあったからだ。
家族団らんなどという意識はほとんどない。両親が離婚する前まではずっと共稼ぎで、家族全員がすれ違い状態だった。さすがに小学生の低学年の頃は、愛華一人では危ないと思ったのか、父親のお姉さんが時々愛華の送り迎えに来てくれて、家で夕飯の用意をしてくれていた。
父の姉の家に招かれるわけではない。叔母さんの家は子供がもう大きく、高校生になっていたのであまり構うことはなかったのだろうが、受験生ということもあって、デリケートな心境を見計らってのことなのか、自分の家庭に愛華を迎え入れることはなかった
だが、愛華はそれでよかった。
最初は愛華のお迎えの帰りに買い物をして、家で料理を作ってくれていたが、それも一か月ほどのこと、それ以降は、叔母さんの方の事情が変わったとかで、先に夕飯の用意をしてから、愛華を迎えにくるようになった。そのおかげで、叔母さんは部屋の前までしか来てくれない。
「ここでいいわね」
と言って、いつもカギを回すのは愛華だった。
最初は寂しさもあったが、次第に慣れてきた。慣れというのは恐ろしいもので、それでもいいとすぐに思えるようになるのだから、すごいと感じる。
愛華は一人の部屋に帰ると、食事の匂いはもうしなかった。いつも夕飯の時間になればレンジでチンするだけなので、レンジから出す時に少し匂いがするだけだった。
愛華は、小学生の高学年になって、もう叔母さんが来てくれなくなったことで帰りは途中まで友達と一緒だった。低学年の頃までは叔母さんが来てくれていたことなど、友達には関係のない様子で、そのことに触れることがなかったのは、愛華にはありがたいことだった。
友達とは途中までしか一緒にいない。
「バイバイ、また明日ね」
と言って別れてからは、十分くらい一人で歩いて帰ることになる。
お互いに別れるまではどこにでもいる小学生の会話をしながら和気あいあいと帰っているのだが、別れたとたん、まったくの無口になる。その様子を愛華は自分で見ることができないが、慣れてくると、自分の様子を想像することはできるようになった。想像も次第に長期になってくると、最初の頃に感じていた無口な自分が、本当に暗い状態であることに気付くようになってきた。
それでも、別に深い意識を持たないのは、
「まったく別人のような暗さも、他の小学生にだっていることなんだわ」
と、自分だけが特別な存在ではないということを意識し始めたからなのかも知れない。
そんな頃、十分ほどの道のりが、次第に長く感じられるようになり始めていることに気付いていた。感情としては、
「いつも何かを考えているのに、気が付けば家についているという感覚だわ」
という思いなので、歩いている時は別の世界にいるような感買うだった。
だから、時間の感覚などあるわけでもなく、そんな時間が長くなったり短くなったりするということの方が、愛華には違和感だったのだ。
しかし、その感覚が違っていると感じたのは、二人が別れてから途中に公園があるのだが、最近になって、その公園を横切って返るようになったからだった。
それまでは公園を横切った方が近いわけではないのだから、普通に道なりにいけば済むことだった。
――どうして、公園なんか横切るようになったんだろう?
心境の変化がどこかにあったというわけでもなかった。
心境の変化があったのだった、愛華にはその意識が最初からあったはずだ。その時に気付かなかったとしても、公園を横切るということが意識として残った時、何かを思い出してしかるべきだったからだ。
愛華は何かを思い出すということはなかった。
公園からは、奇声のようなやかましい声が聞こえてくるだけで、同じ子供なのに、そんな声を鬱陶しく感じられた。
それはきっと、自分と違って恵まれた環境で育っている子供だから、まわりを意識することもなく、迷惑などという言葉を意識せずに発している言葉なのだと思った。
「子供は遊ぶのが仕事」
という大人はたくさんいるが、こと自分の子供のこととなると、母親は神経質になるというもので、
「あんまり大きな声を出しなさんな」
と言って叱っている。
ただそれは自分の対面だけのことであり、心底子供を思ってのことだとは到底思えなかった。もしそうだったら、もっとメリハリをつけて叱りつけているからに違いないからだろう。
公園に佇むようになったのは、
「このまますぐに家に帰りたくない」
と思うようになったからだった。
確かに家に帰っても何かがあるというわけではないので、急いで帰る必要もないが、公園に何か思い入れがあるわけでもないのに、いつの間にか寄り道するのが日課になっていた。
「いつか、寄り道したいと思ったことがあったからなのかな?」
と感じた。
寄り道という言葉が気に入ったのも事実だったが、それまで寄り道という言葉に悪いイメージがあった。寄り道というと、無駄なことだというイメージがあった。
「無駄なことはしない方がいいに決まっている」
それを教えてくれたのは、もう会うことのない父親だった。
父親はあまり家にはいなかったが、家にいる時は何かをするわけでもなく、ただボーっとしているか寝ているかという姿しか見たことがなかった。そんな態度が母親の怒りを買ったことから、離婚に結び付いたと思ったからだったが、父の口癖は、
「別に何でもいいじゃないか」
というものだった。
母親もその投げやりな言い方に、すでに何かをいう気力はなくなっていたようだが、実際には、自分が家庭を支えなければいけないという使命感から、いちいち父親に目くじらを立てることもなくなっていたのだろう。
だが、両親が離婚して母親と二人で暮らすようになると、今度は母親の無理があからさまに感じられるようになった。
「私が気を遣ってあげないと」
と感じているのは、子供としては我ながら健気だと思うようになっていた。
そのせいもあってか、愛華は母親とそれまで以上に距離を取るようになった。本当であれば二人きりなのだから、もっと距離が近づいてもいいのだろうが、それを許さないのが世の中の厳しさだと子供心に感じていた。
いや、この思いはもう少し大人になって感じたことだった。ただ、母親に対して気を遣っていたのは事実であり、子供の心境としては、
「近寄りがたい存在」
と感じていたに違いない。
自分でも戸惑っていた心境の中で、母親へ気を遣わなければいけないという思いと、近寄りがたい心境の双方をひっくるめると、
「家にいたくない」
という思いに至ったとしても、それは無理もないことであろう。
公園を通りかかる時間帯というと、まだ日は西の空に沈んでいない時間帯で、季節的には秋だったはずで、そろそろ寒くなりかかっていた時期であった。風の冷たさと日が差す場所との間での気温差を感じていたような気がした。
最初はただ通り過ぎるだけだったが、最近はベンチに座るようになった。ベンチに座るようになってから、それまで感じたことのなかった足のだるさを感じるようになったのは、まだ汗ばむほど季節に身体の重たさを感じた時だった。
夕方の時間は、砂場や滑り台を中心に、男の子がいつも遊んでいた。毎日いる子もいるが、たまにしかいない子もいる。だが、どの子も一貫して愛華を意識した人はいなかった気がする。
時間になると、どんどんいなくなるのだが、愛華が最後になることはなかった。必ず最後にならないようにしていた。最後になるのが怖いと思っていたからで、最後になると、それまでいくら明るくとも、自分一人になった瞬間に、一気に夜のとばりが訪れるような気がしたのだった。
毎日見かける男の子の一人が、愛華を意識していると感じた時、愛華はその男の子をどこかで見たことがあるような気がした。実際にはここでしか見たことがなく、学校も違っているので、知っているはずもないはずなのだが、知っているとすれば、夢で見たとしか思えない。
小学生の頃は夢に対して難しく考えていなかった。
「同じ夢は見ることができない」
というイメージは強く持っていた気がしたが、中学時代になってあんなに夢に対して考えるようになるとは思ってもいなかった。
公園にいて、風が吹いていない時間があることは、同じ時間にベンチでゆっくりするようになってから気がついた。夕凪などという時間が本当に存在するのだということを知ったのは中学に入ってからだったが、自分の感じていたことが本当だったということも結構あるのだと最初に気付いた時だった。
ベンチで座っていると、ちょうど五時ころだったと思うが、どこからともなくクラシックのメロディが流れてきた。それが公民館から流れてくるもので、五時の時報代わりに流れていることにその時は気付かなかった。ただ、公民館で若干の時差があるのか、それともわざとなのか、クラシック音楽がまるで輪唱のように、少しずつずれて聞こえてくるのが印象的だった。
足がだるく感じられるのが、その音楽を聴いたからだということが分かってきたのは、音楽に気付いてすぐだったような気がする。
だが、足がだるく感じる理由が、公民館から聞こえるクラシックの音を聴いたからだという一つだけのことではないのではないかと思ったのは、それからまた少し経った時だった。
そのもう一つの理由というのは、暑さも一段落してきた頃だったので、秋を感じ始めてからだった。
遊んでいた子供たちの半分近くは家路について、公園には数人しか残っていない。それも友達と遊んでいる人はおらず、皆一人ずつ、勝手に遊んでいる時間帯だった。
公園は住宅街の真ん中に位置しているので、まわりは一軒家が立ち並んでいる。そのどこから匂ってくるのか、いつもハンバーグの焼ける匂いがしてきた。
それまでハンバーグはおろか、夕飯の匂いを感じたこともなかった。考えてみれば、毎日公園に立ち寄っていたのに、今では聞き逃さないほどの音量で聞こえてくるクラシックの音楽をまったく意識していなかった自分がどういう心境だったのかというのを不思議に思わないのもおかしなことだった。
叔母さんが作ってくれた料理で、ハンバーグの時が多かったような気がする。ただ、料理をしているところを後ろから見たという記憶はないので、実際のハンバーグがどんな匂いなのか知らないと思っていた。だから、匂いがしても、意識することはなかったのかも知れない。
だが、クラシックの音楽に関しては、その音楽が何という曲なのか知ろうが知るまいが、意識することがなかったのかは理解できなかった。聞こえていなかったわけではないが、意識していなかったのは、ひょっとするとハンバーグの匂いの正体を感じることができなかったことが影響しているのかも知れない。
ハンバーグの匂いとクラシックの音楽を意識するようになったことが、だるいと感じている身体をさらに動かすことができないほどに身体を硬直させるようになるとは思ってもいなかった。
身体のだるさは夕方の西日によるものなのか、それとも夕凪という風の吹いていない時間がもたらすものなのか、愛華は何度か考えたことがあった。しかし、結論が出ることもなく、そのうちに考えることもなくなっていた。
それでもハンバーグの匂いが影響しているということだけは確かなようで、お腹が減っていない時でもハンバーグの匂いがしてくると、空腹感とともに、気だるさを感じるようになってしまった。
愛華は別にハンバーグが好きだというわけではなかった。むしろ母親が作ってくれたハンバーグはいつも焦げ目があり、香ばしさというよりも焦げ目のきつい匂いが漂っていた。
ハンバーグに限らず、焼き物の料理はいつも焦げ目があった。
「食事というのはそういうものだ」
と思っていたので、友達の家で前に食べた食事に焦げ目がなかったことを不思議に感じたものだ。不思議には感じたが、そのことを友達の母親に確認することもなかったし、ましてや自分の母親に聞いてみるような愚弄なことはしなかった。
ハンバーグの匂いを感じると、急に日が暮れてくる気がしてくる。実際にハンバーグの匂いを感じると、暗さが増してきて、今度はさっきまでなかった風を感じるようになっていた。
夕凪といyのが、夕方の風がピタッと止まる時間だということは何となく知っていたが、実際に知ることになったり、こんなに時間の短いものだとは思わなかった。長くても十分ちょっとくらいで、下手をすれば、数分で夕凪という時間が終わってしまうような気がした。
天候によってだが、夕凪という時間がないこともあるような気がした。雨が降ったり、日が照っていない時であれば、夕凪を感じることもない。もっともそんな時は公園に佇むこともなく、ハンバーグの匂いを感じることもない。愛華にとって、夕方の天気は重要だったのだ。
気だるさを最初はあまり気分のいいものだとは思えなかった。風が吹かない時間ということもあり、身体に熱が籠ってしまい、汗も掻かない時間だと思っていた。しかし、夕凪の時間に慣れてくると、汗が滴るようになってきた。
汗を適度に掻いてくると、夕凪がおわって風が吹いてくるようになった時に感じる心地よさに身を委ねることが、気だるさを少し和らげてくれるような気がした。
愛華は夢を見ているような錯覚に陥ることもあった。その頃はまだ夢に対して造詣が深かったわけではないのだが、夕凪とハンバーグの思い出が、その後の夢に対しての考えに影響を与えたことは間違いない気がした。
あれはいつ頃のことだっただろうか?
愛華が公園に立ち寄るようになって二か月くらいのことだった。最初に立ち寄ったのはまだ少し暑さが残る頃だったが、すでに木枯らしを感じるくらいの時期になっていて、夕凪の時間も一時間近く前に繰り上がっていた。
公園で一人で佇むのも、まわりに馴染んでいることを意識し始めた時、最初はまわりに同化した感覚で、人が自分を意識することもないだろうと思っていた。
自分もまわりを意識しないようになったのもこの少し前くらいだっただろう。最初は自分がその場所に馴染んでいないという意識が強かったからか、やけにまわりの目が気になっていた。誰がいるのかということよりも、自分をどんな人が見つめているのかが気になってしまった。実際にこちらを見ていると感じられるのは全員だった。ただ不思議なことは皆が一緒にこちらを見つめているわけではなく、誰か一人だけが見つめているのだ。一人が見つめている間は他の人の視線は明後日の方向を見ていて、愛華と目が合うこともない。愛華が想像していた状況とは、少し違っていた。
「こんにちは」
ふいに声を掛けられた時、どこから声を掛けられたのか一瞬分からなかった。声を掛けられて我に返ったことで、どこを見つめていたのか、何を考えていたのかなど、それまでの意識が完全に飛んでしまっていた。
一度瞬きをすると、目の前に一人のお姉さんが佇んでいて、逆光だったので、顔の表情は分からなかったが、声の感じから、お姉さんであることと、そのお姉さんの声が震えていたことで、緊張しているのが感じられた。
「こんにちは」
愛華も見上げるように呟くと、今まで逆光だった光が翳ってきて、その顔の表情が明らかになった。
最初に感じていた通り、緊張を垣間見ることができたが、笑顔が浮かんでいたのを見て、なぜか愛華はホッとした。声を掛けてきた相手が緊張していると思うと、気を遣ってしまうのではないかと感じたからだ。
愛華は彼女の顔を凝視したが、それでも笑顔を変える様子がなかったので、緊張が一瞬だけだったと気が付いた。愛華の顔を見て今度は包み込むような表情に思えたことが、自分をホッとさせる気分にさせたと感じた。ここに来るようになって二か月ほどだという意識の元、今までに会ったことがあったのかを思い起こしてみたが、記憶の中にはなかったということしか思えなかった。そんな相手にふいに声を掛けられたのだから、どうして声を掛けてきたのか理由を聞いてみたいという気持ちはなかなか消えなかった。
「どこかでお会いしたことなかったですか?」
とそのお姉さんは出し抜けにそう言ってきた。
愛華は、初めて見た相手だったので、正直に、
「いいえ、初めてだと思いますけども」
と答えた。
あまりにもアッサリと答えた自分にあっけにとられたが、相手もガッカリした様子ではないので、
――ひょっとすると気が合うかも知れない――
と感じた。
お姉さんは表情を変えることはなかった。包み込むような表情だと感じたのは、本当は最初からではなく、表情に変化を感じなくなってからだったような気がした。ただホッとした気分は最初からで、愛華はその時、
「以前にも会ったことがあったのかも?」
と思ったのかも知れないが、先に相手に指摘されて、そのことがまた意識から飛んでしまったような気がした。
お姉さんは愛華をじっと見ていたが、
「私の勘違いだったかも知れないわね」
と、愛華の方でも、
「以前にも会ったことがあったかも?」
と思った瞬間だっただけに、相手に翻弄されそうな自分を感じた。
お姉さんは言葉を続けた。
「どこかで会ったような気がしたのはね。夢で見たような気がしたのよ。今までまったく忘れていたんだけど、あなたの顔を見ているうちに、それが現実ではなく、夢でだったと思うようになってきたのね」
「夢って、覚えているものなの?」
その頃の愛華は、夢に対してあまり意識したことはなかったが、
「見た夢は覚えられないものだ」
という意識を持っていた・
愛華が夢について意識するようになったのは、このお姉さんとの出会いが大きく影響してくるのだが、その時はまだよく分かっていなかった。
「夢を覚えていることの方がレアだと思うの。でも、覚えている夢には法則性があるんじゃないのかしら?」
愛華にはピンとこなかった。
「私は夢を見たという意識はあるんだけど、それが怖い夢だったのか、それとももう一度見てみたいくらいのいい夢だったのか、ハッキリとしないのよ」
というと、
「夢を思い出そうとはしてみるのね?」
と聞かれたので、
「いえ、思い出そうという意識はないんだけど、どうして覚えられないのかという疑問だけは残っているんですよ」
と言った。
こんな難しい話を今まで誰かとしたことはなかったが、本当はこういう話ができる相手をずっと探していたような気がする。それだけにまわりの同級生の話を聞いていると、低俗に感じられることから、あまり人と関わらなかったのは、まわりが自分を遠ざけていたわけではなく、こちらから相手にしていないということを、いまさらながら感じていた。
まるでロウソクの火が、最後の力を振り絞って輝いているかのような、西日の明るさが愛華の目を刺していた時、遠くからもう一度クラシックの音楽が聞こえてきた。
午後五時にも鳴るクラシックの音楽が、午後六時にもなるのだが、最近は二度目の音楽を聴くことはなかった。なぜなら、最近は日が落ちるのが早くなってしまったせいで、午後六時というと、ほとんど夜のとばりが下りていたはずである。
――どうして今日はこんなに日の入りが遅いのかしら?
と、明らかに昨日までとは違う状況に愛華は戸惑っていた。
――今のこの瞬間こそが、夢なのかも知れないわ――
と感じた。
夢では音楽のような音であったり、色であったり、その他、感情に触手するものは感じることはないと思っていたはずなのに、どうして音楽を聴いたことで、夢を思い起こすことができたというのだろう。しかも、公民館から聞こえてくる音楽は、普段でもどこから聞こえてくるのか分からないほどボヤけた音であるにも関わらず、夢を意識したということは、夕方と五時、六時の時報であるかのような音楽とが密接に結びついていることを証明しているかのようだった。
それにしても、自分は会ったことがないと思っている相手が、自分のことに見覚えがあると言って現れたことは、何を意味しているのだろう。愛華は学校でも友達がほとんどおらず、家庭環境の中でも孤立しているイメージだった。お姉さんは高校生か大学生くらいであろうか。小学生の愛華には、年上の年齢を想像することは難しかった。
お姉さんは、愛華のことを夢で見たような気がすると言った。相手に夢であったような気がすると言われると、愛華も相手と会ったことがあったのだとすれば、夢の中だったのではないかと思うようになった。
夢については、今までにもいろいろと考えたことがあった。普段からいつも何かを考えているところのある愛華にとって、夢というアイデアは結構な割合で発想を豊かにしてくれたアイテムだったような気がする。
その時にどんな発想をしたのかということは、我に返ってみると忘れてしまっていた。考えていた時間も、思っているよりも相当な時間が掛かっていて、自分の中で五分ほどの時間だとしか思っていなくても、時計を見ると三十分以上掛かっていたことも稀ではなかった。
「我に返った」
という表現は、我ながら的確な表現だと思っている。
想像していた時間は自分の時間であって自分の時間ではない。本当であれば、一番自分らしい時間のはずなのに、後から思い返すと想像以上に時間の感覚が違っていることを、恐ろしく感じるほどだった。
それこそ、
「夢を見ているようだ」
と感じても無理のないことのように感じる。
愛華にとって何かを考えている時は、いつも想像というよりも、妄想に近いものであることを意識していた。
まだ小学生の愛華は、そこまで夢に対していろいろな発想を身に着けているわけではないが、中学、高校になって考えた発想の基礎を築いた時期であることは間違いない。逆にいうと、小学生の頃がなければ、中学、高校の発想もなかったわけで、小学生の頃だからこそできた妄想もあったはずだ。
中学生になってから変わったことといえば、愛華にも他の人と同様に思春期を迎えたということである。思春期になると、それまで感じたことのない感情がたくさん芽生えた時期だった。特に感じたのは、羞恥心であった。
小学生の頃でも、恥ずかしいという意識はあったが、中学生のいわゆる思春期になってから感じる恥ずかしさとは明らかに違っていた。最初はその意味がよく分かっていなかったが、分かってみると、納得のいくことであった。
「男の子を男性として見るようになったからだわ」
という思いに納得したのだ。
男の子というと、女の子を意識しているようで、実は意識していない。女の子も意識していないようで、男の子から見れば、思っているよりも、意識されていたようだった。
だが、男の子はそれを隠そうとする。それを女の子は素直に感じ、最初から意識していないような気がしていたのだ。
ただ、それは愛華だけのことだったのかも知れない。実際に男の子を意識することがなかったので、意識する以前の問題だったのだ。それでも中学生になって思春期に入ると、男の子の視線を感じるようになった。それも、恥ずかしいと感じる視線である、
「生々しい」
というのを感じたのは、この時が最初だったような気がする。
「頭のてっぺんから、足の先まで見られている」
という思いがあった。
しかも、その視線には、「舐めるような」という表現がピッタリだった。服を着ているのに、まるで裸にされるかのような視線を、恥ずかしく感じない方がおかしいと思うほどだった。
「この恥ずかしさが羞恥心というんだわ」
と感じると、羞恥心が大人への階段のような気がして、恥ずかしさがくすぐったいような感覚になってくるのを感じた。
夢というと、忘れてしまいたいと思っているはずなのに、忘れることができない夢を小学生の頃に見た。あまりにもリアルだったので、
「夢だと思っているけど、本当のことだったんじゃないかしら?」
とさえ思うことであり、それがもし現実のことであれば、
――この思いは、誰にも言えるわけのないことで、死ぬまで口外できないことなんだわ――
と思えることだった。
それなのに、中学に入ってから友達になった女の子に話していた。どうしてその話をしたのかといっても、その時の心境を後から思い起こしても、想像することは難しかった。それなりに何かの信念なのか、覚悟のようなものがあったはずなのだが、思い返してみると、
「何となく」
だったように感じられて仕方がない。
話を聞いた女の子も、驚いて引いてしまうのではないかと思えたが、そんなことはなく、しかも、
「私にも同じような経験があったような気がするの」
というではないか。
――引かれてしまったらどうしよう――
と感じながらも、きっと覚悟を決めて話をしたことだと思っていただけに、拍子抜けしたというのか、ホッとした気分になったに違いなかった。
その時の心境、覚悟であったり、信念を思い出すことができないのは、そのホッとした思いがそれまでに感じていた思いを打ち消して余りあるものだったということであろう。
愛華はそれまでに自分の気持ちを表現することを考えたことはなかった。自分に言い聞かせたり、自分を納得させるために、自分の気持ちは表現するものだと思っていたので、それを他人に対して使うことは、
「もったいない」
とさえ感じていた。
それが小学生までの愛華だったが、中学に入ってもその思いに、さほどの変化はなかった。
成長期にある愛華にとって、過去のことは、
「成長するためのプロセスでしかない」
という思いがあり、思い出したとしても、今の自分を中心にしか考えられなかった。
これは、大人になってからも変わらなかったのだが、思春期の思いは大人になってからのものとは少し違っていたように思う。
公園で出会ったお姉さんの顔をじっと見ていると、初めて見たはずなのに、彼女の言っているように、前にも見たことがあると思うようになっていったが、その感情がどこから来ているのか不思議だった、
その頃の愛華には、
「デジャブ」
という発想はなかった。
「今まで一度も見たことがないはずなのに、どこかで見たことがあると思うような発想」
これをデジャブというが、これが初めて感じたデジャブだった。
デジャブという言葉を聞く前に感じた最初のデジャブだったが、この感情は、デジャブという言葉を聞くまでは、夢だとして片づけていた。
つまり、理屈で解明できないことや、自分を納得させることのできない出来事というのは、そのすべてが夢であるということで、解決しようという安易な考えであった。
別に、夢という発想に逃げているわけではないと思っていた。逆に、
「夢という発想は、こういう時のためにあるんじゃないかしら?」
と、夢というものの信憑性に結び付けようとする、ある意味都合のいい考えではなかったか。
夢から逃げることができないという発想は、中学生になってから感じるようになった。ひょっとすると、その発想が思春期への入り口の一つだったのではないかとも考える。
「思春期というのは、入り口があって、その入り口に達した時に、いくつかの要因があるような気がする。その要因を感じさせないのが思春期であって、そのおかげで入り口という発想を考えることもなく、すんなり入ることで、余計に思春期は神秘性を感じさせるのではないだろうか」
と、分析していた人もいた。
もっとも、それは思春期を抜けた時に感じた時であり、
「こんな発想ができるのは、自分が大人になっていない証拠だって思うの。思春期を抜けてすぐに大人になる人もいるけど、まだ大人になりきれない時期を過ごせるというのは、貴重な体験なんじゃないかって思うの」
と言っていたが、愛華はその言葉を大人になってからも忘れることはなかった。
愛華がデジャブを感じた時、何か違和感があったのだが、その違和感がどこから来るのか、意外と早く気が付いていた。
六時のクラシック音楽が終わるか終わらないかの時、最初に聞こえていた場所から、再度同じメロディが流れてきていたような気がしていた。公民館は近くにいくつも点在しているので、空気の乾いた時などの音が響く時は、町はずれの公民館の音まで聞こえてくることがある。一度終わったクラシックのメロディが、別の場所から最初から聞こえてくるのだから、面白いものだ。
クラシックの音が電子音と同じでどこから聞こえているのか分かりにくいということは無意識に感じていた。一度終わった音が違うところから聞こえてくるのも無理もないと思っていたのに、同じところから聞こえてきた時、愛華はすぐに、
「ああ、終わったところから聞こえているように思うけど、実は違うところから聞こえているだけのことなんだわ」
と納得した。
だが、納得する気持ちが深まるにつれて、音が本当に終わってくれるのか、疑問に感じられていたのは、二度目の最初から聞こえてきた音が籠って聞こえていたからである。
反対側からは、もうすぐ終わりそうな音が聞こえていたが、その音は乾いた響きをもたらしていて、遠くまで響かせる音ではなかったが、小刻みな心地よさが耳をくすぐった。しかし、籠ったように聞こえるその音響は、気だるさとも相まって、いつまでも続いていそうな気がしたので、その思いからか、終わったはずの場所を気にしている自分がいることに気付いた。
今度は音は鳴らなかったが、音を気にしている時に感じたことがあった。
「左右同時に、まったく違うことができる人って、すごいわよね」
と自分に語り掛けていた。
それは音楽の基本であり、ピアノやギターなどのメジャーな楽器を弾くには、必要不可欠な技術である。
――どうして、皆そんなに簡単にできるのかしら?
愛華は誰にでもできるような感覚でいるが、それは錯覚ではないだろうか。実際にできているのは音楽をやっている人だけで、それ以外のその他大勢の人は、誰もできないのではないか。できないことを誰も問題にしないから、できないのは自分だけなんだという思いこみをしてしまっていたが、それは仕方のないこととして片づけられることなのか、疑問だった。
音楽ができないのと同じで左右の感覚もまともに感じることができない。音楽ができる人、つまりは左右で別々のことができる人が皆左右で同時にしっかりと感じることができるのだろうか、愛華はできていると思っていた。
もちろん、人に聞いてみたことはなかった。聞ける相手がいないというのがその理由なのだが、愛華は聞くのが怖い気がした。
夕凪の時間が過ぎて、いつの間にか西日も建物の陰に隠れてしまい、吹いてきた風が木枯らしを思わせるほどになってくると、急に手が冷たくなってきた。思わず手を口元に持っていき、
「ハー」
と息を吹きかけてみたが、思ったよりも効果がなかった。
冷え込んできてはいたが、日が翳ってきて、さらに風を感じるようになってから、それほど時間は経っていないはずなのに、底冷えを感じるのは、ひょっとすると風邪でも引きかけていたからだったのかも知れない。
「そういえば、ボーっとしてきたわ」
と思い、それをすぐに意識しなかったのは、普段から夕方のこの時間、身体のだるさを日ごろから感じていたからではないだろうか。
気が付けば身体が小刻みに震えていた。小刻みさは寒さを感じて震えている時と若干違っていて、寒さによる身体の震えは、自分ですぐに意識できるほど、大げさなほどの震えに身体全体が反応してくるのに、この日の震えは、いつ震え出したのか自分でも意識できないほど、自然体の中での震えだったような気がした。
だから、気が付いたら震えていたなどという表現になるのだが、震えを感じてしまうと、最初は震えの原因が何なのか考えようとしたが、すぐに考えるのをやめてしまった。考えるだけ無駄だというよりも、考えることに意味を見出さなかったからだ。
それは、最初から震えの原因が分かっていたからだというよりも、考えれば考えるほど迷ってしまい、頭に残ってしまうことで、余計な体力を使うことが分かっていたからに違いない。
いつの間にか掌をこすり合わせていたのだが、右手を握りしめて、左手を添えるような感じに途中から変わっていた。どうして変わったのか分からなかったが、
「左右で手の感覚を感じてみたいと思ったからかも知れない」
と思った。
普段から、左右で手の感覚を感じることはできないと思っていたのは、寒さの中で、片方の手が温かくなって、もう片方が冷たい状態の時に、手を合わせると、明らかに温かさと冷たさを感じることはできるのだが、片方に意識を集中させると、もう片方の手の感覚が分からなくなってしまうことを知っていたからだった。
「あらたまって集中しようとすると、できないこともあるんだ」
と初めて感じた気がする。
それまでの愛華は、自分の身体が何かを感じる時、感じたことを意識できるものだと思っていた。そして、どのような感覚なのか、想像した思いと誤差はないものだと思っていた。
だが、左右の手を重ねるというような、自分の身体の二つの部分で同時に感じることはできないと思っていたが、厳密ではないと感じた。
漠然と両方を同時に感じることができないと思っていただけで、それぞれ別々に感じようとすると、感じることはできるものだと思っていた。
しかし、実際には逆で、
「片方を単独で感じることができないのであって、同時に感じようとすればできないわけではない」
と言えるのではないだろうか。
愛華は、そのことをハッキリと感じられるようになったのは、思春期になってからだった。小学生の頃に感じた時は、ここまでハッキリと感じたわけではなく、漠然とした感覚が違和感として残ったことなのだが、思春期になって意識したことで、却ってその時に意識したものではなく、過去に意識したものだという思いを持った。
思春期というのは、そういう感覚を与えてくれる時期ではないのだろうか。本当は思春期のちょうどその時に意識し始めたにも関わらず、意識した瞬間から、
「以前から、思っていたことだったような気がする」
という矛盾した感覚に襲われる時期なのかも知れない。
この感覚は何かに似ていないだろうか?
愛華はそれが何なのか、すぐに思い出せたのだが、思い出すのに一瞬ではなかったことで、すぐに思い出せたという感覚はなかった。
「そうだわ。デジャブだわ」
デジャブという現象に違和感があったのは、元々であったが、この時にすぐに思い出せなかったという意識も一種の違和感だったような気がする。
デジャブというと、
「初めて見たり聞いたりしたはずなのに、以前にどこかで経験したことがあるような気がする」
という感覚である。
錯覚だと言えばそれまでなのだろうが、錯覚を起こすには起こすだけの原因のようなものがあっていいはずである。錯覚だと思った次の瞬間、その原因を探してしまうのが、人間の本能ではないかと愛華は思っていたが、以前にデジャブを感じた時、本当に原因を探そうとしたのか、思春期になってから思い出そうとした時、思い出そうとしたという意識を感じることはできなかった。
それが、
「意識の矛盾」
なのかも知れない。
意識の矛盾というのは、あまりにも漠然とした表現であり、今までにも感じたことがあったり、これからも何度も味わうことだと思うと、意識の矛盾を感じた時、成長した自分が何を感じるのか、大いに興味があった。
過去に感じた時もひょっとすると、今感じたのと同じように、
「未来にも同じように感じた時、その時はきっと理解できると思う」
と、未来に感じることは意識していたが、その時は理解できると思ったのは、その未来が近未来ではなく、さらなる未来を予感していたのだとすれば、その時にも、
「将来、何度も感じることなんだろうな」
と思っていたに違いない。
愛華は、小学生の頃、公園に佇んでいる時、何度となく、将来について考えていたような気がする。
ボーっとしている時間が多かったように思うのは、身体が感じた気だるさによるものであったが、それは夕方に存在する夕凪という特別な時間帯が何か特殊な意識を作り出し、それまでの時間とは一線を画した感覚に陥り、風を感じることで我に返ってしまう状況を感じるからだと思うようになった。
思春期になって過去のことをよく思い出すようになっていたが、それは過去を思い起こすことで顧みる自分を発見したいからではなく、
「思い出すべくして思い出したこと」
という意識で、そこに今の自分を顧みるような何かがあるわけではないと思っている。
過去を思い出すということは、その時に同時に感じたことが、その時に初めて感じたことではなく、思い出した時期に最初に感じたことだということを警鐘しているのだということになるのではないだろうか。
思春期になってから、小学生の頃に諦めた音楽というものを再度意識したのは、一緒に思い出した公園で佇んでいた時に感じた、
「左右で別々のことを感じることができない」
ということを、詳細に思い出したことと関係があるに違いない。
愛華は、
「左右で同時に感じることができるが、それを単独で感じようとした時、感じることができない」
という、一見矛盾した感覚が、実は自分の錯覚であり、真理だったのだと思うと、本当の意識がどちらなのか、思春期になった今では、理解できるような気もしてきた。
子供の頃に感じたのは、ボーっとした感覚の中でだったから分からなかったのか、それとも、感じることができたのは、ボーっとした感覚だったからなのかのどちらかを考えていた。
その一つの答えが、他の疑問や違和感を解決してくれるかも知れないと思うのは、
「思春期になった今だからではないか」
と感じたのだ。
愛華が公園で佇んでいた時のことをどうして思い出したのかというと、
「あの時に出会ったお姉さん、どこかで見たことがあったような」
という思いが頭をよぎったからだ。
公園に佇んでいたイメージが最初に浮かんだからではなく、お姉さんの顔が頭をよぎったことから感じたことだった。
だが、あのお姉さんの顔を見たことがあったという感覚は、明らかな間違いであった。それは信憑性などという言葉ではなく、ハッキリとした事実だと言ってのいいだろう。似たような顔は見たかも知れないが、少なくとも意識に残る顔は今までにはなかった。特に人の顔を覚えるのが絶望的に苦手な愛華には、事実と言っても過言ではないと言ってもいいだろう。
人の顔を覚えられないのは、思春期になるまでは誰にでもあることだと思っていた。だからこそ、
「大人になれば人の顔を覚えることができるようになるんだわ」
と思っていた。
少なくとも思春期まではそう思っていて、今後はどうなのか分からないが、今の時点で子供の頃と変わっていないのを思うと、
「たぶん、覚えることはできないんだろうな」
と思うようになっていた。
思春期になってから、夕方の公園を思い出したのは、音楽への造詣が深まってきた証拠ではないだろうか。
「左右で別々のことが同時にできなければ、音楽はできない」
だから、自分は音楽をできないと思っていたのだが、それでも音楽をしてみたいという欲が出てきたことで、それまでの自分の考えを否定する何かを模索していたのかも知れない。
だが、実際には左右で別々のことを感じることができないわけではなく、そのどちらかに集中した時に感じることができないということに気付いていたはずなのに今になって再認識したということは、本当に意識していたのかどうか、怪しいものだと感じられる。
「あの時に見たお姉さんの顔はすでに忘れてしまっている」
と、愛華は思っていた。
よく考えてみると、愛華は本当に最初から人の顔を覚えるのが苦手だったのだろうか?
幼少の頃の記憶を思い出すと、自分ではそんな意識はなかった気がする。幼少の頃に人の顔を覚えるという意識がある方がすごいというのも当たり前だが、愛華は幼少の頃には覚えていられたと思うと、
「では一体いくつから、人の顔を覚えることができなくなったのだろう?」
と思うようになった。
その答えはこのお姉さんにあるような気がしていた。
お姉さんの顔を思い出せないのだが、もう一度見れば、ハッキリと思い出せる気がする。しかも、それはその時にどのような会話があったのか、細部まで思い出せそうな気がするのだ。
ということは、今記憶の中にあるそのお姉さんとの会話の場面は一部でしかないということを認識しているのだ。思い出すことさえできれば、今人の顔を覚えられないということに悩んでいる原因がどこにあるのか、ハッキリするに違いない。
ただ、お姉さんの顔を思い出せないまでも、あの時から見て、近い将来、そのお姉さんが自分に深く関わってくることが分かっていたような気がする。しかし、それを突き詰めてしまうと、それまで感じたことのない矛盾にぶち当たる気がしたのだ。矛盾は彼女の顔を思い出すことだというベタなことであり、何が何に対して矛盾しているのかという具体的なことまでは分かっていなかった。
「お姉さんの顔を思い出すことができるのだとすれば、今のような気がする」
と思っていたが、そこに根拠は何もなかったが、信憑性がないわけではなかった。
根拠がないのに、信憑性だけがあるということを感じたことはそれまでには一度もなかったが、そんな状態に陥った時、
「深入りしてはいけない」
と、自分に言い聞かせている自分が別にいるような気がしていた。
その時に感じたお姉さんの年齢が、今の自分くらいだということも気になるところであった。
「あの頃だから、年上に見えたのであって、同年代の自分が彼女を見れば、あの時のように年上として意識できるのだろうか?」
と感じた。
年上だから、お姉さんだと思ったのであって、もし、愛華が彼女をお姉さんだという意識を持ったままずっといたのだとすれば、もし今あの時のままの彼女が現れたとしても、愛華には彼女がその時のお姉さんだったとは気づかないに違いない。
「歳はお互いに取っていくものだから、絶対に交わることのない平行線でしかないはずなのよ」
という話を聞いたことがあったが、至極当然の話である。
もし彼女が誰かとダブって見えたのだとすれば、錯覚であり、自分に錯覚をもたらした原因も分かるのではないかと考えられる。
「私って、本当はいくつなんだろう?」
いまさらのように感じたが、それは鏡を見て感じた初めてのことだったのだ。
今まで鏡を見ることはほとんどなかった。むろん、鏡を見て自分の年齢に思いを馳せることはご法度だった。
実際に愛華は自分の年齢を意識したことはなかった。
「年を取った」
などという考えを真剣に考える年でもなく、まだ子供だという意識の中に、
「年齢的な意味ではない大人の部分が私にはあるのかしら?」
ということを考えた方がよほど思春期の発想としては健全だと思っていた。
だが、鏡を見ていると、次第に自分ではないという意識が芽生えてきた。そこに写っているのは自分以外の誰であるはずもない。それなのに何かが自分と違うと感じるのは、自分の中で許せない部分、いわゆる譲れない部分があるということなのだろうか。
鏡の中の自分に語り掛けるような痛いマネはしたくなかったが、思わず語り掛けている自分がいるのにも気づいた。
何を語り掛けているのか、その時々で違うのだが、我に返ってしまうと、何かを語り掛けていたという以外のことは意識の中にはなかった。
覚えていないだけだということなのかも知れないが、覚えていないということはその時間、意識が飛んでいたということにでもなるのであろうか。そのあたりの意識はあるのとないのでは紙一重のような気がする。遠いように思えても、背中合わせだということは往々にしてあることなのだろう。
鏡を見ていて、目の前に写っている人が自分と同じ動きをするはずだという意識はない。それが当たり前だと思っているからだ。当たり前だと思っていることは、意識すらしないことが多い。それはまるで目の前に見えているのに、あることを当たり前だと思うことで、存在していて見えているのに、視界に入っていないかのような石ころのようである。
愛華は、自分が石ころのような存在だといつも感じているような気がする。小学生の低学年の頃は、先生からもクラスメイトとの輪の中にいても、その存在を意識されていないこともあった。
「お前、いたのか?」
その口調はなるべく平常心を装ったような口ぶりであったが、驚きを隠そうとすればするほど目立つということを意識していないかのようだった。小学校の低学年の愛華にその時、そこまで意識できていたのかどうかは定かではないが、今思い出すと、その時に意識していたように思えていた。
鏡に写っている自分を見ると、時々、その後ろに自分の意識していない何かが写ってはいないかと気になってしまうことがあった。
愛華はホラーはあまり好きではないが、テレビでやっていたバラエティー番組で、ホラー映画のバラエティ用にパロデイとして作った映像を見たことがあったが、その時、鏡の後ろに風船を持ったピエロが写っていた。海外のホラーのパロディのようだったが、愛華には印象深いものだった。
ピエロ、そしてそのピエロが持っている風船、そのどちらも怖かった。それぞれ単独で存在していたとしても、恐ろしいと感じるだろう。不思議なことにその両方が揃った方が愛華には恐怖が和らいだような気がしたのだったが、それはバラエティだと思っているからなのかも知れないし、それだけではないのかも知れない。
今までサーカスなどを見に行ったことがなかったので、ピエロをほとんど見たことがなかった。だが、テレビに映ったピエロを見た時、
「最近、どこかで見たことがあったような気がしたわ」
と感じた。
思い出そうとしても、記憶の引き出しがまともに開いてくれない。
「曖昧な記憶ほど気持ちが悪いことはない」
と感じたが、その思いはその時が初めてというわけではなかった。
ピエロの何が怖いのか、考えてみたことがあった。
「あの顔が怖いのか?」
表情から、感情を読み解くことができない。
いつも笑っているように見えるが、笑っているとは到底思えない。その表情の奥に隠された素顔を想像するのも怖い気がする。顔を隠すのだから、何か人に表情を見られたくないから隠すのだ。その意図がハッキリとしているのであれば、ピエロに対する恐怖はその意図から生まれるのではないだろうか。
耳近くまで裂けている口、昭和の昔に、
「口裂け女」
というのが流行ったという話を聞いたことがあったが、いつどのようなシチュエーションで出てきた話なのか覚えていない。
口裂け女という言葉からイメージを膨らませて。ピエロに行き着いたことは覚えているが、自分にそんなにも飛躍した発想があろうとは思ってもいなかった。
ピエロが持っている風船へのイメージは、鏡に写ったピエロが持っているイメージではなく、別の映像のイメージだった。
そのピエロは、ホラー映画に出てきたピエロとは別で、ドラマの中の風景に溶け込んだようなエキストラとしてのピエロだった。
商店街などにいるピエロで、今の時代にはなかなか見かけることはないが、テレビの画面に映し出された宣伝マンとしてのピエロに、その時の愛華は違和感を一切感じることはなかった。
昭和の時代であれば、プラカードを持って、宣伝用にピエロの恰好をさせたアルバイトを雇うなど普通だったのだろうが、今の時代には派手すぎてそぐわない。そんなことは分かっているのに、テレビの中では最初から時代設定が昭和だということを表していたので、別に違和感を持つこともなかったのだ。
それでも、昭和の時代を知るはずのない愛華が、どうしてピエロの姿に違和感がなかったのか、
「前にもどこかで見たことがあるような」
というデジャブを感じたわけでもなかったはずだ。
愛華はそのことを感じると、そのどこかというのが、
「夢の中ではなかったか」
という意識を持った。
そして、テレビのイメージがそのまま夢で見たであろうその場面にシンクロしてしまったかのようになり、夢とテレビ画面の記憶が、意識を錯綜させているかのように感じられた。
デジャブを感じたとすれば、それはそれで不可思議なことであるが、デジャブを感じたわけでもないのに、テレビ画面を通してであれば違和感がないというのも不可思議ではないだろうか。
そういえば、公園で出会ったお姉さん、あの人の顔を思い出すことはできないのだが、表情のイメージだけは何となく覚えている。
「何となく」
というのは、言葉で言い表すのが難しいという意味で、覚えているには覚えているが、曖昧なのは間違いない。
それなのに、お姉さんが何を考えていたのかということは、その時分かっていたような気がする。今となって思い出すことは難しいが、分かっていたという事実は、その時は漠然と感じただけだったが、あらたまって思い出すと、そこにお姉さんへの記憶が残っている証拠なのではないかと思えた。
ピエロと風船という結びつきは、別におかしなものだとは思わない。ピエロが風船を持っているのは当たり前のように思うし、ピエロが持っているものはプラカードか風船だという意識があるのも分かっている。ただ、違和感を感じたのは、そこが部屋の中だということであった。表でピエロが風船を持っているのであれば、別に問題はないのだが、鏡に写るという限られた空間の中で、ピエロと風船は存在していた。
最初は漠然とその存在を意識しただけだったので、遠くの方からそっと見ているようにしか感じなかった。だが、少ししてもう一度意識すると、今度はすぐ後ろにまでピエロが迫ってきているのに気付いたのだ。
「わっ」
と、思わず声を出した気がする。
近づいてくる気配はまったくなかった。やはり夢というのは、自分に都合の悪いことは意識させないようになっているのか、潜在意識がなせる業が夢だという根拠も分かるような気がする。
夢の中では自分の発した声を意識することができるはずだと思っているが、それは夢の中だけのことであり、目が覚めてしまうと、何を言ったのか、記憶にもなければ、意識として思い出すこともないと思っている。だが、本能的に口から出てくる言葉だけは例外であり、
「わっ」
という無意識な言葉は覚えているはずだと思っていた。
ピエロの恐怖は次第に薄れていった。しかし、ピエロを意識しなくなったわけではなく、今度はピエロの別の顔を感じるようになった。
ピエロとは、
「道化師」
という別名があるように、その雰囲気や佇まいで、人に興味を持たせるのが特徴である。
怖いというイメージは最初からあったのか、元来のピエロは怖さというよりも、道化としてのイメージの方が強いのではないだろうか。
いわゆる昭和の時代であれば、
「チンドン屋」
という言葉になるのだろう。
「サンドイッチマン」
という言葉も聞いたことがあるが、どういう意味なのか知るわけでもなかった。
パチンコ屋や商店街のお店の新装開店などで、宣伝に一役買う。ピエロ単独で行動することはなく、芸人一座のような数人の団体の中に、ピエロはいる。
ひょうきんなパフォーマンスの中、笛を吹いている者、金具を叩いている者、役割はそれぞれだが、小躍りするようにして店のチラシを配るその様子は、ひょうきん以外の何物でもない。
その中でもピエロはその隈取から、表情は分からない。ホラーなどではそれが恐怖を煽るのだが、チンドン屋としてのピエロは、あくまでもひょうきんでしかない。愛華はそんなひょうきんなピエロと恐怖を感じさせるピエロのどちらを最初に見たのか覚えていないが、最初にピエロというものを意識した時は、ひょうきんなピエロだったと思う。
それだけに後から恐怖のピエロが、意識の中で記憶として、
「上書き保存」
をしたようだ。
ひょうきんさとは正反対なだけに、その距離はかなりのもので、それだけに衝撃は大きかったに違いない。ピエロというものを単純に思い浮かべようとした時、恐怖が最初に出てくるようになったのは、きっとこの時の衝撃が原因なのではないかと愛華は感じるようになっていた。
ただ、愛華はおかしな発想を持っていた。
「ひょうきんなピエロも恐怖を感じさせるピエロも、結局は紙一重の発想なのではないか」
というものだった。
衝撃を与えるほどの正反対なものであるにも関わらず、同じ空間に存在しているが、それは紙一重であって、実際には交わることがなく、相手を認識できないようになっているところを他人事として見ていることから、まるで異次元の発想に似ているような感覚に陥るのではないかと考えていた。
ピエロを含めた宣伝マンたちは、それぞれの楽器、楽器もどきで滑稽な演奏を続けている。それを音楽と言えるのかどうか、愛華は疑問だったが、音楽ではないが人を引き付けることのできる音は、それだけで音楽と同じ効果があるのではないかと思うようになっていた。
ふとピエロが素顔を表すと、どんな顔なのか想像してみた。すると出てきたのは、子供の頃に公園で出会ったあのお姉さんだった。
「何もピエロが男である必要はない」
言われてみればその通りであるが、女性だと思うと恐怖が倍増してくるような気がした。
――なぜ女性だと怖いと思うんだろう?
と愛華は感じたが、
――自分が女性だからだ――
と思ったのは、思春期に差し掛かったことで、大人に近づいたことを意識しているからであろう。
ピエロの奥の顔と以前見かけたお姉さんの顔がシンクロした時、
――お姉さんの顔を思い出すことはできないが、表情は記憶の中にあるような気がする――
という意識を持っていることに気が付いた。
愛華は頭の中でチンドン屋を思い浮かべていると、彼らが演奏している音楽が聞こえてきたような気がした。そして愛華の顔を覗き込もうとしているピエロがすぐそばにいて、
「こんにちは」
と声を掛けてきていることに気がついた。
その声は記憶の中にあるお姉さんの声であり、ピエロの顔の後ろから光が差してきて、ピエロの顔を影として隠しているように思えたのだ。
「のっぺらぼう」
顔が影になっているが、その表情が分かるような気がした。
口元が怪しく歪んでいるのが分かったからで、その口元が耳の近くまで裂けているのに気付いた。
その雰囲気を最初は、口裂け女のイメージで持ったのだが、次の瞬間、ピエロを想像した。
後になって思うと、口裂け女へのイメージからピエロを想像することなどできっこないと思うのに、どうしてその時想像できたのか、愛華には分からなかった。
そもそもピエロが声を出すという認識は、愛華の中にはなかった。もし声を出したとしても、それはまるでボイスチェンジャーを使ったかのような、
「振り絞る声」
を想像するだろう。
しかし、そのピエロは声を出した。しかもその声は知っている人の声だった。
考えてみると、お姉さんを最初に見た時、
「以前にどこかで会ったような気がする」
と感じたのを思い出した。
どこかで会ったような気がすると思ったから、ピエロの声をお姉さんの声だと誤認したのか、それとも、お姉さんのイメージをその時たまたま思い出したことでお姉さんをイメージし、初めて出会った時に意識が遡ったことで、思ってもいなかったはずの、
「どこかで会ったことがあったかも知れない」
という意識に結び付いたのか。
もし後者だったとすれば、それは自分の意識の辻褄を合わせようとしているような気がして、その意識も愛華の中では十分にありなのではないかと思うのだった。
愛華は明らかにそのピエロに見つめられていた。
「ヘビに睨まれたカエル」
とは、まさにこのことだろうと思った。
愛華は声も出ずにその場に立ち尽くしていた。ピエロはそんな愛華に覆いかぶさるように、まるで、
「壁ドン」
でもしているかのようないでたちに、
――あれ? あのお姉さんって、こんなに背が高かったんだろうか?
と、急に冷静になって考えている自分がいた。
だが、少しするとお姉さんの背が高くなったわけではなく、愛華自身の身長が低くなっていることに気が付いた。
――どういうことなの?
理由が分からなかった。
すると、表情がないはずのピエロの顔が少し変わったような気がした。それは同じ不気味な笑顔なのだが、どこかが微妙に違っている。ピエロの感情に変化が見えたということであろうか?
ただ、ピエロの表情が変わったと思った瞬間に、愛華はピエロの身長が高いことに気が付いた。同時だったこともあって、一瞬頭が混乱した。
その混乱も冷静さを取り戻すと、違った発想を呼ぶもので、その発想が正しいか正しくないかなどということは、この際関係がなかった。
――そうだわ。ピエロが大きく感じられたのは、ピエロが大きくなったわけではなく、私が小さくなったんだ――
と思うと、ピエロの表情が変わったことも何となく分かった気がした。
自分が小さくなった。つまりは、小学生の頃の自分に戻ってしまったという意識だ。
――やっぱり、これって夢なんだわ――
夢の中では声も何も聞こえないはずだと思っていたのに、お姉さんと同じ声が聞こえた気がした。聞こえた気がしただけで、本当にそうだとは思えない。これを夢の中だと思うとそれなりに納得がいくもので、むしろ夢だと思おうと自分で感じているだけなのかも知れない。
自分が小学生の頃に意識が戻っているとすれば、ピエロの豹変した不気味な笑顔は、その頃の記憶と結びついているのではないかと思えてきた。
愛華がピエロを見るのは初めてではなかった。もっとも、今ピエロを見ているという意識も、夢の中だと思っていることで、本当の意識とは違っているような気がする。
ピエロを見たのは、確か例の公園だった。ただ、その時にお姉さんと一緒だったという意識はない。子供の頃の記憶なので、遠い記憶として意識したことで、印象に残っている記憶が錯綜しているのかも知れない。ただそれでも、どこかに二つを繋ぐキーワードは存在するはずで、それが何なのか、愛華は想像してみることにした。
想像は記憶の中にあるものを呼び起こせばいいはずなのに、一度思い出したはずの記憶が今度は封印されてしまったかのように、もう一度戻ってきてはくれない。
「夢の続きというのは、見ることができないものだ」
という意識を愛華は持っているので、その意識が邪魔をしているのではないだろうか。
それとも、もう一度見ることは愛華にとっていいことではないと意識が感じさせ、敢えてちょうどのところでとどめているのかも知れない。
それにしても、思い出すきっかけとして夢を見せたのであれば、そこには何かの理由があるはずである。愛華の意識の中にそれがあるのか、記憶が忘却になってしまう前に思い出さなければいけないのだが、思い出そうとすればするほど、意識はそれを拒絶する。
愛華は夢の続きを見ることはできないと思っているが、今までに、
「本当に夢の続きを見たことがないのか?」
と聞かれれば、答えようがないような気がしていた。
――どうして、ハッキリと否定できないんだろう?
否定してもそれを咎める人はいない。
むしろ否定してくれて、その理由を教えてくれるのであれば、その方がよほど自分の中でしっくりくる気がする。愛華は今までに自分の信念を持っていることでも、人に説得されて、納得のいくことであれば、その意見を取り入れることはあった。
――優柔不断なのかも?
と考えたこともあったがそうではない。
人の意見を受け入れるということは、自分を解放するということであり、それも自分の中ではありなのではないかと思うようになっていた。
愛華はその時、自分が夢を見ているということを意識していたし、普段は見ることができないと思っていたはずの夢の続きを見ていると思っている。
普段見ることができないはずだと思っていたことを、こうも簡単に受け入れたのは、夢の続きだということに違和感がなかったからだ。違和感さえ感じなければ、愛華は自分が普段信じていることであっても、考えてみようと思うだけの気持ちはあった。それは汎用性というわけではなく、柔軟性でもない。ただ、自分を納得させたいという気持ちが強いだけであった。
だからこそ、納得できることであれば、それは愛華にとっての正論である。自分で納得するだけでなく、人の意見も取り入れるのは、
「最後に決めるのは自分だ」
という当たり前であるが、理屈として頭に抱くのが難しいことであった。
ただ、今回見ている夢の続きには、どこか想像していたものと違っていた。
違和感だと言えばそうなのだろうが、自分を納得させることのできる違和感でもあった。この違和感がどこから来るものなのかと考えていたが、どうやら、時系列にそぐわっていないことから感じるもののようだった。
最初にピエロに感じたのは、怖さだけだった。それが前に出会ったお姉さんの声を意識したことで、お姉さんを思い出し、次の瞬間、ピエロが大きくなったような気がして、その理由を考えた時、自分が小学生の頃に戻っていることに気付いたことだった。
こんなめちゃくちゃな時系列の発想は、夢の中でしかありえない。だからこそ、今見ているのが夢だと思った。だが、この夢をどこかからの続きだと思ったのは、一瞬だと感じた夢の途切れ目、つまりは自分が小学生に戻った感覚に結び付けた時だった。
小学生の頃は、公園に来るのが好きだったわけではない。ただ立ち寄っていただけなのだが、小学生の頃の記憶を呼び起こそうとすると、最初の引き出しはどうしても、この公園だった。
公園での印象は、ハンバーグの匂いだったり、夕方の気だるさ、さらには風のない夕凪から風が吹いてきた時間、そしてあの時に出会ったお姉さん……。
それぞれに記憶としては、単独で残ってもいいものなのに、すべてが結び付いている。毎回のことではないはずなのに、毎回のように思うのは、記憶が曖昧だからだというよりも、
「曖昧にしてしまった記憶の方が、後から思い出すことができるからではないか」
という思いが愛華の中にあったのだ。
愛華は夢の続きを見ているという意識はあるが、どうして見ることができないと思った夢の続きを見ることができているのか、理屈が分からなかった。
――理屈ではないのかも知れないわ――
とも思ったが、今まで愛華は信じられないことであっても、何とか自分の中で納得できるだけの理由をつけて理解してきたつもりだっただけに、今回もできないはずはないと思っている。
この結びつけはこじつけでもよかった。
人に説明しようとすると、
「そんなのこじつけよ」
と言って、こじつけをあまりいいことではないように言われるが、愛華はそうは思わない。
もしこじつけであっても、自分で理解できれば、次を考えることができる。こじつけで終わらせて、先を見ようとしないのは、愛華には理解できないことであった。
やはり人と関わっていると、どうしても、
「常識」
という言葉で、多数派の意見が通ってしまう。
愛華はそんな常識という言葉が嫌いだった。
だから、あまり人と関わらないようにしている。その人の意見を押し付けられるのも嫌だし、その人の意見なのか、世間一般のことなのかを理解もできずに人に接している人を見るのはもっと嫌だった。
夢というものを科学的に考えているわけではないが、愛華には夢に対して一定の考えがあった。
例えば、
「怖い夢ほど覚えているものだ」
「夢とは目が覚める寸前の数秒で見るものだ」
「夢の続きを見ることはできない」
などという、人から聞いたこともあったように思えたが、夢について考えている時は、そのすべては最初に自分で思いついたことだと思っていた。
人から言われたことだけであれば信用しないのが愛華の性格だったからだ。どんなに信憑性があっても、自分で見たり聞いたりしなければ、納得しない。
――その思いがひょっとすると、デジャブを起こさせる自分なりの理屈なのかも知れない――
と感じていた。
愛華が人の顔を覚えられない理由が一つではないと思うようになったのは、デジャブについて考えるようになってからのことだった。デジャブと夢を結び付けて考えた時、デジャブというものが、
「何かの辻褄合わせではないか」
と思うようになったことがきっかけだったような気がする。
人に言われたことだけでは信用しないというのは、自分の信念が一度見たものでなければ納得しないというところから来ている。デジャブのように、
「初めて見るはずなのに、どこかで見た気がする」
という意識は、納得できるものではないだろう。
しかし実際に、愛華の中でデジャブだと思えるような状況を感じたことがあった。納得はいかないが、意識として認めざる負えないことである。それをどのように理解すればいいのか、思わず投げやりになってしまいそうになるのを、一度立ち止まって考えてみた。そこで出た結論が、
「何かの辻褄合わせ」
ということであった。
記憶の中には確かにあるが、その具体的なシチュエーションになると、記憶の中にはない。
つまり、見たという事実と、シチュエーションが切り離させる何かの理由があるはずだと思う。そこで見たという事実の方なのか、覚えていないシチュエーションの方なのか、愛華はそのどちらかが辻褄合わせによって引き起こされた意識だと思うようになった。
その辻褄合わせは、その時々によって違っているのかも知れない。
ピエロを初めて目の前で見たはずなのに、どこかで同じ感覚を味わったことがあると、愛華は感じたが、その相手がピエロだったと言い切っているわけではない。
「同じ感覚」
と言っているだけで、その印象が強いから、どうしても意識はピエロの存在に行き着いてしまう。
しかもピエロという強烈な特徴を持っている相手なので、その思いもヒトシオに違いない。
ピエロの笑顔が微妙に違っていたのは、一瞬にして愛華の意識が今の自分から小学生に戻ったからだ。最初はその意識がなかったが、小学生の頃に戻ったと思うと、その公園にいることが間違いではないことに気付く。
――あれ? でも、私は最初から公園にいて、そこに違和感はなかったはずなのに――
という矛盾を感じた。
その矛盾が、愛華に今見ているものが夢だという意識を植え付けたのかも知れない。
夢の続きを見ていることに違和感を感じないのは、自分の中での辻褄が合っているからであり、その辻褄を合わせたのは、
「時系列を無視して、自分の意識が過去に遡ったからではないか」
と思うようになった。
この理屈もよく考えれば、矛盾を孕んでいるような気がするのだが、自分を納得させられるという意味では、少々の矛盾は問題がないような気がした。
デジャブというのも辻褄合わせだと考えれば、これほどの矛盾はないだろう。それでも納得できるのは、時系列を無視することができる夢という世界が、現実世界と同じ空間にはいるが、次元が違うという異次元世界への誘いに似ていた。
ピエロが奏でる音楽は、愛華がやってみたい音楽とは違っていた。できることならクラシックのような壮大な音楽を作ってみたいという思いがあった。今世に出回っている音楽は、楽曲と言われるが、そのほとんどは数分で終わってしまう、歌詞の就いた音楽、愛華が目指しているのは、数十分の組曲になっているもので、別にオーケストラのような大げさなものでなくても、一つのバンドでできるくらいでいいと思っている。
ピエロを見て、怖いと感じながらも、その恐ろしさがどこから来るものなのか、想像がつかなかったことで、怖いものではなく、気持ちの悪いものだという印象を持った。
それは音楽においても同じことで、何か不気味に感じさせる音楽を奏でたいと思うようになった。ただ、ベースは美しさや現象的なイメージがあってこそ、生まれる不気味さを奏でたいと思うようになった。
愛華はそんなに音楽もジャンルを知ることはなかった。自分が音楽をやってみたいという願望を、誰にも知られたくないという印象があったからだ。
愛華には従兄弟のお兄さんがいた。その人は普段からあまり人と接することもなく、一人でいるのが好きなタイプの人で、引きこもったという経験はないが、まわりの人から、
「何を考えているのか分からない」
と評されていた。
自分の両親からも、どう接していいのか分からないと思われているようで、愛華の家に来ては、愚痴をこぼして帰っていた。
愛華が中学二年生になる頃には、共稼ぎではあったが、毎日仕事ということもなく、週に二回ほど仕事に出るほどでよかった。
さすがに最初は今までいなかった母親が家にいることで戸惑いもあった。母親の方も、どう接していいのか分からなかったようだが、余計な詮索をお互いにしないことで、いつの間にか距離も縮まっていたようだ。会話も少しずつするようになっていて、今では普通の親子に戻っていた。
家に客が来ることはほとんどなかったが、その代わり、叔母さんがよく愚痴をこぼすように来るようになっていた。
「あちらも大変よね」
と、叔母さんが帰った後は、母親がそういって呟いていたが、あくまでも他人事であることは分かっていた。
愛華もそのつもりで聞いていたので、それほど深くは聞いていなかった。従兄弟のお兄さんに会ったのはそれから少ししてのことで、叔母さんからの話を先入観として聞いていたが、他人事のように感じていたので、それほどギャップはなかった。
それよりも愛華自身も母親から離れて孤独な時期があったので、従兄弟の気持ちは分かる気がした。従兄弟と話すようになったのは本当に偶然で、コンビニで出会ったのが最初のきっかけだった。
お兄さんの名前は隼人さんという。
「隼人さんじゃないですか?」
というと、
「ああ、愛華ちゃんか、久しぶりだね」
その顔は引きこもっているようにはどうしても思えないほどニコニコしていて、これなら会話が弾むと思った愛華は、そのまま喫茶店に誘った。
隼人もちょうど待ち合わせがあったわけではないというので、気軽に付き合ったが、お互いに人と話すのが久しぶりだったらしく、新鮮さのおかげで意気投合したところもあったようだ。
隼人は大学生で、その時は二年生だった。
「隼人さんは彼女とかいないの?」
と聞くと、
「前はいたんだけどね。半年前に別れちゃって」
と正直に答えてくれた。
相手が愛華だからだろうと最初に思ったが。隼人と話しているうちに、彼が根っからの正直者だということに気付くと、却って話すのが楽しくなってきた。お互いに普通に会話ができる相手を探していたのだろう。自分のまわりに自分がしたい会話ができる相手がいないと思っていた証拠でもあった。
隼人は、最近までバンドを組んでいたということを話してくれた。
「叔母さんは知っているの?」
「いや、知らないと思う。俺は母親とあまり話すことはないので、余計なことは知らないはずだよ」
「どうして、話さないの?」
「どうしてなんだろうね。多分、話をしても分かってくれないからなんじゃないかな?」
「そんなこと分からないじゃない」
と愛華がいうと、
「分かるさ。相手が真剣に聞いてくれようとしているかどうかくらいわね。こっちも話に集中したいから相手が真剣に聞いてくれていないと思うと、本当に冷めてくるんだよ。そんな態度を相手に悟られたくないという思いが強いからな」
と隼人は言った。
――その通りかも知れない――
と愛華は思った。
愛華は別に引きこもりというわけではないが、家に帰っても一人だということもあってか、学校でもまわりとあまり話をすることはなかった。それは、
――私は他の人とは違う――
という意識が強いからで、それは性格的なものだけではなく、自分の置かれている立場からもそう感じられたからだ。
「隼人さんは、どんな音楽を聴くんですか?」
愛華は急に話を変えた。
元々音楽をやってみたいが、音楽に対しての知識があまりなかったことから、誰かに聞くか、それとも図書館などで、文献を調べるかのどちらかだろうと思っていた。ネットで調べるのが一番なのかも知れないが、ネットは最後の手段だと思っていた。
「僕は、この前までバンドをしていてね」
と、その時初めて隼人がバンドをしていることを明かされた。
「そうだったんですか。格好いいじゃないですか」
と、愛華はバンドをしている男性が皆格好いいという先入観を持っていたことで、思わず口走ってしまったが、隼人がその時、若干表情を歪め、何か苦虫を噛み潰したかのような表情になったことにビックリした。
「恰好いいか……」
と、隼人はそれを聞いて、少し何かを回想しているかのように思えた。
「ええ、私はそう思っていますけど?」
と、愛華は敢えて隼人が渋っている様子を気付かないふりをして聞いてみた。
「恰好いいからという理由でバンドを始める人って、結構いるんだよ。実は俺もそうでね。バンドをしているとモテるんじゃないかっていう理由で始めたんだけど、そんな理由で始めた人って、結構真面目な理由でバンドを始めた連中からはよく分かるようで、最初にそんな目で見られると、何かあった時、その思いが爆発するみたいなんだ。それまでうまくいっていたつもりになっていても、急に相手が別人のようになってしまう。まるで親が他人になってしまったかのような心境だよ」
愛華はその話を聞いて何も言えなくなった。
愛華も人とずっと距離を取ってきて、いまさら人との距離を縮めようという気はないが、最近になって、急に心細く感じられるようになった。
それは、思春期を迎えて不安な気持ちが起こってしまったからなのかと感じたが、それよりも、
「何かやりたいことを見つけたい」
と思った時、急にまわりに誰もいないことを思い知らされて、一人でいるといういまさらながらのことを思い知らされたようで、我に返ってしまったような感覚になっていた。
だから、お兄さんに偶然であったが出会ったのは運命のような気がしたので、思わずそのまま別れるのが嫌な気がして、喫茶店に誘うことになったのだ。隼人もそのことを分かっているのか、快く引き受けてくれた。もっとも、二人とも同じ思いでいるということを隼人も分かっていることから、二人で喫茶店に来ることは必然だったのか、それともやはり隼人も運命を感じたのか、愛華にとっては実にありがたいことだった。
愛華は隼人にバンドの話をこれ以上続ける意思はないと思い、最初から聞いてみたいことをぶつけてみることにした。
「私ね、今まで音楽に興味なかったんだけど、興味を持ちたいと思うの。それで、クラシックを聴いてみたいと思うんだけど、クラシックから少し進んだような音楽がないかって思うようになったの。たとえば、ロックやポップ、それにジャズなんかと調和したような音楽というのかな? 想像すると幻想的な音楽に感じられるんだけど、そんな音楽ってあるのかしら?」
と聞いてみた。
隼人はニコニコしながら。
「それならあるよ」
と答えてくれた。
「本当?」
「ああ、かなり古い時代。そう、今から半世紀近くも前に流行った音楽なんだけど、あの時代としては一世を風靡したと僕は思っている。僕も少し嵌って聴いていた頃もあったので、CDとかは結構持っているよ」
「そうなんですね。どんな音楽なのかしら?」
「今、まさに愛華ちゃんが言ったようなジャンルだね。『プログレッシブロック』と言われるジャンルなんだけど、二十世紀の半ば、六十年代後半から、七十年代の前半にかけて流行った音楽だね」
「まさに半世紀前って感じですね」
「ああ、結構世界中で、流行ったんじゃないかな? ブームが去ってからは、当時のレコードは廃盤になったものも多いから、全世界というイメージはなかなかないかも知れないけどね」
「どんな音楽なんだろう?」
「ベースはクラシックかジャズという感じだね、そこにロックのイメージや幻想音楽が結び付いて、いわゆる『前衛音楽』とも言われていたな。当時とすれば流行の最先端だったんじゃないかって思うんだ」
「そうなんですね」
「ああ、音楽としても、クラシックがベースだったりするので、組曲になっていたりして、当時のレコードの片面全部が一曲だったりする曲もあるんだ。歌詞がついている曲もあれば、ない曲もある。組曲なんかは、ずっと途中まで歌詞のないインストロメンタルな曲だと思わせておいて、急に声が入ったりする。それがまた幻想的なイメージを駆り立てるような曲もあって、当時はやはり前衛というイメージが強かったんだろうね」
愛華はその話を聞いて、目からうろこが落ちたような気がした。
「私、今まで音楽って好きじゃなかったから、何も聞いてこなかったのね。でも、今は何か作曲をしてみたいって思うようになったんだけど、今の話のようなクラシック系の幻想音楽に挑戦してみたいの」
というと、
「大それた感覚だね」
と言って、隼人は笑ったが、すぐに、
「それは素晴らしいと思うよ。今の時代は、パソコンなどでいろいろな音楽を作ることができる。その発想は十分にありだって思うな」
すぐに他人事であれば、冷めた感覚になると思っていた隼人がこんなにも興奮するというのは、愛華も想定外だった。
――やっぱり、話してみてよかったわ――え
と感じたが。それが、今まで何かをやってみたいと感じたことのなかった愛華が初めて感じたやってみたいことに対しての思いだった。
愛華は、それからプログレッシブロックのCDを探してみたが、なかなか見つからなかった、隼人の持っているという秘蔵のCDを借りてきて聞いてみたが、自分の理想とする音楽であるということだけは分かった。
やはりクラシックを基調とした音楽は愛華の想像した通りのもので、今の時代にはない新鮮さを与えてくれた。
音楽はクラシックなのでイメージとしては洋風に違いないのに、愛華がイメージしたこととしては、なぜか小学生の頃に佇んでいた夕方の公園のイメージだった。
今思い出す公園は、モノクロのイメージだった。たまに色がついているとしても、橙色がすべての世界を覆いつくしているというイメージで、それなのに、境目はしっかりと分かっている。
――どうしてなんだろう?
風景画に興味を持ち始めていた時だっただけに、余計に色について敏感になっているようだった。
空の色まで橙色だった。
そもそも空の色を思い出すということもなかったのだが、橙色の空を思い浮かべても、さほどの驚きはない。
――そんなものなんだ――
というイメージがあるだけで、背景が一色であることに特に違和感がないと思っていた。
空をじっと見ていると、さすがに濃淡はあった。上から下にかけて、次第に濃くなっていることに気が付いた。しかし、
――おかしいわ――
と感じた。
その理由は、
「日が落ちているのだから、下の方が明るい色になるはずなのに」
という思いがあったからだ。
そう感じてからもう一度思い浮かべてみても、やっぱり下の方が濃い橙色であることに間違いなかった。
――どうしてなのかしら?
何度試みても一緒であろう。
愛華は、それ以上、空の色について考えようとは思わなかった。
愛華は最終的にプログレッシブな音楽を作曲できるようになればいいと思いながら、借りてきたCDに耳を傾けていた。そのうちに小学生時代の公園で見た光景を思い出すこともなくなってきた。それは音楽が自分の中でしっくりと嵌ってきたからだと思う。もはや音楽に集中するのに、公園の光景の思い出は必要なかったのだ。
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