心理の裏側
森本 晃次
第1話 夢に出てくる「自分」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
人間というのは、いろいろな不思議な現象について考える。一人で考えることもあれば、人に聞くこともある、出るはずもないと思っている結論を目指して考えていると、まったく違った時に、まったく違った現象からの発想に、同じものを抱いてしまうこともあるだろう。それは無理もないことで、だからこそ、同じ人間だと言えなくもない。心理の裏側を掘り返すことは、一体どういうことなのだろう? この小説はそんなお話を綴ったものになります。
――今って何時頃だろう?
まだ目が覚めたかどうか分からない状態で、愛華は感じた。
元々目覚めは悪い方で、身体を起こすことができるまでには結構時間が掛かかっていた。その日も朦朧とした意識の中で、もう少し眠っていたい気持ちが強く、なるべく目を開けないようにしていた。
頭の中で今日が休みだということは理解していた。いくら休みの日だとしても必ず午前中には起きていたいという思いをいつも抱いているので、目が覚めると時間が気になるのは当然のことであった。
今日は珍しく夢を見たことを覚えていた。しかも、どんな夢を見たのかということまで覚えているのだから、不思議だった。今が何時頃なのか分からない理由には、見た夢を覚えているということが強いのが大きかったのかも知れない。
夢を覚えていることは、きっとその夢が気になっていた夢だからであろう。普段であれば、
「覚えている夢というのは、もう一度見たいと思うような期待する夢で、しかも、ちょうどいいところで目を覚ましたと思っている夢なんだ」
と感じるに違いない。
だが、最近はそういった思いもあり、
「本当は夢を最後まで見ているのだが、肝心なところを忘れてしまった状態で目を覚ますので、それはもう一度見たいと思っている夢だったに違いない」
気になったのは、夢をある程度ハッキリと覚えていることもないはずなので、記憶していることが夢だという意識はなかったという矛盾した思いがあったことだ。夢というのは現実世界とはまったく違った次元で存在しているものだと思っていたが、意外と近いところで存在しているのではないかと思うと不思議だった。
異次元という四次元の世界を思い浮かべるが、テレビドラマの四次元の世界をイメージさせるのは、
「同じ場所にいて、声は聞こえるのだが、姿が見えないという、同じ場所でも空間が違うという発想が異次元なのではないか」
という四次元へのイメージが頭の中にあったからだ。
夢を見ているという感覚が持てる時というのは、なかなかないものだ。夢を見ている時というのはえてして、
「何でもできる」
と思うのだろうが、実際には何もできないものだった。
空を飛びたいという発想は誰でも一度は感じたことがあるはずで、夢だったらできるのではないかと思うのも、誰にでもあることなのかも知れない。
しかし、逆に夢だと思った瞬間、急に我に返ってしまって、
「人間は空を飛ぶことはできない」
という逆の発想が頭に浮かんでくるのだった。
それが夢というものであり、夢であっても限界があり、それこそ人間である証拠だと言えるのではないだろうか。
その日に見た夢は確かに夢だという認識はあった。
「続きを見てみたい」
と思うような夢だったのだが、執着はほとんどなく、
「見ることができないなら、それは仕方がない」
とすぐにあきらめのつくものだった。
明らかに夢だと思えるものは、ついつい疑ってみたくなる。
「夢なら何でもできるはず」
と思っているくせに、実際に夢を見ていると感じた時、その思いが一気に冷めてしまうのもそのためだ。
夢が現実とは違うという感覚を持つことが、ひょっとすると夢というものを最初から疑ってはいないという気持ちの裏返しなのかも知れない。そう思うと、寝ている時、
「これは夢だ」
と感じるものは、本当の夢なのではないという考えも浮かんでくる。
つまりは、
「夢というのは一種類ではなく、少なくとも夢だと思うような明らかなものもあれば、夢だと感じるのは、目が覚めてからになる夢である。どちらが実際の夢なのだろうか?」
と、愛華は感じていた。
「そんなことは当たり前に感じているわ」
と、他の人に話せば、そう言うかも知れない。
だが、夢について話をする人はほとんどおらず、親友だと思っている相手なら話をするのかも知れないが、それも、
「何を改まってそんな話をするの?」
と鼻であしらわれでもすれば、これ以上恥ずかしいことはないような気もする。
テレビを見ていると、あれもドラマだと思ったが、一人の登場人物が、
「自分が想像している通りに事が進めば、それを夢じゃないかって感じることがあると思うんだけど、私はそれこそ夢なんじゃないかって感じるんだよ」
というと、
「でも、必ずしも、そんなにうまくはいかないんじゃないのかい?」
と、会話の相手に言われて、
「確かにそうなんだけど、あまりうまくいきすぎると、ある程度のところで夢って覚めるようになっていて、その時に、続きを見ていたかったって思うんじゃないかな? もう一度眠りに就いても、結局続きを見ることなんかできないんだ。つまりは、自分が想像している通りに事が運ぶには、どこかに限界があって、それ以上は別の世界で繰り広げられることなんじゃないかってね」
「どういうことなんだい?」
「僕が思うのは、夢のその先に夢を超越した世界が存在し、その世界は決して覗くことができないんじゃないかってね」
「その世界というのは?」
「それは現実世界のことさ。一度夢の世界で生まれ、育まれた発想が現実世界に戻ってくる。それこそ夢というものを考える醍醐味と言えるんじゃないかな?」
この話はなかなか興味を引いた。
そして、さらに話は続く。
「夢の世界と現実世界は決して交わることのない平行線のようなもので、しかも、それは背中合わせになっている紙一重の関係なんじゃないかって思うんだ。だから、そこには決して超えることのできない結界のようなものが存在して、それぞれを見ることはできないんだ」
「なかなか面白い発想ですね。僕もその話を聞いていると、まさしくその通りだと思えてならないですよ」
「このお話はドラマだけど、現実世界と交差しているのさ」
と最初に夢の話をした登場人物がボソッと呟いた。
「えっ? 何て言いました?」
ともう一人が聞き返したが、
「いや、何でもないんだ。独り言さ」
この独り言はその人がドラマの世界を超越していることを示すための演出だったが、果たしてそのことを視聴者のどれだけの人が気付いただろうか?
愛華もその時にはよく分からなかったが、今思い出してみると、そんな発想を抱くことができた。
一度では理解できなくても、何度も想像するうちに発想が追いついてくるということなのか、愛華はきっと最初にテレビを見た時に感じた発想とは、違った発想を抱いているに違いなかった。
その日、愛華は本当に夢を見たのだろうか? 自分では夢を見たように思えたが、目を開けた瞬間には気づかなかったが、意識がハッキリしてくるうちに、次第に頭痛がしてくるのを感じていた。
今までの愛華には、目が覚める時に頭痛を感じた時というのは、夢を見ていたという意識を感じたことは一度もなかった。だから、
――頭痛がする時、夢を見たことはないんだ――
と思うようになっていて、どうして頭痛が残ってしまったのかを考えたこともなかった。
ただ、この日は、
――夢を見ていたような気がする――
という意識が頭の中に残っていた。
明らかに今までとはまったく違った感覚である。
目が覚めるにしたがって頭痛が次第に強くなってくる感覚は、今までの目が覚めた時に感じる頭痛と変わりはなかった。このまま目を覚ましてしまえば、次第に頭痛は収まっていくことは分かっていたが、完全に目を覚ましてしまいたくないと思うのは、、
――もう一度、このまま眠ってしまうこともできるような気がする――
という思いがあったからだ。
さらにこの日は、目が覚めた時、
――今何時頃なのかしら?
という思いもあり、気が付いているのかいないのか、意識は朦朧としていた。
「いつになく」
という表現がピッタリくるのか分からなかったが、意識が完全に戻るまでにはかなりの時間が掛かると思われた。
そんな感覚は今に始めったことではなく、目を覚ますまで意識がどこから来るのか分からないと思うに違いなかった。
「夢っていったいどこから来るんだろう?」
そんなことを考えたこともあった。
どうしてそんなことを考えたのかというと、
「夢というものは、目が覚める少し前の数秒間で見るものらしい」
という話を聞いたからだった。
この話を聞いたのはどこでだったのか、思い出すことはできない。ひょっとすると聞いたわけではなく、以前にどこかで読んだ本の中に書かれていたことだったのかも知れない。愛華は何かを見たり聞いたりしたことを思い出した時、それがどこで見たり聞いたりしたのか思い出せない時の方が、重要だったような気がする。それはまるで、
「逃がした魚は大きい」
ということわざのようなものではないだろうか。
思い出せないだけに、気になってしまい、どうしても追いかけて思い出そうとしてしまう。それこそ人間の心理なのだろうが、思い出せないことには、それなりに思い出せない理由があるような気もする。
「思い出してはいけないこと」
そんな自分にとってのタブーがどれほど存在するのかと考えた時、愛華は余計なことを考えてしまうのだ。
身体に気だるさを感じることは結構あるが、頭痛を感じることはそれほどなかった。
以前は、
「結構頭痛があったような気がする」
と思ったものだが、ある時から頭痛をあまり感じることがなくなってきたことに気付いたのだが、それは、
「頭痛がする時というのは、夢を見ていなかった時だ」
と思うようになってからのことだった。
それだけ、愛華は自分が夢を結構見ていたと思っていたのだろう。
その思いが、
――夢ってどこから来るものなのだろう?
と感じた時と重なったからではないだろうか。
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
とよく言われているように思う。
ただ、それも本当によく言われていることで定説になっていることなのかも、最近では疑っていた。
愛華にとって夢というものを自分で納得させるための一番の発想は、
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
というものであった。
これは愛華だけではなく、他の人も同じだと思っていたが、その発想自体が愛華の思い上がりによるものだとすれば、夢に対する考え方が根本から変わってくる。
もし、この考えが皆共有しているものであったとしても、一度でも、
「自分が傲慢なのではないか?」
と思った時点で、夢に対して不可思議な印象以外に、存在自体に不信感を感じてしまうような気がした。
――想像することを自由だと思っているはずなのに、傲慢というのは、少し違うんじゃないかしら?
と否定した自分もいた。
想像を否定することは絶対にやってはいけないことだと思った愛華は、すぐに夢に対して疑問を感じた自分を傲慢だと感じることを否定したのだった。
夢というものが、潜在意識のなせる業だという考えを傲慢だと考え、否定するようなことは愛華にはできない。逆にもっと柔軟に考えればいいという思いもあった。
別に夢というものを一つの経緯から生まれるものだと限定する必要もない。潜在意識から生まれるものも夢、それ以外にも眠っていて見たのであれば、それも夢と言えるのではないだろうか。
そもそも夢というものの定義とは何だろう?
「眠っていて見るのが夢」
というのであれば、それは狭義の意味での夢というべきである。
「何か目標を追って、それを目指すのが夢」
という考えもある。
夢という言葉には汎用性があって、起きて見る夢もあるという意味で、広義の意味では他にもあるのかも知れない。ただ、目標を持つというのは、眠っていて見る夢でよく見るものだということであれば、目標を持つことも夢と言ってもいいだろう。
そういう意味では、目標を持つ夢というのも、他の人が介在することのない、たった一人で抱くものだと言えるのではないだろうか。
人から言われたり、人が達成しているのを見て、それを羨ましく感じ、自分も目指してしまうことを夢というのだろう。愛華の場合は、あまり人を意識することはないつもりだったが、人が成功したりするのを見ると、素直にその人の身になって一緒に喜ぶなどということのできない性格だった。
自分が成功し、人から祝ってもらえるのは嬉しいと思っている。むしろそれを目指していると言ってもいい、本当であれば、成功している人を見て、
「私もいずれは」
と思えば、人の成功を素直に祝ってあげられるのだろうが、愛華にはどうしてもできなかった。
人の成功を祝うという気持ちになるには、成功者の気持ちにならなければいけない。成功もしていない自分がそんな気持ちになることを愛華は、
「反則だ」
と思っていたのだ。
人への妬みはあまりいいことではないのかも知れないが、それが自分の中での糧になるのであれば、それはいいことだと思う。人からどう思われようが、愛華は自分の考えを押し通す方だった。
「頑固な性格」
と言っておいいのだろうが、妬みの気持ちが少しでもあるのであれば、人に合わせることの方が自分を偽っていることになり、いずれ自分を許せなくなるのだと思うようになっていた。
愛華は今年高校に入学したばかりで、まだ思春期と言ってもいい時期であった。中学時代までの平凡な毎日をあまり意識もせずに淡々と過ごしてきた。特に中学三年生の夏前くらいからは、高校受験というものに集中し、人と関わることもなくなっていた。
学校では皆今までと変わらない様子だったが、明らかに何かが違っているのは分かっていた。どこが違うのか具体的に言えるほど分かっているわけではないが、緊張感という言葉とはまた違った雰囲気があった。
それを意識したのは、家や近所の人と接する態度が変わってきてからだ。まるで腫れ物にでも触るような気の遣い方は露骨に感じられた。小学生の頃、隣に住んでいたお姉さんが高校受験の時もそうだったが、
「お宅のお嬢さんも今年高校受験、大変よね」
と奥さんの井戸端会議の会話が聞こえてきた。
奥さん連中は、ヒソヒソ話をしてはいるが、本当に誰にも聞こえないほどの小さな声で話しているわけではない。そんなに小さな声で話をしていても、聞こえるわけはないからだ。
それでもヒソヒソ話をするのは、自分たちへの言い訳のようなものなのかも知れない。言い訳さえしていれば、少々他の人に聞こえたとしても、それは許されることなんだと言わんばかりである。
受験生のお母さんは、そう他の奥さんから聞かれて、
「ええ、そうなのよ。あの子が一生懸命に頑張っているのを見ると、こっちも何かしてあげなければいけないという気になってくるわ」
と、わざとらしいくらいに語気を強め、相手に訴えているかのようだった。
「そうよね、分かるわ、受験生ってそういうものだからね」
と、言われた奥さんはそう答えた。
受験生の奥さんも、聞かれた奥さんも語気の強さにわざとらしさが感じられたが、印象に残ったのは語気の強さだった愛華にとって、
――受験生は大変なんだ――
という思いだけが頭に残った。
目の前で話している奥さん連中は関係ない。いずれ近い将来訪れるであろう高校受験から逃げることはできないのだから、愛華にとっては、奥さん連中の会話よりも受験生というものがどういうものなのかということの方が重要だった。
だが、奥さん連中の会話を聞いてもう一つ感じたのは、
――気を遣われるというのも、嫌なものだわ――
という感覚だった。
「もし自分が受験生であり。まわりから気を遣われているということが分かれば、どんな気分になるだろう?」
愛華は、自問自答してみた。
実際に受験生ではないので、想像の域を出るはずもないが、腫れ物に触られる思いが嫌だということだけは想像がついた。
思春期になった頃から、愛華は眠っていて、よく足が攣るようになっていた。その理由はハッキリとは分からないが、通学距離が伸びたことで、歩く時間が長くなったことに起因していると思っていた。
足が攣る時にはいつも前兆のようなものがあり、眠っていて、夢を見ている時であったとしても、
「あっ、来る」
という思いがあれば最後、次の瞬間には足が攣っているのである。
今では少しコントロールができるようになり、前兆から何とか我慢することも覚えたが、最初の頃は逃れることはできなかった。
足が攣ると、呼吸をするのも苦しいくらいに痛みが一点に集中し、その部分が棒のように固くなり、
――こんなに太かったのかしら――
と感じるほどになっていた。
まるで伝説の動物である「ツチノコ」を彷彿させた。
息ができないそんな状態でも声を出すことはできるようで、思わず苦痛から叫んでしまいそうになるのを必死で堪えていた。
「うっ、うっ」
シーンと静まり返った部屋の、ベッドの中で一人苦しんでいる様子は、想像に耐えるものではないかも知れない。思い出すのも嫌なくらいの思いなのだろうが、その時も心境はまず、
――早く痛みをやり過ごしたい――
と感じることだった。
痛みが永遠に続くなどありえなく、一定の時間我慢すれば痛みは次第に和らいでくる。いつも痛みの時間は同じ時間に感じられた。だから余計に耐えることもできるようになってくる。やり過ごしたいという思いも慣れたもので、シーンとした静寂の中でただひたすら耐えればいいだけだった。
もう一つの心境としては、
――この痛みを誰にも知られたくない――
という感覚だった。
別にまわりに誰もいるわけではないのだが、もしこの痛みが皆と一緒にいる時に襲ってきていれば、誰にも知られたくない。まわりからは、
「大丈夫?」
と心配する声が聞かれることだろう。
文字に書けば同じ言葉でも、ニュアンスは人によってまったく違う。井戸端会議の奥さんのように、わざとらしく語気を強める人もいれば、心配そうにしてはいるが、声のトーンは明らかに他人事のようで淡々としたものである。
愛華はそのどちらも嫌だった。気にされるのも嫌だし、気にしてもいないくせに気にしているような素振りを見せられるのも嫌である。こっちは痛みに耐えているのに、そんな時に特に人間の裏側がよく見えるというのは、何とも皮肉なことであろうか。
だから愛華は声を出さないようにしていた。
この頃から愛華は他人のわざとらしさであったり、白々しさを感じるようになり、人間嫌いになっていった。
本当の人間嫌いというものがどういうものなのか知らない愛華なので、人間嫌いの人から見れば、
「あなたと一緒にしないでほしい」
と言われることだろう。
愛華は誰にも言われたことはなかったが、
「あなたのこと、私は嫌いよ」
と、一度言われてみたいと思っていた。
きっとショックなのは間違いない。数日たちなれなくなるくらいになるかも知れない。しかしその感覚を味わうことがなければ、自分が人を嫌いになったということを自分に納得させることはできないだろう。
それが自分にとってどれほど中途半端なことか、愛華は感じていた。
その思いが夢というものに感じている思いと、どのように関わっていくのか、その時の愛華には分かっていなかったような気がする。
人と関わるのが嫌になったのは、足が攣り始めてからだというのも皮肉なものだった。別に足が攣るようになってから人と関わらなくなったわけではないような気がする。やはりどこかのタイミングで人が嫌いになったからだ。それが足が攣るという現象と関わっているなどとは考えにくかった。
――そういえば、夢の中で誰かが出てくるようになったのはいつ頃のことだったのかしら?
という思いに愛華は耽っていた。
子供の頃から、夢の中には誰も出てこなかったことで、
「夢って誰も出てこないもの」
という認識をずっと持っていた。
一度クラスメイトの誰かが、自分の友達に、
「あなた、昨日私の夢に出てきたわよ」
と言っているのが耳に入ってきた。
その言葉には悪意はなく、皮肉っぽい言い方だったので、言われた方も別に怒っている様子もなく、
「そうなの? じゃあ、出演料でも貰おうかしら?」
と、皮肉には皮肉で返していた。
愛華はその話を聞きながら、
――何言ってるのよ。自分の夢に誰かが出てくるなんてありえないじゃない。それって本当に夢なのかしら――
と思いながら聞いていたが、言われた相手も否定するわけでもなく、会話を合わせているのを聞いていると、
――あれ?
と愛華は感じた。
――自分の夢に誰かが出てくるなんてことあるのかしら?
自分の夢に誰も出てきたことがないことで、
「夢とは自分だけの世界なんだわ」
という確信が、思い込みに過ぎなかったのではないかと思い知らされた気がした。
そのことを誰かに聞いてみる気にはなれなかった。聞いてはいけないことだという認識だったからである。
誰かに聞けないものだから、疑問はずっと疑問のままだった。しかし、いつの間にか、それまで思っていた、
「夢には自分以外の誰も出てくるわけはない」
という思いが次第に思い込みに過ぎないということを理解してきていることに気付いていた。
気付いたことを意識し始めた時は、すでに思春期に入っていた。初潮も迎えていて、胸の張りもすでに、
「大人のオンナ」
への階段を、着実に上っていることを示していた。
ただ、まだ自分の夢に誰かが出てきたのを認識したことはなかったのだ。
その頃になると、
「夢を見ていたのに、その夢を見たということすら覚えていない」
という感覚を覚えたような気がしていた。
それまでは、夢を見たという感覚のない時は、夢を見ていなかったというだけのことだと認識していた。夢を覚えていない、あるいは忘れてしまうという感覚が、愛華の中にはなかったのだ。
――やはり私って、傲慢なのかしら?
夢に疑問を持つことは夢の世界への冒涜であり、冒涜を感じている自分は、傲慢なのではないかと、愛華は感じていたのだ。
夢を見ていると、時系列とは別に、スピードの感覚もマヒしているような気がしていた。一生懸命に走っていても、なかなか辿り着けないという感覚を味わったことがあった。まるで水の中を必死で漕いでいるような感覚である。
じれったさからか、額から汗が垂れていた。その汗は熱くも冷たくもなかった。ただ、肌を伝う気持ち悪さだけが印象に残っていた。
愛華は自分が見た夢の中で覚えているものと覚えていない夢の区別について、今までに何度か考えたことがあった。覚えている夢は、
「もう一度見たい」
という夢であったり、
「もう二度と見たくない」
と思える夢の両極端だった。
もう一度見たいと思うものは、その続きを見たいのであって、ちょうどいいところで目が覚めてしまい、目を覚ましたことに後悔が残ってしまった夢である。
目を覚ましたのは本能のようなものだから、自分が悪いわけではない。今まで後悔することというと、自分が何か悪いことをして、それを懺悔するという意味での後悔しかないものだと思っていたが、ちょうどのところで夢から目覚めてしまって自分が悪いわけでもないのに襲ってくる苛立ちを、誰にもぶつけることもできず、自分にぶつけるしかない状態に戸惑いを感じることも後悔というのではないだろうか。これも夢の一つの特徴なのかも知れない。
もう二度と見たくない夢というのは、愛華にとって本当に怖い夢で、目が覚めてからもその呪縛から逃れられない状態をいう。本当に怖い呪縛に包まれた夢で一番印象に残っているのは、
「もう一人の自分が出てくる夢」
であった。
もう一人の自分は夢の中の主人公ではない。その夢の主人公はあくまで愛華自身であって、夢の中で愛華は自分が主人公を演じているのを理解していた。
つまりは、夢を見ているということを、最初から理解していたのかも知れない。夢を見ているという意識を持ちながら、夢の中での成り行きに任せているところがあった。
愛華が自分で夢を見ていると感じることはそれまでにも何度かあった。そのすべてが怖い夢であったり、もう一人の自分が出てきたりするという夢ではない。むしろ怖い夢やもう一人の自分が出てくることはレアであった。
愛華は、夢を見ているという意識があった時、
「夢の中なのだから、何でおありだわ」
と、感じていた。
しかし、実際に何でもできるどころか、潜在意識が邪魔をするのか、人間にできないことは夢の中とはいえど、できるわけはないと思っているのだ。だから、余計なことはしない。夢の中のストーリーに身を任せるようにしている。
怖い夢というのが、そのままもう一人の自分が出てくる夢だということに気付いたのは、最近のことだっただろうか。思春期になると、特にもう一人の自分が夢に出てくる頻度が高くなったように感じた。
主人公の愛華は、夢の中で誰かと一緒にいたのだろうが、途中で誰かが自分を見ているという意識を持った時、それが夢であるということを確信する。自分を見ているのはストーカーでも何でもない。もう一人の自分なのだ。
もう一人の自分は夢に最初から出てきていたような気がする。気配を消し、呼吸も止めているので、どんなに近くにいても愛華には気づかない。
――ひょっとすると、他の人なら気付くのかも知れないわ――
と思った。
他の人にもう一人の愛華がどのように映ったのか分からないが、愛華を意識している素振りを感じさせないような雰囲気なのかも知れない。
だが、愛華にとっては、どんなに近くにいてももう一人の自分の存在に気付くことはない。彼女は自ら光を発することのない星のような存在で、目の前にいてもその存在は保護色に包まれたかのように意識することはできない。
それがもう一人の自分の能力なのだ。
人間というのは、誰もが特殊能力を持ち合わせているという。脳の機能の数パーセントしか使っていないと言われているが、もう一人の自分が存在し、使いきれない部分の脳の機能を使っていると考えると、もう一人の自分という存在もまんざらな発想でもないような気がする。
ただ、もう一人の自分というのは、本当の自分とは同じ世界では存在することはできない。もう一人の自分の存在が別次元の世界に存在しているからなのか、それとも次元は同じでも、時間差を持って存在しているものなのか、そのどちらでもない想像を超越した存在なのか、愛華には分からなかった。
別に分かる必要はない。もう一人の自分の存在があるからと言って、愛華の日常生活に影響があるわけではない。ただ、思春期の微妙な心理的な変化に影響を及ぼすかも知れないと思うからだった。
それが夢の中に出てくるもう一人の自分の存在であって、
「怖い夢を見た」
と思うだけで、目が覚めるにしたがって、忘れていくのだった。
「目が覚める」
という言葉と、
「眠りから覚める」
という言葉、同じ意味なのだろうかと愛華は考えていた。
目が覚めるというのが、目を開けた瞬間であるとすれば、違うものだと言えよう。しかし、故から現実に戻るという意味でいけば、眠りから覚めるという意味と同意語に感じられる。
ただ、現実世界に引き戻されるというのが、
「夢から完全に覚めた時」
という考えであるかどうか、疑わしい気がした。
夢を見ている間でも現実世界に引き戻された感覚を味わうかも知れないし、現実世界に引き戻されてもいないのに、夢の世界から隔絶された時間も存在するような気がする。それは現実でもない夢でもない世界であり、愛華はそんな瞬間に、もう一人の自分が現れるのではないかと思うようになっていた。
「眠りから目を覚ますという時間が、人間にとって一番無防備な時間なんじゃないか?」
という話を聞いたことがあった。
確かに無防備と言えば無防備である。何しろ覚えていないのだから、防備しようにもどうすればいいのか、分かるはずもなかった。
そもそも目が覚める瞬間に、防備しなければいけない理由がどこにあるというのだろう?
「夢というのは、目が覚める前の数秒で見るものらしい」
という話も思い出した。
もしそうであるとすれば、一番無防備な瞬間に、夢を見ているということになる。そういう意味では目を覚ます瞬間に無防備になるというのも理屈には合っているのではないだろうか。愛華は夢を見るということが自然現象なのか、それとも人間の習性のようなものなのかを考えていた。
もう一人の自分の存在を否定しないのであれば、それは自然現象ではないだろうか。人間の習性であるとするならば、誰もがいつも夢を見る時に感じることだろうと思うからだ。人間の習性とは、しょせん、いや、たかが人間という一種類の動物が感じるものであり、万物に共通する自然現象には、到底適うわけはないと思うからだ。
愛華は、もう一人の自分の存在に、一つ恐ろしい発想が浮かんでいることに気付いた。
もう一人の自分の出現が、夢から覚める瞬間と、現実世界に引き戻される間の時間であるとすれば、もう一人の自分の存在は、
「死後の世界から来た自分なのではないか?」
という思いだった。
人間は死んだらどこに行くというのだろう?
テレビドラマなどではいろいろな発想が飛び交っていて、そのどれもがあり得ることのように思えるし、信憑性もあるのだが、すべてが本当なわけはない。真実は一つなのだろうから……。
「いや、真実が一つだということは誰が決めたんだ?」
そう思うと、真実という言葉とは別に、事実という言葉があることに気が付いた。
「事実は確かに一つしかないのだが、真実は必ずしも一つではない。真実と事実を混同してしまうから、ややこしくなるのだが、逆に頭の中でややこしくならないのは、無意識に事実と真実を同じもののように考えて、真実も一つだと思い込んでいることにあるのではないか」
と、愛華は考えていた。
「じゃあ、事実が現実世界で、真実は夢の世界だとすれば、辻褄が合うのだろうか?」
と考えてみた。
それも少しおかしい気がする。真実が一つでないのであれば、気になっている夢があれば、その続きだって見ることができるはずだ。
「ひょっとして、続きを見ることはできないと思っているだけで、本当は見ることができたのだが、その夢を覚えていないことから、見ることができないと思い込んでいるに過ぎないのではないか」
と考えてみた。
疑うことばかりを考えている愛華だったが、疑うことからどんどん発想は深まっていく。疑うことをしなければ、そこから先に進むことはできないということに気付いたのも、思春期になってからのことだった。
人間には必ず思春期が訪れる。これはなくてはならないものだ。いろいろな弊害もあるのだろうが、それを乗り越えて大人になっていく。そう思うと、
「思春期というのも、自然現象なのではないだろうか?」
と思うようになっていた。
そして、思春期も夢や真実と同じで、一つではない。ただ答えは一つなのかも知れないが、そのプロセスが違っている。答えと思っている同じところに行きつくのかも知れないが、何が答えなのか、いつ分かるというのだろう?
「死んでから?」
そう思うと、もう一人の自分の存在も死後の世界の自分だという発想に行き着いて無理もないことである。
答えが一つではなく、さらにプロセスが一つではないというのは、算数のようではないか。
「算数は答えは一つだよ」
と言われるかも知れないが、愛華はそうは思っていない。
算数であっても、答えは必ずしも一つではない。表現が違うだけで答えはいくつもある。こじつけと言われればそれまでだが、複数回答こそが、夢というメカニズムを解き明かす答えなのではないかと考えていた。
もう一人の自分を演出しているのが現実世界の自分であるのか、それとももう一人の自分が、現実世界の自分を演出しているのか分からない。分からないことが恐怖に繋がる。だからこそ、
「もう一人の自分が出てくる夢は、怖い夢なんだ」
という思いに至るに違いない。
夢の世界と現実世界がまるで異次元世界のように、
「声は聞こえるが、姿が見えない」
というものだとすれば、もう一人の自分の出現は、
「声」
ということになるのではないだろうか。
声を通して共通性を保とうとするのは、もう一人の自分が、自分で存在を知らせようと思ったからに違いない。
紙一重である夢と現実の世界を、
「交わることのない平行線」
というものが、永遠に続いているとすれば、夢は死ぬまで見続けることになる。
それも、現実世界との背中合わせによってである。
では、人は死んだら、背中合わせの世界をどこに作るというのか? 愛華の想像はとどまるところを知らなかった。
愛華は自分の夢の中で、
「今って何時頃なんだろう?」
と感じた。
目が覚めかけている瞬間であるという認識はあった。目を覚ます瞬間というのは、自分で目を覚ますと認識できるものだ。
もっともほとんどの場合、アラームが鳴って気付くものだ。
「あっ、もう起きなければいけない」
と、心の中で呟くのだが、呟いた時には、自分がすでに現実世界に戻っていることを意識していた。
ただ、アラームが鳴ってから、
「これは夢なんだ」
と気付くわけではなかった。
「もうすぐ目が覚める」
と思った瞬間に、アラームに驚かされる。
この間は誤差にしてもごくわずかな瞬間で、どちらが先なのか、微妙な時間であろう。
しかし、愛華には紛れもない感覚が残っていた。
「明らかに夢だと思った瞬間の方が早かった」
と感じるのだ。
そう思うのは、アラームの音が次第に大きくなってくるからで、夢だと感じた同じ瞬間だったり、ましてや夢だと思ったのが、アラームによるものだったりした場合には、最初からその音は大きく響いていたに違いないからだ。
だが、
「待てよ。夢の中で音が響いたという感覚は残っているけど、音自体の感覚って残っていないわ」
と感じた。
それは会話においても同じで、知っている相手であっても、相手の声が本当に自分の知っている相手の声だったのかどうか、考えたこともなかったのだ。
「夢って幻影なのよね」
という言葉も聞き覚えがあった。
確かに夢を見ていて、痛いとか音などを感じたことはなかったが、もう一つ感じたことがなかったのは、色だった。
恐怖シーンを見たという夢を覚えていることがあって、目の前で血が噴き出している生々しいシーンを見たという記憶も残っている。鮮血が噴き出しているという記憶が残っているのに、夢で色を感じたことがないというのも意識としては残っている。この矛盾した考えをどう解釈すればいいのか、愛華は考えた。
「何も色がなければ分からないというものでもないわ」
例えば血にしてもそうである。
人が目の前で刺され、身体を震わせながら、断末魔の表情を浮かべている。その顔は苦痛に歪んでいて、胸に突き刺さっているナイフからは、真っ黒でドロドロしたものが噴き出していた。
サラサラしたものではない。ナイフを抜き取れば、きっと噴水のようにほとばしる液体が散布されるに違いないが、色は真っ黒だ。しかし、血の色が赤いという認識があるからこそ、逆にモノクロで見えているであろう夢のシーンは余計に生々しく見えるのではないだろうか。
モノクロ時代の昔の映画を見て、鮮血が出ているシーンを見たことがあったが、その時に確かに生々しさをリアルな恐怖として感じたのを思い出していた。
夢で色や音、そして痛みを感じないのは、まるで活動写真を見ているような感覚なのだろう。
もちろん、活動写真など見たことがないので、それがどんなものなのか想像もつかないが、モノクロ映画で感じたリアルな恐怖を思い出すと、想像できなくもなかった。
愛華は夢の世界を、
「潜在意識のなせる業」
だと思っている。
意識していることでなければ見ることができない。そして自分の中で常識として認識していることしか、夢の中では起こりえないと思っているのだ。
つまりは夢で起こることは、現実でも十分に起こりえる。夢という恐怖は、現実の恐怖と同じではないか。
次元の違いはあるかも知れない。背中合わせなのかも知れないが、超えることのできない結界が存在し、どちらにもそれぞれの現実が存在する。
どちらもウソの世界ではない。夢で見たことは紛れもなく現実の裏側で起こっていることなのだ。
正夢という言葉があるが、逆に夢の世界から見た現実の世界はどうなのだろう?
夢の世界を現実と感じ、同じように現実世界を夢として見ている、
「もう一人の自分」
がいるのではないだろうか。
「もう一人の自分が夢の中に出てくる」
という意識が残っているというのは、間違いのない意識なのだろう。
間違いのないというのは、
「夢の中にもう一人の自分が出てきた」
という認識で、見た瞬間に、目が覚めてしまったという現象をも含めたところでいうのではないかと愛華は感じた。
愛華が最初にもう一人の自分を見てから、その存在を次第に意識するようになっていたが、その存在がどんどん膨らんでいくという感覚ではなかった。
分からなかったことが分かってくるという感覚でもなく、ただ夢の中に出てくる自分は夢を見ている愛華の存在に本当に気付いているのかどうなのか、まったくリアクションがなかった。
何しろ、その存在に気付いた瞬間に目が覚めてしまうのだから、それもしょうがないことだ。もう一人の自分が現れた瞬間、目を覚ますというフラグがオンになってしまうのだろう。
一瞬だけのことなので、相手も何を考えているのか分からない。ただこの一瞬は、夢の中で流れている時間とは明らかな違いを感じた。
――まさか、もう一人の自分を見た瞬間というのは、すでに夢から覚めていたんじゃないかしら?
と感じた。
「夢というのは、目が覚める前の数秒に見るものだ」
という言葉を改めて思い出した。
どんなに長い夢であっても、ほんの数秒などと考えると、夢というものの非現実性を蚊が得ないわけにはいかない。やはり夢の世界というのは、
「侵すことのできない神聖なものなんだわ」
と思えてくるのも無理もないことだった。
だが、愛華はもう一人の自分の存在に気付いてから、少し考えが変わってきた。確かに夢というのは得体のしれないものであるが、潜在意識のなせる業だと思っている愛華にとって、一番の恐怖は潜在意識なのではないかと思えた。夢自体が怖いものではなく、潜在意識をいかに映像にして映し出そうかという結果が、夢として出ているだけではないかと思えたからだ。
ただ、その考えに無理があることにも気づいていた。
潜在意識を形にして見せるのが夢であれば、どうして覚えていない夢が存在するのかの説明がつかない気がしたのだ。
この結論はひょっとすると考えても出てこないかも知れない。しかし、考えることによって、発見できなかった新しい真実に巡り合えるのではないかと思うと、考えることの意義を感じることができるのだった。
愛華はもう一つ夢に対して疑問に感じているのは、
「どうして、覚えている夢は恐怖の夢ばかりなんだろう?」
という思いだった。
正夢という言葉があり、実際に見た夢が現実として起こったことがないことで、
「正夢なんて迷信なんだわ」
と思っている人が多いだろう。
正夢という言葉が存在する以上、過去の人の中には本当に夢が現実になったという人もいるだろうが、それを証明することはできない。人伝えに伝わって、時代を超えて現在にその言葉が残っている。そういう意味では正夢を信憑性のあるものだとは、とても言えないと思った。
愛華は最近、もう一人の自分に対しての考え方が少し変わってきたことに気付いていた。もう一人の自分というのは、実際に存在しているという考えだ。
ただ、それは夢の中の世界でだけであり、見た瞬間に消えてしまう。
それを夢の中で見ているわけではないという発想に至ったのは、少し性急だったかも知れないとも思うようになった。
夢は実に近いものであり、声が聞こえるくらいの場所にいて、実際に見えないという次元の違う世界であり、
「同じ空間にはいるのだが、次元が違っている」
という四次元の発想とを結びつけるようになった。
愛華は、
「夢の共有」
という発想を持ちながら、他の人と夢を共有しているという発想にはどうしても至ることができなかった。
しかし、夢の共有という発想を、
「もう一人の自分との共有」
と考えれば考えられなくもない。
しかも、ここまで考えてきたうえで考えられることとしては、
「もう一人の自分と共有しているのは、夢なんかじゃないんだ」
という思いだった。
もう一人の自分を見た瞬間に目が覚めてしまう。そして、夢というものは現実の世界とは違った速度で時間が経過し、そもそも時系列なんてもの自体。存在しているのか怪しいものだと思っている愛華には夢の世界でもう一人の自分と遭遇しているとは、どうしても思えなかった。
――そうだ、遭遇なんだ――
会っているというわけではなく、見た瞬間に消えてしまうのだから、表現としては、遭遇というのが一番しっくりくるものではないだろうか。
つまりはもう一人の自分と遭遇する時間は、現実世界の時間と同じ流れになっているのではないか、そしてその世界には色も痛みも音も存在しているのかも知れない。あまりにも一瞬なので、そのことを感じることはできないが、明らかに夢の世界とは別物だと言えるのではないかと感じている。
そう、表現するとすれば、
「夢と現実世界の狭間」
という表現がピッタリなのではないだろうか。
「もう一人の自分と夢と現実の狭間で夢を共有している」
という結論が愛華の頭の中にはあった。
それが本当の行き着く先の結論なのか分からないが、少なくとも考え方の節目であることには違いない。
そんな節目を感じてしまったのだから、
「夢ともう一人の自分」
という関係について、頭の中から離れなくなってしまっていた。
これ以上何もないかも知れないが、どんどん膨れ上がってきた発想が一休みして、再度動き出すことを予感しているのも事実である。
愛華にとって、現実世界と夢との境界を考えるのは、
「気が付いたら考えていた」
と思うほど、自然に考えていることが多くなっていた。
元々、いろいろなことを想像したりすることの多かった愛華は、
「いつも気が付けば何かを考えている」
という性格を、ずっと前から感じていたということをいまさらながらに感じるようになっていた。
「今、何時頃なんだろう?」
目が覚めた時、いつも最初に感じるのはこの感覚だった。
これも夢の世界に自分がいたのかどうなのかを思い出すためのことだったと思っている。夢と現実世界、その狭間にあるであろう世界、それぞれにもう一人の自分がいかに関わっているのか、絶えず考えていることを意識しないわけにはいかなかったのだ。
愛華が最近感じているのは、
「目が覚めた時に感じる時間に差がある」
という意識だった。
夢を深く見ていたとしても、目が覚めるにしたがって、今が朝なのか昼頃なのか、夜なのか、それくらいは分かっているつもりだったが、最近では朝だと思って目を覚ましたはずなのに、実際には夕方だったりすることが多い。
小学生の頃までは、完全に規則的な生活をしていたのだが、中学の二年生の頃になると、受験勉強という「言い訳」もあってか、
「眠い時に寝ることにしている」
というのが、愛華のポリシーになっていた。
ひどい時には眠気が襲ってくれば、学校の授業中にでも平気で寝てしまうこともあり、先生に注意されて目を覚ますこともあった。
「あなたって意外と大胆ね」
と先生から言われ、まわりがクスクス笑っているのを感じるが、その笑いは決して心から笑っているものではなく、失笑であることは分かっていた。
きっと、誰もが、
「他人事ではない」
と思っていたに違いない。
中学二年生というと、まだまだ受験勉強を始めるには早すぎる時期と言えるだろうが、迫りくる受験勉強を、避けて通ることができないことくらい、皆分かっているはずのことである。
それだけに、
「眠い時に眠るようにしている」
という愛華の考え方は無謀に思えるが、迫りくる受験勉強のことを考えると、切実ならざるおえない自分も感じてしまうのだ。
そんな愛華を見て、誰が本気で笑うことができるというのか、愛華はまわりがそろそろピリピリしてくるのを感じていた。
その頃から、
「夢を見ていた」
という感覚が増えてきたような気がする。
実際に覚えていないだけで、確かに夢は見ていたと思うのだが、それを思って考えてみると、
「眠っている時、本当は絶対に夢って見ているんじゃないかしら?」
と感じるようになった。
夢を見ていないと思っているだけで、本当は夢を見たという意識すら、目が覚めた瞬間に忘れてしまっているのだ。やはり結界のようなものが存在し、現実世界に戻ってくるためには忘れなければいけない夢というのも存在しているのかも知れない。
そこにもう一人の自分がいかに関わっているのかまでは分からないが、確実に関わっているに違いないと愛華は感じていた。
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