神様の花嫁

三柴 ヲト

第1話 セカンドライフのはじまり

 ◇



「本日から、この者を私の妻とする」


 気がつくとすずは、昼でも夜でもない薄明に包まれたような異空間で、着流し姿の美しい男性に横向きで抱えられていた。


「……」


(ええと……)


 彼の胸元から間近にあるその顔をじっと見やる。結べそうなぐらい長い銀色の髪に、透き通るような藤色の瞳。それを縁取る長い睫毛に、スッと通った鼻梁。程よい厚さの唇はきゅっと引き締められていて、一見して日本人じゃないとわかる見目麗しい容貌。


(この美しい御仁は誰だろう?)


(いや、そもそもここはどこだろう?)


 寝ぼけた頭ではまずそこから考えなければならず、鈴は無言のまま思考を巡らせる。


 自分はたしか、つい先程まで生まれ育った山間の田舎村――月神村つきがみむらの、奉公先のお屋敷にいたはずだ。


 女中としていつも通りに飯炊の準備をしていると、ふいに地鳴りのような轟音が走り、何事だろうと外に出て確かめる間もなく、山の上方から怒涛のごとく押し寄せてきた濁流に呑み込まれた。


『近隣のダムが決壊したぞ!』


『逃げろ、逃げろ、逃げろ!』


 目の前を過ぎった戸板にしがみついて激流に翻弄される中、聞こえてくる阿鼻叫喚の声。


 しかしそんな騒がしい声もすぐに水底へ沈んでいき、敢えなく戸板から手を離してしまった自分ももはやここまでかと死を覚悟し、水の流れに身を委ねた――……はずだったのだが。


 ふと気がつけばこの不思議な異空間に辿り着き、この美しき男性の腕の中にいたというわけなのだ。


(一体、何が……)


 不思議だと思うのはあれだけ濁流に呑まれていたはずなのに、身に纏う着物も、腰まである長い黒髪も、全くといっていいほど水分を含んでいない。


 死んでいるのだろうか、生きているのだろうか。それすらわからず、ぼんやり首をひねっているうちに先ほどの御仁の発言が周囲の人たちに認可でもされたかのように、あれよあれよと始まる祝言の準備。


 豪壮なお屋敷の奥まった部屋に運ばれ、体の隅々まで念入りに手入れされ、あっという間に白無垢姿にされてしまった。


 自身の身支度を手伝ってくれたのは、狐の耳を生やした少年や少女たちが数名だ。


 普段から人成らざる者――俗にいう〝あやかし〟というやつだ――が視える体質であった鈴は、今自分がいるこの世界は日本のどこかではなく、死後の世界……あるいは、異世界か何かなのだろうかと暗に受け止めながら、大きな広間の花嫁席に、慣れない白無垢姿でちょこんと座る。


 するとすぐに豪華な料理が運ばれてきて、遅れてやってきた先ほどの美しい御仁と当たり前のように盃を交わすこととなった。


『おめでとうございます天帝てんていさま!』


『こりゃあめでたい! 休まず働いてばかりのてんさまがついに御伴侶を娶ったぞ!』


『さあさああめさま、鈴さま。御二方とも飲みねぇ食いねぇ!』


 晴れて夫婦となった瞬間、周囲の襖が開いたかと思えばわっと押し寄せる人ならざる者たち。


 いかにも天上人風の出立ちをした老若男女に、獣耳を生やした人、魚の鱗を纏った人、ツノを生やした鬼に、鼻の長い天狗、提灯のようなお化け、蜘蛛のような人、それからちょろちょろと走り回るもこもこの不思議な生命体。


 溢れんばかりの人々や物々の群れに、まるで竜宮城に招待された浦島太郎のように手厚くもてなされること数時間、やがて宴もたけなわに奥ゆかしいお座敷に通される。


 そこには、いかにも夫婦の熱い夜を連想させるような大きな布団がぴったりとくっついて並べられていて、恥じらいというよりは不安と動揺で硬直したままそこで正座していると、やがて夫となったらしい先ほどの美しい男性がやってきた。


「あ……しまった。ええと、これは……」 


 それまで凛々しい立ち振る舞いをしていた彼は、意外にもほんのりと頬を赤らめて明後日の方向を見やった。


「……」


「……」


 しばしの気まずい沈黙。


 やがて彼は一つ咳払いをしてから表情を引き締め、精悍な顔つきで改めてこちらを見た。


「戸惑わせてすまない。この婚姻は、貴女を救うためには避けて通れなかった制約みたいなものだ。まだ気持ちの伴っていない貴女に、いかなる無理も強いる気はない」


「……」


 制、約……と、口ずさみながら、鈴は夫となった男性を見上げる。


「私の妻ともなれば、多少は煩わしい厄介ごとも舞い込んではくるだろう。だが……ここにはかつての君の雇い主のように、憂さ晴らしで貴女を虐げるような卑劣な輩はいないし、貴女にはこの〝幽世かくりよ〟で自由に生きていってほしい」


 温かな瞳が私を見下ろし、慈愛のこもった柔らかな声色が、孤独だったはずの鈴の心を絆していく。


「だから……今さらの確認となってすまないが、此度の婚姻は、貴女が第二の人生を歩むためにどうしても必要な足掛かりだと割り切り、どうか受け入れてはもらえないか?」


「……」


 真摯な眼差しが、鈴の心を優しく溶かしていくようだった。


 一体、どういう過程で自分がこの人の花嫁に選ばれたのかはわからないし、この男性がどのような職につき、どのような人格をしているのかすらもまだわからない。


 だが、それでも――。


 鈴の答えるべき返事は決まっていた。


「私は……」


「……ん」


「貴方様に拾われていなければ、いずれお屋敷を追い出され、どこかで飢えに苦しみながらのたれ死んでいくような孤独な人間でした」


「……」


「どのような過程でここへ行き着くことができたのかは存じあげませんが……救って頂いたからには、そのご恩に報いるためにも、全身全霊で妻の勤めを果たす所存です」


「……そうか、では……」


「はい。この婚姻、謹んでお受けいたします」


 静かに両手をつき、深々と頭を下げる。すると――。


「顔を上げてくれ。ありがとう。では、これで気兼ねなく妻と呼べるな」


 どこか安堵したような声が鈴の頭上に降ってきて、導かれるように顔を上げると、夫となった美しき御仁は、優しく目を細めて鈴を見つめていた。


「私のことは好きに呼んでいい。周囲の者からは『てん』や『あめ』、『ぬし』などと呼ばれている」


「……承知しました」


「いや、もっと口調を砕いてもらって構わないんだが……」


「承知し……わかりました」


 ご所望通り少しだけ口調を砕くと、主さまは微かに笑ったようだった。


 それからまもなく二人は並んで床に入り、しばらくとりとめもない日常の会話を交わす。


 鈴は相槌を打つか、聞かれことに答える程度の発言だったが、それはたまらなく心穏やかなひとときで――気がつけばいつの間にか、夫となった彼は柔らかな寝息を立てていた。


(綺麗な寝顔……)


 手を伸ばし、はだけた掛け布団をソッと肩までかける。


 そこには、ほのかに香る石鹸の匂いと彼のぬくもりが確かに存在していた。


(どうかこれが、醒めない夢でありますように)


 彼の寝顔を見つめながら、ふつと願う。


 本当は、欲を言えば夢なんかではなく、この非現実的な出来事がいつまでも現実のものとして続きますようにと心の底から願いつつ、鈴は瞼を落として深い眠りに落ちていく。


 ――これが、村の水没で命を落とすはずだった元女中の〝鈴〟と、八百万の神たちから〝天帝てんてい(あるいはみかど)〟と呼ばれる最高位の神・『天之御中主神あめのみなかぬしのかみ』の、夫婦として過ごす初めての夜。


 かくして――思いもよらず神の花嫁となった鈴の、第二の人生は幕を開けたのであった。



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