ただ、この世界に溶けてゆく

ぐらたんのすけ

ただ、この世界に溶けてゆく

 私は自分の瞳を見たことがない。


 鏡に映る私の瞳はいつも冷たかった。

 それは確かに私の瞳孔のその深くまで到達したが、いくら時間が過ぎようとそれが私のモノであると認識できなかった。

 私は、空っぽだ。まだ瞳に色を入れられていない、作りかけの人形。

 

 蛇口から流れ出る冷水で顔を洗う。

 私にはそれのどこからが冷水で、どこまでが私なのか分からなかった。

 窓から風が吹き込んでくる。春先のほのぼのとした空気が冷え切った私を包む。


 

 いつものように朝食を食べ、いつものように家を出た。

 電車に揺られるその微細な振動さえもがいつもどおりに感じた。

 

 子供の頃、大人は華やかなものであると思っていた。

 子供の頃といっても、世間から見れば自分はまだまだおこちゃまなのかもしれないが。

 とにかく大人はそう楽しいものではなかったという事に気づいただけである。

 

 大学を卒業し、既に社会人となって4年を過ぎようとしていた。

 学生の頃の友人達も、各々社会の荒波に揉まれ慣れてきた頃合いであろう。

 そうして皆私と同じように、自分はただ、この世界のほんの一欠片でしかないと気付くのだ。

 そしてその事を受け入れて、諦めていくのであろう。それは先人たちがその情けない背中をもって証明してくれている。


 そう、彼らだって逃げただけなんだ、少しだけ私とはやり方が違っただけで。

 反撃してこない無害なものをイジメるのが唯一の捌け口なのだろう。

 

 学生の頃の私は、他の人間と違ってどんな困難が向かってこようと、黙って耐える事ができると思っていた。

 それに、途中で逃げたり辞めたりすることは意志の弱い人間のすることだと思い込んでいた。

 

 でも仕事を重ねるたびに、同じことを繰り返すたびに自分からその意思がじわじわと溢れ出ていってしまう。

 最近、時々自分が自分でない感覚に襲われるようになった。この世界と自分の境界線が曖昧だ。

 鬱の症状の一種であるらしい。自分の体が水に沈むように、溶けるように世界と一体化するのだ。

 薄々、気付いていた。けれども診察に行く気力もなかった。

 このまま私はどうなるのだろうか。そんなことさえどうでも良かった。


 

 どうでも良かった、どうでも良かったのに。

 

 

 私はいつの間にか逃げ出していた。

 目的地の途中で電車を降り、宛もなく彷徨う。

 視界に入る情報を処理できぬうちにまた次の情報が頭に流れ込んでくる。

 はやる足が、爪先から地面に沈んでゆく。

 まただ。底なし沼のように私を引きずり込んで離さない。

 

 私はどこに行けばいい――いきばしょがない――

 私はなにをすればいい――わたしになにができる――

 あぁ、だめだ、こんな事考えちゃだめだ、自分はちょっとした鬱なだけだ、ただの思いこみだ。

 やめてくれ、思考を占領しないでくれ!――だめだ。沈む、体が溶ける――この体は私のものだ、黙れ!!

 ああ!どうして!………………。


 ゆっくりと近くにあったベンチに腰を掛けた。

 少しだけ、落ち着いた。

 抑圧されていた感情が開放されてしまったのだろうか、どうしてこんな事をしたのか分からない。

 私がしたいのはこんなことじゃないはずだ。

 

 抱えたバッグから覗いた封筒には"遺書"の2文字が弱々しく、精緻に書かれている。

 私はまた逃げたのか。

 現実から逃げて、死ぬことからも逃げて、もう逃げる場所がないではないか。


 気付けば、雨が降っていた。この雨は、私なのだろうか。

 ベンチに横たわる。

 少しずつ、雨が私の輪郭を崩していく感覚は案外心地よかった。


 ――――


 急な雨に降られ、久々に嗅ぐ雨の香りを楽しんでいた。

 雨の香りは地面のホコリが雨で巻き上げられた香り、だなんて豆知識はロマンチックじゃないなと思ったりもしていた。

 そうやって帰ろうとしていた時、店の前のベンチに、女性が横たわっているのに気がついた。

 天気雨気味の、明るい空から射し込む木漏れ日と、濡れた艷やかな黒髪が周囲の景色と調和していて美しいとさえ感じた。

 既視感のある女性だった。

 私はつい女性を心配することも忘れて、とにかく彼女の隣に座ると、


「いい天気ですね」


 とほぼ無意識のうちに語りかけた。言葉は何故か弾んでいた。

 彼女は私が座った事に気付いていなかったのか、言葉を聞くとひどく慌てた様子で立ち上がり、あたりを見回す。


「何か御用があったのでは?」


 そう私が言うと、彼女は更に困惑した様子であった。

 本当に、たまたま迷い込んだのかもしれない。それはそれでどこか運命を感じる。


「もしよければ、そこのカフェに寄っていきませんか?私の店なんです」


 迷路のような路地を抜け、少し開けた場所にある少し隠れ家風なカフェ。

 場所を知らなければ中々たどり着くのは難しい。

 彼女もそれに気付いたのか、申し訳無さそうな顔をしながら頷いた。

 



 彼女に乾いたタオルを渡して、コーヒーを淹れる準備をする。

 本当は今日店を開けるつもりはなかったのだが、お客様がいらっしゃるなら仕方ない。

 そういいながらも招き入れたのは自分であって、少し先走りすぎたかと一人思う。

 そんな中、髪を拭きながらカウンターに座った彼女が口を開いた。


「素敵なお店ですね」


 思いがけず飛び出た褒め言葉に少し驚いたのと同時に、彼女に会話しようとする意思がちゃんとあるのに安心した。


「ありがとうございます。どうぞ、口に合うといいのですが……」


 湯気の立つカップを差し出す。


「いただきます……」

「ゆっくりしていってくださいね」

「……はい」


 暫くの間、店内に時計の秒針の音だけが響く。

 沈黙を破ったのは彼女の方だった。


「さっき、なんでいい天気だとおっしゃったのですか?」


 彼女の視線は窓の外に向けられていた。

 天気雨だったはずの空はいつの間にか鈍色の雲に覆われ、雨はより強まっていた。


「特に深い意味があるわけでもないんですが……。でもなんとなくウキウキしません?」


 少し苦笑しながら答えると、彼女はその瞳を隠すように俯いた。


「私、雨は好きじゃありません」


 そして訪れた再びの沈黙の後、俯きがちなまま、


「でもさっきの雨は、何故か、少し好きでした」


 と少し微笑んだ。


「それは……なんだか素敵ですね」

「そうですか?」

「えぇ、きっと。嫌いな人に優しくされて、少しだけときめいてしまうのと似てますね」


 私のその言葉を聞いて、彼女は一瞬きょとんとした表情を見せた後、またふっと笑ってくれたのを見て、胸を撫で下ろした。


「素敵な感性をお持ちですね」


 私は少し考えてからこう言った。


「昔、ある人が言っていたんです。瞳を通して見る世界ほど、曖昧なものはないって。見えるものすべてが1つの真実と結び付けられているのなら、好きも嫌いもないでしょう?曖昧な世界を、皆がそれぞれ自分勝手な見方をするのなら、私は出来るだけ素敵に見える角度から見たいんです。」


 彼女のカップの中身は既になくなっていた。


「少し、私の話を聞いてくれますか?」


 彼女はおもむろにそう言った。

 私は静かに、どうぞ、と促す。

 ぽつりぽつりと話し始めたその内容は、酷く重苦しいものであった。

 家族の事、会社での事、友人の事。

 淡々と話す彼女の口調に感情の色はなかった。


「私は、逃げたんです。逃げて逃げて、こんなところまで来てしまいました。私は、自分が思っているよりも弱かったんだって、さっき雨に打たれて気が付きました。…………やっと今、自分を見ることが出来ています」


 暗くなってゆく話と反比例するように、先程まで酷く弱々しかった彼女の輪郭が、少しずつハッキリとしていくのが分かった。

 その輪郭は強烈な既視感を覚えさせた。


 私は、この景色を知っている。

 私は、あなたのことを知っている。

 私は、確かにそこにいる。

 

 ――――

 ただ、何も見えていなかっただけなのだ。

 "彼女"は私の独白に静かに耳を傾け、そのまま黙ってしまった。

 心はスッキリとしていた。

 私は空っぽなんかじゃなかったんだと実感する。

 今までの私はただ、スカスカのスポンジのような負の感情が支配していただけなのだと。

 一度それらを吐き出し、今はただしっかりと、心地よさを湛えている。

 

多分私は最初から気付いていたのだ。

 

 今の私よりも少し大人びた雰囲気を纏った彼女は、しばらくしてその重い口を開くと再び語り始めた。


「人間というのは卵のようなものなんです。中身が素晴らしくても、腐り切っていても、それは殻に阻まれて外見からは分からない。でもその殻だって、強い負荷がかかればヒビが入って、割れてしまうこともある。中身が出てきて、止められなくなる。」

「まるで私みたいですね」

「でも、殻が割れた中から、新しい殻が出てくることだってあるかもしれませんよ。それは貴方にしか分からない」


 雨は止んで、雲の隙間から光が漏れ出してきている。

 

「私、そろそろ帰ります」


 席を立って、彼女に背を向けた。

 彼女がどんな顔をしていたかは分からないが、きっと今の私と同じ表情であるに違いない。

 

 店を出ると、背後から見送ってくれる気配がした。


「私、これから何をしたらいいですか?」

「さぁ、心機一転カフェでもオープンしたらいいのでは?」


 ベンチとカフェの丁度真ん中ああたりで振り返ると、既にカフェはなくなっていた。

晴れ間から降り注ぐ雨がとても心地よい。


 この世界がたとえ強烈な幻覚であろうと、私は別に構わない。

 私が見ている世界は私だけのものなのだから、私の都合のいいように解釈してもいいのだ。

 まるで瞳に色を入れられたように世界が色めく。


 木漏れ日が差すベンチには、まだ微かに私の気配がする。

 バックから遺書を取り出し、息を止めながらベンチの上においた。

 この遺書は有効だ。

 私は、ベンチに横たわっていた私は今、この世界に溶けて消えた。

 

 ゆっくりと息を吹き返すように呼吸を再開し、その場を去る。

 

 いつかの私達にさよならを告げて。

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