ノブレス・オブリージュ
八月六日
第1話
都村エトは、とにかく生きることが下手だった。自分からそうなろうとしたわけではない。無理やりに合わせた歯車、あるいはひびの入った砂時計。
そんな彼女だ。他者は、自分たちの世界に彼女が踏み込むことを良しとしなかった。『人と触れ合いたいが、自分には無理なのだろう。これまでも、これからも』そうやってずっと生きていた。
これまでも一人で、これからも一人。
「ねえエト! 私と演劇やろう!?」
エトの世界に雨星雫が踏み込んだのは、高校最後の文化祭の時だ。
担任の粋な計らい、あるいは余計な計らいで、クラスメイト全員に役が与えられることになった。エトは担任を恨んだが、それで何が変わるわけでもない。
エトに与えられた役名は『悪役c』だった。セリフは二つで、出番は二分で終わる。
リハーサルでは、エトは完璧にこなして見せた。悪役aと悪役bの陰に隠れて、主人公に地味に殺された。そこまでは良かった。
エトは、演技にのめりこんでしまった。結果、本番では台本にはない大立ち回りを見せ、主人公を殺してしまう。でも仕方がないのだ。あの時小さい舞台に立っていたのは、エトではなく悪役cだった。
正気に戻ったのは、クラスメイトの泣き声が聞こえた時だった。またやってしまった。
エトは劇も主人公も何もかもを放り投げ学校から逃げ出した。一心不乱に走って、走って、公園にブランコがあったからそこで泣いた。泣いて泣いて、ようやく泣き止んで、死んでしまおうと思った。今日中に死のう。そう決めた。
どうやって死ぬか考えていたら、死ぬのが怖くなって、また泣いた。泣いて泣いて泣き疲れたら、横からブランコの揺れる音がした。
ややあってそっちを見たら、そこに雨星雫がいた。エトは思わず身構える。なんでって、あんなことをしたら、怒られるに決まっているからだ。もしかしたら殴られてしまうかもしれない。でも、全然そんなことなかった。
「エトだっけ。才能あるよ」
意味が分からなかった。才能? 全部台無しにしてしまう才能だろうか。彼女はこうやって怒ってくる人なのだろうか。エトはさらに体をこわばらせた。
「才能って、いったい何のやつですか」
エトは聞く。思えば、ここで逃げ出せばエトの人生はここまでだっただろう。ここが、都村エトと雨星雫の分水嶺だった。
「そんなの、演劇の才能に決まってるじゃん!さっきの、めちゃくちゃ良かったよ!」
彼女が言っている内容は、エトが初めて聞くタイプのやつだった。エトは、人に褒められたことなんてなかったのだ。
「で、ででも、私のせいで劇が台無しになって」
「あんなのもともと泥船の劇だったでしょ。主人公なんて最悪だよ。何でもかんでも野球部に任せればいいってことじゃないんだね。でも、エトの演技だけは最高だった。最高だった! エトには演劇の才能があるんだよ! その才能は使う義務があるんだ! 使わなくちゃいけないんだ! ねえエト! 私と演劇やろう!?」
エトは思わず泣き出してしまった。この日をエトが忘れることは絶対にない。初めて人に褒めてもらった日で、初めて人が誘ってくれた日で、初めて人を好きになった日だ。
それからエトと雫は、一緒の大学に入って、共に演劇部へと入部した。雫の言う通り、エトには演技の才能があった。エトは一年生ながら、劇の主演にまで上り詰めた。でも、そんなエトを認めない先輩も多かった。
「都村さん、あんた演劇部やめなさいよ」「なんであんたみたいなやつに」「死ねよ」「先輩に恥をかかせる気かよ」「辞退してくれ」「消えろ」「エト」「エト」「エト」
心無い言葉も散々聞いた。エトは、それから身を守る方法も知っていた。
「またエトが主演だね! やっぱりエトは才能あるんだって! さすがは私の親友だよねぇ!」
エトにとって、雫は好きな人だった。チューとか、結婚とか、そういうやつだ。雫にとって、エトは親友だった。カラオケとか、女子会とか、そういうやつだ。その壁を超える方法を、エトは知らなかった。
「ありがとう雫。次は一緒に舞台に立とうね」
雫には演劇の才能はなかった。入部してから、一度たりとも舞台に雫が上がったことはない。
でも、エトは信じている。いつの日か、エトと雫は一緒に舞台に立つのだと。エトがヒーローで、雫がヒロイン。悪役を殺して雫と結ばれるハッピーエンドを夢見ていた。
事件は秋に起こった。大勢の前で、エトは強く頭を打った。劇の最中で、思い切り転倒したのだ。ただ転んだだけなら、まだミスですんだ。ここから巻き返す方法も知っている。少しの勇気と、ちょっとしたアドリブだ。
だが、転んだ先にあるのは暗闇だった。一メートルの高さを頭から落ちたエトは、ゆっくりと気を失った。おぼろげな視界で最後に見たのは、元主演の先輩の勝ち誇った顔だった。
目が覚めると、季節は冬に移り変わっていた。そこは病室で、変な管がエトの体と繋がっていた。あたりを探したが、雫はいなかった。
エトは理由が分かった気がした。彼女は、エトの演劇に惚れたのだ。演劇のできないエトには興味がないのだろう。そう思った。
エトは演劇部へと向かうことにした。何となく、雫がいると思ったのだ。でも、部室には誰もいなかった。部長も、元主演の先輩も、雫も誰もいなかった。ずっと使っていないのか、ほこりの匂いがした。
エトは不思議に思いながらもその場を後にした。
それを聞いたのは二日後だった。『雨星雫が演劇部の先輩を殺したらしい』という噂を、エトは信じなかった。雫がそんなことをするわけがない。
でも、先輩が誰かに殺されたのは本当だった。あの、元主演の先輩だった。あの日以来、雫は行方をくらませているらしい。
エトは雫に会いたいと思った。会って、何があったのか聞きたい。
エトが雫と会えたのは、クリスマス・イブの日だった。まるで、クリスマスプレゼントを配るサンタのように、雫はエトの家に忍び込んでいた。
「え...雫?」
「うん。雨星雫だよ。久しぶりだね、エト」
エトは泣いていた。心のどこかで、雫にもう会えないんじゃないかと思っていたからだ。
「ね、ねえ雫。雫は殺してないよね」
淡い期待を込めて、雫を信じてエトは言った。
「ねえエト。前に私が言ったこと、覚えてる?」
エトの質問には答えずに、雫は言う。
「な、何を言って」
「与えられた才能は、使う義務がある。そう言ったの。エトは演劇の才能があった。いいね。私にはなかった。こんなにも演劇が好きなのに。」
エトは言う言葉が見つからなかった。ややあって雫が続ける。
「でもねぇ、エト。どんな人にも、何かしらの才能は与えられるんだよ」
エトは、雫が分からなくなってしまった。雫が何を言っているのか理解できなかった。でも、本当は分かってた。それをできるだけ遠ざけようとした。
雫はそれを許さなかった。
「私ね、人を殺す才能があったみたいなの!」
まるで初恋の相手を言うように、雫は笑顔でそう言った。思わず、綺麗だな、とエトは思った。
「でね、でね、今日はクリスマス・イブでしょう? クリスマス・イブって言ったら、何かしら物語が動くとっても大事な日でしょう! だから私、エトを殺しに来たの!」
エトは、雫になら殺されても良いか、と思った。考えることを放棄してみると、今起こっていることは至極単純だった。『雨星雫が、都村エトを、殺す』これだけだ。
「雫のおかげでここまで生きてこられたようなものだしね。良いよ」
エトがそう言うと、雫は小さなナイフを取り出し、エトの首に当てた。
「ねえ、私、本当はとっても悲しいんだよ?」
雫は泣いた。
「何が、そんなに悲しいの」
エトは聞いた。雫の涙がキラキラ輝いて見えた。
「私、エトの演劇、一番好きなの。この世界の誰が舞台に立っても、エトには勝てない」
エトは悲しく思った。雫が好きなのは、舞台上のエトであって、今ここにいるエトではなかった。エトは、褒められるだけではもう嬉しくない。
たった5文字の言葉が欲しかった。
「でも仕方ないよね。才能は使わなくちゃいけないし、今日はクリスマス・イブだもん」
「そうだよねぇ、痛くないようにお願いね?」
「ねえエト、何か最後に、言うことはある?」
雫は言った。エトは思う。これは、いわゆる遺言ってやつかもしれない。あの日、一人で死んでいたら、誰にも言えなかった言葉。あの日雨星雫が来なかったら、知らなかった言葉。
エトは、その5文字を形にする。
「愛してる」
え、と雫の声が漏れる。それと同時に、エトの意識は遠のいていった。最後に見たのは、雫が何か叫んでる姿だった。
目が覚めると、季節は春へと移り変わっていた。そこは病室で、見たことのある管がエトの体と繋がっていた。あたりを探しても、雫はいなかった。
なんで私は生きているんだろう? エトのもとに警察官が来て、理由が分かった。あの時雫に首を切られてから、すぐに救急車に運ばれたのだと聞いた。
「あの、雫は。雨星雫を知りませんか」
エトは聞いた。エトのもとに警察が来るってことは、そういうことだ。
「彼女は、去年の十二月二十五日に自殺している。多数の殺人容疑がかかっていたのだがね」
警察官はそう言った。エトは首筋に触れる。少しポコッとしていて、短かい傷跡があった。
警察官がいなくなって、エトは泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れて、エトは眠った。
「エト、なんであの時、私にあんなこと言ったの?」
雫が問う。
「そんなの、私が雫のこと愛してるからだよ」
エトが言った。雫のことを愛しているから、雫に愛してると伝えただけなのだ。
「あんなこと言われたから、ついエトのこと助けちゃったよ。あーあ、才能あると思ったんだけどなぁ。」
「それって、雫も私のこと愛してるってことでいいの?」
エトは、そうであってほしくはないと思った。だって、そんなの、あまりにもハッピーエンドから遠すぎる。愛し合った二人は、そのまま結ばれて然るべきだ。
「うーん。どうなんだろうね。私、文化祭の時からいまいちエトへの感情が分からないんだよねぇ。あの時、エトの演技を見た時、体にビビーンって電流が走って、いてもたってもいられなくって、エトを追いかけたの。...もしかしたらこれが恋ってやつなのかな?」
エトは嬉しかった。ハッピーエンドにならなくたって、雫がエトに恋をしていたのだ。それだけで、エトのこれまでの全てが報われる気がした。
「私は、雫のそばにいると、ドキドキして、力が湧いて、何でもできる気がしたの。雫が居なかったら、演劇なんてやらなかった。ありがとう、雫。あの時私を、誘ってくれて」
気が付くと、二人は舞台上に立っていた。
「もうあんまり時間ないかな」
「多分、もうちょっと」
「ねえエト、一緒に踊ろうか」
「うん、踊ろう」
「やっぱり演劇のラストはダンスだよね」
「そうだねぇ」
「あれっ、私けっこう上手じゃない!?もしかしてダンスの才能あった?」
「本当だ。とっても綺麗」
「ねえ」
「どうしたの?」
「エトはさ」
「うん」
「演劇、やめんなよ」
目が覚めると、エトは泣いていた。なんで泣いていたのかは思い出せなかった。
「じゃあね、雫」
そう呟いて、エトはまた泣いた。泣いて、泣いて、ずっと泣いていた。そうやって泣きながら、エトは立ち上がる。
また、舞台上に立つために。
ノブレス・オブリージュ 八月六日 @ayatyou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます