第3話 坂田つばさ

 棚橋つかさと中江つかさのクラスに、一人の女の子が転校してきたのは、棚橋つかさが自分の中に姉以外の女性がいることに気付き始めた時だった。

 転校生が来るという噂は聞いていた。ただ、それが男性なのか女性なのか、棚橋つかさには分からなかったが、そんなことはその時の棚橋つかさには関係のないことのように思えた。

「はい、それでは皆さん席についてくださいね。。転校生を紹介します」

 緒方先生が、そう言って転校生を連れてきた。

 黒板に比較的大きくチョークで名前を書いていく先生、書き終えると生徒の方を振り返り、

「えー、転校生の坂田つばささんです。皆さん、仲良くしてあげてくださいね」

 と、先生はニコニコしながら言った。

「じゃあ、坂田さん、自己紹介をお願いします」

 と先生に促された坂田つばさは、

「あの、私は坂田つばさと言います。九州からやってきました。皆さん、宜しくお願いいたします」

 と、丁寧な挨拶であったが、皆少し拍子抜けしているようだ。

 なぜなら彼女の表情はずっと無表情で、声にも抑揚がなく、まるで棒読みをしているかのようだった。

 すると、クラスの中で、いつも一言多い男子生徒が茶化すように、

「へえ、つばさちゃんか、このクラスもさらにややこしくなるよな」

 と言った。

 皆心の中で、

「余計なことを」

 と思ったかも知れないが、言った言葉に対しては、

「もっともだ」

 と思っていたことだろう。

 名前で「つかさ」が二人もいるのに、さらに今度は「つばさ」と来る。しかもつかさは男女いるではないか。

 この物語ではまだ登場していなかったが、実は「つばさ」という名前の生徒はもう一人いたクラスが違うので、誰も気にしていなかったが、このクラスに「つばさ」が一人増えれば少しややこしいというのも無理もないことだ。

 確かにつばさは別のクラスではあるが、一人だったので気にもならなかったが、自分たちのクラスに入ってきて、しかも、つかさと同じように男女が対でできてしまったことは偶然だと言えるだろうか。

 彼女のことは、最初からクラスに馴染む雰囲気ではないと皆が感じていたので、彼女任近寄る人はいなかった。下手に近寄って、今度は自分がクラスの皆から総スカンを食らってしまってはたまらない。そんなリスクを冒してまで、別に仲良くなりたいとも思っていない相手に気を遣う必要などあるわけもないだろう。

 特にこのクラスは、最初からいた人であっても、少しでも馴染めないと、結構きついかも知れない。誰か一人中心になっている人がいるわけでもなく、最初から烏合の衆のようなクラスだった

 逆に一人でもカリスマ的な存在の人がいれば、その人を中心に、それなりにグループが結成されるのだろうが、それもない。晃かな仲間はずれがいるわけではないが、クラス全体にまとまりはまったくない。そのため、ちょっと何かあれば、完全分裂の危機を孕んだクラスだった。

 皆それでもいいと思っている。一人だけ憂慮している人がいるとすれば、それは緒方先生だけではないだろうか。せっかくの担任なのに、クラスにまとまりがないと、自分の教育に自信がなくなってしまう。それが怖かったのだ。

 なるべくクラスに溶け込むように接してきた緒方先生だったが、転校生である坂田つばさがクラスへの起爆剤になればいいと思っていたが、実際には起爆剤どころか、さらにぎこちなさを増す結果になってしまった。

――やっぱり私が何か打開策を考えないといけないのかしら?

 と緒方先生は考えていたが、坂田つばさのことを気にしている人が一人いることを先生は分かっていた。

――棚橋さん――

 棚橋つかさを見ていると、その視線が絶えず坂田つばさに送られていることが分かってきた。

 その視線は棚橋つかさが意識している場合はもちろんのこと、無意識に視線が離れない時もあるくらいだ。

――よほど気になるのかしらね――

 と感じたが、自分もどうしてそこまで棚橋つかさのことを気にするのかが分からなかった。

 緒方先生は今までにも自分が気にした相手が他に気になる人がいるということを分かったうえで、気にすることをやめなかったことがあった。棚橋つかさを気にしているのに、その彼女が気にしているのが坂田つばさであるということに気付いた時はショックだったが、

――ああ、また同じことの繰り返しだ――

 と半ば諦めがちになっていた緒方先生だったが、それでもいいように思えているから不思議だった。

 緒方先生が、今までに自分が気にしている相手が、他の人を意識しているのと同じように、棚橋つかさもそんな雰囲気の性格を持った女性だった。

 だが、緒方先生が自分の性格に気付いているのに対し、棚橋つかさは気が付いてはいるが、別にそのことを意識しているつもりはない。

――だから、どうしたっていうの?

 という程度のもので、緒方先生の感じていることとは少し違っていた。

 棚橋つかさが淡泊なところは分かっていたが、ここまで淡泊だとは思っていなかったのだ。

 坂田つばさを見る目が、日に日に変わってくるのを緒方先生は感じていた。

――何となく、嫌だわ――

 ムズムズした感情が緒方先生の中に沸き起こる。

 それは、棚橋つかさの坂田つばさを見る目が明らかに他人を見る目とも違っている。緒方先生も自分を見る目が少し違うと思っていたが、自分だけへの視線が違っているということで喜んでいたのだが、実際には他に違う人がいるということが分かると、本当にショックだった。

「あの、緒方先生」

 と、ある日後ろから声を掛けてくる女生徒がいて、ビックリして振り向くと、そこには坂田つばさが立っていた。

 その様子ははにかんだようにも見えるが、恥かしさを隠そうとしているということは分かった。普段から暗くて、何を考えているか分からない彼女の恥じらいの表情など見ることはできないだろうと思っていただけに、そのことも緒方先生をビックリさせた。

「どうしたの、一体」

 と、ビックリした表情をなるべく表に出さないようにと、緒方先生は淡々と答えた。

「あの、実は私誰かにいつも見られているような気がして……」

 と言って、言葉を切った。

 その様子が不安から来ているものなのか、気持ち悪さから来ているものなのかはすぐに判断できるものではなかった。

 彼女の言っていることは、自分が感じていることの裏付けでもあり、信憑性と言うとこれほどハッキリしたものはないだろう。

――やっぱり――

 緒方先生は自分の目に狂いがなかったということを感じたと同時に、棚橋つかさに対して、

――もっとうまくやればいいのに――

 と、教師としては思ってはいけないことを感じていた。

「その視線が誰かのものだって分かっているの?」

 というと、

「いえ、分からないです」

 と答えた。

 分かっていて相手に気を遣っているのか、それとも本当に分かっていないのか分からなかったが、どっちなのかによって、坂田つばさの本当の姿が見えてくるような気がした。緒方先生は、

――分かっていない方がいいわ――

 と感じていた。

 この時、緒方先生は坂田つばさに対して嫉妬を抱いていた。しかし、まだその頃は軽い嫉妬で、自分が教師であるという立場を考えると、嫉妬を表に出すことのリスクを感じないわけにはいかなかった。

 一方の棚橋つかさの方は、まさか緒方先生が自分のことを意識しているなどと思ってもいなかったので、その視線は坂田つばさに注がれた。それは何かを忘れようとでもするかのように一途であり、本人も忘れようとしていることが何なのか、すでに分からなくなっていた。

 棚橋つかさは、一つのことを思いこむと、他のことが見えなくなるタイプの女性だった。女性というと、一つのことを思いこむと他が見えないという性格は男性に比べて多いのかも知れない。

 そんな棚橋つかさが以前に一途になったのは、他ならぬ緒方先生だった。緒方先生は棚橋つかさが思っているほど、その態度には冷淡なものがあり、先生とすれば、精一杯に寄り添っているつもりであったが、それはしょせん、教師としてのものだった。

 だが、棚橋つかさはそれでは満足できなかった。自分が好きになった相手には、自分が思っている以上に自分のことを好きになってほしいと思っているのだ。そういう意味では棚橋先生の気持ちが分かりかねているうちに、坂田つばさが気になり始めたのだ。

 棚橋つかさが坂田つばさを意識しているということに気付いているのは緒方先生だけであろう。

 棚橋つかさのことは緒方先生も好きだった。だが、それは教師として好きだというだけだと思いこんでいた。いや、思いこんでいたというよりも思いこもうとしていたと言った方が正解かも知れない。

 棚橋つかさにとって、緒方先生は恋愛対象のようなものだったのだが、愛おしいと思ってはいたが、どうしても先生と生徒という立場を思い図らんとすれば、棚橋つかさを直視することができなくなっていた。

――彼女は異常なのかも知れないわ――

 とまで思ったが、それは自分にも言えることで、棚橋つかさの異常なところに気付く自分が怖くなってきた。

――彼女とは一定の距離を置いておかなければいけないー―

 と思うようになった。

 棚橋つかさは、本当は緒方先生の思っているほど異常ではなかった。むしろ、健気なところはウブだったのだと言ってもいいだろう。しかし、緒方先生が警戒すればするほど棚橋つかさは自分の殻に閉じこもるようになり、持ち前の勘の鋭さからか、自分が異常なのではないかという危惧を抱くようになり、それが緒方先生の視線によるものだと思うようになると、棚橋つかさの方も緒方先生を避けるようになってきた。

――あれ? どうしたのかしら――

 と、それまでとは違う棚橋つかさの態度に緒方先生も気づくようになる。

 それまで棚橋つかさの方が、冷淡な緒方先生に疑問を抱いていたが、今度は緒方先生が少し変わってしまった棚橋つかさが気になってきた。

 避けるようにはしていたが、その動向はずっと見ていたので、ちょっとした誰にも気付くことのできないような微妙な違いも、緒方先生には分かっていたのだ。

 棚橋つかさは、憧れてはいるが、それまでの先生と変わってしまったことで、先生から裏切られたのではないかと思うようになった。

――裏切りというのとは少し違うのかも知れないけど、私と明らかに違う方を向いているわ――

 と感じていた。

 その思いが次第に先生への疑念に変わって行き、それが先生から目を背けることになった。

 その様子が冷淡に見えたのだろう。そして棚橋つかさは、その時、なぜか自分が女性を気にするようになることを予感していたのだった。

 そんな時に転校してきた坂田つばさが、棚橋つかさには新鮮に見えた。

 緒方先生は、転校してきた坂田つばさに対して、最初からあまり好きではなかった。

 彼女は自分たちとはまったく違うタイプの女性で、彼女がどこか中心にいるというカリスマ性があることに気付いた。

 かと言って彼女にリーダーシップがあるというわけではない。どちらかというと、カルトな集団をまとめることができるような危険な香りを秘めていた。

 坂田つばさは、誰とも関わろうとはしなかった。学校でも大人しくいつも一人でいたので、

――この人に関わろうとする人も出てこないわね――

 と思うようになっていた。

 しかし、いつも気にしていた棚橋つかさの視線の先に、想像もしていなかったことだが、そこに坂田つばさがいたことを感じた時、ビックリしたというよりも、

――なぜなの? どうして彼女なの?

 という気持ちが強かった。

 棚橋つかさと緒方先生の確執が、緒方先生の想像もつかないような行動を、棚橋つかさに取らせてしまったと、緒方先生は感じた。

 坂田つばさという女性を、緒方先生は直視できなかった。ずっと見ていれば彼女のペースに引き込まれそうで、それが怖かったのだ。

 実際に彼女のペースに引き込まれた人が、彼女の前の学校にいたようだ。まだこの時誰にも知られていなかったが、坂田つばさがこの学校に転校してきたのは、前の学校で坂田つばさのペースに引き込まれて、にっちもさっちもいかなくなったことで、学校を退学しなければいけなくなった生徒がいたからだった。

 坂田つばさ本人には、別に悪いところがあったわけではないが、噂というのはあることないこと吹聴されて広がるものだ。

 しかし、この時は、

「あることあること」

 だった。

 噂のほとんどが真実で、あまりにも真実が多すぎて、理解に苦しむことで、結局何が真実なのかよく分からないまま、坂田つばさは学校を去るしかなかった。転校という処置はまだ妥当な処置で、それを知っている学校側のごく一部の人間も、そのことをひた隠しにしておこうと思うのだった。

 そうでなければ、知っている人のほとんどは何らかの責任を取らなければいけない。だから坂田つばさのことを隠そうとするのは彼女のためではなく、自分たちの保身のためだけだったのだ。

 そんなことを坂田つばさは知っていたのだろうか?

 彼女は勘の鋭い女性でもあるので、分かっていたかも知れない。だが、ことを荒立てるのも好きではない彼女には、分かっていないふりをするのが得策であることは重々承知していた。

 棚橋つかさに見られているくらいで、不安がるようなか細い神経をしている坂田つばさではなかった。

 ではなぜ緒方先生に相談したというのだろう?

 その理由は、棚橋つかさと緒方先生の関係に気付いていて、二人が距離を置いている間に、自分が気になっている相手を探りたいという思うがあった。

 それには棚橋つかさの視線が邪魔だった。彼女の視線をごまかすために、緒方先生を利用するというのは、緒方先生の目を逸らすという意味でも一石二鳥の考え方で、

――我ながら、なかなかいい手を考えたものだわ――

 と感じた坂田つばさだった。

 坂田つばさが気になったのは、同じクラスの横山翼という男子生徒だった。

 彼は律儀な性格で曲がったことが大嫌いな正義感を内に秘めたタイプの好青年だった。

 横山翼という生徒は、先生たちからも信頼されていて、生徒先生を含めて彼のことを悪く言う人は誰もいなかった。

 しかし、緒方先生は彼のことをあまり好きではなかった。

――何か胡散臭いところがあるわ――

 と、絶対に他人に言えるはずのない言葉を自分に言い聞かせていた。

 緒方先生が感じたのは、彼の中にある二重人格性だった。

 緒方先生が学生の頃、クラスメイトに彼と同じように、クラス委員をやるほどの誰からも慕われていた生徒がいた。

 彼はいつも笑顔を絶やすことはなかったが、実は陰で自分の妹を苛めていた。しかも、それは異常性欲のよるもので、それが発覚した時は誰もが驚いた。彼に対しての誹謗中傷はかなりのもので、完全に誰もが裏切られたと思った。

 だが、

「人の噂も七十五日」

 という通り、喉元過ぎれば彼に対する誹謗中傷はどんどん減って行き、そのうちに彼への批判をする人は誰もいなくなった。

 誹謗中傷がなくなってから、彼は皆の前から姿を消したが、その時から、彼がいたということすらなかったことのように、誰も彼のことを口にする人はいなかった。

 まるで申し合わせたように誰も口にしなかったが、それが彼の意図したるものだったのかどうか、今では分からない。

 棚橋つかさと緒方先生は、お互いに付き合っていた時期があった。どちらから先に声を掛けたのかというと、最初に声を掛けたのは、意外にも棚橋つかさだった。

 どちらの方が相手をより好きだったのかというと、緒方先生の方だった。最初こそ、

「私は教師なんだ」

 と思い、気持ちを抑えていたが、次第に我慢ができなくなる。

 その様子を棚橋つかさは持ち前の勘の鋭さから感じていたようだ。その感覚の正体まではすぐには分からなかったが、先生に対してゾクッとしたものを感じていたのは間違いない。

――これは絶対に先生の視線だ――

 その視線の先が誰であるが、こちらも最初から分かっていたわけではない。

 その点に関しては緒方先生には天性の才能のようなものがあり、相手に悟られにくい性質を持った視線だったようだ。

 しかし分かってしまうと、今度はその天性の素質が相手にプレッシャーを与える。

――どうしてすぐに気付かなかったのかしら?

 特に勘の鋭い棚橋つかさのような生徒には、すぐそう思わせることだろう。

 棚橋つかさという生徒は、見る人によって、そして角度によって、まったく違った「色」を発するようだ。

 棚橋つかさのそんなイメージを、まわりの人はまるでアジサイのように感じていたかも知れない。だが、アジサイはあくまでも目立つ存在ではない。つまりは、

「目立たないということが、最大の目立つための方法でしかない」

 と言えるのではないだろうか。

 この考え方は矛盾したものではあるが、矛盾しているだけに見えていない力を備えているのかも知れない。次元に対しての考え方で、

「メビウスの輪」

 というものがあるが、これは明らかに矛盾したものだ。

 その矛盾した問題を解決できれば、まったく想像もつかないような無限の力を発揮できるのではないかと、緒方先生は考えたことがあった。

 緒方先生は物理学が好きだった。教師になる時、最初は物理学を志したが、なかなか女性では難しく、どうしても超えられない次元があった。

 普通であれば、もう少し頑張ってみるのだろうが、緒方先生は早々に断念した。その代わり、自己の研究として頑張ってみることは諦めなかった。本を読んだり講演会に積極的に出掛けたりするのは自己の研究に相違ない。それこそ趣味の世界で最大の勉強をしようというものだった。

 緒方先生は物理学を勉強している間に、矛盾ということに興味を持った。

「矛盾には無限の可能性がある」

 というのが持論であり、その考えを誰にも話しをしていないのは、最初はそんな考えが恥かしかった。

 しかし、どこまで行ってもこの考えが変わることはなく、さらにはどんどん増大していった。今では、その考えをハッキリと口にすることができる。声を大にして言いたいくらいだが、それは趣味の世界での行動と反していると思っていた。

「メビウスの輪にしてもそうだが、物理学というのは勉強すれば勉強するほど矛盾に満ちてくる気がする」

 と思っていた。

 実際に、かつてはタブーな考え方だとされてきたことが、今では正論になっていることもたくさんある。それは物理学に限ったことではなく、たとえば歴史やスポーツなどがそうであろう。

 そのどちらも科学の進化という共通点がある。物理学でもそうなのだろうが、物理学と他の学問では明らかに違うと緒方先生は思っているが、それを声を大にすることはできなかった。

 物理学を勉強し、矛盾について考えていくうちに、緒方先生は自分の中にあるものに気付き始めた。それが、

「自分が女性を好きなのかも知れない」

 という思いだった。

 そして、自分が男役であることも自覚するようになってきて、女性を求めるようになっていったのだった。

 学生時代にはその思いを抑えてきたが、教師になると、なぜかその思いが強くなってきた。

 女生徒の制服が眩しく感じられたからだ。

 かつて自分も着ていたであろう学生服。自分に対しては何も感じなかったはずなのに、

――学生時代の自分が現れたら、絶対に我慢できなかったかも知れない――

 と思いながら生徒たちを見ていると、そこに気になる女生徒がいた。

 それが棚橋つかさだったのだ。

 棚橋つかさには、今まで見たことのない矛盾が隠れているような気がした。実際に当の本人である棚橋つかさも気づいていたのだが、

「自分の中にもう一人の他人がいる」

 ということである。

 自分の中にもう一人の自分を感じたことのある人というのはたくさんいるだろう。しかし自分の中にもう一人の他人を感じたことのある人などいないのではないだろうか。

 その思いが表から見ている時に感じた、棚橋つかさの矛盾だった。

 もう一人の他人が、どこかにいる人なのか、それともやはり似ていないだけで、それは自分自身なのか、棚橋つかさも分かっていなかった。しかし。もう一人の他人が自分だった場合、棚橋つかさはイメージが変わってきた。

「自分の前と後ろに鏡を置いて、そして鏡に写っている光景をずっと注視して見ていくと何が見えてくるか」

 ということである。

 そこには、どんどん小さくなってはいくが、自分の姿が前からそして後ろからと、交互に映し出されていく。そして最大の問題は、どんどん小さくなっていくのに、無限に続いていくということである。肉眼で見えるか見えないかは二の次として、無限に見えているというのは、理論的に正しいことなのかと考えさせられてしまう。

 そんな棚橋つかさに、なかなか人が寄ってくることもなかった。

「あの子一体何を考えているのか分からない。いつもぶつぶつ独り言が多いし、言っていることもトンチンカンで、何を言っているのかって思うわね」

 と、まわりは彼女のことをそう言って、遠ざけていたのだ。

 気持ち悪いとまで思われていた棚橋つかさだったが、緒方先生とは気があった。

 緒方先生も今まで誰にも言えなかった考え方をやっといえる人ができたと思い、喜んでいた。棚橋つかさも、先生の存在が今までの自分に何が必要だったのかということを分からせてくれたのだ。

 そう、二人ともお互いのことを分かってくれる人がほしかった。しかも、その相手が矛盾というキーワードで繋がっていることが嬉しかった。

 しかし考えてみれば、二人を結ぶキーワードは矛盾という感覚でしかなく、矛盾をお互いに分かり合えないと、二人はニアミスのまま、

「交わることのない平行線」

 を描いていたに他ならない。

「緒方先生なら私の考えを聞いていただけると思います」

 と言って前後に鏡を置いた時に感じる、

「無限への矛盾」

 について話した。

 しかし、そのためには、棚橋つかさの中にいる、

「もう一人の他人」

 という考えを言わなければいけない。

 棚橋つかさが先生にこの話をする時点で迷ったのは、矛盾という考え方を話すというよりも、自分の中にいるもう一人の他人という思いを分かってもらえるかどうか心配だったからだ。

「自分の中に他人がいると思うから、あなたは鏡を思い浮かべたんだ」

 と、先生は至極当然のことを、感動したかのように話した。

 普通であれば、オーバーリアクションに相手は冷めてしまうのだろうが、棚橋つかさは冷めるどころか、そこに先生の魅力を感じた。

――先生だって、そんなことは百も承知のはずなのに、それでも敢えてオーバーリアクションを取るのは、本当に感動した気持ちからなんじゃないかしら?

 その思いは次第にお互いの分かりにくい部分を透過して見せているように感じられた。

――緒方先生は、もう一人の他人が、自分自身ではないかって分かっているんじゃないかしら?

 と棚橋つかさは感じ、

――この子なら私のこれまでの鬱憤を晴らしてくれる女性になりうる素質が感じられるわ――

 と緒方先生は感じたのだ。

 お互いにこれでもまだ平行線なのだが、棚橋つかさにはそれが一番いい状態であることが分かっていた。

 緒方先生もハッキリとは自覚はしていないが、二人の感覚はほぼ同じで、同じでなければ、声に出していない感覚を、まるでテレパシーのように感じられることなどないに違いない。

(この矛盾が最後のキーワードになるのだが、これはのちほどのお話として、本題に戻ることにいたしましょう)


 棚橋つかさが坂田つばさのことを意識し始めたのは、緒方先生に理由があった。

 緒方先生の異常にも感じられるその視線を浴びていると意識し始めると、誰かに助けを求めたくなってきた。棚橋つかさが今まで求めていた助けてくれる相手は先生だったのに、その先生から逃れるために誰かに頼らないといけないと思うと、そこに今までにはなかった、

「負のスパイラル」

 が潜んでいることを不安に感じていた。

 実際に棚橋つかさはポジティブに物事を考えられる人ではなかった。その思いは今までになかったものを形成している予感がしていた。棚橋つかさにとって緒方先生はまるで、

「必要悪」

 のようなものではないかと思っている。

 先生の存在がなければ今の自分はないのに、先生の存在が今後の自分を負に追いやってしまいかねない存在になっていた。それを思うと棚橋つかさは何を信じていいのか分からなくなり、

――先生とは違う雰囲気の人にとりあえずは頼ろう――

 と思うようになっていた。

 その時に意識し始めたのが、転校生の坂田つばさである。

 彼女には先生とは違う何かがあった。それを棚橋つかさは頼りがいだと思っていた(実際には違うのだが)。

 彼女が転校生であるということも彼に目を付けた理由だった。転校生であれば、今までの自分も、クラスにおける自分の立ち場も、先生との関係も何も知らないだろうからであった。

 その頃の棚橋つかさは、実は先生と一度淫靡な関係になったことがあった。その時の棚橋つばさは、

「もうどうなってもいい」

 というほどまでに精神的に追いつめられていた時だったので、そんな時に絶妙なタイミングで忍び寄ってきた先生を避けることができなかった。

 むしろ積極的に受け入れたと言ってもいいだろう。精神的に弱っている時というのは、頼りがいのある人にもたれかかりたいものなのだと自覚していたが、実際には自分が絶えずそんな相手を求めているということには気付いていなかったのだ。

 先生は棚橋つかさにとってその場しのぎであってもいいと思っていた相手だったのだが、先生の方では、まるで、

「飛んで火にいる夏の虫」

 と思えるほどだったに違いない。

 それだけに先生の中に眠っていた独占欲というものを目覚めさせてしまったのかも知れない。そういう意味では先生の視線は自業自得とも言えなくもないが、背に腹は代えられない。怖いものは怖いのだ。

 一度は委ねたこの身体、一度委ねたことで後悔してしまったことにより、

「これ以上はもう後悔したくない」

 という思いはさらに強くなり、坂田つばさに助けを求めたくなったとしても、それは仕方のないことではないだろうか。

「ねえ、坂田さんは転校してきてからお友達ってできた?」

 明らかに友達がいないことを承知の上で、棚橋つかさは彼にそう言った。

 本当は彼女に頼りたいくせに、自分の方が立場が上であるかのように装うのは、最初から自分の立場が下だと相手に思わせてしまうと、自分までもが立場が下なように感じてしまうからだった。

「ううん、なかなか友達なんてできないよ。最初は僕が転校生で珍しいからなのか話しかけてくれる人も多かったけど、飽きると誰も話しかけてくれない。寂しいものなんだね」

 と彼女は言った。

 本当は、皆が去って行ったのはそんなのが理由ではない。彼に原因がないとは言いきれないが、それよりもクラスの皆に理由がある。

 彼女に言い寄ってきた連中は、友達がいないか、あるいはどこかのグループに所属していて、彼を勧誘するつもりの人であろう。

 友達がいない人は彼にすがる思いで近寄ってくるのだが、他に近寄ってくる人がいると一歩引いてしまう。それは自分が臆病だからというのもあるが、下手に押してしまうといずれ自分が苛めの対象になってしまうのでないかという被害妄想から来ている。

 どこかのグループに所属している人は、話しかける分担を持っている人で、相手は彼でなくても誰でもいいのだ。

 だが、どちらにしても、相性が合わなければどうしようもない。

 友達がいない人はすがる思いがあっただけに、すぐには相性が合わないことに気付かない。しかし、一度気付いてしまうと、もうダメである。自分から身を引くことを気を遣いながら行って、そそくさと去っていく。まるで自分を忘れてほしいとでもいいたげで、その様子は気の弱さを前面に押し出していることであろう。

 グループに所属している人は、相性が合わないと思えばそっけない。相手に気を遣うこともなく、それまで何事もなかったかのように彼から去っている。

 どちらにしても、相手には忘れてほしいという思いを持っているが、その理由には大きな開きがあるのだった。

 棚橋つかさにとっての坂田つばさは。そのどちらでもない。そういう意味では相性が合わなくても関係ない。むしろ相性が合わないくらいの方がお互いの気持ちに立ち入ることを遠慮するだろうから、都合がいいと言えるだろう。

 坂田つばさとしても、彼女の視線を最初は気にもしていなかったが、

「どこか他の人とは違う」

 と思っていた。

 彼は、これまでに何度か引っ越しを繰り返してきている。そのたびに、同じように転校生と言うことで注目を浴びる時期があり、そして皆が去っていく時期があるのも分かっていた。

 そして、その近寄ってきた理由も、離れていった理由も、前述の二つのパターンがあることを理解していた。

 だから、棚橋つかさのような視線は、今までの彼のマニュアルには存在しなかった。それだけに怖いと思ったのだし、先生に相談するのが一番いいと思った。

 棚橋つかさと先生の関係は、坂田つばさには途中から分かっていた。

――一度くらいは何かあったに違いない――

 と感じたのも事実だし、その一度というのが、濡れ場に近いものであることも分かっていた。

 坂田つばさは勘が鋭い方ではないが、自分に対して何かの圧力、今回のような鋭い視線を感じたりした時は、急に勘が鋭くなる。

 それは、自己防衛本能がそうさせるのかも知れないが、そのことを坂田つばさは意識していた。

 動物でも、危険を察知すると、どんなに臆病な性格であっても、必死になるとそれまで見せたことのないような力を発揮するものだ。

「火事場のクソ力」

 というものがあるが、まさにその通りだろう。

「火事になって、それまで腰が曲がって動けなかった老人が、急に腰をしゃんとして、タンスを担いで逃げ出した」

 などという話を聞いたことがある。

 それに昔のアニメで似たようなものが……。(この際、関係のないことであるが)

 坂田つかさは、棚橋つかさの視線を感じていたが次第に金縛りに遭うような気がしてきた。

――思っていたよりも、棚橋つかさという女性の目力って強いようだわ――

 と感じるようになった。

 そのうちに、棚橋つかさのことを先生に相談するのは危険な気がしてきた。

 最初は先生でもいいのかも知れないが、一歩間違うと、前にも後ろにも進めないという、「袋のネズミになってしまう」

 という意識を持ってしまったのだ。

――では誰がいいんだろう?

 と思うと、その時に意識したのが、横山翼だった。

 彼は曲がったことが大嫌いで、律儀なところがある。今までに坂田つばさが出会ったことのないようなタイプの男性だった。

 だからといって、恋愛感情が生まれるわけではない。どちらかというと惚れっぽい性格だと思っている坂田つばさにとって、恋愛感情の外にいる人というのは珍しい。

 しかし、恋愛感情の外にいる人というのは、彼女にとって頼りがいのある人の代名詞になっているようで、頼りがいがあることがどれほどありがたいことなのか、今さらながらに感じた坂田つばさだった。

――彼なら大丈夫――

 と言って、彼の何が大丈夫なのか、漠然とした気持ちでしかない坂田つばさだったが、この感情が実は、

「起こるべくして起こった感情である」

 ということに、気付いていなかったのだ。

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