異次元同一時間

森本 晃次

第1話 小泉氏

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


「のっぺらぼうっていう妖怪がいるっていうけど、お前は信じるかい?」

 急にそんな話をされてビックリしたが、その相手はいつもいきなり奇抜な発想を口にするやつで、友人の少ないこの男には、彼のような少し変わった友人しか、まわりに寄ってこなかった。

 彼の名前は早良次郎。大学二年生だ。友人の名前は小泉俊介。彼も同じ大学で同じ学部の友達。

――きっと、今が一番友達の多い時期なんだろうな――

 と、早良は思っている。

 なぜなら、高校時代まではほとんど友達などおらず、

「大学に入れば、たくさん友達もできるはず」

 と期待していたが、実際にはさほどできるわけではなかった。

「こんなもんだわ。俺の人生なんて」

 と、友達ができなかったことにショックを覚えてはいたが、何とか受け入れようという思いがあった。

 それでも、大学に入学してすぐには、いろいろな人に声を掛けてみたが、思ったような会話が続くわけではなかった。

――俺の方から歩み寄っているのに、どうしてあんなに皆冷めた目で俺を見るんだ?

 と思うようになっていた。

 実際に会話を聞いた人から言わせれば、

「あんなに上から目線だったら、そりゃあ、友達なんかできっこないさ」

 ということだろう。

 しかし本人にはそんな思いはまったくなく、まさか自分が上から目線だなんて思ってもみなかった。きっと、高校時代までほとんど人と会話をした経験がなかったことで何を話していいのか分からず、相手の話に合わせようという思いが強すぎて、相手の話に自分の主観をぶつけすぎたのが原因だろう。いずれそのことに気付くことになるのだろうが、その時点での早良に、そんな理屈が分かるはずなどなかった。

 ただ、大学というところ、想像以上にいろいろな人がいる。中には早良と話が合う人もいたりして、しかも、本人たちの意識していないところで、そんな仲間が自然と知り合うようになっているのだから、世の中というのは面白いものだ。

 大学の講義室を見ていれば一目瞭然。どの教室であっても、講義室に座っている配置は変わらない。別に席が決まっているわけではないのに、同じ人は必ず同じ場所に座っているものだ。だから、競合することもない。自然といつも似た顔がまわりに鎮座しているというわけだ。

 そんな連中なので、友達になることは容易であった。声を掛ければすぐに友達になることができる。相手は待っているのだから。

 つまりは、自分も声を掛けてくれるのを待っていると言ってもいい。本人にその意識はあるはずなのだが、それを認めたくない自分がいることで、なかなか声を掛けることができない人がいるのも事実だった。

 大学一年の時、最初に声を掛けてくれたのが、小泉俊介だった。

 彼が声を掛けてくれたのは、ゴールデンウイークも終わってからだったので、入学してから一か月は経っていただろう。

「いつ、声を掛けようかって思っていたんだ」

 と小泉はいう。

「そうなんだ。でもどうして俺のことなんて?」

「早良君を見ていると、以前の自分を見ているようでね。だから見ていると、声を掛けてほしそうなオーラを感じたんだ」

「じゃあ、俺にそんなオーラがなければ、声を掛けてくれなかったということかい?」

 と聞くと、

「その通りだよ。いくら俺でも声を掛けてもらいたくない相手に声を掛けられるほどのお人好しじゃないからね」

 と、小泉は言った。

 ここでの「お人好し」という言葉が、その場面で適切だったのかどうか分からなかったが、早良の中でその言葉が印象に残ったのは間違いなかった。一見、ぶっきらぼうに聞こえるが、下手に社交辞令で話されるよりもよほどよかったような気がする。この場面での社交辞令は、相手の答えが取ってつけたものに感じられるはずだからである。

 ただ、この時最初に声を掛けてくれたのは小泉だったという事実で、その後、早良は他の人に声を掛けることができなくなった。もし、最初にできた友達に対して、自分の方から声を掛けることができていれば、きっとその後も、たくさんの人に声を掛けることができただろう。

 それが失敗に終わったとしても、次を見るという力が残っているからなのだが、最初に声を掛けられなかったことで、その力を自らで封印してしまったのだ。

 そして封印してしまったのは力だけではない。声を掛けるという勇気すら失ってしまった。

 いや、勇気を失ったわけではない。最初からそんなものはなく、これから自分で身につけていくはずのものだった。それを自分から放棄してしまったのだから、力など存在するわけもない。

 早良が友達の少ないのは自業自得。それは自分でも分かっている。

 しかし、その自業自得がどこから来ているのかは自覚できていなかった。もう少しで理解できるところまで来ているはずなのに、その先には大きな結界があった。それは届きそうで届かない大きな壁。誰にも分からない自分だけにしか分かるはずのない壁だった。

 その壁の存在を知ることのできない早良に、ゆう気など持てるはずもない。勇気が持てないのが理由だとは分かっても、どうして自分にその勇気を持つことができないのかが分からない。要するに、何をしていいのか分からないのだ。

 だから、声を掛けられることだけしか友人を作ることができない。しかも、声を掛けてくれた相手に、不快感を与えることもしょっちゅう。

「声なんか掛けなければよかった」

 と相手に思わせるのがオチ、お互いに気まずい思いをするという最悪の結果にしかなりえなかったのだ。

 それでも、大学というところには、奇人変人はいるもので、早良と話が合う人もいたりした。早良は自分の考えがかなり偏っていることを自覚していた。しかも、考えが急にいろいろと飛んでしまって、収拾がつかなくなることも珍しくない。

 そんな早良と話をしていて、

「やっぱりお前とは話が合うな」

 と言ってくれる人もいた。

 早良にとってそれが至福の時であった。

「そう言ってくれるのはお前だけだよ」

 と言って、ホッとした気分になっていた。

 この言葉は彼の本音でもある。他にも同じようなことを言ってくれる人もいたが、その瞬間には目の前にいるその人だけだ。だから、彼の中では、

――あながち間違ったことは言っていない――

 という自覚があるので、相手にもそれが伝わるのか、お世辞だとは思っておらず、相手もその返答に喜びを感じていた。

 ただ珍しいことに、

「友達の友達は友達だ」

 という言葉は彼には通用しない。

 早良の友達に小泉がいるが、小泉には、早良に他に友人がいるのは分かっているが、どこの誰なのかは知らない。だから、他の友人も、早良の友人に小泉がいると知っている人はいないのではないだろうか。

――こんなことってあるんだろうか?

 自分でも不思議な環境に、最初は戸惑っていた早良だったが、慣れてくると、

――これはこれでいいのかも知れないな――

 と感じるようになっていた。

 そんな時、早良は友達がいなくてもいいように思える時を自分で感じていた。

 それは別に誰かがいてくれるからというわけではない。普通だったら、

「小泉がいてくれれば、他に友人がいなくてもいい」

 と、誰か特定な人を絶対の親友に仕立てて、その人を崇拝することで、他に友人がいないことを正当化しようとする。

 それがいいか悪いかは分からないが、少なくともその時の早良には、

――それはそれで正解だ――

 と思っていたことだろう。

 だが、友達がいなくてもいいと思った理由はそこにあるわけではない。確かに小泉を親友だと思う気持ちはあったが、他に友人がいるいないという問題とは次元が違うものであった。

 親友というものがどういうものなのか考えたこともなかったことが、その時の早良だったのだが、どうして考えなかったのか、後から考えても分からない。だが、不思議だという思いはない。

――それはそれで自然なことだ――

 と言える。

「それはそれで」

 というのは、早良が一人で思う時の口癖のようなもので、投げやりにも見えるが、決してそうではなかった。

 小泉が友達の少ないのは、早良とは少し違っていた。小泉には早良と違って、社交性はある方ではないだろうか。しかし、途中から友達を遮断するようになる。それは敢えて自分から望んだことで、自業自得や勇気などという早良の理由とは異なっていた。

 小泉は、小学校の頃から親の仕事で、転勤を余儀なくされた。そのため、彼も絶えず転校とは切っても切り離せないようになり、気が付けば、一年に一度は転校していた。

 小泉の父親は性格的に、

「頼まれたら嫌とは言えない性格」

 だったのだ。

 子供から見ても一目瞭然なので、会社ではさぞや重宝に扱われていることだろう。そんな父親を見て育った小泉は、知らず知らずに大人を嫌いになっていた。

 最初は人の弱みに付け込む頼む方の大人を毛嫌いしていたが、そのうちに嫌とは言えない父親の方がよほど悪質であるということに気が付いた。

――お父さんが嫌と言えば済むことじゃないか――

 と、大人の世界がそれほど単純ではないということを分かってはいたが、まずは行動に起こさない父親を情けなく感じたのだ。

 最初の頃、どうしてそう思わなかったのか自分でも不思議だった。父親が一言でも嫌だと言えば、状況は変わったと思ったからだ。実際にその時は変わらなくとも、毎回嫌だと言っていれば。まわりも嫌がることを押し付けようとする自分たちが悪者であるかのように感じ、罪悪感に見舞われることになるだろう。状況が大きく変化しなくとも、すべてを押し付けられることはなくなるはずだ。

「人格を否定されたようで、見ているだけでイライラする」

 と小泉は感じた。

「俺はあんな大人には決してならないぞ」

 という思いは、小泉の少年時代における考え方の根本だったのだ。

 もちろん、押し付ける方も悪いに決まっている。しかしそれを跳ね返すことができないことが相手を増長させることにもなる。それを小泉は分かっているつもりだ。

 だから、小泉は最初にそんな大人を嫌いになった。だが、そのうちに自分の父親側から見たことで、父親も嫌いになった。

 父親を嫌いになったからと言って、それまで嫌いだった大人を許したわけではない。余計に嫌いな気持ちは強くなり、さらにその思いが父親への思いに繋がってくる。だから余計に、父親に関わっている大人すべてが嫌いになっていった。

 父親のことをなるべく気にしないようにしておかないと、普段の学校生活も家庭生活もおかしくなってしまう。父親は仕事が忙しく、家にあまりいないのが幸いだった。ただ、それも仕事を押し付けられているからであって、断ることのできない父が一人でかぶってしまっているということである。

「お父さんは何を考えているんだろう?」

 と、気にしていなくても、気が付けば、そう考えていることもある。

 もちろん、その答えが見つかるわけもなく、父親のことを考えてしまった自分に苛立ちを覚えた。

 だが、学校に行くと、不思議と父親のことを考えないで済んでいた。それは、学校にいる時が一番安らぎを感じられる時だということを自覚していたからである。まわりは皆他人で、他人であるということを、肉親に対しての憎しみから感じるなど実に皮肉なことであったが、その思いが幸いして、余計なことを考えないで済んでいた。

 そして、他人といることの気楽さが、子供の頃の小泉の考えの原点となっていた。

 友達がいなかったわけではない。友達と言っても、集団の中の一人というだけで、いつも端の方にいるだけだった。一人でいるのが嫌なわけではないが、隅の方にいることで自分の気配を消すことができ、まわりから期待されることもなければ、押し付けられることもない。ただ、いるだけだった。

 完全に影となっていた。

「影は楽だったよ」

 大学で友達になった早良に、子供の頃のことを聞かれて最初に答えたのが、この返答だった。

「そうだよな。影って楽だよな。でも、俺は影にもなりきれない。勇気がなかったんだ」

 と早良がいうと、

「影に勇気なんかいらないさ。別に何も意識することはない。ただ、気配を消すことだけを考えればいいんだ」

「気配を消すなんて考えたこともない」

「俺も最初に考えた時、できるかどうか分からなかったけど、簡単だった」

「どうするんだい?」

「別人になったつもりで自分のことをずっと見つめるんだよ。そうすると、本当の自分から幽体離脱したみたいな気がしてきて、本当の自分が抜け殻のようになったのを感じるんだよ」

 これが小泉の考え方だった。

 早良にはそんなことが理解できるわけはなかったが、

「うんうん」

 と、頷いて分かったふりをしていた。

 小泉はそんな早良の様子に気付いていたが、何も言わなかった。別に分かってもらおうという気もしなかったからだ。

 小泉は自分が父親に対して反発心を人よりも強く持っているという意識はなかった。

――他の誰もが父親に対して、何らかの不満を持っているんだ――

 と思っていた。

 それは、人それぞれなのだろうが、小泉が抱いている思いと同等か、少し少ないかくらいの気持ちだったので、結構まわりも親に対して憎しみを抱いているものだという思いがあったのだ。

 そのため、学校などで、

「ご両親を大切にしないといけない」

 などと聞かされると、

――何を分かりきったようなことを言っているんだ。しょせん、きれいごとじゃないか――

 と不満を感じていた。

 そして、この不満は自分だけでなく皆だと思っていたのだ。

 だが、誰もそのことに対して不満を洩らす人はいない。それを見ていると、

――まわりの皆も自分の父親と同じじゃないか――

 と感じてきた。

 ただ実際には、一番不満を洩らさなければいけないはずの自分が何も言わないのが一番の罪なくせに、そのことには触れず、まわりばかりを非難する気持ちになっていた。

 そのせいもあってか、まわりを信用できなくなっていた。だから、

「友達などいらない」

 という気持ちになったのであって、自分のことを棚に上げていることなど、まったく気付いていなかった。

 その思いが小泉を一人にさせた。

 実際に友達などいらないと思っている人に友達ができるはずもない。もし友達ができるとすれば、同じように、

「友達などいらない」

 と思っているやつであろう。

 そうなると、矛盾である。矛盾が矛盾を呼んで、まるで禅問答だ。

 だが、そんな小泉も、本当に一番悪いのが自分であるということに気付く時が来る。それは高校生になってからのことだったが、そのことに気付いてしまうと、自己嫌悪がひどくなり、一度自己嫌悪の時期を抜けても、定期的に嫌悪が襲ってくるようになる。

――これって躁鬱症なのかな?

 という自覚が芽生えたが、まさにその通りだった。

 人に相談することもできず、一人で考え込んでいたが、結論が出るはずもない。一人で考えて出すことのできない結論を、他人と考えれば、余計に出すことができないというのも小泉の持論であった。

 小泉の家庭は相変わらずの転校を繰り返している。それでも高校に入学してからは、小泉は一人暮らしを始めた。

 ずっと一人でいたこともあって、一人暮らしにさほどの違和感はなかった。掃除、洗濯、食事の用意、一人でできたからだ。

「別に難しいことじゃない」

 遊びたいとか思わなければ、家事をこなすことはさほどきついとは思わない。

 実際に子供の頃から遊ぶということに関してはあまり興味がなく、

――遊んでいるくらいなら、本を読んだり、勉強している方がいいかも知れないな――

 と思っていた。

 それは、

「人と同じでは嫌だ」

 という考えにいずれが至ることになる小泉の心の中に潜在している思いだった。

 だからこそ、小泉には友達がいなくても、精神的に何ら痛いことはなかったのだ。

 小泉は、いつも自分のことを考えている少年だった。しかし、それを意識しているわけではない。

――絶えず何かを考えている――

 とは感じていたが、それがひいては自分のことだなどとは思っていなかった。

 小泉は、人と同じでは嫌だと思っていたところがあるが、それなのに、自分から表に出るようなことはしなかった。人と同じでは嫌だと思っているのであれば、もっと自分を前面に押し出して、人との違いをアピールするくらいであってしかるべきなのにである。

 それに比べて、早良には自分をアピールしようという思いがあった。勇気はないくせにアピールしようという思いがあるのだから、それは無謀なことで、まわりからは、

「おかしな奴だ」

 と思われてもいた。

 しかし、子供の頃の早良はそんな意識はなかった。まわりから嫌われているという意識はあったが、その理由がどこから来るのか分からなかった。あくまでも自分には勇気がないことで、自分の性格を控えめだと思っていたからだ。

 つまりは、自分で思っているよりも表に出たいという気持ちが強いのか。それとも何も考えずに余計なことを口走ってしまうのかのどちらかであろう。

 いや、実際にはそのどちらでもあった。

 表に出たいと思う気持ちと、何も考えずに余計なことを口走るというのは一見見た目違っているように見えるが、実際には微妙なところで結びついていて、無意識なだけにそれぞれを表に出してしまうのではないだろうか。

 早良が余計なことを言ったという意味で、普段はあまり意識していないが、どうしても気になっているエピソードがあったのは、持病を持っている友達がいたことから始まったことだった。

 あれは中学時代のことだっただろうか。早良は自分では友達だと思っていた三人のグループに属していたが、そのうちの一人が癲癇の発作を持っていた。

 早良はそのことを知らなかったが、他の二人は知っていた。

 ある日、学校の帰りに発作を起こした友達を見て、早良は少しパニクってしまったが、他の二人は冷静で、携帯を使って救急車に連絡を取り、場所も学校を出てからすぐだったこともあって、二人のうちの一人が、学校に連絡をしに行った。

「一体、どうしたんだ?」

 と、早良は戸惑っていたが、冷静な二人を見ていて自分も次第に冷静になっていった。

――二人が冷静なんだから、彼は大丈夫なんだ――

 と思ったからだ。

 しかし、そう思うと今度は急に冷めた気分になってきた。二人があまりにも冷静すぎるからだ。この冷静さは、あらかじめ発作が起きることを予期していなければできないことだ。しかも予期しているだけではダメで、覚悟も必要だったはずだ。

 早良にはそんな覚悟などあるわけもない。何と言っても、事情を知らなかったからだ。

 だが、考えてみると、事情を知っていたからと言って、彼ら二人のように冷静に行動できるだろうか? それを思うと、自分が情けなくなってきた。

 さらに感じたのは、

――どうして自分だけ知らなかったんだろう?

 ということだった。

 二人は知っていたということは、本人から聞いたというよりも、きっと彼の親から話を聞いていて、

「うちの子をお願いね」

 と言われていたことを意味している。

 それなのに、知らなかったのはグループの中で早良一人だけ。グループができてから最後に参加したのが早良だったらそのわけも分かる気がするが、実際には最初からグループの中にいたはずだった。

――じゃあ、俺が知らされていなかっただけなんだ――

 そうやって考えると、発作持ちの友達は必ずもう二人のどちらかと行動を共にしてきた。

 早良と二人きりというのは一度もない。

――ということは、俺は本当に信用されていないんだ――

 ということを思い知らされたことになる。

 確かに、他の二人のように冷静に動けるかと言えば、自信があるわけではない。しかし、ここまで露骨な態度を取られてしまうと、早良としても落ち込んでしまうであろう。

――それにしても、よくあの短時間で、ここまで理解できたものだ――

 と自分での感動した。

 だが、事態は明らかに自分に不利であった。まわりは自分を蚊帳の外に置いて、いつも先を見ているということなのだ。

 早良は冷めた気分になったのと同時に、焦りのようなものを覚えたのかも知れない。

 救急車が来て、彼を救護員が救急車に運ぶ。その間、ほとんど無駄口を聞く人はいない。結博、脈拍、そして彼の状況が記録されながら、彼の状況を他の二人に聞いている。もちろん、早良に誰も訊ねることはなく、貌さえ見る人はいなかった。

――何だこれは――

 早良は完全に置いて行かれたことにショックを受けていた。

 だが、救急員が処置を施して、誰の口を開かなくなった時、すでに彼の発作は落ち着いていて、まわりの言葉を理解できるようになっていた。

「病院でちゃんと診てもらえよ」

 と、早良は一言言った。

 簡易ベッドで横たわっている友達は、

「うん」

 と頷いたが、次の瞬間、まわりから冷たい視線が一斉に飛び込んできたのを感じた。

 まわりからの一斉の視線は初めてのことだったので、完全に戸惑った。

――俺、何かいけないことを言ったのか?

 早良には分かっていない。

 状況はさらに早良に不利であり、

「病院まで付き添ってもらえますか?」

 と救護員が二人に言った。

「ええ、分かりました」

 早良には何も言っていないので、強制的に救急車から降ろされることになった。

 それが定員オーバーのせいなのか、それとも、早良が邪魔だったということなのか、早良には分からなかったが、降りるしかなかった。

 その時のことがどっちだったのか、時間が経ってされに冷静になった早良には、もうどっちでもよかった。

「どうせ、あいつらとはもう友達でも何でもないんだ」

 と思ったからだ。

 それからの早良は、彼らに対して、今まで一緒にいたのがウソのように近づくことはなくなった。また彼らも早良には近づくことはない。

 だが不思議なことに、そのことにぎこちなさや違和感はなかった。本当に最初から何もなかった関係だったというだけにしか見えなかったからだ。

「もったいない時間を過ごしていたようだ」

 と、早良は感じていたが、彼らがどう感じていたのか、知りたいとも思わなかった。

 早良が友達を作らない理由のほとんどが勇気がないからであったが、一度だけ別の理由があるとすればこの時だった。

 この時のエピソードが、友達を作ることへの勇気を持てないことに対して影響を与えたのかどうか分からないが、少なくとも早良には、

「そんなの関係ない」

 と言ってもよかった。

 十年ちょっと前に流行ったギャグを口にして、早良は自分のことに対して、関心を持っていないかのように振る舞っていた。

 それは、友達を作ることに勇気を持てないことと関係があった。ついつい自分が投げやりになってしまうことは、早良にとって友達が少ないことの理由にするにはあまりにも情けないということは分かっているが、どうしようもないことだった。

 投げやりな性格のせいもあってか、早良は自分に甘いところがあった。

 早良は結構いろいろなことに興味を持つ好奇心旺盛な少年だった。

 それは小学生の頃から、大学生になった今でも同じことなのだが、興味は持つが飽きっぽい性格なのか、長続きすることはなかった。

「長続きする必要はないんだ。要はどれだけたくさんのことに興味を持つかということが重要なんだ」

 というのが持論だった。

 だが、本当は一つくらい長続きする趣味と言えるようなものがほしいと思っているのも事実だった。これだけは隠そうとしても隠しきれない思いが早良の中に横たわっているのだが、一歩踏み出すことがどうしてもできないのは、自分に甘いところがあるからではないかと考えていた。

 それも大きな理由なのだろうが、実際には気が散りやすい性格であるというのが直接の理由だった。

 そういう直接の理由がなければ、やりたいことをできないという理由にはならないだろう。それを早良は自覚しておらず、その感覚が早良の中で一番彼を苦しめる結果になっていたのだ。

 小泉は父親への意識からか、友達が少なく、人も基本的に嫌いだった。そんな小泉の気持ちをまわりも察しているのか、小泉に近づいてくる人はほとんどいなかった。

 小泉は小学生低学年の頃は勉強が嫌いだった。算数が理解できなくて、そのせいで他の教科もよく分かっていなかった。学校に行って授業を受けても、授業が終わってしまうと、どんなことを習ったのかすら覚えていなかった。そのうちに宿題が出されたということすらも覚えていないようになり、いつも、

「お前は今日も宿題をやってこなかったのか?」

 と先生に叱られていた。

 本当は、宿題をしたくないからしてこないわけではなく、宿題が出ていたということを忘れてしまっていたのでしてこなかっただけなのだが、それを先生に言うことはやめていた。

――どうせ、言い訳なんだろうと言われるだけだからな――

 と思ったからだ。

 だが、宿題を忘れていたということは、勉強を拒否しているということであり、それは意識以前の問題で、

――生理的に受け付けない――

 ということそのものだったのだ。

「嫌いなことは嫌いだ」

 という小泉の考え方は、この頃から確立されたのかも知れない。

 いや、元々生まれつき持っていたもので、その時に身についたということなのかも知れないが、生理的に受け付けないということが小泉をまわりに、

「分かりやすい性格だ」

 と言わしめた理由ではないだろうか。

 宿題をやらないだけではなく、成績も酷いものだった。算数など零点の時もある。別に無記名での答案というわけではない。それなりに回答はしているのだが、そのすべてが間違っているのだ。

 事情を知らない先生は、

「何でこんな間違いをするんだろう?」

 と感じていたことだろう。

 しかし、小泉にしてみれば、彼なりに理屈の通った間違いだった。

 実は、彼の回答は、そのすべてが一点の勘違いを改めれば、そのすべてが正解であったと言っても過言でない時もあった。すべてがその一点のせいでずれているのだ。だから答案は零点なのであり、少しでも点数があれば、それは統一性に欠ける回答であることから、本当に彼が何も理解できていないということになる。

 つまり小泉は勉強が嫌いではあったが、理解力は相当なものだった。しかし、一つの根本的なことが理解できないだけで、そのことの距離がそのまま平行に間違った感覚になってしまっただけなのだ。

 その根本的な理解というのも、他の人であれば簡単に理解してしかるべき内容だった。というのも、理屈抜きにして受け入れることで理解できることだったのだ。だが、小泉は理解することのすべてに理由を必要とした。そのこだわりが、どうしても彼を理屈抜きでの理解に導くことができなかったのだ。

 小泉にとって、その理解は小学生の頭では無理だった。

「まだ幼い頭だから」

 というわけではなく、

「成長が発展途上だから」

 という理由の方が正しいだろう。

 そんな小泉も小学四年生くらいになった頃か、いきなり覚醒した。それまで理解できなかったことが、頭の中で理解できるようになったのだ。それがどうしてなのか、そしてそのきっかけが何だったのかは自分でも分からない。しかし分かってしまうと、それまで理解できなかったことがすべて瓦解し、積み木が組み立てられていった。

――何だ、こんなに簡単なことだったんだ――

 と、それまでできなかった勉強ができるようになったことが小泉を有頂天にさせた。

 有頂天になった小泉の成績は右肩上がりでうなぎのぼりだった。学校の先生もビックリしていて、

「これなら、有名中学への受験も決して無理ではない」

 と言わしめたほどだ。

 勉強を理解できるようになった小泉は、貪欲に勉強を楽しみたかった。彼にとって中学受験も、

「勉強を楽しむこと」

 の一つであり、進学塾への入学も、あの父親は許してくれた。

「そうか、やる気になったか」

 の一言で決まった。

 言葉は嬉しそうな表現なのだが、本当に喜んでいるのかどうか分かったものではない。

――俺は信用しないぞ――

 と思いながら、貌では満足そうに装っていた。

 親を欺くことが悪いことだとは分かっていたが、

――こんな親なら許される――

 と思うと、欺くための偽の笑顔すら罪悪感を感じることはなかった。

 小泉の中学受験は、彼もまわりも予想通り、無事に入学できた。小泉の気持ちの中に、

「不合格」

 の文字はなかった。

 合格しか思い描いていなかったので、

――もし不合格だったら、どうしよう?

 という思いは、中学に入学してから感じることになった。

 しかし、実際に入学しているのだから、その思いは薄いものだった。そのことから、小学生時代に自分が勉強が嫌いだったということを忘れてしまっているかというほどの有頂天を味わっていたのだ。

 無事に入学した有名中学だったが、本当の挫折を味わうのはそこからだった。しかもその挫折は入学してからすぐに味わうことになる。

――こんな簡単なことにどうして今まで気付かなかったんだろう?

 と感じたほどのことで、陥ってしまうと後悔よりも、さらに強い思いが小泉を支配していた。

 小泉が入学した中学は、全国から受験生が集まってくるような進学校である。当然、最初から学力の水準はずば抜けている。

――俺こそ一番だ――

 と思っているやつが列挙して入学してくるのだ。

 ひょっとすると、学力的には小泉よりも優れている人が入試で落ちているのかも知れない。入試というのは一発勝負。その時の体調などによっても左右されたりするだろう。しかもテストに出題された問題がたまたま勉強を重点的にしていたところだっただけかも知れない。

 もし、これが大人になってからの仕事であれば、そういうすべての要因をひっくるめたところでの成績になるので、別に考える必要もないが、受験というのは運も結構左右したりする。そういう意味で、

――俺はついていただけなのか?

 という考えも成り立つのだった。

 入学してみると、今まで学校では自分が一番、しかもずば抜けているように自分でも感じていたし、学校の先生もそう言っておだてていた。もっとも、このおだてがあったからこそ入学できたと言えなくもない。何しろ小泉という男、自分で意識はしていないが、案外とおだてに弱いタイプであった。

 そんな小泉が入学してすぐに最初の学力テストがあった。

 さすがに小泉もまわりのレベルが今までとは違うことは分かっていたが、

――少なくとも中の上くらいだろう――

 と、思っていた。

 それも自分で謙遜してそう思っていたのだ。本当はもっと上だろうとすら感じていた。だが実際に試験を受けてみると、学年で二百人いるうちの百五十番以内にも入ることができていなかった。

 これはショックだった。

「何で」

 そう呟きたくなるのも当然のことである。

 成績をすべてだと思い、受験勉強を初めてから、何ら抵抗もなく無事に受験を合格で追えたことで、彼は自分の実力を、

――俺が感じている通りだと思えばいいんだ――

 と感じ、それが動かしがたいものだと信じていたにも関わらず、実際に蓋を開けると、ここまで想像とかけ離れていたことに困惑した。

 困惑はやがてパニックに変わり、次第に彼の体調に微妙に影響してきた。

 授業を受けていても、先生の声が急に聞こえなくなってきたり、過呼吸に陥てしまった自分を抑えることができなくなってしまったりしていた。

――どうすればいいんだ?

 小泉はそう考えると、先が見えなくなっていく自分を感じるようになっていった。

 そんな小泉だったが、友達に頼るようなことはしたくなかった。自分が父親の性格を引き継いでいることは、中学生になって痛感したからだ。

――俺は父親が人の言いなりになっているのを見て、その反発心から勉強した。そして念願の中学入試に成功し、さらに高いところに上がったつもりだったが、結局は高いところに上がっても、その水準が上がったために、俺の居場所は底辺になってしまった。このままいけば、父親のように上の人間の言いなりにされるばっかりだ――

 と考えた。

 今までの小学生時代よりもさらに高みを目指したことで行きついた先は、さらに上下関係のハッキリとした場所であり、上に行かなければ、その存在価値すらなくなってしまうように感じられたのだ。

 小泉は、またしても挫折を味わった。

 いや、小学生の頃は挫折ではなかった。あの頃は理解できなかっただけで、一つクリアできると、先が見えていた。しかし、今はまわりは自分よりも優秀な連中で、いくら自分が努力しても、彼らだって努力をするのだから、その差を埋めることはできないと思ったのだ。

 実際にそうだった。

「無駄かも知れないけど」

 と思い、一度は必死になって勉強し、望んだ試験だったが、結局は自分の成績も上がってはいたが、まわりがさらに上がっていたので、ランクからすれば下がったようなものだった。

 小泉は「西遊記」の話を思い出していた。

「俺がこの雲に乗っていけば、天竺なんて一っ跳びだ」

 という孫悟空に、お釈迦さまは黙って孫悟空のやりたいようにさせたが、実際には、孫悟空が、

「世界の果てまで行ってきた」

 と豪語し、自分の名前を記してきたと言った場所は、何とお釈迦様の指だったのだ。

 そう、孫悟空は、お釈迦様の手の平で遊ばれていたのだった。

 その話を思い出すと、

「どんなに努力しても、無駄なものは無駄なんだ」

 と思えてならなかった。

 本当はこの話は、奢れる人を戒める話なのだろうが、小泉はそうは取らなかった。つまりは人間なんて、同じ話を読んでも感じ方ひとつで、まったく違った解釈をしてしまうということだ。

 それは、考え方というよりも、自分の姿勢という方が正解かも知れない。姿勢が違えば、考え方もおのずと違ってくる。そのことをこの時の小泉は分かっていなかった。

 小泉はその頃から内に籠るようになっていた。人と話をすることもなく、学校が終わればすぐに家に帰って、部屋に引き籠っていた。

 ゲームをするわけではなく、ネットを見ては興味のあることを本屋で探して、読書する日々が続いていた。それは勉強の本ではなく、ただの興味だけで読む本だったので、ジャンルはバラバラだった。

 そのせいもあってか、本を読んでもその内容をあまり覚えていることはなく、ただ、興味のあることにだけ邁進するようになっていた。

「先のことなんか考えたって仕方がない」

 という思いからだった。

 最初の頃は実用書のようなものを読んでいた。小説を読んでみようという気になれなかったのは、

「どうせ、小説なんか読んだって、しょせんはフィクション、楽しいことを書いていたって、俺には関係のないことさ」

 という思いが強かったからだ。

 実用書といっても、自分に関係のあるようなことには興味がなかった。科学のことだったり、歴史のことだったり、自分に関係のないことに興味を持って、その本を読み漁った。科学の本は、爆弾だったり兵器だったりの本、歴史は戦国時代や、明治以降の激動の歴史に興味を持った。

――明らかに自分に関係のない話だ――

 という思いの元、本を読んでいた。

 ただ、本を読んで得た知識を、誰かに自慢することはできない。自慢できる友達がいないからだ。

 そのこともあって、せっかく読んで得た知識だったが、すぐに忘れてしまうのだ。覚えようという意識よりも、

「どんどん新しいことを発見したい」

 という意識の方が強いので、新しい本を読み漁ると思っていた。

 自分が読み漁った本が、自分の本棚に並ぶのが嬉しかった。

 本の背を眺めて悦に入ることもあり、その瞬間が快楽の時間でもあった。その頃には何が楽しくて何を自分が欲しているのか分からない時期だったのか、目の前のことだけに集中していればよかったのだ。

 そのうちに小泉は、文庫本にある歴史の本に興味を持った。戦争の本だったが、シュミレーションのようで、実際には史実にはなかった話を面白おかしく書いた話だった。

 登場人物も、登場する国家も架空の存在、しかし、国家も人物も、

「明らかにモデルはいる」

 と思わせる話で、普通であれば考えてはいけないはずの、歴史上にある、

「もしも」

 という発想から作られた話だった。

 最初は、読もうと思うはずもない作品だったので、手を伸ばすこともなかったが、なぜかその日は、その本に目が行ってしまったのだ。

「単純に目が合っただけではないか」

 と言われればそれまでなのだが、小泉にはそれだけではない何かがあったように思えたのだ。

 史実の方は、今まで読んできた本で把握はしている。細かい内容までは覚えていなかったが、大筋では分かっているので、読んでいて違和感はなかった。もし、よく分からないところがあれば、本棚にある本を開けばいいのだし、ネットで検索することだってできた。

 だが、小泉はなるべくネットを利用することはしたくなかった。

「本の中のことは本に解決してもらいたい」

 という小泉独自の考えがあり、一種のこだわりのようなものだった。

 小泉は本を読みながら、

「次はどんな本を読もう」

 と考えることもあった。

 ほとんどのページを読み終えている時で、読みながらでも、

「そろそろ終わりに近づいているんだ」

 と、本の厚みを気にすることなく感じる自然な感覚に陥った時、次に読む本のことを考える時があった。

 これは毎回のことでもない。それに考えたとしても、しばらく考えるようなことではなく、一瞬考えてすぐに違うことが頭を過ぎるような感じだった。

 小泉は歴史小説を読んでいると、

「確かに楽しいんだけど、何か物足りない」

 と感じるようになっていた。

 そこで、今まで敬遠していた小説に手を出してみることにした。ジャンルは何がいいか考えてみたが、やはり初級編としては、ミステリーがいいと感じていた。

 それも、最近のミステリーではなく、昔に書かれた推理小説なるものを読んでみたいと感じた。

「明治後期から、大正、昭和初期の小説なんかいいよな」

 と考えた。

 それは、今とあまりにも時代が違っているのだが、どこか時代錯誤を感じさせない何かがあると思ったからだ。

 それはやはり戦争の歴史を本で読んできたからだろうか。戦争の歴史とミステリーとでは次元が違っているのは明らかだが、それだけに同じ時代で違う次元の話を読んでみるということに興味が湧いたのだ。

 当時のミステリー小説というのは、有名な探偵がいて、その人が事件を次々に解決していくという話が主流だったようだ。

 数人の有名な私立探偵がいて、それぞれまったく違うキャラクターであり、事件解決への道のりも、それぞれだった。

 だが、時代は探偵の数ほどあるわけではない。同じ時代に別々のまったく違った探偵が事件を解決する。それはその探偵のために用意された事件なのか、それとも事件が探偵を選ぶのか、まるで禅問答のようだが、小泉にはそう考えると、大いなる興味が湧いてきたのだ。

「この頃のトリックは、時代が作ったトリックなんだな」

 と感じた。

 小泉が興味を持ったのは、やはり時代背景である。事件の起こる時代背景、そして、登場人物が時代背景を作り、解決する探偵が、時代を証明しているかのように感じると、読んでいて、何が醍醐味なのか分かってきたような気がしたのだ。

 引きこもっている間に、何冊のミステリーを読んだだろう。興味のある作品がは何度も読み返して、今度はそれまでの本のように、内容を忘れたりはしなかった。

「小説って、素晴らしいんだ」

 と、小泉を感動させた。

 自分でも小説を書こうと思うようになったのは、いくつの時だっただろう。ミステリーに嵌ってる時には確かに漠然としてだが、

「小説を書いてみたい」

 という願望はあったはずだ。

 しかしすぐに、

「俺に小説なんか書けるはずないよな」

 と、自己を納得させようとする自分がいることに気が付いた。

 無謀なことへの挑戦を諦めさせるために自らが説得するというのは、結構難しいことだ。何しろ、自分でも無謀だと分かっていることを説得しようとしている自分も分かっているからで、挑戦しようとしている自分にも無謀なことくらい分かっていて、それでもやってみたいと考えるのは、それなりに何かがあるからだろう。

 そこに自信めいたものが少しでもあれば分かる気がするが、説得する方にはどう見ても自信のようなものがあるようにはとても思えなかった。それを思うと説得が難しいことを分かっているのだった。

 だが、幸いなことに、無謀なことを考えるわりに、諦めも悪い方ではなかった。

――どうせ無理なんだ――

 この考えが最初から頭の根底にあり、だからこそ無謀だと思うのであって、逆に諦めが悪くなかったら。無謀などということを考えないだろう。

 無謀だと考えないからこそ、諦めが悪いのであって……、要するにこの議論は、堂々巡りを繰り返すだけだった。

 気が付けば、小説を書くことを諦めていた。

「こんなトリック、俺に思いつけるはずもない」

 というのが本音で、まだその頃はミステリーというと、トリック中心に見ているところがあった小泉だった。

 だが、ミステリーを読み漁ってくると、

「トリックというものが、ストーリーの合間に絶妙に嵌りこんでいるから完成されたものになるのであって、ストーリーの充実がなければトリックも生きない」

 ということに気が付いたのは、中学二年生の頃だっただろう。

「読めば読むほどミステリーは分からなくなる」

 と、小泉は思っていたが、それでも同じ小説を何度も読み返していた。

 一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、小説というものは、読めば読むほどストーリーに引きこまれていくものだった。

 ミステリーと言っても、人間物語が小説である。動機という形でミステリーには感情が含まれてくるが、ミステリーの中には、動機云々よりも人間関係を重視している話を書く作家もいた。

 彼の作風は、読者には、

「どこに動機があるんだ?」

 ということを考えさせるもので、結局最後までその動機については分からない。

 最後まで行ってやっとその動機が分かるのだが、分かった動機がストーリーの幹を構成しているわけではない。あくまでも枝葉であって、読んでいる人を引きこむところではない。

 しかし、人間関係だけは忠実に描かれていた。ミステリーともなると、人間関係の複雑さは必須と言ってもいいだろう。下手をすると、煩雑になりかねない。しかし、彼の作品ではどんなに人間関係が複雑でも、読者に分かりやすく丁寧に書かれている。動機がクローズアップされないのもそれが原因ではないかと小泉は考えていた。

「ミステリーなんて、子供が読む本だ」

 という大人もいるが、小泉は決してそうは思わない。

「ミステリーほど人間関係の複雑さを奥深く書けるものはない。恋愛小説などではどうしても偏った人間関係を描くことで、描写がグロテスクになってしまったりするものもあるが、俺はそんな小説は好んで読んだりしない」

 と思っていた。

 ミステリーの中にいる探偵に、自分を重ねて読むこともあった。探偵にはいろいろな種類がいるので、自分と似ていると思える人もいれば、かけ離れていると思う人もいる。しかし不思議なことに自分がよく分かるのは、自分とはかけ離れた性格に見える探偵の考え方だった。

 それもミステリーを何度も読み返しているうちに分かってきた。

――そうか、皆探偵というのは裏の顔を持っているんだ――

 という感覚だった。

 だが、その裏の顔というのは、ストーリー上隠れている顔だということで、実際にはその人の本性ではないかと思えてきた。そう思うと、自分とはかけ離れた性格だと思っている人の気持ちが分かるというのも納得できるというものだ。

「やっぱり、読み返してみないと分からないことも多いんだな」

 と言わざる負えない小泉だった。

 だが、それでも小泉は自分がミステリーを書くことができないということは分かっていた。

「何か他のジャンルも読んでみたいな」

 と、小泉はどのジャンルを読んでみるか考えてみた。

 そして小泉が選んだ小説のジャンルは、

「恋愛モノ」

 だったのだ。

 恋愛小説というと、純愛小説もあれば、ドロドロとした愛欲ものもある。どちらも恋愛小説として一括りにすることは小泉には合点の行かないことではあったが、とりあえず、純愛モノから読んでみることにした。

 純愛モノは読んでいてこそばい感覚があったが、読み進んでいくと、

「あれ?」

 と感じるものもあった。

 何か違和感があるのだが、最初はそれが何なのかよく分からなかった。何冊か純愛モノを読んでみたがやはり、その違和感が消えることはなかった。ワクワクする感覚があるくせに、どこかゾクッとする気持ち悪さも感じられた。

「そんなにかしこまった小説というわけでもないのに」

 と、ミステリーで感じることのなかったこの違和感を持ったまま、小泉は愛欲の方も読んでみることにした。

 愛欲というと、不倫であったり、嫉妬が絡むもの、さらには愛憎が嵩じて、相手に嫌がらせを行うことで、主人公がどんどん自分を嫌いになるという話が多かったりした。

 最初から覚悟して読んでいたので、愛欲モノに関しては、違和感があるわけではなかった。しかし、違和感がないかわりに言い知れぬ後悔が頭の中にあった。

――読まなければよかった――

 覚悟はしていたが、やはり感じないわけにはいかない感情だった。

 愛欲ものも後悔に襲われながら、何度も読み返してみたし、数冊を読んでもみた。そのうちに

――どこかで感じた感情だ――

 と感じたが、それが純愛の時に感じた違和感であることに気付くまでには少し時間が掛かった。

 その時間が掛かったというのは、何冊も読みこむ必要があったからというわけではない。「単純に時間が必要だった」

 ということである。

 小泉は今度は純愛小説と、愛欲小説を交互に読んでみることにした。読み比べるという意識よりも、違和感が同じものなのかどうかを知りたいという思いからの考えだった。

 本当はそれまでの小泉の考えでは、純愛小説と愛欲小説を交互に読んでみるなどという発想はありえなかったはずだ。

――何が小泉を変えたというのか?

 と、少し大げさではあるが、それほど小泉にしては思い切ったことであった。

 実際に読み比べてみると、

「あまり変わりないんじゃないか?」

 という考えも頭を擡げてきた。

 純愛と言っても嫉妬や妬みからの感情が表に出てくることもあるし、愛欲と言っても、元々は純愛から始まった話だったりするものもある。境界線があるとすれば、それは出版する側の事情ではないかと思えるくらいであった。

 読み手からすると、

「出版する側が垣根を設けてきたんだから、純愛と愛欲とは違ったジャンルなんだろうな」

 という考えを持つだけのことだった。

 そう思ってそれぞれを読み比べると、それほど恋愛小説に関しての違和感がなくなってきた。

「ひょっとすると、俺にも書けるかも知れないな」

 と感じた。

 ミステリーでは考えもつかなかったことだったので、小泉にも不思議だった。

「それだけ小説というのは、奥が深いものなんだな」

 と感じた。

「恋愛小説なら、書けるかも知れない」

 恋愛経験どころか、友達もいない小泉に、恋愛小説など本当に書けるのか、もしこれが他の人の言葉だったら、

「そんなのできるはずないじゃないか」

 と言ったに違いない。

 だが、小泉は自分に恋愛経験がないからこそ書けるのではないかと思った。何経験がないと小説を書けないという理屈はないではないか。人の小説を読んで、自分で感じたことを表現するのも立派な表現だと思った。

 ただ、真似をするのは嫌だった。元々人と同じでは嫌だという意識があった小泉には、人の真似をすることほど嫌なことはなかった。だが、小説を書くのは真似ではない。経験から書く方がよほど真似ではないかと思えた。

「小説って想像力なんだ」

 と思っている。

 つまり読んでいるだけで想像力が逞しくなり、書けるようになるのであれば、それは自分の才能に他ならないと思ったからだ。

 小泉はさっそく恋愛小説に取りかかることにした。

 実際に、

「いざ、書こう」

 と思ってかしこまってみると、意外と書けるものではない。

 机に座って、原稿用紙を目の前にして、まるで明治の文豪気取りで書こうと思っていたが、思い浮かぶ言葉がなかったのだ。

 ふと、本棚に並んでいる本を手に取って読んでみた。

「なんて、スムーズな書き出しなんだ」

 最初に読んだ時には感じることのなかった感覚だったが、いざ自分が書こうと思うと、それだけプロの書いた作品が、自分とは次元の違うものだということを思い知らされた気がする。

――こんなつもりじゃなかったのに――

 と、小説を書いていて、今まで読んできた本をどれほど漠然と読んでいたのかを思い知らされた気がした。

 だが、それも悪いことではない。ただ、これ以上プロの作品を読んでいると、自分が目指すものを見失ってしまうような気がしてきた。あくまでも自分は素人、プロになれるわけもなく、思ったことを書くだけでよいのだ。それを考えると気は楽になったが、どこを目指すのかくらいは分かっていないと書けないのだということは自覚できるようになっていた。

 目指すところは、一気に駆け上がる必要はない。何段階にも目標があって、そこに到達すれば、次を目指せばいいのだ。まずは少しでも書けるようになることが先決なのだが、一番難しいことではないかと思えてきた。

――少しでも書けるって、どの程度なんだろう?

 原稿用紙一枚単位なのか、それとも一場面程度のものなのか、それとも、章にできるほどの分量なのか、その問題があった。

 それには、きっと全体の量がどれほどなのかを最初に予定しておかないとできることではない。小泉には、それが難しいことに思えた。

 一場面程度を書こうとすると、二、三行で終わってしまう。しかし、本などでは、数ページ必要だったりする。本で数ページというと、原稿用紙でいえば、少なくとも五枚以上書かなければならないだろう。そう思うと、その時の自分の技量が小説を書くなどということに対してどれほそ無謀なことだったのかを、さらに思い知らされる結果になっていたのだ。

 小泉は、分量を最初に考えるのはいけないことではないかと思うようになっていた。

――とりあえず、思ったことを書き綴っていこう――

 と思った。

 頭に思い浮かぶことを書いていくと、どうしてもすぐに終わってしまう。自分の書いた小説と、プロの作品を読み直してみると、明らかに違うのだが最初は何が違うのかということすら分からなかった。

「そうか、描写がないんだ」

 ただ思い浮かんだことだけを書いていると、見えていることしか書くことができない。

 想像は具体的なことは何も写してくれない。たとえば色にしても、まったくついていないのだ。もしこれがミステリーだったとして、殺害現場での想像であったとしても、血の色は黒でしかない。

 だが、殺害現場を思い浮かべてみると、モノクロの方がリアルな感じがするのはなぜだろう?

 血の色は真っ黒なのだが、赤い色よりも気持ち悪さを感じる。

「そうだ。俺が好きだったミステリーは、明治から昭和初期の映像のない、あるいは、残っていたとしてもモノクロの時代のもののはずだ。小説を読んでいる時想像した風景は、まさにモノクロの世界。時代背景も違和感がなく、しかも想像がリアルだったこともあって、俺はミステリーに嵌ったんだ」

 ということを思い出していた。

 そう思うと、恋愛小説の場面もモノクロで書いてみようと思った。

 ただ、色は勝手な想像でつけていた。服の色や時間帯など、どうしても色が必要な場面があったからだ。

「そっか、描写ってそういうことなんだ」

 逆にモノクロを想像すると、色を表現することだったり、時間帯や登場人物の紹介であったりと、描写にはいくつもの種類があることに気が付いた。

 確かに、プロの書いた小説ではそのあたりが表現されている。

「分かっていたはずなのに」

 と思ったが、小泉は先を読み急ぐくせがあったので、描写に関しては適当に読んでいたようだ。

 それでも、ボリュームは感じていた。だからこそ、違和感もなく読みこめたのだ。自分の作品とを読み比べて、そんな基本的なことに気付かなかったのも自分の技量のなさだけではなく、それだけプロの作品に、読者をさりげなく引きこむ力があるかということを示していたのだ。

「俺にはここまでの作品は書けないな」

 と感じたが、別にプロになりたいわけでもなく、ただ趣味として時間を使いたいだけなので、別に問題はないと思われた。

 小泉はそれからほどなくして小説を書くことができるようになった。

 恋愛小説と言っても、学生の恋愛でしかない、

「子供の恋愛」

 だった。

 だが、小泉の頭には小説を読んで培われた、

「大人の小説」

 のノウハウのようなものがあった。

 それを混同してしまうと収拾が付かなくなるが、うまく組み合わせるような形で書けるようになった。そのうちに、それぞれの恋愛を登場人物を変えて描いてみたり、さらには同じ人物が時代を超えて恋愛を繰り返す形のものも描けるようになった。

 そして、今度はタイムスリップする話を書こうと思うようになった。恋愛小説に、SFを絡ませる形だが、今まで書いた小説の中には恋愛小説の中にミステリーを搦めるものもあったりして、却って恋愛だけの小説というのは、

「俺には書けないのかも知れないな」

 と思うようになっていた。

 中学時代の小泉は、学校の勉強もそっちのけで、小説に没頭するようになっていた。

 家族も小泉が勉強もせずに小説を書き続けていることを知らない。

「あんな家族になんか、知られたくない」

 そう思うようになって、自分が親と本当に違う性格であるということを自覚し、嬉しくなっていた。

 父親が何を考えて毎日を過ごしているのかなんて、知る由もなかった。もちろん、知りたいとは思わないし、そもそも話をしたいなどと思うはずもなかった。

 だが、父親の方は、小泉と話をしたいとずっと思っていたようだ。

 小泉は知らなかったが、父親の方では、小泉が自分と性格が似ていると感じていたようである。そのことを知ったのは、中学三年生の頃で、いきなりだった。

 小泉の学校は中高一貫教育だったので、高校入試はなかった。落第さえしなければ、普通に進級するのと同じで、高校に入学できる。それだけに高校生になったという自覚はあまりなく、校舎も同じなので、まったく実感が湧かないのだ。

 中学三年生の頃の小泉は、小説をそれなりに書けるようになったと思っていた。書く量も少しずつ増えていき、短編ばかりではあったが、この一年間で、百作品近くは書いていた。

「俺もこんなに書けるようになったんだ」

 と、自らを褒めてやりたかった。

 そんな気持ちになったのは、生まれて初めてだったと思う。勉強ができるようになった時の快感とは違うものだが、どちらが嬉しいかと聞かれると、

「喜びの次元が違う」

 としか答えようがなかっただろう。

 小説を書くようになってから、テレビドラマも気にして見るようになった。部屋に籠ってテレビを見るのは、ゲームをするのと違って目的のための手段としてのことなので、

「他の人とは違う」

 という自分の意識にそぐわないことはなかった。

 テレビドラマを見ていると、最初の頃は何でも見るようにしていたが、そのうちに見る者が偏ってくるのを感じた。

 恋愛モノでも愛欲関係はあまり見ないようになり、シリアスモノの中でもミステリー関係としては、警察関係モノは見ないが、検事や弁護士関係、あるいは探偵モノは見るようにしていた。

 同じミステリーでも、警察関係は組織という一括りをテーマにしたものが多く、検事、弁護士関係は、事件そのものや人間関係に重きを置いたものが多かった。探偵モノはその中でもコミカルなものも多く、さらにはトリックの斬新さがまだ中学生だった小泉の心を捉えたのだ。

「シリアスやドロドロした話よりも、コミカルだったり、人間模様を描いた作品が見ていて興味が湧く」

 と感じたのだ。

 実際に自分で描く小説も、シリアスな小説は書けないと思っていた。書いていて気持ちが重くなったりしてくると、先が書けなくなるからだった。それに比べてコミカルなものや人間関係を想像して描くと、少々自分の偏見が入っていたとしても十分に読むことができると考えたからだ。

 ドラマの中には学園ドラマもあった。

 最初は敬遠していたが、途中から見るようになった。

 敬遠していた理由は、

「そんなの理想論だ」

 と感じたからだ。

 学園モノというと、一人の教師が主人公で、学園がエリート養成学校のような厳しい校風だったり、先生がそんな学風の中で黙って従っている状況。そして、そんな先生たちこそ、個性が最悪な人たちだったりする。

 変態教師がいたり、暴力教師がいたり、

「長いものには巻かれる」

 という先生がいたりと、偏った先生が多い。

 生徒はというと、そんな学校の言いなりになっている生徒がほとんどで、一部の不良は学校に来なくなり、非行に走るというワンパターンな状況。

 そんな学園に一人の先生がやってくる。たいていは校長先生が独断で雇ったりするパターンなのだろうが、とにかくやってきた先生は熱血先生か、あるいは破天荒な先生で、ハチャメチャしながら、学校を変えていくというストーリーだ。

 客観的に見ていれば、痛快な作品なのだろうが、学生の立場から見ると、

「そんな都合のいい話、あるわけない」

 と思うのがオチだろう。

 小泉も、今までに似たようなドラマを見てきた。小学生の頃は面白く見ていたが、中学生になると、次第に見なくなってきた。やはり、都合のいい話を痛感してきたからに違いない。

 だが、そんな学園ドラマも、録画して何度も見ていると、次第に違和感がなくなってきた。それは他のドラマも同じことで、何度も見ているうちに時間を忘れて楽しくなってきたのだ。

 それでも、警察関係モノだったり、愛欲関係のドラマを見る気にはなれなかった。性格的に受け付けないと自分で分かっているのだろう。

「大人の世界の汚い部分」

 という思いが強くあり、見る気にはなれないのだろう。

 学園ドラマは自分の小説にはならないと思っているので、単純に見るだけで楽しむことができる。やはり自分の小説は、純愛モノやミステリーに近いものが書ければいいと考えていた。

 ただ、学園ドラマでも見ていると、そこに出てくる女の子で気になる子が一つのドラマに一人か二人はいるものだ。

「あんな子と付き合えたらいいのにな」

 と漠然と考えるが、考えるのは漠然としたところまでだった。

「付き合えるとしたら?」

 というところに踏み込んでくると、自分の頭では思い浮かんでこない。

 自分を客観的に見れば、付き合っている二人を見ることができると思っていたが、どうもそう簡単にはいかないようだ。

 であれば、登場人物を自分に重ねるように描けばいいのだが、あまり近づけすぎるとせっかく客観的に見ているのに見ている様子がぼやけてしまう。

「それでも、自分であってほしい」

 という思いはあり、どうすればいいのか考えていたが、ある日、思い浮かんだことがあった。

「そうだ、シルエットのように考えればいいんだ」

 それは、昔小学生の頃に学校の講堂で見た人形劇に似ていた。

 その人形劇は影絵のようなイメージで、シルエットが印象的だったのを覚えている。だが、印象的ではあったが、小泉は影絵の人形劇が気に入っていたわけではない。むしろ嫌いだった。

 それなのに、どうして影絵を思い出したのかというと、

「客観的という発想を思い浮かんだ時、最初に感じたのが影絵のシルエットだったのだが、その時は、昔のイメージから敬遠していた自分が表に出ていて、すぐに頭の中で打ち消したんだ」

 ということが分かったからだ。

 少し時間が経ってから考えてみると、影絵は決して嫌なものではなかった。昔嫌なイメージがあったのは、怖かったというイメージがあったからで、薄暗い光の中に浮かびあがる影はまわりの明るさをさらに薄いものにしようとしているように思えたからであったが、後から思い出すと、まわりの明るさが暗かったのは、影がまわりにもたらしたイメージではなく、あくまでも客観的にまわりを見せるための演出だったと考えれば、不気味な雰囲気にも納得がいくというものだった。

 小泉は、人形劇のシルエットを思い出すことで、自分が小説を書けるようになったのではないかという思いを持った。実際にはもっと前から書けていたはずなのだが、なぜそんな感覚になったのかというと、きっと人形劇のシルエットが、小説を書いている時の小泉に何かを訴えていたのかも知れない。

――ひょっとすると、シルエットがすべて自分に見えているような錯覚に陥っていたなどということがあるのか?

 と感じたほどだった。

 小泉はもう一つ気になっていたことだったのだが、

「どうして、あんなに背景が中途半端な明るさなんだろう?」

 という思いだった。

 確かに背景が明るいと、目がどうにかなってしまう可能性があるというのが直接の理由なのだろうが、それ以外にも何かあるような気がして仕方がなかった。

 小泉は影絵を今は実際に見ることはないので、昔の記憶を呼び起こしながら想像を膨らませていたが、急に何かに思いついたように感じると、思わず吹き出してしまう自分に気がついた。

「そっか、そういうことか」

 一人で納得していたが、この発見は、最近にはない思い切った発見だと感じ、その重大さのわりに、自分としての感動が少ないことに吹き出しそうになったのだった。

 影絵をいうのは、影である。当たり前のことであるが、分かっているのに、それを認めたくないと思っている自分がいた。それは影絵が作る不気味さから来るものなのだが、その不気味さは影だけではない。背景の中途半端な明るさにも原因があった。どちらもそろわなければ気持ち悪いと感じることはないだろう。

 そこまで考えてみると、自分が影だけではなく背景も含めたところで全体を見渡していることに気が付いた。ただそれは当たり前のことであり、誰もが同じ見方をすることだろう。

 しかし、影絵だけに集中して見ていると、一つのことに気が付く。

「そうだ、影絵自体が影なんだ」

 つまりは、影絵が作り出すはずの影が存在してしまうと、影絵とその影との境界線が分からなくなってしまい、本来の影絵の役割が果たせなくなってしまうことだろう。

「だから、まわりが薄暗いんだ」

 薄暗いことで、影を作り出す光の調度をはぐらかしている。

 それが、まわりを薄暗くさせている正体なのだ。そう思ったが、

「本当にそう思ってまわりを暗くしていたんだろうか? あくまでもケガの功名なだけではないか?」

 と思えた。

 確かにそうである。だが、ケガの功名とはいえ、事なきを得た上に、人に悟られることなくその効力をいかんなく発揮しているのだから、これは素晴らしいと言ってもいいだろう。

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