感情の正体

森本 晃次

第1話 受け身

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


 最近の世の中は、相変わらず暗いニュースばかりが新聞や雑誌を賑わせていた。政治の世界しかり、社会問題もしかり、コメンテーターは引っ張りだこだった。

 世の中というのは、何がどうなって成り立っているのか、誰もそんなことを考えたりはしないだろう。有識者だったり、大学の偉い先生は考えたりはするのだろうが、

――どうせ結論なんかでやしない――

 と思うのか、インタビュアーの聞き手も忖度してなかなか聞くことをしない。

 それでもたまに聞く空気の読めないアナウンサーもいて、答えに苦慮する先生を見ていると、どこか滑稽に思えてくる。

 まだまだ寒さの残る三月下旬、世の中は四月の新学期に向けて、ゆっくりと準備が進んでいるかのように見えた。そういえば、暦の三月が四月になっただけで、急に暖かく感じられるのはどうしてなのだろう?

 朝の通勤電車も、三月までは車内はまばらだったのに、急に四月になると、人が増えてくる。しかも若い人が増えたような気がする。若い連中はまわりの雰囲気を感じることなく、車内を我が者顔で、奇声を上げるかのように大声で話をしている。だが、そんな風景も最初の三日ほどで、その次からは、いつものような電車内の風景が戻ってきた。

 それまで騒いでいた連中も、ウソのように黙りこくり、おのおのでスマホや携帯の画面を食い入るように眺めている。

――あれが昨日までの騒がしかった連中なのか?

 と思うほどで、その雰囲気は一気に年を取ったかのようで、すでに三十歳を超えているくらいに見えていた。

 今年、三十五歳になる工藤正樹は、そんな新入社員の時期を何度となく見てきた。そのほとんどはあまり変わってしないのだろうが、やはりスマホに目を落としている人がほとんどであるのは、何度見ても閉口してしまう。

 騒がしい時期も少しずつ短くなっていた。

 正樹が新入社員の頃は、一週間くらいは電車の中が騒がしかったものだが、今ではその半分くらいである。

――それにしても、よくここまで変貌できるな――

 と思うほど、それまで騒がしかった連中が完全におとなしくなるのだから、スマホの威力というのはかなりなものなのだろう。

 正樹は自分ではスマホを持っていない。会社で使うことはあったが、自分で持っている意味がないと思ったからだ。それも毎日のようにスマホに目を落としている連中を集団で見ていると、自分も同じ仲間だということを認めたくない気持ちになるのも無理もないことだろう。

 スマホを見ない習慣は、まわりに影響されたくないという思いが一番強い。実際には面倒臭がり屋だというのも理由にはあるが、それよりも、

――皆と同じでは嫌だ――

 と思う方は強く、自分が天邪鬼だとも思っていた。

 子供の頃から友達は少なく、友達がいた時代は大学時代だけだった。しかも友達と言っても、挨拶を交わすくらいのもので、こちらが思っているよりも、相手は何も思っていなかったに違いない。

 実際に何か困ったことがあって、相談に乗ってもらったが、それが金銭的なことだと相手が察した時、急に冷たくなった。

 それでも、何とかしがみつこうと、

「友達じゃないか」

 というと、相手は黙って一度顔を下げると、何かを考えていたが、急に顔を上げると今度は上から目線になり、何も言わずに威嚇された。

「何だよ」

 というと、

「友達だって思ってるのは、お前だけだ」

 と言って、その場をすぐに立ち去った。

 さすがにショックだったが、ショックよりも腹が立った。何に腹が立ったと言って、言われたことに腹が立ったわけではなく、実際には友達だなんてこっちだって思っているわけではなかったのに、その気持ちを押し殺して、

「友達じゃないか」

 と言ったのに、それを相手に簡単にいなされてしまったことだ。

――こんな気持ちになるのなら、言わなければよかった――

 という思いに至った自分に腹が立ったのだ。

 それ以来、正樹は友達を作ろうとは思わなかった。就職活動をしている時も、仲間ができたが、あくまでも就職活動という目的のためだけにつるんでいるだけで、友達という枠に囚われないようにしていた。

――そもそも友達って何なんだ?

 と自分に問うてみたが、答えが返ってくるはずもなかった。

 分からないものをわざわざ作ることはないだろう。どうせ困った時にも助けてくれるわけでもない。それなら一人の方が気楽というものだ。

 学生時代も、大学生になるまでは、友達など一人もいなかった。だが、唯一友達がいたとするならば、小学生の六年生の時だったか、自分からではなく、相手の方から、

「友達になろうよ」

 と言ってくれたのだ。

 そんなことを言われたのは、今も昔もその時限り、嬉しかったのは正直な気持ちだった。

 だが、小学校を卒業すると、その友達とは疎遠になった。同じ中学に進んだのだが、中学に進学した途端、友達は他に友達ができてしまって、正樹のところに来ることはなかった。

――しょせん、友達のできないやつが、俺なら友達になれると思って近づいてくるだけなんだ――

 とその時に感じた。

 それなのに、大学に進学した途端、急に友達がほしくなったのは、高校時代までの暗かったまわりの雰囲気が一変してしまったことで感じたことだった。柄にもなく、

――今なら友達ができるかも知れない――

 と感じ、実際に友達になってくれる人もたくさんいた。

 それを、

――俺は大学に入って変わったんだ――

 と感じたことで、増えていく友達に違和感を感じることはなかった。

 だが、実際には友達は増えていった。自分から声を掛けることもあったし、相手から声を掛けてくることもあった。

――俺の人生、捨てたものでもないな――

 と感じた。

 その途端、自分の今までの人生が間違っていたかのような錯覚に陥った。大学に入学したことで、そのすべてをリセットできると思ったのだ。

――リセット――

 その言葉に正樹は自分の中で考えることへの躊躇が感じられた。

――何か躊躇するエピソードがあったはずなのに、それが何だったのか、思い出せない――

 と感じた。

 正樹は時々、急に物忘れが激しくなることがあった。

――あれ? さっきまで何かを考えていたはずなのに、何を考えていたんだろう?

 という思いである。

 正樹は大学に入ってどんどんできる友達に違和感を感じることはなかった。まるで増殖するかのように増えていく友達の数を、まるで当たり前のことのように受け止めていたのだ。

――これが俺の本当の姿なんだ――

 と感じることで、ここからが自分の人生、やることなすことに正当性が感じられ、人から何かを言われても、

――すべてこの口が説明してやる――

 とまで感じていた。

 実際に、大学時代は絶えず何かを考えていたように思う。絶えることなく続く考えに、――そのすべてに辻褄が合っているからだ――

 と感じていたのだが、その信憑性は曖昧だった。

 大学を卒業し、就職した時も、初々しいスーツでの入社式に臨んだ時の自分を思い出すだけで、ウキウキしてきた。

 しかし、就職に関しては、希望よりも不安の方がはるかに強かった。アルバイトでは働いたことはあっても、実際に社員として働くのは初めてだからだ。特に上司と呼ばれる人から命令されて、嫌なことでもしなければいけない時もあると聞かされてから、しばらく憂鬱になっていたものだった。

 確かに自分も新入社員として浮かれた気分になっていたのは、最初の数日だったという意識はある。それなのに、あれだけ騒いでいた連中がすぐに冷めてしまったのを見て、こんなに情けない気分になるというのは、

――自分のことではなく他人のことだからではないか?

 と思うようになっていた。

 本来なら反対なのだろうが、何しろ天邪鬼の正樹である。人と反対のことを考えている時の自分が一番自分らしいと思っているので、他人事も自分のことのように思えるのだろう。

 逆に言えばむろ自分のことの方が他人事に見えてくるのかも知れない。正樹は自分の感覚が次第にマヒして行っていることに気付いてはいなかった。

 物忘れが激しいのは、このマヒする感覚のせいなのかも知れない。

 感覚がマヒしてくるのは、身体の感覚がマヒしてくるのと違って、自覚症状が薄いものだ。

 感情の感覚がマヒしてきていると感じる時は、ほとんどの場合、すでに末期になっているのではないかと思う。感じた時には、もうどうすることもできないところまで来ていて、ここまで来ているのであれば、

――感じたりしなければよかった――

 と思うのだが、後の祭りである。

 新入社員としての、いわゆる「五月病」は、正樹には他の人よりも結構早く来たようだ。

五月などまだまだ先だと思うほど早かった。実際には入社から二週間も経たないうちにやってきたのだ。

 先輩社員から、

「苦しいかも知れないけど、一人で切り抜けるしかないからな」

 と言われたが、それはアドバイスなのに、アドバイスに聞こえない時点で、すでに感覚はマヒしていたと言えるのだ。

「俺は、五月になってから五月病に陥る連中には、こんなことは言わない」

 とその先輩社員は言った。

「どうしてですか?」

「それは俺も同じだったからさ。俺も入社してすぐに自分でもどうすることもできない鬱状態に陥ってしまって、どうすればいいのか、途方に暮れていたのさ。俺は五月病なんて言葉自体知らなかったくらいだからな」

 と言って笑った。

 その様子を見る限り、明らかに能天気な人だった。

――そんな先輩と同じくらいに鬱状態になるなんて、じゃあ、俺も能天気な性格なのかな?

 と感じられた。

 その答えは三十五歳になった今でも分からない、だが、五月病を抜けてからの自分が、少し変わったのを自覚していた。

 いや、それまで自分の性格だと思っていたことが、実際には違っていたということに気付いたと言ってもいいだろう。そういう意味では、その時が自分の人生のターニングポイントだとも言えた。

 自分の中で、今までの人生でキーポイントになったのではないかと思える時期はいくつか存在する。しかし、ターニングポイントと言える時期は、それほど多くはない。今考えただけでも、今まで二、三度あったくらいではないだろうか。だが、いくらターニングポイントだと分かったとしても、自分にはどうすることもできない。やり過ごしながら、自分というものをしっかり理解できる時期であるのは間違いない。要するに、

「物は考えよう」

 だということであろう。

 ただ、ついつい余計なことを考えてしまう癖がある正樹だったが、余計なことを考えたとしても、まわりに対してまったく影響を及ぼすことはない。やはり考えないに越したことはないのだ。

 友達ができないというわけではないと、就職するまでは思っていた。中学時代にも自分に話しかけてくれる人はいたが、すぐに自分の方から離れて行った。どうして離れていったのか当時は分からなかったが、

――一人の方が気が楽だ――

 ということの本当の意味を、まだ知らなかったからだと思っていた。

 友達がいない方がいいという考えを、ただの言い訳であったり気休めだと思うようになったのが本当の意識であり、最初からそんな風に思っていたわけではないということに、ずっと気付かないでいた。

 そのことに気付かせてくれたのは、新入社員で五月病になった時、話しかけてくれた先輩がいてくれたおかげではないだろうか、ただ先輩は先輩であり、友達としては見ることができなかったのは、実に残念なことだった。

 三十五歳になった正樹は、その頃のことを一番思い出す。就職するまでは自分の人生を波乱万丈のように感じていたが、就職してからは、毎日を平凡にやり過ごしているだけに思えてならなかった。

 寂しいなんて感じたのは、いつが最後だっただろうか?

 正樹にとって寂しさは負の要素でしかない。寂しいなんて感じるのは、まだ自分が友達を欲しているからだと思うからで、友達なんかいらないと思うようになると気が楽になってくる。

 その思いを大学時代までには持つことができなかった。社会人になってからやっと友達がいなくてもいいんだと思えるようになったことで、それが大人になった証拠だと思うようになった。

 その思いは友達に対してのものだけで、相手が女性であれば別である。

 ただ、女性に対しては寂しいという感情とは少し違っていた。女性がそばにいなくても寂しいとは感じないが、身体がムズムズして我慢できなくなる。精神的なものというよりも生理的なものと言ってもいいのだろう。そう思うと、女性に対しての思いは、風俗で賄えるのではないかと感じてきた。

 高校時代までは彼女がいなかった。ほしいと思う気持ちは人一倍あったと思うのだが、あとから思うと、彼女がほしいと思っている時期が楽しかった。高校が男子校だった正樹には、女子高生の制服が眩しかった。彼女がほしいと思う感情は、制服への感情に近かった。そのせいか、三十五歳になった今でも、女子高生の制服を見ると、ゾクゾク感じるものがあった。

 大学に入学してすぐの頃、友達だと思っていた連中には、

「俺はロリコンだからな」

 と嘯いていた。

 別に隠すことはないと思ったというよりも、正直に話した方が、あとで分かるよりもよほどいいと思ったからで、自分が聞き手の立場なら、当然同じことを考えるだろうと思ったからだ。

 だが、それは大学入学時点で浮かれていた時期だったからであり、時間が経つと、まわりの人も皆熱も冷めてきて、いつの間にかまわりが冷めてしまっているのに、まだ浮かれている正樹は完全に置いて行かれてしまっていたのだ。

 その感情が友達の冷たい態度になり、正樹に、

――友達なんかいらない――

 と感じさせたのだ。

 そう思うと正樹にこう感じさせたのは誰が悪いわけではない。正樹自身が招いたことだったのだ。

 正樹は皆がまだ浮かれていた頃、童貞だった。

――大学に入学したら、彼女を作って、早々に童貞を捨てるんだ――

 と考えていた。

 もちろん、その時には、風俗などという考えは最初からなかった。

 正樹が最初の頃に友達になったやつの先輩が、面倒見のいい人で、

「大学入学祝いに、風俗にでも連れていってやろう」

 と言ってくれた。

 もちろん、費用を持ってもらえるほどリッチではなかったが、その先輩の行きつけのお店に連れていってくれるということで、サービスに関しては一押しだということだった。

 友達は、

「ありがとうございます。さすが先輩、すっかり大学生してますね」

 と煽てていたが、正樹はまだ真面目な思いが強かったので、心境は複雑だった。

――本当なら彼女を作って、そこで童貞を捨てる予定だったのに、でも、せっかくの先輩のご厚意を無にするわけにもいかない――

 と思い、複雑な気持ちではあったが、先輩に連れて行ってもらうことにした。

「ソープなんて初めてだろう?」

 と言われて、友達と一緒に正樹も頷いたが、嬉しそうな顔をしている友達の横顔を見ていると、実際には相当緊張していることはよく分かった。

――こんなにも緊張するものなんだ――

 自分は、それほどでもないと思っている正樹は、急に自分の立場が強くなったのを感じた。

 これ以降、

――俺は友達なんかいらない――

 と感じた原因の一端は、この時の友達が醸し出している緊張感を見て、

――こいつも大したことはないんだ――

 と急に相手に対して冷めた思いを抱いたことから始まったと言っても過言ではないだろう。

 友達は先輩を崇拝しているようだった。どのあたりを崇拝しているのかは分からなかったが、全幅の信頼に近いものがあったようだ。

 正樹が見る限り、お世辞にも全幅の信頼を寄せられる人には見えないが、それも自分が相手に対してどういう立場にいるのかということをどこまで理解しているかによって変わってくるのではないかと思えた。

 正樹にとっては、先輩はあくまでも他人である。友達が先輩をどこまで親密に思っているのかは分からないが、崇拝している時点で、近寄りがたい存在であることは間違いないようだ。

 だが、その先輩は後輩であろうと、その友達であろうとも、分け隔てをするような人ではなかった。そういう意味では、正樹も先輩を信用していたと言ってもいいのだろうが、まだその日は、先輩のことをハッキリとは分かっていなかった。その日の正樹はあくまでも、

――後輩についてきた、ただの友達――

 としての地位としてしか見られていないと思っていたからだ。

 だが、そんな先輩に対して見方が変わったのは、いざ風俗に行くということが決まるその前に、

「工藤君と言ったね」

 と、先輩が話しかけてくれた。

「はい」

 正樹はビックリして声が裏返っていたようだが、その声を聴いて先輩がニコッと微笑んだのを見て、一瞬、癒しのようなゆったりとした感覚を覚えたのだった。

「君は、まだ童貞なのかい?」

 と聞かれて、一瞬どう答えていいのか迷ったが、ここでウソを言っても、この先輩ならすぐに看破されそうに感じたので、すぐに潔くなって、

「ええ」

 と答えた。

「君は、せっかくの童貞を、これから行くソープで失うことになるんだけど、それでもいいのかい?」

 と諭された。

 友達は、何も言わなかったが、それは逆に最初から友達は

――童貞を捨てるならソープで――

 と思っていたに違いない。

 そう思うと、そんな後輩の友達に対して、一言忠告を入れたというのは、タイミング的にも実によかった。ただ、童貞を捨てるのはソープでは嫌だと思っていたとして、ここまでお膳立てが整っている場面で、断ることが果たしてできるかが問題だった。

 それは先輩に対しての礼儀というよりも、ソープという言葉を聞いて、一瞬でも心がときめいたのであれば、もはや後戻りはできないことを示している。

 友達がどういう心境だったのか分からないが、先輩はそんな後輩に気を遣いながら、さらには後輩についてきた正樹に対しても気を遣ってくれた。

 最初は、

――風俗に通っているような軽い先輩――

 というイメージがあり、軽く見ていた自分が恥ずかしくなった。

――先輩は、ちゃんと相手のことを見ていて、気を遣ってくれているんだ。人を見かけで判断したり、偏見を持ったりしてはいけないんだ――

 とあらためて感じさせられた、

 先輩に対して、そういう思いを抱いたことで、風俗に対しても余計な偏見は無用であると思うようになった。

「大丈夫です。お供させてください」

 となるべく凛々しく答えた。

 ここで躊躇っていると、せっかく気を遣ってくれている先輩のさらに気分を害し、罪悪感を抱かせてしまうようで、それだけは避けたかった。

 いや、それはあくまでも建前。正樹自身が風俗に興味を持ったのだ。

――俺が今まで抱いていたイメージと、どう違うのか、試してみたい――

 と感じたが、それもまだ、どこか自分を飾っている気持ちだった。

「俺に馴染みのお店には、童貞喪失のお手伝いをしたいと言っている嬢が数人いるので、心配することはない。きっと今日のことは二人の思い出として刻まれることになるはずだからね」

 と言ってくれた。

 この一言が、最初の緊張をほぐしてくれた。この状況でなら、風俗に挑むことをいとわないと感じたのだ。

 この時の先輩は、正樹のことを、

――友達なんかいらない――

 と感じるようになることを分かっていたような気がする。

「人に言えないことでも、俺が相談に乗ってやるから、俺の存在を忘れるんじゃないぞ」

 と、友達に聞こえないように呟いてくれた。

 それは、風俗に入る前だったので、風俗嬢から正樹の話を聞いたわけではなかったはずだ。そう思うと、やはり先輩という人は、尊敬に値する人だと、正樹は感じた。

 その人が先輩だったから、尊敬に値する人だと感じたのだろう。同じ人であっても、もしそれが友達だったら、そこまで相手のことを尊敬できたのか分からない。

「本当にいい先輩だろう?」

 と、友達は耳打ちしてくれたが、友達のいう、

――いい先輩――

 という言葉がどこまでを指すのかが分からなかった。

 単純に風俗に連れて行ってくれるということがいい先輩の定義なのか、それとも自分たちそれぞれに気の遣い方を使い分けている姿であったり、それぞれの相手に不快な気分を与えないような気づかいが友達間で見られるようにしているところなのか、正樹には分かりかねていた。

 そういう意味でも、

――友達はまだまだ先輩の域に達していないな――

 と感じさせ、

――それは自分もお互い様だ――

 と思わせたにも関わらず、友達を軽く見てしまうようになるきっかけになるのだから、先輩の存在は本当に自分にとってよかったのかなのだろうが、分かってはいるが、それ以上考えないようにしていた。

 考えてもしょうがない。考えれば考えるほど、友達を軽視してしまいそうになる自分を止めることはできない。結果として、

――友達なんかいらない――

 と感じさせるに至ることになるのだが、まだまだ自分が大人になりきっていないことを認めたくないという思いもそこには込められていたのだろう。

「あまり酔い潰れていくのも失礼にあたるが、まったくの素面というのも、緊張が高まりすぎていい結果にはならないだろう。軽く呑んでから行くことにしようか?」

 と言って、先輩は焼き鳥屋に連れていってくれた。

 お酒を呑んだことがないわけではない正樹だったが、誰かと呑みにいくというのもほとんどなかっただけに、それだけでも緊張だった。何事も初めてに感じられ、新鮮だったのだが、呑み屋では完全に自分が飲まれてしまっている感覚に陥っていた。

 軽く呑んだことで、身体が火照ってくるのが分かった。これからどこに行くのか確定しているだけに、その緊張は最高潮に達した。

「本当はここで、風俗に行こうと誘うのが一番の喜びなのだろうが、二人はまだ童貞ということもあって、緊張感を和らげる必要もあるので、最初から目的地を決めておいたんだ」

 と言って、話してくれた。

 一口に、

――夜の繁華街――

 と言っても、呑み屋街と風俗街とが別々のエリアにあるということすら知らなかった正樹は、まるでオノボリさんのごとく、まわりをキョロキョロと見渡した。

 すでに酔っぱらっているので、まわりからどんな目で見られても、あまり気にしなくなっていた。それが感覚がマヒしたという状況であるということを分かるほど、意識がハッキリとしていたわけではないが、なぜか後から思い出すと、この時のことは思い出せてしまうのだった。

 時間的には、もう普段なら寝ていてもおかしくない時間だった。それなのに、その日は一向に眠気が指してくることはなかった。

「風営法があるので、最終は二十四時まで二なってしまうので、入店はその逆算になるんだ。だから、午後九時過ぎには店に入ることにしよう」

 と先輩から言われていたので、時計を見ると、そろそろ九時過ぎだった。

「いつもなら寝ている時間かも?」

 と、正樹がいうと、

「そんなに早く寝るのかい?」

 と聞かれたので、

「ああ、どうせやることもないしな」

 と友達に答えると、先輩は頷きながらこちらに寄せる視線に、哀れみを感じてしまったが、その目が、しばらく忘れられなかった正樹だった。

「今日はせっかくの先輩のお誘いなんだ。細かいことは気にせずに、楽しもうじゃないか」

 と、急に友達のテンションが上がり、普段とは違った雰囲気が出ていた。

 元々、心配性の友達は、あまり弾けるようなことはしない。かといって石橋を叩いて渡るような注意深い人間でもない。要するに中途半端な性格なのだ。

 だから、彼は他にも友達が多かった。付き合っていると気が楽になるのか、友達の方から話しかけるというよりも、彼の場合は話しかけられる方が多かった。

 ただ彼にはお調子者のところがあった。話しかけられるとすぐに相手を自分のペースに引き込んでしまうところがあった。普段はおとなしいやつなのに、相手が乗ってくると、まるで自分のステージでもあるかのように、主役を奪いに行くのだ。

 本人にその気があるのかどうか分からないが、スイッチが入った時の友達は、歯止めがきかないと言ってもいい。それでも人に迷惑をかけることはないので、平和な乗りと言ってもいいだろう。

 彼は、一種の二重人格である。乗りのいい時と、真面目な時とでまったく性格が変わってくる。正樹の前では真面目な自分を曝け出し、弾けるようなことはない。

 最初はそんな彼に対し、

――俺に対して本当の自分を見せようとしないんだ――

 と、まるで他人行儀な態度に、彼と一線を画していたが、真面目な彼の真剣な表情も、紛れもなく彼の性格だと思うと、今度は、

――他の人の知らない彼を、俺だけが知っているんだ――

 と、まったく正反対のことを思うようになった。

 そんな彼に、いろいろ指南してくれる先輩がいることを知ったのは、最近になってのことだった。先輩の前では従順な態度を取っていたが、先輩の兄貴分的な性格を引き出すには、彼のような従順な性格の人間が一番よかった。だからと言って、彼は先輩の言いなりになっているというわけではなく、お互いにいいところは尊重しあっているようだった。

 先輩と彼は似た者同士で、三人で歩いている時など、二人を先に歩かせて、正樹は一歩後ろから見つめていると、その性格がよく分かってくるような気がしてきた。

 ただ、まるで柔道部にでも所属しているのではないかと思うほどの恰幅のいい先輩と、どちらかというと細身の友達とでは、後ろから見ていると、まるで凸凹コンビの様相を呈していた。

 正樹は二人から比べると、いや、世間一般の人と比べても、平均的な体格と言えるだろう。背も高いわけではないが、決して低い方でもない。中肉中背、逆に言えば、一番目立たない体格であった。

 顔も自分では平均的だと思っている。一見真面目に見られるが、内面も弾けているわけでもなく、真面目な方だ。こちらも平均的と言ってもいい。そういう意味では、

――面白くもなんともない人間――

 と言ってもいいだろう。

 誰かに相談されるような頼られる性格でもなく、悲壮感のあるようなタイプでもない。どこにでもいるようなありきたりな人間と言ってしまえばそれまでだが、今まで彼女ができなかったのも、そう考えれば納得がいく。

 納得がいくと言っても、それは、

――彼女ができない原因――

 ということに対して感じることであって、彼女ができないことを納得しているわけではない。

 正樹はそんなに簡単に自分を納得させられるだけの素直な性格ではない。むしろ捻くれた性格だと言っていいだろう。

 そんな正樹に大学に入って最初に近づいてきたその友達も、あまり目立つ方ではなかった。それなのに、先輩との間では妙にウマが合っていて、いかにもいいコンビに見えていた。

「俺は先輩のことをよく分かっているつもりだし、先輩も一番俺のことを分かってくれているような気がするんだ。これって相性なのかな?」

 と友達は言っていたが、その表情はまんざらでもなかった。

 その話を聞いた時は、まだ先輩と面識のない時だったので、

――いったい、こいつとウマが合う先輩って、どんな人なんだろう?

 と興味津々だった。

 会ってみると、友達との間で、

――どこにウマが合うところがあるというのだろう?

 と感じさせられた。

 会ってみた先輩の雰囲気は、そのがたいの良さから見て、まるでガキ大将の雰囲気を感じさせる人だったことから、やはり友達との間の相性に疑問が生じたとしても、それは当然のことであった。

 友達も彼女がおらず、自分と同じ童貞だったが、この日のように、なぜもっと早く先輩から風俗に連れていってもらわなかったのかと疑問に思っていた。

 そのことを友達に聞いてみると、

「俺一人だと気が引けるんだよ。いくら先輩が連れていってくれると言っても、一人だと緊張でまともに身体が反応しないような気がしてね。でも君が一緒だと僕には心強い味方がいるような気がして、普段から先輩に誘われても断ってきたんだけど、今日はお前を連れていきたいと俺の方から言い出したんだ。お前も一人だと気が引けるだろう?」

 という友達の顔には、ぬけぬけと言い切るだけの何かがあった。

 普通なら言い訳に聞こえそうな言い分なのだが、その時、正樹には言い訳に聞こえなかったのは、どこかに根拠の有無は別にして、何か自信めいたものがあったような気がしたのだ。

「お前は、風俗で童貞を捨てるということに抵抗はないのかい?」

 と、正樹は聞いた。

「俺には、そんな抵抗はないよ。それよりも緊張から、何もできなかったら恥ずかしいという思いの方が強いんだ」

 風俗がどうのというよりも、自分のことが気になって仕方がないという感じであった。

「俺はちょっと抵抗があるかな? 最初にするんだったら、やっぱり彼女としたいって思うんだ」

 と正樹がいうと、

「どうしてなんだ? いきなり彼女として、自分が主導権を握れるわけないじゃないか。相手が処女だとすれば、お前はリードするべき立場にあるんだぞ。それが童貞だという理由でお互いに何もできなかったが、お前は男として彼女に恥をかかせることになるんじゃないのか?」

「確かにそうだ」

「それに、もし相手が経験済みだったら、お前のような童貞をちゃんと労ってくれるかどうかも怪しいものだ。自分の立場が上だと思うと、女という動物はここぞとばかりに攻めてくるか、それとも絶えず上から目線で、それ以降の二人の立場が逆転することはありえないかも知れないじゃないか。そうなろと男としては最悪で、惨めなんじゃないか?」

「それはちょっと考えすぎなんじゃないか?」

「そうかも知れないが、でも、童貞のお前はきっと何もできないだろう。それを相手の女性が気を遣うこともなく、ズケズケと悪気がなくとも無神経なことを言えば、お前は立ち直ることができるのか?」

 と言われて、閉口してしまった。

 確かに、ドラマなどで、童貞が彼女と初めての時、罪のない何気ない言葉にショックを受けて、そのまま女性とできなくなってしまうなどという話を聞いたこともある。

 友達は続けた。

「そんなこともあるので、まだ自分に自信が持てるまでは、プロのお姉さんに任せておくというのも一つのやり方さ。授業料だと思えばいいんじゃないか?」

 もっともな話だが、自分を正当化する言い訳にも聞えなくもなかった。

 これが彼が自分のためだけに言っている言葉であれば、別に気にもしないが、自分のために言ってくれていると思えば、いつの間にか真剣に聞いてしまっていた。

「少年少女期においては、女の子の方が男の子よりも成長が早いというけど、本当にそうなのかも知れないな。思春期においてもそれは変わっていないような気がする。ただ。誰もそのことを言わないだけで。でも、それは暗黙の了解というだけで、女性の方が同い年なら、成長していると思った方がいいのかも知れないな」

 と正樹がいうと、

「そうだよ。だから男女の関係としては、男の方が年上というパターンが多いだろう? それはやっぱり成長という観点から見ても、正当なのかも知れないな」

 と、友達が続けた。

 その話を黙って聞いていた先輩が、口を挟んだ。

「昭和の頃の風俗というと、女の子は借金だったり、のっぴきならない理由で風俗嬢になっているというのが定番だったが、今はそんなことないようだよ。軽いアルバイト気分で風俗嬢をしている人もいれば、ホストに狂っているような風俗嬢もいる。そういう意味では彼女たちに悲壮感はないと思うんだが、俺だけの見解なのかな?」

 という話だ。

 最初は、確信があるような言い方だったが、途中から少し改まったような言い方になったのは、自分の言葉に言い過ぎたという思いがあったからなのか、それとも彼女たちを思い浮かべて、確信的な言い方をしてはいけないと感じたのか、そのどちらにしても、先輩の性格が出ていた。最後は曖昧な言い方になったが、それは先輩の性格からというだけで、話の内容には十分な信憑性が感じられた。

 正樹は、まさかこんな話をする相手が身近にいるなどと思ってもいなかったが、話をしているうちにその気持ちが分かるようになってきた。

 特に先輩とは、大学入学前、つまり友達と知り合う前から知り合いだったような気がしてくるから不思議だった。

「先輩って、高校の時の先輩なのかい?」

 と、小声で聞いてみた。

「いいや、予備校の時の先輩なんだ。俺は現役で入学したけど、先輩は一浪したので学年は一緒だけど、年は先輩の方が上なのさ。本当なら一浪したということで、俺に対して少しはわだかまりがあるのかと思っていたけど、そんなことはないだろう? あれが先輩のいいところで、俺が先輩を慕いたくなるところでもあるんだ」

 と言った。

 なるほど、確かに先輩は同じ学年であっても、それなりの貫録がある。この貫録は学年の違いよりも年齢の差よりも何よりも大きなものではないだろうか。

――友達を飛ばして、俺と先輩のパイプがあってもいいな――

 と、決して友達の前では口にできないことを考えたりもした。

 最初先輩を紹介された時、

「ああ、君が工藤正樹君か。君のことは聞いているよ」

 と、貫録十分にそう言って、正樹の肩を叩いた。

 その態度は明らかに上から目線で、同じ学年だという意識が遠のいてしまうほどだったが、大学というところ、正樹が考えていたよりも、かなり想定外の人がいるということが分かっていたので、驚きはしなかったが、その態度には図々しさというよりも頼もしさの方が感じられ、友達を介しているとはいえ、ここまで頼もしさを感じられる人はいないように思えた。

――この人が同い年だと言われても――

 最初は、年上として見るのか、下として見るのか、戸惑いがあった。

 頼もしくは見えるが、あとで考えると、まるで井の中の蛙のようにも思えて、どこまで信用していいものかとも思った。

 だが、友達と歩いているその後ろ姿を見た時、根拠はなかったが、

――この人は信用してもよさそうだ――

 と感じたのだ。

 ただ、友達が崇拝すればするほど、先輩を独占したくなる。それは、友達が自分よりも先に先輩と知り合いだったということに対しての嫉妬であり、少しでも自分よりも先に知り合っていたことで、友達には追いつけないという交わることのない平行線を見つめているようで、それがさらに嫉妬に輪を掛けた気がした。

 嫉妬に輪が掛かってくると、先輩を独占したくなる気持ちから、二人を引き離したい気持ちに陥ったこともあった。

――先輩は、俺のことなんか見てくれやしないんだ――

 という思いがあったからだが、最近はその思いも違う方に向いてきた。

 友達を見ていると、急に先輩をリスペクトしているのか、その行動パターンや言動が似てきているように思えた。彼のような真面目な部分もある、ある意味中途半端な人間に、先輩のような一途な性格を真似ることなどできなかった。

 そのマネはモノマネというよりも、サルマネに近く、惨めにさえ見えてくることもあった。

――俺は、いくらその人を崇拝していると言っても、モノマネにはならない――

 と思っていたが、どうもそうでもないらしい。

 気が付けば、尊敬する人のまねをしてしまうくせがあったようで、特に感じたのは、手書きの字であった。小学生の頃、綺麗な字を書く友達がいたが、字体がいつの間にかその人に似せて書いているのに気付いた。どうしても今はパソコンで打ち込むことが多いので、手書きを意識することもなかった。以前から字が汚いことは自分でも分かっていたので、手書きは嫌いだったが、恰好いい字を書いている人に真似て書いている自分がいることに、高校時代に気付いたのだった。

――高校時代まで気付かなかったなんて――

 と感じたが、気付かなかったのも無理もないことだ。

 確かに手書きが少ないというのも理由だが、それだけではない。格好のいい字を書くやつは、普段の性格でも恰好がいいのだ。そういう意味で、自分も格好のいい字が書けるようになりたいという思いも持っていたが、字を書くというのは慣れていないことに加えて、打ち込むだけのスピードがあるわけではない。つまり書いているうちに忘れてしまいそうになるためか、思わず急いで書いてしまうくせが残ってしまった。そのため、手書きは乱雑であり、読めたものではないというのが、最近の自分の字への思いだった。

 先輩が連れて行ってくれたお店は、風俗街の中にあったが、想像していたような薄暗いネオンサインのお店ではなく、二階に上がっていく作るになっていたが、階段の下は明るくて、足元もしっかり見えた。これならつまずくこともないだろう。

 先輩を先に行かせて、後輩二人は、黙って後ろをついていった。先輩の背中が大きく見えたのは階段の下から見上げていたからであって、あとから思えば錯覚だったと感じられた。

 体格のいい先輩のためにすぐには見えなかったが、階段の途中にパネルが飾ってあり、そこに写っているのが、在籍している女の子たちだということはすぐに分かった。

――まるでアイドルの事務所のようだな――

 と感じたのは、人気アイドルグループのプロモーションの写真のように、グループの制服のような服を着ていて、髪の毛には花飾りのワンポイントがついていた。

 しかも、プロのカメラマンが撮影したのだろう。いかにもアイドルのパネルのようである。アイドルヲタクにとっては、入店の時点からテンションが上がって、志向の悦びに違いない。

 正樹はアイドルが好きだというわけであないが、最近のアイドルが昔と違ってきていることを気にしていた。正樹が中学高校時代というと、すでにその時も、

「昔のアイドルとは違ってきている」

 と言われてきた。

 一般公募は同じなのだが、オーディションから合格までをドキュメントにしてテレビ番組として放送していたからだ。

 昔のアイドルを知っているわけではない正樹だったが、アイドルの公募を公開して、テレビ番組にしてしまうことには違和感があった。

 その頃のアイドルは、正樹は好きにはなれなかった。タイプの女の子がいなかったわけではなく、いかにもアイドルという雰囲気を醸し出しているにも関わらず、週刊誌などで暴露された写真を見ると、そこにはアイドルらしからぬ風体で載っていたのだ。

 アイドルのように有名人が、普段はサングラスを掛けたりして変装しなければいけないという理屈は分かっている。周辺をパニックにしないためだということも十分に分かっているつもりだ。

 しかし、分かっていても理屈を理解できないと思うのは、受け入れられないという思いがあるからに違いない。正樹はずっとそう思ってきたことで、

――アイドルと自分は住む世界が違うんだ――

 とさらに感じたのだ。

 アイドルの表の世界と裏の世界。知ることなどできるはずもない裏の世界を、アイドルが変装しているような姿を見ることで垣間見えたような気がして、しかもそれが見たくないと思っていることだと思うと、余計にアイドルとは住む世界が違っていると感じるのだった。

 そんな正樹が最近のアイドルは、その時のアイドルとは違っていると感じたのは、最近のアイドルには自由奔放性を感じるからだった。

 以前のアイドルは、大人の都合によって左右されやすい世界にいると思っていた。だからこそ住む世界の違いが最初に頭に浮かんできたのであって、知りたくない世界を持っているのがアイドルだと思っていた。

 だが、最近のアイドルは、実に普通の女の子という雰囲気が強い。同じように公募も公開されていることがあるのだが、それをドキュメンタリーのような放送の仕方をするわけではない。

「これからのアイドルは、アイドルだけをやっていたんじゃだめだ」

 と、アイドルのプロデューサーが言っていた。

 アイドルだけではなく、他に一芸に秀でていなければならないという考えは、

「アイドルというものは、これから彼女たちが育っていくための一つのステップにすぎない」

 という考えだ。

 人に夢を与えるのがアイドルだと思っていたが、アイドルも与えるだけではダメで、アイドルをステップにして、そこから先の人生をどう歩むかを培うための「学校」のようなものだという考えである。

 正樹はこの考えには同調していた。

――確かにアイドルは、若い頃にしかできない。その後の人生をどう歩むかは、アイドルを続けている時から考えていないといけないんだ――

 と、分かってはいるつもりだったが、いまさらながらに思い知らされた気がした。

 だから、アイドルの中には最初から一芸に秀でている人もいて、芸術家としての才能を持っている人もいる。

 中にはアイドルを続けながら、個展を開いたり、コンクールに応募して入選する人もいたりする。

 また、一生懸命に勉強して、資格を取得したりして、その道を目指す人もいる。

 以前のアイドルであれば、俳優を目指したり、俳優から舞台に転身する人はいたりしたが、それもなかなか難しかったりする。今でもアイドルを続けながら、舞台もこなしている人もいる。以前であれば、

「アイドルが舞台なんて」

 と言われたりして、嫉妬の目を向けられていたり、芸能プロダクションもあまりいい顔をしなかったりする場合があったと聞いたことがあったが、今では反対だ。

「アイドルから舞台への道筋が出来上がったのは、彼女が先駆者になってくれたおかげだな」

 と言われるくらい、プロダクションにとってもありがたいことだった。

 アイドルの中には、アナウンサーになったり、実業家になったりする人もいる。それを思うと、

「アイドルになるくらいの人なんだから、最初から才能はあったんだ」

 と思える。そして、

「それを見極めたプロダクションも見る目があったということだ」

 と言えるのではないだろうか。

 アイドルへの憧れはあったわけではない。元々、正樹は自分が人から評価されることを目指してはいたが、自分のまわりの人が評価されることに対して、嫉妬心は半端ではなかった。

 友達が何かの表彰を受けたとすれば、祝福するなどという考えは正樹にはない。

「どうして、祝福してやらなければいけないんだ。あいつは俺がしなくても、他の人から祝福してもらえるじゃないか」

 というだろう。

 そのくせ、自分が何かで評価されれば、友達から何か一言お褒めのコメントを貰いたいと思っている。実に矛盾した考えだが、その思いがあるから、何かの目標を持てば、それに向かって万進できると思っていた。

 そういう意味でもアイドルを追いかけるというのは、自分にできなかったことを叶えている人たちを評価するという意味になるので、本当なら正樹は嫌なはずだった。それなのに最近のアイドルを好きになった理由には、正樹の目標がおぼろげだが、定まってきたことにあるような気がしていた。

 正樹は、子供の頃から、本を読むのが好きだった。そのくせ、セリフ部分ばかりを読んでいて、小説の本質を分かっていなかった。それでも本を読み続けていた。

 中学生の頃に、正樹は学校の図書室で司書質の先生と仲良くなったことがあった。その日は図書室で最後まで本を読んでいたのが正樹だったこともあって、先生が気にしてくれたのだ。

 元々、図書室に放課後から本を読みに来るg人などほとんどいなかった。自習室として勉強するために放課後の図書室を使っている人はいたが、本を純粋に読みにくるという人はいなかったのだ。

 正樹が読む本は、ミステリーが多かった。

 それも、最近のミステリー小説ではなく、昔の小説で、時代背景とすれば、戦前戦後の日本の推理小説だった。

 ミステリアスというよりも、オカルトっぽさが目を引く作品が多かった。それも猟奇殺人であったり、登場人物の性格が今の人には理解できないようなものであったりするものだった。

 たとえばSM志向であったり、男色ものであったり、さらには今ではテレビ放送などできないと思えるような障害者を扱ったものであったりと、異色中の異色小説である。

 それをオカルトと言っていいのかどうか難しいところであるが、猟奇的な物語の展開とは裏腹に、解決編では、最初から綿密に計算された犯人の犯行計画の元、繰り広げられる人間模様に、正樹は魅了されたと言ってもいい。

 しかも、今の時代とはまったく違った時代背景であるため、その時代に思いを馳せるため、実際にその時代を勉強したりしていた。

 本を読むのは小説だけに限ったことではなく、その時代を感じさせるための本も一緒に読んでいることで、正樹は他の人が味わう感情とは違ったイメージを、その小説に抱いているに違いない。

 時代は当然昭和である。

 今からは想像できない戦争があった時代。自由に何もできなかった時代であり、しかも、食べ物も自由にならないのだ。

 そんな時代を知っているわけでもないのに、正樹は興味を持った。もちろん、

――こんな時代に生まれなくてよかった――

 と思ているにも関わらず、

――この時代を見ることができないのは残念だ――

 とも感じていた。

 戦争がどんなものかは話には聞いていた。しかし、

――想像するということはできても、その時の感情に自分が入り込むというのは、その時代の人に対しての冒涜だ――

 と考えていた。

 それは、今の時代から言えることなのかも知れない。自由な発想ができるということは、発想しないことをできるということでもある。

「上の人が白だと言えば、何があっても白なんだ」

 という発想である。

 そこに個人の自由は存在しない。それが挙国一致という発想が、愛国心という言葉を借りて、人の自由を奪っているということにもなる。

 だが、小説を読んで、その時代を想像するのは許される気がした。

「小説は、その時代を分からせるために書かれた」

 という発想を正樹に抱かせたのだ。

 そんな時代だからこそ、本当は書くことを許されなかった時代があったからこそ、戦後の推理小説にはオカルトチックなものが多いのではないかと思えた。

 同じように戦前の時代にも同じような小説が存在するが、そこにはこれからの時代に未来を感じさせない思いが込められているようだった。ただそれはその後の歴史を知っているからこそ感じることであって、本当にその時代の作家がそんなことを考えて書いたものなのかどうかは疑問であった。ただ、無意識のうちに書かれた小説というのは、それだけの趣きを感じさせ、正樹がその時代の小説を好きになった理由がそこに横たわっているように思えてならなかった。

 戦争が世の中にどのような影響を与えたのか、そして市民生活がどのようなものだったのか、ドラマなどでイメージは掴めても、しょせんはセットでのお芝居。そう思うと、そこに自分の想像が介さない限り、その時代に思いを馳せることはできないと思った。そこでその時代の小説に興味を持ったわけだが、まさかアブノーマルな世界を描いているとは思っていなかったので、少し戸惑いがあった。

 しかし、読み込んでいると、まるで自分が主人公になったかのように思えてくるから不思議だった。童貞なのに、自分が女性を蹂躙するという性癖を持った男であり、女がそんな自分の言いなりになって、快楽を一緒に貪っている姿が思い浮かぶのだった。

 小説の中でしか味わうことのできない世界だからこその醍醐味。もし、これが現実世界であれば、きっと自分は躊躇してしまい、相手の女性を蹂躙どころか、相手に与えるのは苦痛だけで、そんな中途半端な自分に相手の女性は愛想を尽かすに違いない。

「もっと、もっと」

 と、女が訴えているが、それはオンナとしての本心である。

 もし、相手をかわいそうだと思い、力をセーブし、躊躇してしまうと、下手をすれば、相手を殺しかねないという、

「危険な遊戯」

 なのだ。

 そのことを女は分かっている。分かっているからこそ、ギリギリの遊戯に興じているのかも知れない。男の方も本気で女を愛していれば、相手が何を求めているのか分かってくるのではないだろうか。

 自分がそのような環境に陥ったこともないくせに、ここまで分からせてくれるというのは、やはり小説というのは偉大で、言葉の持つ力は。魔力に匹敵するのではないかと思わせた。

 正樹は、小説を読み込んでいくうちに、自分に自信がなくなってきた。

――俺には女性を満足させることなんかできないんだ――

 別にアブノーマルな世界で女性を愛さなければいけないというわけではないのに、どうしてここまで自分に自信を無くしてしまうのか、正樹にはよく分からなかった。

 しかし、分かっているのは、

――性癖が何であれ、相手の気持ちをどこまで分かってあげられるか――

 ということが、お互いに愛し合うために必然であるということである。

「アブノーマルな世界を知りたいとは思わない」

 と、口では言っているが、実際に興味が湧いて、小説を読み漁っているのは間違いない。

 アブノーマルという言葉がどれほど曖昧なものなのかということを、その時の正樹は分かっていなかったのだ。

 正樹は自分がモテないのは、何か理由があると思っていた。だが、その理由が見つからない。

――見つからないんだったら、本当は理由なんかないのかも知れない――

 と感じてみたが、理由もなくモテないというのは考えてみれば自分が惨めになるだけで、言い訳にもならないと思うのだった。

 中学時代まではそれほどでもなかったが、高校生の頃は、まわりの女の子が気になって仕方がなかった。同級生の女の子だけではなく、年上に憧れを持ったのもこの頃だった。

――お姉さんに優しく抱かれたい――

 などと妄想を抱いたものだった。

 正樹自身は自覚していないが、最初に女性を意識するようになったのは、中学時代だった。

 図書館に通うようになってから、図書室にいる司書の女性を、正樹は気にしていた。だが、その頃はその思いが女性というものに対しての男性としての思いであることに気付いていなかった。だから、今でも意識していないのであって、

「女性を意識するようになったのは、高校生になってから」

 と公言していた。

 司書室にいた女の人はおとなしいタイプの女性だった。元々自分がおとなしいタイプなので、派手なタイプは苦手だと思っていたので、司書室の女性を意識することすら相手に失礼だと思ったのかも知れない。

 正樹は別に目を合わせようという意識があったわけではないのに、不思議と目が合った。その時、彼女がニコッと笑ってくれたのだが、あとから思えば、その表情には恥じらいのようなものがあったような気がした。

 だが、それは恥じらいではなく、ただ目が合ったことで単純に戸惑っていただけだった。戸惑いの表情が恥じらいに見えたのは、正樹にとってはよかったのかも知れない。それ以降の正樹は女性の戸惑いを恥じらいのように感じたからだった。

 女性が戸惑っているのが分かると、男性もどうしていいのか分からなくなることが往々にしてあるだろう。相手が戸惑っているのに、自分までもどうしていいのか分からないと、お互いに気持ちがすれ違ってしまうに違いない。そういう意味では正樹の方が勘違いとはいえ相手に対していい印象を持つことで、戸惑っている女性に気持ちの上での余裕を与えることができるという意味で、よかったと言えるのではないだろうか。

 ただ、それは正樹にとってよかったというわけではない。相手の気持ちに余裕ができたとはいえ、元々戸惑いは正樹との間に生じたことなのだ。お互いに気まずい思いにならないだけマシだったというだけで、本当によかったと言えるのかどうか、疑問である。

 正樹は、結局彼女に話しかけることはできなかった。彼女も正樹を見ても視線を逸らすことはないが、別に何かを話しかけてくれるというわけではない。

――目を逸らしてくれる方がよかったかな?

 と、あとで思ったが、目を逸らしてくれるということは、少なからず意識してくれているということであり、目を逸らしもしてくれないということは、正樹のことなど眼中にないと言えなくもなかった。

 その思いがあったから、話しかけることはなかったのかも知れない。

 いや、それは言い訳で、実際には話しかける勇気がなかっただけだ。話しかけたとしても、無視されてしまっては、元も子もないと思ったからだ。

 人によっては、

「相手の気持ちを確かめないくらいなら、無視された方がまだマシだ」

 という人もいるだろう。

 だが、正樹はそれを嫌った。あくまでも体裁を繕ったと言えるのだろうが、正樹はそんな自分が嫌だった。

 高校生になって、急に同級生の女の子を眩しく感じるようになった。正樹の入った高校は、家から結構離れたところにあり、同じ中学から進んだ友達も少なかった。

――高校生になったら、リセットしたい――

 という思いがあったからだ。

 中学時代までの自分とは違う自分を前面に出していきたいと思うようになり、そのためには、中学時代までの自分を知っている人のなるべく少ないところがいいと考えたのだ。

 実際に、正樹と同じ中学から進んだ人はほとんどおらず、皆新しい顔ぶれで、新鮮な気がした。新入生の頃はよく声を掛けてくれたが、正樹の方からは相変わらず声を掛けることもできず、一人でいることが多かった。

 さすがにそんな人に何度も声を掛けてくれる人もおらず、次第にクラスでも浮いてくる。そのうちに一人の女の子を気にするようになっていた。

 彼女は、決して美人というわけではないが、一言でいえば、

――頼りないのある女性――

 と言えるだろう。

 口数は少ないのだが、クラスの皆から一目置かれていて、文化祭や体育祭などの行事になると、自然とクラスを纏める役を担っていた。一つのクラスに一人はいるという存在なのだろうが、正樹には眩しく見えた。頼もしさがいつの間にか憧れに変わっていて、声を掛けることもできないくせに、彼女をじっと見つめていた。

 そんな雰囲気は、表から見ると一目瞭然で、まわりの人は分かっているくせに何も言わなかった。正樹が自分から口を開くことがないと分かっているからなのだろうが、それまで正樹を無視してきた連中が、にわかに正樹を気にするようになっていた。

 正樹はそんな事情を分かっていなかった。ただ、まわりの視線を感じるようにはなっていて。それがどうして急に視線を浴びることになったのか、分かっていなかった。

 正樹が気にしていることで、彼女は迷惑をしていた。

「何で何も言わないのよ」

 と、業を煮やした彼女にそう言い寄られ、何も言えずにただ狼狽するだけの正樹に、彼女はため息をついて、

「もういいわ」

 と、呆れかえったかのように踵を返して、その場から立ち去った。

 その後ろ姿が正樹には凛々しく見えて、罵声を浴びせられたことよりも、彼女が自分からどんどん遠ざかっているように思えて、その方が辛かった。

 彼女も一匹狼なところがあった。人と群れることを嫌い、集団には決して属さない。ただそんな彼女だからこそ、クラスが一致団結しなければいけない時の旗振り役を買って出るのだった。

 それが彼女の天職でもあるかのように思えて、

――楽しんでやっているんだ――

 と思っていたが、実際にはそうではなかった。

 彼女も友達がほしいと思っているにも関わらず、まわりが彼女に近づいてくれない。正樹のように避けられているわけではないが、彼女の場合は、近寄りがたい雰囲気を醸し出しているという意味で、正樹とは正反対だった。

 だが、友達がほしいという思いは、絶えず持っているわけではなく、ふとしたことで感じる思いの中に、

――友達がいたら、いろいろアドバイスしてくれるだろうに――

 と感じたりした。

 彼女は友達というものを割り切った考えで捉えていた。

「友達というのは、お互いが成長しあうために必要なもので、成長のない友達ならいらない」

 とまで考えていた。

 そういう意味では、正樹のような相手が一番友達にふさわしくない相手だろう。

――百害あって一利なし――

 と思っているかも知れない。そう思われているとすれば最悪だ。

 そんな相手だからこそ、正樹は意識していた。今まで正樹は、

――自分のことを意識してくれる人など、いるはずがない――

 と思っていた。

 もちろん、最初からそう思っていたわけではないが、そう思うことで自分のハードルを自然と下げ、いつ言い訳してもいいように感じることが正樹の通常時での発想の原点になっていた。

 だが、彼女は正樹のことを意識していた。悪い方への意識であるが、正樹もそれくらいのことは分かっていた。だがそれでも意識してくれるということは喜ばしいことで、彼女にだけでいいから、心証がよくなるようにならないかと考えるようになった。

 相手を意識するということはどういうことだろう?

 異性を意識するというのは、その先に恋愛感情というものが生まれるかどうかで変わってくる。正樹は彼女のことを意識するようになってから、それが恋愛感情に結びついてくるものだと思っていた。

 だが、実際には恋愛感情に結びついていたわけではない。確かに彼女の頼りがいのあるところは頼もしく感じていたのだが、恋愛感情とは違っていた。

 二人でどこかに出かけたり、お互いのことをいろいろ話したりということが頭に浮かんでこなかった。相手を頼もしく思うというところから先が進展していないのだ。

 だが、それは彼女に対してだけだった。クラスの他の女の子で、気になる女の子を見つけると、その子と一緒に遊園地に出かけたり、駅での待ち合わせのシーンを思い浮かべたりすることができた。

 相手は決まっておとなしい女の子で、想像する中で主導権を握っているのは、いつも正樹だった。

 その頃から同い年の女の子に頼りがいを感じるというのは、自分の勘違いではないかと思うようになっていた。頼りがいを感じさせるのであれば、相手が年上でなければいけないという考えが正樹の中にあったのだ。

 正樹にとって、自分が相手にどう思われようがあまり関係はなかった。自分がどう思うかということが大切だと思っていたのだが、実際にはその逆だった。

 人の目線など自分には関係ないはずなのに、目線の正体が女性だと分かると、急に焦りが生まれてくる。

――悪い印象を与えてしまったかな? 取り返しがつかなかったら、どうしよう――

 と思うようになった。

 相手が男性なら、

――別に友達じゃないんだから、どう思われようと関係ない――

 と思えば済むことだった。だが相手が女性なら、しかも、気になっている相手ともなると、

――嫌われたくない――

 と感じるのだから、これは恋愛感情に結びつかないまでも、思春期特有の、

――異性を求める欲求――

 と言えるのではないだろうか。

 これは動物的な感覚だと思うと味気ないものだ。だが、そこに存在しているフェロモンだけは、認めざるおえないだろう。思春期になると急に生まれる異性への感情は、フェロモンという形のあるものが証明してくれる気がしていた。

 正樹は視線が合っても相手が何もリアクションをしてこないことを、最初はホッとした気分になっていた。

 それは、自分がどう思うかが大切だと感じていたからであって、考えてみれば相手が何もリアクションを起こさないということは、それだけ自分のことなど眼中にないということではないか。それは相手にどう思われるかということであり、そっちの方が大切なのだということに、やっと気が付いた気がした。

 だが、それは自分主導の考えであり、恋愛感情というのは、相手のことを考えてこそ成り立つものだと思っていたことであり、このずれが、恋愛感情を抱かせるための障害になっていることを示すものだった。

 正樹はタバコを吸わないので、待合室でタバコを吸っている人がいるのを見て迷惑だと思っていた。正樹は人と関わることを嫌う理由の一つに、タバコの存在があるのも事実だと感じさせる瞬間だった。

 今の世の中、ほとんどの場所が禁煙である。電車の中はもちろんのこと、駅の構内、公共施設、喫茶店や飲食店。それが当たり前のようになっている。逆にタバコが吸える場所の方が珍しい。

 おおっぴらに吸える場所といえば、スナックなどの呑み屋だったり、パチンコ屋などの遊技場やギャンブル場、つまりは、一般の人が普通にいる場所ではないところである。

 そんな場所で嫌煙権はなかなか行使できない。パチンコ屋で隣の人がタバコを吸い始めると、露骨に嫌な気分になるが、

「何見てんだよ。文句があるのか?」

 と言われて、

「タバコの煙が臭いんです」

 というと、

「ここはタバコを吸ってもいいんだ」

 と言って、まるでタバコを吸う人が正義のような言い方をする。

 確かにタバコを吸う人にとって、公共の場所は肩身の狭い思いがあるのだろう。

――しかし、百害あって一利なしのタバコを吸う連中に何の権利があるというのか――

 というのが正樹の考え方だ。

 肺がんで死ぬのは勝手にその人だけが死ねばいいだけで、副流煙でこっちまで被害を蒙るなど、愚の骨頂に思える。

 考えてみれば、今から三十年前くらいまでは、どこでもタバコは吸えたらしい。途中から禁煙席というのが設けられ、今ではタバコを吸う人が肩身の狭い思いをするようになったのだが、それも自業自得と言えるのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、昔の人はよく我慢ができたものだと思えた。

 嫌煙権に市民権を得られるようになるまで、どれくらいの期間と人がいったというのだろう?

「今では、タバコを吸う人の方が圧倒的に少ないが、昔はもっともっとたくさんいたものだよ」

 という話を聞いたものだ。

「でも、昔はどこでもタバコが吸えたので、タバコの臭いに慣れていたという意味では、今よりもマシかも知れないな」

 という意見もあった。

 今では、タバコをそばで吸っていなくても、さっきまで禁煙ルームでタバコを吸っていたという形跡が明らかに分かる。身体にタバコの臭いが染みついていて、不愉快千万である。

 最近では、電子タバコや加熱式タバコなるものが流行っているが、果たしてどこまで嫌煙権を網羅できているのか、正樹には分からなかった。確かに臭いはあまり感じないが、どこまで普及できるのか、疑問でもある。

 正樹は、タバコを吸う人間を信用しないようにしていたが、中にはいい人もいるとも思っている。今の正樹のまわりはタバコを吸わない人ばかりなので幸いなのだが、これからタバコを吸う人間とも付き合っていかなければいけなくなるのではないかと思うと、少し億劫に感じられていた。

 待合室の雰囲気は異様だった。皆緊張しているのだろうが、それを悟られたくないという思いがその場の雰囲気を一種異様なものにしているように思えた。

「こういうところは、ベテランと言っていても、実際に初めての女の子が相手だと、それなりに緊張するものなんだ」

 と、先輩が小声で教えてくれた。

 そう思ってまわりを見ていると、雑誌を読んでいる人、スマホの画面を見ている人、さまざまではあるが、皆無表情で、何を考えているのか分からない。まわりに悟られないようにしようという思いの表れではないだろうか。

 正樹は急に気が楽になった。

――なんだ、皆一緒じゃないか――

 と思ったからだ。

 ただ、気は楽になったが、緊張が抜けたわけではない。実際に緊張を抜くつもりは正樹にはサラサラない。

――この緊張感が、たまらないんだよな――

 と感じた。

 写真では女の子の顔は確認したが、対面してみないと分からないところも多い。下手をすると、相手を過大評価してしまっていて、出てきた相手が自分の思っていたような女の子ではないかも知れない。

――まるで博打のようだな――

 と思ったが、選ぶ時は先輩の意見も十分に聞いたつもりだった。

 ここまでしているのだから、出てきた相手が気に食わなくても、悪いのは自分であって、誰を責めることもできない。最初から潔い気持ちでいなければ、いわゆる地雷を踏んだ時の覚悟をしておかなければ、二度と風俗に顔を出すことはないだろう。

 いや、それだけならいいが、女性に対してトラウマが生まれるかも知れない。

 そういえば、雑誌などを読んでいて、

「童貞を捨てる時、相手の女性の態度によって、トラウマを受けることが往々にしてある」

 と書かれているのを見たことがあった。

 詳しくは覚えていないが、相手の何気ない言葉で傷つくのはデリケートな気持ちの持ち主だということなのだろうが、女性に対してトラウマが残ってしまっては、仕方のないことだろう。

 そういう意味では、お店で童貞を捨てるというのもありではないか。素人相手と違って、相手は百戦錬磨、男性にどう接すればいいか、しっかりと分かっているはずだ。

 百戦錬磨の相手だからこそ、いくら隠そうとしても、童貞だということはすぐに看破されるだろう。わざわざ隠そうとする必要もないし、最初から言っておく必要もない。筆下りしだって何度も経験済みだろうから、任せておけばいいのではないだろうか。正樹は緊張の中で、いろいろと考えていた。そんな時の時間というのは意外と早く進むもので、気が付けば待合室に最初からいた数人の客は皆いなくなり、完全に入れ替わっていた。いよいよ正樹の呼ばれる番が近づいてきていた。

「お客様、こちらへ」

 と、スタッフに呼ばれた。

 スタッフは淡々としていた。注意事項を読み上げて、

「カーテンの向こうに女の子が待機しています」

 と言って、手招きしてくれた。

 正樹がカーテンを開けると、

「こんにちは」

 と言って、指名した女の子がニコニコしながら腕を組んでくる。

「行ってらっしゃいませ」

 と言って、さっきのスタッフが送り出してくれる。

 カーテンが閉められると、そこからは、女の子と二人だけの世界だった。

 カーテンから向こうは薄暗い廊下になっていた。まるで子供の頃に入ったお化け屋敷の入り口に似ていた。

 女の子が腕を組んでお部屋までエスコートしてくれる。

「どうぞ、こちらへ」

 と女の子に言われるまま、部屋に入った。

「ただいま」

 正樹はそう答えたが、この言葉は最初から言おうと思っていた言葉だった。

 初めてきたところでも、ただいまというのはユースホステルを思い出した。女の子はその言葉を聞いてどう思っただろう?

――また来てくれるという意味の言葉なのかしら?

 と勘繰ったかも知れないが、正樹はそれでもいいと思った。

 勘違いであっても、相手がいい気分になってくれればそれでいい。せっかく会ったのだから、お互いに心地よい気分になれて、癒しが得られればそれでいいと思ったのだ。

 正樹はまだ緊張していた。その証拠に気が付けばお互いに裸になっていて、

「こちらへどうぞ」

 と、バスルームへ呼ばれた。

「このお店は初めてなんですか?」

 と、女の子に聞かれた。

「ええ、風俗自体初めてなんですよ」

 というと、

「ゆっくりしていってくださいね。今日の一日が忘れられない日になってくれれば私は嬉しいわ」

 と言ってくれた。

「そうなれば本当に嬉しいんですけどね」

 と、正樹はテレながら答えたが、本心からそう思っていたのだ。

 女の子のテキパキとした仕草はさすがと思えた。初めてきたので、手順など分かるはずもないのに、次の行動が読めてくるようで、それが安心感に繋がっていた。そう思うと正樹は彼女に身を任せることが安心感に繋がっていると、再認識した。

「もっとわがままになってもいいんですよ」

 と、女の子が言った。

「わがまま?」

「ええ、お客様であるあなたは、我がままになれる権利をお持ちなんですよ。もちろん、最低限のモラルというのは存在しますが、それさえ守れば、私ができることは何でもしてあげたいって思うんですの」

 と言ってくれた。

「それがわがままだと?」

「ええ、私はわがままという言葉を悪い言葉だって思っていないんですよ。わがままというのは、その人の感情であり、相手に対しての意思表示でもある。わがままを否定すると、相手に何をしてほしいのかということまで封印してしまい、相手も何をしていいのか困惑することになる。結果的には相手を困らせることになるって私は思うの」

「最低限のモラルと、わがままとの線引きは難しくないですか?」

「そんなことはないですよ。私はこれでもたくさんの男性を相手にしてきましたので、このお部屋の中で相手が何を望んでいるかということはある程度分かる気がしています。私だって、相手が癒しを感じてくれると嬉しく思いますからね。それこそ冥利に尽きるという言葉の裏付けになるんですよ」

 彼女の話を聞いていると、正樹は自分がわがままでいいのかどうか、分からなくなってきた。

「お前はわがままだからな」

 と、よく子供の頃、親や先生から言われてきた。

 それは戒めにしか聞こえないことだった。面と向かって言えるのは、親や先生しかいないのだろうが、

――そんなにハッキリと言わなくてもいいのに――

 と、言われた言葉にピンとこない正樹は、まるでことわざの、

「ぬかに釘」

 という言葉を思い起こさせた。

 それからわがままという言葉は、正樹の中で一種のトラウマのように受け取られていた。わがままという言葉に信憑性を感じながら、自分の中にあるわがままな性格を、自分では悪いことだとは思っていないのに、まわりから言われてしまうと、すべてが悪いことになってしまう。それが嫌だったのだ。

 わがままという言葉が自分勝手だということと結びついてくる。正樹は子供の頃からわがままを諌められていたので、自分勝手だと言われるのと、わがままだと言われるのは別の意味だと思っていた。

「わがままと自分勝手というのは、どこがどう違うの?」

 と、親に聞いたことがあった。

 親は困惑して、最初はどう答えていいのか迷っていたが、

「そんなの決まっているじゃない」

 と急に言った。

「決まっているとは?」

「同じに決まっているということよ。そんな当たり前のことを聞くんじゃありません」

 と言われて、それ以上正樹は何も言い返せなかった。

 今から思えば、それは親の開き直りだった。子供が結局言い返せなくなるかどうかまで分かっていたのかどうかは分からないが、最後には決まっているという言葉を使って、親の権限とでもいうのか、子供に言い聞かせるというよりも、強引に言い切ってしまって、話をそこで終わらせようという姑息な手段に過ぎなかったのだ。

――俺って、わがままなんだ――

 と思い続けることになるが、その感情が正樹の中でトラウマになっていった。

 子供の頃というのは、誰にでも似たようなトラウマは一つや二つはあるだろう。正樹の場合のように、大人の都合でトラウマとされてしまったことも多いだろうが、自分の性格を押し付けられたような思いは、どこまで信憑性があるのか、疑問でしかない。

 正樹には二つ違いの弟がいた。正樹は長男ということもあって、弟が生まれるまでは完全に甘やかされて育った。弟が生まれてから少しの間は、弟に手が掛かってしまい、それまでのように自分の相手をしてくれない両親に、まだ三歳でしかない正樹は疑問を抱いていた。

 それは両親の態度を見ていて感じたことだが、同じことを言うのでも、前はニコニコして話してくれていたのに、弟が生まれてからは、どこかよそよそしく感じられた。どうしてなのかが分からないだけで、子供というのは、本能でその微妙な違いを察知できるようにできているようだ。

 それでも、両親はなるべく分け隔てなく僕たちを育てたようだったが、気が付けば、正樹は、

「おばあちゃん子」

 になっていた。

「お母さんに言えないことでも、おばあちゃんになら言えるよね」

 とよく言われた。

「うん」

 と答えたが、その意味は分からずに答えているだけだった。

 弟が生まれて、弟に手がかかるようになったことで、正樹は母親の愛情が薄まったとおばあちゃんは感じたのだろう。

――いや、元々僕を独占したくてウズウズしていたんだけど、お母さんの手前できなかったんじゃないか――

 と中学生くらいになって分かってきた。

 だから、何を言うのでも母親と比較する話が多かったのも理解できるというものだ。

 そのうちに弟は両親が育て、正樹はおばあちゃんにべったりになっていた。おじいちゃんは正樹が生まれる前に死んでいたので、おばあちゃんが正樹を独占したいと思った気持ちも分からなくはないだろう。

 小学生の頃、自分がおばあちゃん子だということを友達に話していた。

「うちのおばあちゃんは、何でも買ってくれるんだよ」

 というと、友達は、

「ふーん」

 と言って、別に何もないかのようなリアクションを示していた。

 だから、言ってはいけないということを口にしているという思いもなく、話題の一つとして口にしていただけなので、まわりに与える影響など考えたこともなかった。

 正樹は小学生の高学年になった頃から、苛められっこになった。なぜ苛められるのか分からなかったが、おばあちゃん子だということが直接に影響しているわけではなかった。むしろ、何も考えずに口にしてしまうことが災いして、次第に相手にストレスを与え、苛めの対象へと育むことになったのだろう。

 そんな正樹をおばあちゃんは真剣に心配していた。両親はそれほど心配している感じに見えなかったのは、おばあちゃんの態度への反発があったのか、そんな両親に対しても正樹は疑問を感じていた。

 ただ、おばあちゃんの何が嫌だと言って、学校が終わってから校門を出ると、そこにはおばあちゃんが待っていて、一緒に帰るという日々が続いたことだった。

 正樹は露骨に、

「嫌だ」

 とは言わなかったが、それは迎えに来てくれているおばあちゃに悪いと思ったからではなく、ここで抗ってしまうと、何でも買ってくれるおばあちゃんを失うという発想から、おばあちゃんに抗うことをしなかった。

 どこかが頭の中でずれていたのだろう。だが、ずれているという意識がないことで、

「もう、迎えに来ないでよ」

 という本当の気持ちを口にすることができない自分への矛盾がどこから来ているのか、分からなかった。

 おばあちゃんが来てくれるのをどうして嫌だと思うのか、その一番の理由は、

「恥ずかしい」

 と感じることだった。

「お前はおばあちゃんが来ないと、一人じゃ帰れないのか?」

 と言って罵られてしまうことを極度に嫌った。

 実査にそう言って罵られた。顔から火が出るのではないかと思うほど恥ずかしく、その思いが自分を孤立させることになるのだと、無意識に感じていたのかも知れない。

 それとも、おばあちゃんの罪のない行動、いや、孫を思う気持ちが、子供の世界では大人を盾にしたかのような卑怯なやり方に見られるようで、さらに苛めがエスカレートしてしまうことを分かっていたかのようだった。

 実際におばあちゃんが来るようになってから、苛めがエスカレートしていったような気がする。

 おばあちゃんが迎えにきてくれる毎日は、二か月ほど続いただろうか。

――もういいや――

 と、開き直った頃になって、今度は急におばあちゃんが校門の前で待っていることがなくなった。

 どうしてなのか分からなかったが、どうやら両親と話をして、喧嘩になったようで、おばあちゃんが校門の前で待つことをやめたようだ。

 後から聞いた話では、

「おばあちゃん、そんな恥ずかしいことはやめてください。私はPTAをやっている手前、そんなことをされると、他の人の手前、やりにくくて仕方がないんですよ」

 と言ったようだ。

 それまでは、おばあちゃんも自分の意見をしっかりと言って、お互いの意見を戦わせていたのだが、その言葉を聞いた瞬間、おばあちゃんは急に言葉を失い、黙って頷いたという。

 正樹は後からその話を聞いて、

――おばあちゃんは、その時に自分のバカさ加減に気が付いたのかも知れない。お母さんが自分のバカさ加減に気付かずに自分を正当化するために言っている、自分だけの都合がいい加減嫌になったのだろう――

 と感じた。

――人のふり見てわがふり治せ――

 とはよく言ったものだ。

 おばあちゃんもそのことにやっと気付いたのだろう。

 おばあちゃんが来なくなってから、苛めもピタリのなくなった。別におばあちゃんが来なくなったから苛めがなくなったわけではない。実際には苛めの対象が別の子に移っただけで、正樹が認められたわけでもなんでもなかった。

 そんなことがあってから正樹は友達を作ろうとしなかった。作ったとしても、直接的な利害関係に発展するような友達を作るつもりはない。アニメやドラマでの親友や友達関係など、現実の世界では理想でしかないと正樹は考えていたのだ。

 それでも思春期になると、正樹は女性を意識するようになった。

――友達はほしいとは思わないが、彼女はほしい――

 と思うようになった。

 ただ、正樹が彼女をほしいと感じた最初の理由は、クラスメイトの男の子が、嬉しそうに女の子と一緒に歩いているのを見て、眩しいと感じたからだ。それは完全な嫉妬心であり、自分の心の奥から、

「彼女がほしい」

 と感じたわけではない。

 正樹にとって彼女というのは、

――まわりに自分の存在をひけらかしたい――

 と感じたところから始まった発想で、彼女ができてからその先という発想は実際にはなかった。

 ある意味、

「謙虚だ」

 とも言えるかも知れないが、それは苛められっこだったために、なるべく出ないようにしようとする態度がそうさせるのかも知れない。

「出る杭は打たれる」

 という言葉が頭をよぎったことだろう。

 だから、

「彼女がほしい」

 と言いながらでも、実際には、

――自分に彼女などできるはずもない――

 という思いが潜んでいたのも事実で、むしろ、これが本音だったとも言えるのではないか。

 彼女ができてしまえば、彼女がほしいと思っている熱も一気に冷めてしまい、目標を達成したことで、何をどうしていいのか分からなくなる自分を、無意識に想像していたのかも知れない。

「目標は持つことが楽しいのであって、達成してしまえば、その後どうしていいのか分からない」

 と、いう話は聞いたことがない。

 考えてみれば、目標を達成してしまうと、その先を考えると、この思いが頭をよぎらないはずもない。それなのに誰も口にしないということは、言ってはならないタブーなのかも知れないと思うのだが、その理由が分からない。

 普通は達成できることを目標にするのものなのだが、達成した人は、どう思っているのだろう。次の目標を新たに設定できればそれでもいいのだろうが、達成するまでの目前の感情を知ってしまうと、すぐに他の目標を立てるなど、できるはずもないような気がする。

 正樹は子供の頃から、人から言われるままの行動を自分がしていることを自覚していた。そしてそのことが嫌だと思うことも多かった。しかし、それを抗うだけの気持ちはなかった、抗うことが勇気だとも思わない。かといって、抗うことで抗った相手に嫌われることが嫌だったわけでもない。

 ハッキリとした理由もないのに、嫌だと思うのは往々にして正樹にはあったことだ。最初は理由が分からないことを、

――気持ち悪い――

 と感じていたが、最近では気持ち悪いと思うこともない。

――別にいいか――

 と思うようになり、何かを感じても、その理由を深くは感じないようになった。

 先輩に連れてきてもらった風俗も、嫌でもなければ、それほど嬉しくもない。ただ後ろに従ってやってきたというだけで、結局は自分の意志ではない。その思いは、

「言い訳じゃないのか?」

 と言われても仕方がないが、それでも構わないと思っていた。

 小部屋で、そそくさと手際よく準備をしている女の子を漠然と眺めていると、何かを考えているのだろうが、何を考えているのか自分でもよく分からないと思う正樹だった。

――こういう時って、会話しなければいけないんじゃないのかな?

 とも思ったが、それも女の子の性格によるもので、別に自分が退屈しているわけではないので、それはぞれでいいのだろう。

「お兄さんは、初めてなんでしょう?」

 と言われて、

「ええ、そうですよ」

 と平気で答えると、

「こういうお店では、本当は会話を絶やさないようにしなければいけないのかも知れないけど、私にはそんなことできないって思っているの。話したくないことだってあるだろうし、余計なことを口にしたくないと思っている人もいる。でも、お兄さんはそのどちらでもないような気がするわ」

 と、面白いことを言っている。

「どういうことなんだい?」

「自分から話をしたくないと思っている人は、目を見れば分かるもの。なるべく目を合わさないようにしようとしたり、こちらが目を逸らすと、待ってましたとばかり、私の身体を舐めまわすように見たりするのよ」

「それって気持ち悪くないですか?」

「普通ならそうよね。でも、私はそうは思わない。その人のそれが正直な姿なんだって思う。だって、男の人は女の子の身体に興味があるでしょう? しかも、これから相手をする人なんだからね」

「それはそうだけど」

 正樹は、彼女の言うことが正統派な意見であることは分かっていたが、なぜか彼女が言っていると、その言葉に違和感が含まれているような気がした。その違和感がどこからくるものなのかは分からなかった。

「でも、私はそんな視線を見ると、かわいそうに感じるの。なんていうのか、その人の中にある矛盾を見たというのかね」

「えっ?」

 彼女は正樹の感じている違和感を感じとっているのだろうか?

「自分から話をしない人って、控えめな人なのよ。つまりは受け身一辺倒で、自分から責めてこようとはしない人。責められることに終始する人ね。そんな人が私の身体を舐めまわすように見るというのって、何かおかしいとは思わない?」

「確かにそうですね。自分から責めたいと思うのなら、相手の身体を熟知していたいって思うんだろうけど、そうじゃなかったら、じっと見る意味がないような気がするな」

「そうでしょう? でもね、私はそれもありだって思うのよ。私の身体を舐めまわすように見ながら、自分の視線が私の身体にどんな刺激を与えるかを知っているんじゃないかって思うの。自分の視線で相手のやる気が増幅されればそれでいいんじゃないかってね。でも、風俗ではそんなことは通用しないんだけどね」

 と言って、彼女は笑った。

 正樹は、初めて見る女性の裸体、テカテカと光り輝くきめ細かい肌、そしてしなやかなまるで計算されているかのような動きを気にはしていたが、決して舐めまわすような視線を浴びせているわけではない。

 それは、

――相手に失礼だ――

 という思いがあるわけではない。

 むしろ、見つめてあげる方が、相手にはいいのではないかと思ったほどだ。その思いを看破したかのように彼女は口にした。ただそれだけだったのだ。

 用意が整ったのか、彼女が浴室から戻ってきた。

 そして正樹を前にして、

「それじゃあ、裸になってくださいね」

 と言って、バスタオルを一枚手に持って、正樹の前に鎮座した。

 そして、手際よく正樹の身体から衣類を剥ぎ取って行ったが、正樹はその時、彼女の息遣いを感じたことで、さらに彼女の口元に聞き耳を立てるようになった。

「ハァハァ」

 という息遣いであったが、それは別にエロチックなものではなかった。

 かといって、息切れからくる、

――仕方のない喘ぎ声――

 というわけでもなかった。

 正樹にはそれが彼女にも気付いていない無意識な息遣いに感じられた。そう思うと急に彼女がいとおしくなってその口元を見つめていた。

 彼女は正樹が自分の口元を見つめていることに気付いたようだが、どうして口元を見つめるのか分からなかった。彼女はニコリと微笑んだが、その笑みにはねっとりとした妖艶な雰囲気が感じられた。これが彼女に正樹が感じた一番最初の妖艶さだったのだ。

 正樹は衣類を脱がされながら、くすぐったさを感じた。肌をすり抜ける衣類が心地よくて、思わず目を瞑ってしまいそうになるのを感じた。

――俺って、こんなに敏感だったのか?

 と思ったが、脱がされているという感覚が、自分の中にある何かを刺激したのではないだろうか。

 一糸まとわぬ姿になると、股間にすかさず彼女が先ほどのタオルを掛けてくれた。ここまでが一連の作業で、その手際には一切の無駄はなかったように思う。

――さすがプロ――

 と感じたが、感じてしまったことを一瞬後悔した正樹だった。

 そのまま手を引かれてお風呂に入った。ここでは彼女のテクニックの一端を見ることができたが、それは正樹が知っている耳年増としての知識にたがわぬもので、特質すべきものはなかった。

 初めての経験なので、

――こんなものだ――

 と感じればそれでよかったのだ。

 ただ、夢のような時間を過ごしていると感じていた。限られた時間の中での恋人気分。人によっては時間を必要以上に気にしてしまって、自分の求めている快感をすべて得ることができない人もいるだろう。そんな人はどうして快感のすべてを得られないか分かっているのだろうか?

 正樹はそれでもいいと思っている。百パーセントの満足感を得てしまうと、次に求めるものはどこにあるのかと考えるからだ。

――人は百パーセントを求めるものなのだろうが、百パーセントを得てしまうと、それ以上をどうやって得ようか、どう考えるのだろう?

 と他人事のように思っていた。

 それは目標を達成した時に似ている。新たな目標を設定できなければ、達成してしまったことで、すべてがリセットされてしまう気がする。

――せっかく得ることができた完璧さも、リセットしてしまうことで感情が高揚しなくなる――

 正樹はそんな気がして仕方がなかった。

 そういう意味で、風俗に来た意味があることに、その時の正樹は気付かなかった。

 浴室では、すべて彼女の言いなりだった。

「どうぞ、こちらへ」

 と言われて、敷かれたマットの上に横たわると、ローションを塗られて、その後は彼女の無言の攻撃が続いた。

 今度も彼女の吐息が聞こえた。

「ハァハァ」

 さっきと同じ吐息だったが、声のトーンがまるで違う。

 先ほどよりも少し声のトーンは低かったが、ハスキーな声には妖艶さが滲み出ていた。

――この声――

 正樹は声を感じるたびに、自分の身体が反応するのを感じた。

 彼女はまったくの無口だった。そのくせたまに正樹を見つめてはニコリと微笑む。その表情は明らかに淫らだった。

 そのすべてが下から見上げる目線で、獲物を狙う獣の目線にも見えたが、正樹はそれでもよかった。

 自分の立場は、彼女ありきであり、自分に自由はなかった。ただ黙ってされるがままになっているだけしか自分にはなく、それならば、

――このまま快感に身を任せるだけのこと――

 と思えばいいだけだった。

 そのことを理解すると、正樹は目を瞑った。目を瞑って快感に身を任せていると、自分の身体を這っている彼女の指先と、時折舌先を感じる。そんp微妙なコントラストが、一番敏感な部分をなかなか攻撃してこないことへの焦らしを感じさせ、次第に肌に鳥肌が立ってくるのを感じた。

――鳥肌って、気持ち悪い時だけに立つものじゃないんだ――

 こんな当たり前のことすら、今まで知らなかったことをその時の正樹は痛感していた。

「ふふふ」

 彼女は正樹がそのことを感じた瞬間、声を出して笑った。

「何もかも私にはお見通しよ」

 と言わんばかりの様子に、すっかり正樹は魅了されてしまった。

 その時に正樹は、自分が完璧に受け身になっていることに気が付いた。そして、このまま終始受け身でいくことが決まったかのように思ったが、それを彼女も最初から分かっているかのように、攻撃の手は緩まない。

 いや、完全に緩まないというわけではない。実際には攻撃には強弱があり、強攻撃だけではすぐに陥落してしまうことを相手は知っている。そこに焦らしがあったり、寸止めがあったりすることで、強弱を感じることなく、快感を継続させることができる。ただ、それも人それぞれの体質があるだろうから、寸止めというのも難しいだろう。それを可能にするのは、経験と感性だと思うと、正樹は男女の身体の相性の奥深さを感じないわけにはいかなかった。

 ローションが肌に心地よいと思っていたが、

――あまり長いとしつこく感じられるのではないか?

 と思えてきた。

 確かに同じ場所をしつこく攻撃されるとくすぐったくなるもので、正樹はそれを危惧していた。

 だが、彼女にはそんなことは分かっているようで、決して同じ場所をしつこく責めてきたりはしない。強弱をつけるだけではなく、体位を変えることで刺激する場所も微妙に変化していって、次第に一番敏感な部分に着実に近づいていた。

――いよいよかな?

 と正樹は待ち構えていると、それを察した彼女は、すかさず敏感な部分への攻撃を加えた。

「おおっ」

 思わず声が出てしまった正樹は、

――しまった――

 と感じ、彼女の顔を見てしまった。

 そこに浮かんだ彼女の顔は、さっきと同じ人間かと思うほどに変貌していた。その表情は、

――本当なら見たくなかった――

 と思うような表情で、妖艶さを含んだ顔は、

――さっきと同じ人なのか?

 と思うほどの顔になっていた。

 自分よりも少し年上くらいにしか思えなかった彼女だったが、今正樹を責めているその顔は、まるで自分の母親と変わらないくらいの熟女になっていたのだ。

――そんな――

 と思い、一瞬敏感な部分が萎えてしまったかのように思ったが、異変に気付いたのか、彼女はここぞとばかりに、正樹の敏感な部分を頬張り、激しく刺激した。

「おわっ」

 身体がエビぞってしまったことで、もう正樹は平常心ではいられないことを覚悟した。

 彼女の攻撃は容赦なく、まるで正樹のすべての精気を貪り尽くさんとしているかのように思えて、本当は逃げ出したい気分になっていた。

 それを許すまじと攻撃の手を緩めない彼女の前に、童貞の正樹にはどうすることもできなかった。一気に高まった感情が吸い取られていくのを脈打っている身体全体で感じていた。

「ハァハァ」

 今度は正樹が喘いでいた。

 正樹は童貞ではあるが、一人でする経験がないわけではない。

 一人でした後に残る憔悴感を、正樹は最初嫌だったが、慣れてくると、

――こんなものか――

 と思い、それを仕方のないことととして捉えるようになった。

 正樹があきらめがいい性格だと思うようになったのはその頃からで、

「まあいいや」

 というのが、自分の心の中での口癖になっていた。

 一戦を終えて、二人は憔悴していたが、彼女の方が立ち直りが早かった。

「達してしまうと、男は憔悴が長いからな」

 とは、先輩から教えられていたのでよく分かっているつもりだったが、そそくさと起き上って次の用意をする彼女を遠目に見ていると、もう満足してしまった自分を感じていた。

 だが、今日は彼女の言いなりになると決めていたのだ。それにこれから何があるのか興味は十分にあった。先ほど一緒に座った簡易ベッドに腰を下ろしている彼女は、正樹を見ながら、起き上ってくるのを待っているかのようだった。

――時間が書ひられているのに――

 と正樹は感じた。

 人によっては、今の正樹と同じように、一回戦だけで満足してしまう人もいるだろう。むしろ二回戦以降を行う人の方が珍しいのかも知れない。正樹にはよく分からなかった。

 正樹は彼女と目が合った。いや、彼女の見つめる目に吸い寄せられたと言ってもいいかも知れない。

 正樹はおもむろに立ち上がり、彼女の待つ簡易ベッドに向かった。

――身体が動けるとすれば、このタイミングしかなかったな――

 と感じたが、それを彼女が知っているかのようで、正樹は驚いた。

 だが、これは後で知ったことだが、いくら身体が憔悴していて、脱力感に溢れていても、いったん起き上がるという決意ができれば、案外と動けるものだ。要するに身体を動かす決意ができるかということが重要なだけで、その感覚にならなければ、いつまで経っても起き上がることはできない。

 逆に起き上がる気持ちになれば、いつでも起き上れる。ただそれは起き上がる気持ちになった時に一気に起き上れるかというのが重要で、その時少しでも戸惑いがあって起き上がることをやめてしまったりすると、二度と自分から起き上がることができなくなってしまう。それも、男が快感に達した後の脱力感と憔悴に身を任せている時に感じる、唯一の感情なのだ。

 女性が男性のそんな性質を知っているとは思えない。いくら彼女が百戦錬磨であっても、そこまでは分からないだろう。正樹は分かっていてほしくないと思った。そこには男のオンナに入られたくない部分が潜んでいると思ったのだ。

 それさえなければ風俗を悪いことだとは思わない。むしろあってしかるべきだと思っている。自分勝手な発想でしかないが、究極、風俗と言うのはそんな自分勝手な妄想を満たしてくれる場所なのではないかと思うのだった。

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