二年生、夏のはじめ。

午前二時

櫻樹朔良子と七奈々望は、

 櫻樹さくらぎ朔良子さくらこなな奈々望ななみは幼馴染である。幼稚園から小、中、そして現在は高校も同じところに通っていた。

 櫻樹朔良子は、その名の通り美しい桜色の髪をしている。左目の下には泣き黒子があり、青空を映したような瞳は何時でも輝いている。黒縁の眼鏡の奥に隠れていてもなお、その輝きがわかると言ったら伝わるだろうか。学校の中でも有名な部類に入り、文化祭のミス・コンテストでは一年の時から候補に挙げられていたほどだ。

 その幼馴染であり親友の七奈々望は、夏の海のような青い髪と、生い茂る緑の瞳を持つ少女である。少しばかり目つきの悪いのが玉に瑕だが、それはともかくとして整った顔と呼ばれる部類には入るだろう。右の横髪を特別に伸ばして三つ編みにしているのがトレードマークで、走る度にゆらゆら振り子のように揺れるのを見るのが好きだ、と櫻樹朔良子は言っていた。

 二人は大変仲が良かった。二人が喧嘩をしたのを見たことのあるものは誰もおらず、毎日ともに登校し、昼食も一緒に食べ、文化祭も二人でまわっていた。高校生にもなって手を繋いで帰るのすら恥ずかしがる素振りを見せない二人は、自他ともに認める親友だった。

 だった、と過去形なのは今はもう違うからである。櫻樹朔良子が七奈々望に告白したのだ。告白、というのは、懺悔という意味ではない。好意──恋愛的に好きだという気持ちを伝えることだ。

 それは唐突に行われた。なんの前触れもなかった。昼休み、晴れているからと中庭のベンチに並んで座って弁当を突いていたら、櫻樹朔良子がいきなり口火を切ったのだ。

「わたし、ナナが好きよ」

「あたしも好きだよ、サク」

「そうじゃなくてね、ええと。同性として? うーん、恋愛的に、好きなの」

 好きと言われていつもの調子で返したら全く予想もしなかった返答を受け取ってしまった七奈々望の脳内は三拍ほど置いてパニックになった。膝に乗せていた弁当をひっくり返してしまい、ブロッコリーとミニトマトが転がり、米粒は撒き散らされ、食べかけのハンバーグは無惨にも蟻の巣の近くに落ちた。

「な、なな、なんて?」

「だからね、わたしナナのことが好きなの。愛してる」

「恋愛的に?」

「恋愛的に」

「勘違いじゃなくて?」

「勘違いじゃなくて」

 蟻が割れたハンバーグに群がって、黒い塊がうぞうぞと蠢いている。七奈々望はそれに目を向けた。櫻樹朔良子はその横顔をじっと見詰めている。遠くから、恐らく昼食を食べ終わって外へ遊びに出たのであろう燥いだ声が聞こえてくる。けれども、櫻樹朔良子と七奈々望の周りだけは、静寂に包み込まれていた。七奈々望の耳には、自分の心臓の肋骨を叩く音と、櫻樹朔良子と自分の呼吸音だけがやけに煩く聞こえていた。

 空気が張り詰め、少しでも動けば皮膚が切れてしまいそうだ、と七奈々望は思った。と、不意に櫻樹朔良子が口を開いた。

「ごめんね、変なこと言って……忘れて? ね?」

 そう言うと、櫻樹朔良子は膝の上の、まだ半分も減っていない弁当を手早く纏めると立ち上がって、走り去ってしまった。あとに残された七奈々望の脳内にはいつまでも、櫻樹朔良子の哀しそうな、引き絞ったような声がぐるぐると渦巻いていた。

 バターになりたい。七奈々望はそう思った。もういっそバターになって、どろどろに溶けてしまいたい。頬に手を当てる。それは信じられないくらい熱くて、バターなんか簡単に溶かしてしまうだろう。

 七奈々望は、ポケットに入っていたティッシュを取り出して、地面に落ちたミニトマトやブロッコリーなんかを拾い上げると、それを空の弁当箱に詰め込んだ。ハンバーグはもうほとんど蟻に持っていかれていて、僅かな肉片しか残っていなかった。


 櫻樹朔良子は、ずっと七奈々望のことが好きだった。大好きで、愛している。世界中の誰もに刃を向けられたとしても、七奈々望とともにいたいと思っている。

 あの告白は、櫻樹朔良子にとって予想外のものだった。いつも通りの何でもない昼休みのはずが、気付けばあんなことを口走ってしまっていた。七奈々望から見た櫻樹朔良子は今日の数学の課題の話をしているかのような冷静さを保っているように見えていたが、その実、全く冷静でも平常でもなかった。ぽろりと、いつも思っていることが口から飛び出してしまったのだ。

 一度口に出してしまえばもうどうしようもなく、櫻樹朔良子は半ば諦めた形で一世一代の告白を果たしたのだ。諦めた、というのは、これを言ってしまえばもう前の関係には戻れないということをわかっていて、今まで黙っていたのがすべて水の泡と化したのを諦めたということだ。

 七奈々望が落ちたハンバーグに目をやった時、櫻樹朔良子は、あ、終わった、と思った。七奈々望は、あの時ハンバーグを見ようとしたのではない。彼女には、困った時視線を下へやる癖があるのだ。あの反応は、櫻樹朔良子の言動に困ったからこそ出たものだと、櫻樹朔良子は理解していた。

「ああ……どうしよう、どうしよう、どうしよう!」

 櫻樹朔良子は、自宅のベッドの上で枕を抱えて一人狂乱していた。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう、今までずっと上手くやっていたのに、ああもう終わりだ!

 ベッドサイドに伏せてあるスマートフォンに手を伸ばす。光るメッセンジャーアプリの画面の左上には、ナナ、の二文字。昼のことを弁解しようか、それとももうこのまま押し通すかを悩み続けて気付けばもう日付が変わろうとしていた。手汗を横縞のパジャマで拭うと、櫻樹朔良子は文字を入力し──そしてそれを送信する前にすべて消した。

「……もういっか、明日、わかるし」

 そう呟くと、力尽きたように目を瞑った。


 翌朝、櫻樹朔良子が目を覚ますと、時刻は七時と五十二分を指していた。家を出る時間をとっくに過ぎている。

「起こしてくれなかった……?」

 毎朝来るはずの七奈々望からの電話がなかった。きっと昨日のことが原因だ。櫻樹朔良子は瞬時にそう思った。いつも、寝起きに聞く七奈々望の声を楽しみにしていたのに。生まれて初めての遅刻よりも、そちらのほうが痛かった。

 もう遅れるのは確定なんだからせめてパンくらい食べていきなさい、そう言う母親の言葉に、ううん、いい、と返して櫻樹朔良子は靴を履いた。食欲なんて無かった。家を出てすぐ弁当を忘れたことに気付いたが、どうせ食べないしと櫻樹朔良子はそのまま真っすぐ自転車を漕いだ。靡く髪すら鬱陶しく、いっそバッサリ切ってしまおうか、と力なく笑いながらペダルを力いっぱい踏んだ。初めて一人で走る道は、随分と広かった。なんだか視界がぼやけていると思ったら眼鏡を忘れていた。そう、眼鏡を忘れたから視界がぼやけているのだ。ぐずぐず鳴る鼻を啜って、櫻樹朔良子は学校まで無言で走り抜けた。

 校門は閉まっていた。この時間帯に来たことがないからこうなっていると知らなかった。どうすれば良いのかわからなくて、櫻樹朔良子は踵を返した。学校をサボるのも初めてのことだった。


 学校から三十分ほどの公園に着いて、櫻樹朔良子は自転車を入口の近くに停めると、ブランコに座り、悄然として俯いた。その姿は暗闇を背負っているようで、晴れ空にもかかわらず、そこだけじめじめと湿り気を帯びていた。誰もいない公園は櫻樹朔良子が生み出す憂鬱な雰囲気を感じ取ったか、重苦しく、不安な空気で淀んでいた。

 地面を蹴ってブランコを漕ぐ。作った風で熱い目元を冷やすと、幾分か気が紛れる気がした。

「ああ」

 櫻樹朔良子は不意に顔を上げて、誰に言うともなく口を開いた。風邪をひいた時のような掠れた声で、言い訳のように、

「ま、でもよかった! 言わずに後悔するより、言って後悔したほうがいいもんね!」

と言った。それは明らかに強がったわざとらしい言い方だったが、ここに聴衆はいない。無音の公園に、櫻樹朔良子の言葉だけが虚しく響いた。

 きぃ、きぃ、とブランコの鎖が櫻樹朔良子を咎めるように音を立てた。少なくとも櫻樹朔良子にはそう聞こえた。それが無性に癇に障って、櫻樹朔良子はブランコから飛び降りた。そうして勢いよく振り向いて、そこに、昔の自分と、七奈々望の姿をそこに見た。

 この公園は、幼い櫻樹朔良子と七奈々望がよく遊んでいた公園だった。二つ並んだブランコに、櫻樹朔良子が右、七奈々望が左に乗って、どちらがより高く漕げるか競争したり、緩く漕ぎながら、昨日のテレビ番組の話とか、月刊の少女漫画の話とかをしたりなんかしていた。

 今、ブランコは右側のだけが大きく揺れていて、左のそれは静かに止まっている。隣に七奈々望がいないという事実がずきんと櫻樹朔良子の胸に刺さった。

 くぅ。不意打ちのように間の抜けた音がした。櫻樹朔良子の腹からだ。こんな時でも腹は空くのか、と櫻樹朔良子は思って、それがとても可笑しくて、思わず笑いそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐えようとした、けれども耐えきれずに笑みの一端が口角に浮かんだ。

「サク!」

 と、そこに突然、聞こえるはずのない声が聞こえ、櫻樹朔良子は狼狽えた。聞き覚えのあるどころか、毎日聴き続け、これからも一生聴き続けていきたいとさえ思っている、世界で一番愛おしい声、七奈々望の声だ。

「ここにいた! サク、もう、探したんだよ!」

「な、な……? 学校は?」

「抜けてきた!」

 七奈々望は紅潮した頬をふうふうと上下させながら、櫻樹朔良子目掛けて駆け寄ってきた。そして、櫻樹朔良子の胸に握った左拳を叩きつけた。それは柔らかな櫻樹朔良子の胸で弾んで止まった。それから、七奈々望は、櫻樹朔良子の背中に両手を回して、

「ばか」

と言った。


 七奈々望は、ずっと櫻樹朔良子が好きだった。大好きで、愛している。世界と櫻樹朔良子のどちらかを選べと言われれば櫻樹朔良子を一秒も迷わず選ぶだろう。

 櫻樹朔良子に告白されたとき、七奈々望は世界の時が止まってしまったかのように錯覚した。全くなんの前触れもなく、予想外の出来事だったので驚きすぎて弁当箱をひっくり返してしまったが、昼食を食べそこねたことなどどうでもいいくらいに動揺し、すぐに答えを伝えられなかった。その後の授業はずっと上の空で、体育のテニスではボールが鳩尾に当たり悶絶したのをペアの子に笑われた。櫻樹朔良子と同じクラスでなくてよかったと、その時初めて思った。

 その日はどうにも眠れなくて、スマートフォンのメッセンジャーアプリとにらめっこしていたら夜が明けていた。電話をかけなかったのは、受話器のアイコンをタップしようとして、できなかったからだ。声を交わすのが無性に気まずく感じて、親指を彷徨わせるだけで終わってしまった。そのまま、なんとなく一人で登校してしまったのだ。

 まさか櫻樹朔良子が学校に来ないとは思わなかった。二限の合同授業のとき、はじめて櫻樹朔良子がいないことに気付いた七奈々望は、もしかしてと思い、嘘の腹痛を訴えてそのまま学校を抜け出した。そのまま二人の思い出の場所を、櫻樹朔良子がいそうな場所を巡り、そしてついにこの公園に辿り着いたのだ。

 空のブランコを見詰めて笑う櫻樹朔良子を、けれども七奈々望は不気味だとかいっさい思わず名前を呼んだ。そんなことよりも、ちゃんと櫻樹朔良子を見つけられたことのほうが重要だった。それから、一人で先走った馬鹿なかわいいひとに一発入れてやろうと思って、こぶしを出した。柔らかな感触と温もりは、七奈々望を安心させるのには十分で、あとはもう、全身で体温を感じたくて、抱き着いた。

「ばか」

なのは自分のほうか。


 櫻樹朔良子と七奈々望は右と左とでブランコに座って、何を言うでもなく揺ら揺らと前後に揺れた。ことばは必要なかった。時間と、空間とだけが二人には必要だった。やにわに空が曇って、ぽつぽつと水滴が落ち始めた。それはやがて銀のような大粒の水玉になって、二人を包むように降ってきた。ブランコと、櫻樹朔良子と、七奈々望との世界ができあがった。

 不意に七奈々望が右手を櫻樹朔良子に向けて伸ばした。櫻樹朔良子はそれに、左手を伸ばして応えた。二人の手が触れ合って、冷たい雨の中で唯一の熱になった。そのまま二人は立ち上がった。立ち上がって、手を繋いだままくるくる回って、まるで踊っているようだった。観客のいないダンスはしばらく続いた。踊りながら、二人は笑っていた。雨が口や目に入っても、靴に水が染み込んで、泥がはねてぐちゃぐちゃになっても、白いセーラー服が濡れて透けても。寒さなど感じてやいなかった、むしろ暑いくらいだった。


 このまま消えてしまえたらいいのに、と櫻樹朔良子は思った。

 この瞬間が永遠に続けばいいのに、と七奈々望は思った。

 どちらも、口にはしなかったけれど。


 やがて、どちらともなく回るのをやめ、二人は少しの間見詰め合ったあと、ふふふ、あはは、と笑った。櫻樹朔良子はくすぐったそうに、七奈々望は天真爛漫に。心底幸せそうな笑い声は、不思議と雨の音に掻き消されずによく響いた。

「帰ろうか」

「うん」

 七奈々望が提案したのを、櫻樹朔良子は頷いた。公園の入口に停めっぱなしだったずぶ濡れの自転車に跨って、ずぶ濡れの二人は並んで走り去っていった。


「今日ね、親いないんだ」

 七奈々望の家で、ずぶ濡れの髪をタオルで乾かしながら、七奈々望は櫻樹朔良子にそう言った。まさかそんな台詞を自分が吐くとは思ってもいなかったが、なんとなくそう言った。

「そうなんだ」

 櫻樹朔良子は濡れて泥まみれの靴下を脱ぎながらそう返した。それ以外になんと返せばいいのかわからなかった。けれどもメッセンジャーアプリで親に「今日はナナの家に泊まります」と送った。既読が付く前にアプリを消して、画面を伏せて机の上に置いた。こたえなどどうでもよかった。

 七奈々望の服を着た櫻樹朔良子は、胸が少しきつかったけれど、そんなことよりも好きな人の服を着ているという事実に舞い上がった。いつも嗅いでいる匂いが、いつもよりとてもいい匂いに感じた。

 七奈々望は、好きな人が自分の服を着ているのを見て、胸が変なふうにときんと動いたのを感じた。


 櫻樹朔良子と七奈々望は七奈々望の部屋へ行った。そしてベッドに腰掛けて、なんとなく手を重ねてみたりした。雨で冷えた手が、みるみる温まるのがわかった。

「ね、サク……あの、さ」

「ナナ、いいよ」

 それが合図で、二人は唇を重ねた。初めてのそれは、驚くほど柔らかかった。それから何度も、磁石のように二人の唇は触れ合った。お互いの熱が混ざり合ってどちらのものともわからなくなったころ、二人はようやくくちづけをやめた。そこでまたお互いの顔を見、そして七奈々望は驚いた。

 櫻樹朔良子は泣いていた。瞼から筋を引いて涙が溢れていた。

「サク?! ごめん、あたしなにかした?!」

 その問いに、櫻樹朔良子は首を横に振った。

「ちがうの。……嬉しいの。ナナとこうして、キスできて、恋人みたいなことができて」

「恋人じゃないよ。恋人になるんだよ、あたしたち」

 ぐす、と鼻を鳴らして、櫻樹朔良子はいいの? と迷子の子供のように問うた。七奈々望は、当たり前じゃん、と答えた。


 次の日、二人は揃って風邪をひいた。自宅へ送還された櫻樹朔良子はしかし、ベッドの上で、スマートフォンに向かってにこにこ話をしていた。相手はもちろん七奈々望で、二人はぐずぐずの鼻声で、楽しそうに笑いながら話をしていた。


 二年生、夏のはじめのこと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二年生、夏のはじめ。 午前二時 @ushi_mitsu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ