三光年のメール

時任しぐれ

三光年のメール

「星を見るっていう行為はさ、疑似的なタイムスリップだと思わない?」


 中学二年生の冬、そう言っていたのは柊木佳奈という親友だった。


「あのキラキラ光っている星空はさ、ずっと昔の光なんだよ。ずっと昔の光を今見てるの」


 その日は確かに星の綺麗な夜だった。合宿かなにか、とにかく学校行事の一環で校舎に泊まっていた。学校の屋上で夜風に髪を揺らしながら、彼女はころころと鈴が鳴るような笑顔で笑っていた。


 それに対して私はどう答えたのだろう。普通の私だったらその場しのぎの答えを出して終わりにすると思う。けれど彼女の前の私は少し違った。


「私は星に手を伸ばしたことがあってさ」

「ん?」


 佳奈は首を傾げてこちらを見る。かわいらしい仕草で、思わず動きの鈍い頬が緩んだ。


「今思い出したの。昔は星に手が届くと思っていたって」


 大人になって身長が伸びれば、もっと大きくなれば、この手の中を星でいっぱいにすることができる。本気でそう信じていたのだ。


「そんな子供の世迷言を思い出したってだけ」

「優ちゃんはロマンチストな子供だったんだね」


 そうだろうか。子供のうちは誰だってこのくらい考えると思う。雨が降ったあとに地面に浮いている虹も綺麗だと感じるし、猫の小判を本物の小判のように集めることだってできる。中学生活も二年目、もうそんな純粋なままではいられなくなっていた。


「佳奈は今でもロマンチストだよね。どうしたらそうなれるのか教えて欲しいくらい」

「簡単だよ。憧れを見ればいいんだよ」


 わたしにとってはそれが星なの、と続ける。今のは皮肉だったのだけれど、と言う気も失せていたのを覚えている。


「憧れって……私にはそんなのないよ」

「ないなら今決めちゃえばいいじゃない。夢でも未来でも、何でもいいんだよ。それがあれば自分が自分でいられるっていうものを持っておくんだ」

「……何だろう、ぱっとは思いつかない」


 その答えは確かに私の中にある。しかしそれを彼女の前で口に出すことはなかった。

 

嘘を吐く私に対して、佳奈は何と言ったのだったか。


「優ちゃんは昔から優柔不断だもんね。優しすぎるんだよ、名前の通りだ」

「それ、貶してるの? 褒めてるの?」

「どっちもかなぁ」

「何それ」


 思わず乾いた笑いが漏れる。


「でも優ちゃんはそのままでもいいと思うよ。優しいのは悪いことじゃないしね」

「私は私を優しいと思ったことはないけど」

「自覚的に他人に優しい人なんている?」


 また彼女は笑う。その明るい笑顔は、星以外の明かりがない屋上ではキラキラと光って見えた。そのまま彼女は空を見上げる。私もその視線を追った。三つの輝きが大きな三角形を描いている。


「星を見て、優ちゃんと話してってできる今の毎日が好き。このままずっと続けばいいのに」


 そのセリフと同時に、プツリと電源が落ちるように昔の景色は真っ黒に染まった。

 カーテンの隙間から白い光が目元に差し込む。トントンとドアの叩かれる音が耳に届いていた。その音でああ、現実に戻ってきたんだなとわかる。


「優、起きなさい」


 母の声がする。言い方は強くないが、私を急かす意思は感じられた。


「起きてるよ」


 布団を体から引きはがして、洗顔、朝食、歯磨き、化粧といった朝の一連の行動を終える。制服の袖に腕を通すと今日も高校生としての日常が始まる。


 そこに佳奈はいない。


 うちのクラスの机の数はいつも四十で固定されている。空席があるわけでもない。もちろん風邪やら交通の問題で人が休めば空席は生まれるけれど、席の主までがいなくなっているわけではない。


「おはよう、星見さん」


 こうしてあいさつをしてくれる友人もいる。


「おはよう」


 あいさつを返すと、「ああ」とも「うん」ともつかない曖昧な返事が返ってきて、それで朝の会話は終わりだった。


 ホームルームの時間になれば担任がやってきて今日の諸連絡が行われる。一限の世界史は教室が移動になっているらしい。移動して淡々と授業を受ける。受け身な形式の授業はどうにも身が入らず、うつらうつらとしながら授業は終わる。そうやって授業と休み時間を繰り返しながら過ごして、放課後になる。全てはいつも通りに運んでいると言って差し支えはない。


 けれど何もかもがいつも通りに進む毎日は怖くならない? と誰もいない空間に向かって投げ掛ける。答えは当然返ってこない。かすかに残響した声が返事代わりだった。


 帰り道で猫を見かけた。なんとなくスマホを構えて写真を撮ろうとする。どうしてそうしたかはわからない。かわいかったから? でも私はそんな感性で動く人間だっただろうか。なんて考えている間に猫は私なんて気にもせずどこかへ去ってしまう。首輪が着いていたからもしかしたら飼い猫なのかもしれなかった。


 私も飼い猫のようなものだ。


 いつまでも打ち込まれた楔から離れられていない。あれからずっと夢に見るのだ。過去のことを夢に見ているとき、人は思い出すという行動をしている今を夢に見ているのだという。ならば私は今を見つめられているかというと、そんなことはない。他ならぬ私がそう思えていない。私は現実を見ていない。


 私は、星見優は、柊木佳奈が半年前に自殺したという事実を未だに受け入れられていない。


 〇


 柊木佳奈は私の親友だった。少なくとも私はそう思っている。彼女がどう思っていたかなんて、本人がここにいない以上何をどう考えたところで無駄だ。


「思ったよりも面白くなかったね」


 佳奈がそう言っていたのは確か映画を見終えたあとの話だった。見たい映画がなかったからジャンケンで勝った方がてきとうに選んだもの。小説かなにかの実写化だったようだが、おそらく原作を読んでいないとわからないであろう関係性の飛躍がいまいちだったと思う。


「まあそうだったかも」

「優ちゃんが選んだ映画でしょ? 責任、取ってよね」

「いや、二人の同意の上で私が選んだはずだけど」

「そうだったかなぁ」


 くすくすと笑う佳奈に今日は性格が悪い日だなと察する。佳奈は明るいし人好きのする性格をしているが、時折意地の悪さが顔を見せることがある。それはごく一部の友人相手に限った話のようだし、本当に底意地の悪い人と比べればかわいいものだと思う。


「何か奢ってくれない?」

「いいけど、何かって何?」

「優ちゃんの好きなものでいいよ」


 思わずため息を吐きそうになる。こうなった佳奈にはとことん付き合うしかない。

 ただ私の親友である柊木佳奈と、目の前にいる柊木佳奈は同一人物でありながら全くの別人と言って差し支えない。彼女にお金を使いたいかと言われれば、全くもってそうではないのが本音。


「わかった」


 しかし結局はこうやって了承してしまうあたり、私はこちらの柊木佳奈も嫌いにはなりきれないのだろうなと半ば確信に近い形の認識を得た。そもそもこうなるという予感がありながら映画館に付き合った時点で、私は佳奈から逃げられない運命にあったのだから認識もへったくれもないだろう。


 そしてどんなに思うところがあったとしても、最後に『楽しかったね』と言われると、それで不満や文句も帳消しになってしまうのだから、かわいげのある女というのはズルいと思う。


 ガタガタと、舗装の悪い道にバスが音を立てる。その音が私を思考の海から現実へと引き戻した。次が降りるバス停であることに気付き、慌てて降車ボタンを押す。ぽーんと気の抜けたような音が鳴り、運転手の「次、止まります」という事務的な声が響く。ため息を吐きながら窓の外を見つめた。曇天の空を眺めながら、再び思索にふける。


 どんなに過去の柊木佳奈を思い返したとしても彼女はもう長くない。


 病院の前でバスは止まる。お見舞いの人、検診の人などがパラパラとバスを降りる。私は前者だった。ICカードのチャージ額が足りていることをしっかりと確認し、バスを降りる。


 病気というのは残酷だ。彼女自身にとってもそうだが、周囲の人間にとっても。佳奈がゆっくりと死に向かっていく様をまざまざと見せつけられる。一番苦しいのは本人だろうに、そんな佳奈を見て、私は別種の苦しさを抱えてしまう。病気の名前を聞いてもいまいちピンと来ないし現実感はない。実際に弱っていく彼女の体を見ることで死が現実に迫ってきているんだなと感じる。もっと友人の死は嫌がったりするものじゃないのかと心の奥底では別の自分が叫ぶが、どうにもそういう感情が湧いてこない。ゆっくりと向かってくる彼女の死を受け入れられている。そう思える。そんな自分を認識すると、思わずぎゅっと拳を握りしめてしまう。爪が手のひらに食い込んで、痛くて、でも止められない。


 佳奈はもうすぐ死ぬ。その前に話すことはあっただろうか。今までもたくさん話してきた。そのほとんどがくだらない日常に消えていって、残っているものはほとんどない。頭の容量には限界がある。すべての日々を完全に覚えておくなんて不可能だ。そんなことはわかっているのに、消えていってしまう記憶に対して不満が湧く。記憶を忘れていく自分自身に。


「ちょっと、撮らないでよ」


 画面越しの佳奈は軽く笑いながらベッドの上で体を起こした。やせ細った腕に繋がっているたくさんのチューブが、否が応でも私に現実を伝える。


「人は、声から忘れるらしいよ」

「そうなんだ」


 そうらしい。私、星見優は実際にそんな経験をしたことがないのでわからない。声、思い出、会話、顔。いなくなってしまった人のことをいつまで覚えていられるのか。忘れてしまったとして、忘れたということすらわからなくなってしまうのではないか。


「だから佳奈がいつ死んでもいいように、撮っておこうかなって」

「私が死なないように、とか言わないんだね」


 責めるわけでもなく、淡々とした口調が逆に私の焦燥感を搔き立てた。


「……下手に元気づけることを言うほうがキツイと思ったから。ごめん。佳奈には、生きて欲しいと思っている。ちゃんと」

「やさしいね、優ちゃんは」


 敵わないなぁと呟くようにして、どこへ向けたものでもない言葉は宙に溶ける。すんと鼻で息を吸っても、病院特有の臭いがするだけだった。


 佳奈が私に向き直る。目と目がカメラ越しにはっきりと合う。動きの一つ一つが仔細に見える。佳奈は今、口を開こうとしている。


「なら、わたしが今から言う言葉も残るの?」


 その先の言葉を私は知らない。まだ聞いていない。


 直後、彼女の容体が急変した。それ以降は面会すら許されないまま、佳奈が最後に言おうとしていたことはわからずに、唐突に別れは告げられた。


 佳奈は死んだ。奇跡的な治療の成功や驚異的な回復力のようなドラマティックな展開はなく、ただ医者から宣告されたように死んだ。佳奈は死んだと心の中でひたすらに反芻する。それでも私の中にその事実は中々浸透していかない。心が疎水性になったみたいだ。佳奈が死んだという事実は水で、私の心は油になっている。混ざり合っているようで、決して相容れない二つはドロドロになって心の底に汚泥を形作る。


 私は確かに佳奈が死ぬそのときまで、佳奈の死を受け入れていたはずだった。どうしてそれが現実になった今、こんなにも悲しくてつらくて、その死を否定したくてたまらないのだ。実は佳奈は死んでいなくて全ては壮大なドッキリ企画なのではないだろうか。そちらの方がまだ現実味がある。少なくとも病気で佳奈が死んでしまった現実より、私が見たい現実はそれだ。


「ご冥福をお祈りいたします」

「ごめんね、何もしてあげられなくて」


 そうやってかけられる同級生からの言葉のすべてが空しかった。彼ら彼女らが誰に向かって話しているのかわからない。ここにいない佳奈に向かって話しているのか、それとも私という佳奈の友人に向けて話しているのか。どちらであったとしても、私が現実を受け入れる助けには到底なりそうもなかった。


 〇


 対岸の火事という言葉がある。この世界で起きるおおよそのことはまさにそうだ。どこまで行っても自分の身に降りかからなければ所詮は他人事にすぎない。テレビの中でいくら火事が起きたり事故が起きたり、それこそ人が死んだりすることだって、身近でなければ悲しいけれど悲しいだけで終わってしまう。そしてその感情すらあっさりと忘れてしまう。忘れていることにも気づかない。でもそれは至極当然のことだ。別に私が特別非情だとかそういうわけではない、と思う。


 近くにいる人たちのことを考えるだけで精一杯で、見ず知らずの人にまで割く心のリソースはない。私の世界は私の周囲の人たちだけで完結している。


「今日は少し肌寒いね」


 隣にいてそう話しかけてくるのは友人である柊木佳奈だった。佳奈は私の世界を構成する人の一人である。家族を除けば最も大きな割合を占めているのが彼女かもしれない。


「秋も終わりかけだし」


 我ながらてきとうな返事だと思う。けれど佳奈に対してはこのくらいでちょうどいいのだ。思っていることをそのまま出力することができるのは佳奈の前ぐらいだ。多少甘えたっていいだろう……というのはさすがに自分に都合がよすぎるだろうか。


「もう少し秋が長くてもいいのにね」

「本当にそう思う。秋が一番好きだから」


 春の陽気や夏の熱気、冬の寒さは苦手だ。秋の涼しさは他の季節には代えがたい何かがある。外を出歩いていて気持ちいいと思える唯一の季節が秋だ。単純に紅葉で景色が綺麗に色づいているのも要因の一つではあるのだろうけど。


「食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋……って何でも秋って付けておけばなんとかなるって思ってそうでちょっとおもしろいからさ」

「そんな理由で秋を好きな人は初めて見たかもしれない」


 真面目に答えると佳奈は冗談だよって言って笑う。長い髪が風に揺れてふわりとふくらんだ。綺麗だと思う。佳奈の髪を見ていると、私も髪を伸ばしてみるのも悪くないのかもしれないと思う。思うだけで、手入れがめんどうだからしないのだけど。


「そういえば佳奈はどうして髪を伸ばしているの?」


 気になったことをそのまま聞いてみると、佳奈は少しだけ表情を変えた。その意味を考える前に佳奈は言う。


「昔、優ちゃんが褒めてくれたからだよ」

「……そんなこと言ったっけ、私」

「わたしは覚えているよ。うれしかったからさ」


 ニコニコと笑顔を浮かべながら真っすぐこちらの瞳を見据えてくるので思わず目を逸らしてしまう。気恥ずかしさと、何だろう。よくわからないもやもやとした気持ちが私にそうさせていた。


 そんな風にいつも通りの日常を思い返していただけだというのに、決定的な言葉は唐突に佳奈の口から吐き出された。


「今日うちに来ない?」


 やまびこのように頭の中でその言葉が反響する。反響するたびに大きくなっていくその声は、私の腕を折れそうなほどに強く掴んで、現実へと引っ張り戻した。


 現実逃避は思ったよりも長引いてしまう。掃除の途中に読みかけの本を見つけていつの間にか掃除の手が止まってしまうのと同じだ。見たくないものから目を逸らして見たいものだけを見る。その取捨選択が人間にはできてしまう。鏡の中の髪の長い自分を見てそう思う。


 どこまで行っても他人のものは他人のものであり、真似をした程度で自分のものにはならない。だからどれだけ私が佳奈の真似をしたところで無意味なのだ。だがその無意味の積み重ねが、私を私足らしめているものだ。


「優、最近らしくないわよ」


 母からの言葉も今の私には蜂蜜のように甘かった。


 らしくないと言われるのは、それはうれしいことだ。私が私でないのなら、おそらく少しは近付いている証左だから。私は私が嫌いというわけではない。ただいなくなった佳奈に対して、何らかの責任を取りたいと考えているだけだ。私が佳奈になることで、佳奈の死はなかったことになる。


 秋も終わりかけの日、佳奈は火事でこの世からいなくなってしまった。家に誘われていたというのに、その日の私は気分が乗らないという理由だけで自宅に帰ってしまった。もしそこで佳奈の誘いに乗っていたしたら、火事の原因を取り除けたかもしれない。もしも乾燥するから火事には気を付けてと言っていたなら、もし、もしと可能性の話ばかりが頭を埋めていく。


 なまじ手が届いたかもしれないという事実がある。そのことが何よりもつらかった。佳奈がいなくならない可能性を私は自らの行動で否定していた。もちろんわかっている。未来予知でもしなければ同じ場所、同じ感情、同じ状況では同じ選択しか取り得ない。だからどれだけ悔やんだとしても、私はあのとき必ず佳奈の誘いを断るのだ。


 優しいと佳奈は評してくれていたけれど、全くもって違う。私の心は優しいのではなく、ただ臆病なだけなのだ。耐えられない痛みを受けることが怖いから常に予防線を張っている。だから唐突に受け入れられない事態が降りかかると私は考えが止まってしまう。処理能力を大きく超えた佳奈の死は、とっくの昔に壊れていた私の世界を完全に破壊した。


 とはいえ、私の世界が崩れ去ったとしても周囲の世界はそうではない。いつも通り粛々と日常は執り行われる。一週間くらいは亡きクラスメイトに思いを馳せる人もいるだろう。しかし二週間、三週間と時間が経てばそこにいない人よりも目の前の現実を見つめ始めるのが普通だ。如何に悲しかったとて彼ら彼女らにとって佳奈はただのいちクラスメイトでしかない。いなくなってしまったクラスメイトにリソースを割き続けるほど高校生活という短い時間に余裕はない。


 私だって本来はそうあるべきなのだ。佳奈は死んでしまったのだ。酷い言い方だが今を生きる私に、死人という過去に構っている暇はない。けれど私は佳奈に縛られている。


 どれだけ私が佳奈を思っても、その私ですら佳奈のことを忘れていく。とてつもなく精巧な模写だったとしてもほんの少しの差異が違和感を生み、私の中の佳奈という像を風化させていく。


 それがどうしようもなく嫌で、私は今日も佳奈の真似事をする。


 〇


「どう?」


 教室で私は目の前の人に話しかける。前髪が目にかかっているその女子は呻きとも吐息とも形容できない、微妙な声を出した。


「どう、と言われてもね……どう答えても角が立ちそうな質問だ」


 明らかに答えることを嫌がっている様子だが構わない。そんなことを気にしていたら最初から話しかけていないだろう。


「そんなことはない。私はあなたの言うことなら受け入れられると思う」

「そこまで言うなら言わせてもらうけど、まあ、気持ち悪いよね」

「うん」


 七割、いや八割ほど予想していた解答で安心する。そこはさすがの私もわかっている。私だけがわかる感情なのだから、他人から読んだあれは気持ち悪いと思う。


「ひたすら佳奈のことばかりだし、しかも美化されてるし、あんたもあんたでなんかちょっとスカした感じになってるし」

「うん」

「そこを抜きにして語るなら、なんだろう……ひたすらどこかに向いて走っているみたいだった。その先に穴があるってわかっているのにね」

「そうなんだ」

「正直あまり読みたくはないかな」

「そうだよね」

「わかってるならなんで読ませたんだよ」


 呆れたように、というか最初から呆れられているのだけれど、前髪女子は付き合ってられないとばかりに首を振る。


「読んでくれるのがあなたくらいしかいないから」

「確かに佳奈のことをちゃんと知ってるのはあたしとあんたくらいだけどさ……」

「ありがとう、読んでくれて」


 彼女が手渡す紙の束を受け取って鞄へと入れる。


「……あのさぁ」


 扉に手をかけたところで、彼女は私に向かって言葉を投げかけてきた。まだ何かあっただろうか。私の用事はもう終わりだ。あまり教室に長居したいわけでもない。できれば早く帰りたい。


 振り返った私に彼女は「こう言っていいのかわからないけど」と前置きをする。すっと視線を逸らすと、窓の外の赤が目に染みた。


「いつまでそうしてるの?」


 指を顎に当て、考える素振りを見せてから私は言う。


「わからない。もしかしたら一生かも」

「あっそ。あたしはあんたじゃないから別にいいけどさ、もう少し前見て生きた方がいいんじゃない?」


 今度こそおしまいと言って手をひらひらと振る。私はそれに手を振り返すことはなく、静かに教室の扉を閉めて、一つ息を吐いた。


 〇


 自分の部屋の扉を開けると、その質素さに驚くことがある。佳奈が生きていた間は彼女の私物がいくらか私の部屋に持ち込まれていて、それが若干の個性を演出していた。それがなくなった今、趣味も部活もない女子高生の部屋は最低限の生活用品だけしか残っていない。


 ノートパソコンを開いて電源を入れる。文章作成ソフトを立ち上げる。キーボードから響く音を他人が立てている音のように聞く。


 小説を書くという行為は私にとって現実と向き合う手段だった。いつからそうだったのかは覚えていない。強いてきっかけとして挙げるのならば、小学生の頃につけ始めた日記だろう。あれが転じて小説になったのだと思う。


 小説の中なら私はどんなことにだって向き合えた。現実ではいじめられていたとしても、小説での私はそれに正面から立ち向かった。現実では勉強は苦手だったけれど、小説ではそれなりにできるようになった。運動はからっきしだけれど、小説では人並みに運動ができた。そんなくだらない理想を通して、私は目の前にある現実と向き合ってきた。


 小説の中の私に近づくようにして、私は私を変えていったのだ。


 私はただ、佳奈が死んだという事実を受け入れられるようになりたかっただけ。


 それが叶わないから、私は小説から逃れられない。


 ある小説では柊木佳奈は中学三年生の夏、自ら命を絶った。

 ある小説では柊木佳奈は中学三年生の夏、病によりこの世を去った。

 ある小説では柊木佳奈は中学三年生の夏、火事によって灰になった。

 ある小説では柊木佳奈は中学三年生の夏、水難事故で海へと沈んでいった。

 ある小説では柊木佳奈は中学三年生の夏、交通事故によって帰らぬ人となった。


 数えきれないほど柊木佳奈という人間の死を、私という視点から描写し続けた。気付けば中学三年生の夏から二年と半年が経とうとしている。高校二年生になった。佳奈がいない二年間を過ごした。しかし私の年齢は中学生のままで止まっているように思えた。


 百万字をゆうに超える彼女の死は、私の中にしまわれている。百万という字数を重ねて尚、受け入れられない。


 唯一重なる時間があるとするなら──と、ベランダに出て夜空を見上げる。


 あのときに見ていた星の光はずっと前の光だ。


 今私が見ているのは佳奈が死ぬ前に光っていた星の輝き。


 あの星空に飛び込むことができたのなら、その中に佳奈もいるのだろうか。あの日と同じセリフを言ってくれるのだろうか。そう思い、星に手を伸ばして、その手は途中でピタと止まる。


 携帯が震えた。伸ばしていた手はポケットへと吸い込まれる。


 画面に表示されていたのは一通のメールだった。


『星見優へ』


 〇


 もし私が生きていてこのメールが届いたなら、それはミスだから見ないで消して欲しいな。


 なんというか、自分が生きていく自信がないというか、とにかくそんな感じ。ふとこうやって自分が死んじゃったときのために何年後かに送るメールを作るの。変だよね。でも優ならわかってくれるんじゃないかなって思って。


 よく大人は死にたいなんて軽々しく言うなって言うけどさ、それは本当にその通りだよ。死にたいなんて思っていない。ずっと生きていたいし、優とも話していたい。


 でもふとした瞬間の死にたいって気持ちはずっとあるんだよね。そのときだけは本物で、一瞬で偽物になっていくキモチ。その本物の死にたいーって気持ちに負けないように毎日いろいろ頑張ってるわけだよ。


 でもそのキモチに負けちゃったときが、たぶん私が死ぬときなんだろうね。


 そうじゃなくても生きていれば死ぬことはあるよ。というか生きていたなら最後は死ぬんだよ。だって道を走ってくる車がこっちに突っ込んでこない保証がどこにあるの? 電車の運転手が暴走したら? バスジャック? 火事? 事故? とにかくいくらでもあるよ。


 自殺じゃなくても、私が死んじゃったらきっと優はすごい気にすると思うんだ。だって優しいから。こんな私と一緒にいてくれる子だから。私はそんな優のために、このメールを作っているのかもしれないね。なんて。


 死んじゃった私が優に言いたいことは一つだけ!


 私の分までうまいもの食べて、楽しいことして、きついこともやって、生きて。


 中学二年生の柊木佳奈より。


 〇


 日付は合宿で星を見たあの日だった。


「……っ」


 部屋に戻ってスマホをベッドに向かって投げつける。頭を掻きむしる。伸びた髪の毛がいくつか散らばる。目をぎゅっと瞑れば、すぐにあの日の佳奈の姿が浮かんで消える。


「いい加減、向き合わせてよ」


 思わず漏れた声は、佳奈への言葉。


 あんなメールを残しておくなんて、やはり佳奈は意地の悪い性格をしていた。

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三光年のメール 時任しぐれ @shigurenyawa

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