あなたの背中を見つめる春

嶺月

短編

今年度の私立風間ヶ丘高等学校新入生の一人、春日部かすかべこだまは特筆すべき美貌の持ち主だった。涼しげな目元、すっと整った鼻梁びりょう、少し色の薄いショートボブから続く形の良い顎、そして健康的な血色の良さがはっきりわかるシミ一つない白い肌。ところが彼女は入学式に学校指定の臙脂えんじ色のジャージで臨み、悪い意味で注目の的になっていた。

 後に明日香が聞いたところでは、教師からもストップがかかったらしいのだが、入学式には相応しい格好で出席するようにという曖昧な指示しか無かった事、ジャージは紛れもない学校指定の衣類である事を理由に押し切ったそうだ。


 最初のホームルームの為に教師が来るのを待つ間も、こだまの服装を巡って教室中がお互いにやり取りしている。入学したばかりのクラスメート達が簡単に打ち解けたと言えるかもしれないが、静かだがいつまでも続くざわめきに橘明日香たちばなあすかは落胆の溜息を漏らした。

 確かにこの風間ヶ丘高等学校は服装や髪型など所謂「生徒の若者らしいオシャレ」に対して寛容な事で有名で、通称風高を受験する為に3年生になってから突然真面目に授業に参加する中学生も珍しくないと聞く。そこにわざわざ野暮ったい恰好で現れたこだまは奇異な存在だろう。話題性が充分なのは認める。しかし明日香にとって重要なのは1年次から国公立大学受験を見据えた先進的なカリキュラムなのだ。学業以外のことで教室が騒がしいのは全く歓迎できない。

 こうなる事は予測できたであろうに、蛮行を強行したはた迷惑な同級生の横顔を眺めていた明日香は、彼女の短い髪から覗く耳に、野暮ったいジャージには似合わない銀色の繊細な細工で美しい石が彩られたピアスが揺れている事に気付いた。とは言っても明日香がそれをきっかけにこだまに話しかける事はその時は無かった。

 それどころではなくなったからだ。明日香の前の席の女生徒が友人作りのきっかけにと、まず拒否されない話題のつもりで、明日香にこだまの格好への悪口を題材に話しかけてきたのだ。あまり褒められた行為では無かったが、普段の明日香ならそれくらいは許容したかもしれない。しかしクラス中に満ちる、明日香にとってはくだらない話題への苛立ちが自制心を失わせていたのか、強烈な反応をしてしまった。

「本人の勝手でしょ。それよりそう言うの良くないよ」

 明日香にしてみれば陰口に巻き込もうとした相手への正当な仕打ちのつもりの台詞だが、それを受けた方は自分の行為を痛烈に批難された事への怒りと驚きが先立った。結果、明日香の机を挟んで静かだが深刻な口論が発生する。明日香はクラスメートの中に馬の合わない相手が居るという認識で済ますつもりだったけれども、件の女生徒、曽我そがゆかりは翌日には洗練された衣装で風高でクラスの中心的な存在に成りおおせた。その結果、彼女の不興を買った明日香はクラスメートから孤立することになってしまったのだ。

 そんな訳で孤立した一人と一人は、しかし直ぐに結び付きはしなかった。明日香はできればゴールデンウイークまでにその立ち位置からリカバリーしたかったし、こだまの方はどうやら本気でクラスに馴染む意思が無いようだった。次の日からも学校指定の色気もへったくれもない臙脂えんじ色のジャージに身を包み、超然という形容が相応しい態度でクラスメートと、初めてクラスの授業を担当した教員の困惑と疑問を、その印象的な美しい瞳で跳ね除けていた。

 ところがお互いに全く別世界の住人だった二人の関係は入学後一週間したある日、唐突に変化することになった。


「隣、良い?」

 端緒たんちょになったのはこだまの一言だった。

 昼休みになると、クラスメート達はそれぞれにグループを作って集まり、若い食欲を満たす。その中で普段明日香は隅の机に陣取って、近くで過ごしているグループの会話に加わろうとして冷笑を返されていた。

 こだまはというと何処か教室の外へ消えて、昼休みの終わり頃にいつの間にかという感じで教室に戻って来ていた。だが今日は何が理由かは判らないが、教室で食事を摂るつもりらしい。ポッカリと空白地帯が出来ている明日香の隣の机を指して返事を待っている。

「どうぞ」

 明日香としてはこれ以上クラスから浮く要素は作りたくなかったが、ここで拒絶するのは自分自身の雅量を損なうような気がして躊躇ためらわれた。

 横目で明日香が野暮天の麗人という矛盾した表現がピッタリの女生徒を伺うと、彼女は身を包む衣装とは打って変わって少女らしいピンクの弁当箱を開いたところだった。

(ジャージのインパクトが凄いだけで、むしろ私なんかよりずっと女の子らしいのよね…)

 そう思ったきっかけである、ショートボブからのぞく耳元を見ると、今日もやはりあの繊細せんさいな意匠のピアスを付けていた。

「そのピアス、オシャレよね」

 明日香が思わず声をかけるとクルリと勢い良くこだまは振り向き、隣に座った少女の顔をじっと見つめると、まさに華がほころぶような笑顔を返してきた。

「そうでしょ、お祖母ちゃんの形見なんだ」

「お祖母ちゃん…亡くなったの?あ、ごめんなさい」

「気にしないで。小学校の頃の話だし、大往生だったし」

 よほどピアスを褒めたのが琴線きんせんに触れたのだろう。普段のキリッとしたこだまの切れ長の目が細められて、意外なほど子供っぽく見える。年齡不相応に大人びていると思っていた少女の意外な姿に明日香はドキッとする。

 新しい一面を知ったことによる親近感でも、幼気な表情に刺激された保護欲でもない、正体不明の衝動に心が揺れるのを感じながら、明日香は弁当を食べるように促し自分も箸を動かした。

「あの、ええと、その…ごめん、名前なんだっけ?」

「橘よ。橘明日香。改めてよろしく、春日部さん」

「あ、名前知っててくれたんだ。」

「そりゃね。別に私は春日部さんと違って人付き合いを断ってる訳じゃないし、貴女は悪い意味で目立ってたし」

「まぁそのつもりでこんな格好してるんだし。それよりお弁当すごく良く出来てるね、自作?」

「へ?まさか。お母さんに作ってもらってるわよ」

「当たり前みたいに思っちゃ駄目だよ。彩りもバランスも良いよ。素敵なお母さんだと思う」

「料理研究家みたいに言うのね。ひょっとして貴女のは自作なの?」

「当然。あ、別にママが作りたくない訳じゃないよ、私自身の女子力修行」

「女子力…」

 その言い分に思わず視線がこだまの上から下まで動く。とてもそんな事を気にする人間の格好では無いのだが…

「あ、意外って顔してる。あとでジャージの理由も教えてあげるわ」

 それだけ言うと、こだまは自作だと言う弁当に集中し始めた。


「橘さん、一緒に帰らない?」

 その日の午後の授業も全部終了すると、こだまから声をかけてきた。今まで孤高を保ってきた「ジャージの怪人」の行動にクラスがざわつく。明日香はこの際仲良くしてくれる人間が出来るなら、彼女だけでも良いかもしれないと思ったが、一緒に下校するという案の問題点に気付いた。

「春日部さんは電車通学?」

「ええ、東西線」

「じゃあ残念だけど無理ね。私は環状線」

 二つの路線の駅は学校を挟んで反対なのだ。

「そう、じゃまた明日」

 さして残念そうでも無くそう言うと、こだまは颯爽さっそうと身を翻して教室を出て行った。おそらく昼食の時話すと言っていた話題を済ませようと言うつもりだったのだろう。

 お気に入りのピアスを褒めてくれた人間として多少親しみを感じたが、強いて仲良くしたいと言う訳でも無い。そんな気持ちを思わせるあっさりとした態度に、何故か判らないが、声をかけられて高揚した心が冷えていくのを明日香は感じた。


 その日の夜、ぬるめのお湯にゆっくりと浸かりながら、明日香はこだまの無邪気な笑顔を思い返していた。普段は学校が用意してくれる自習用プログラムにタブレットで取り組むのだが、今日はこだまの顔がチラついて集中できなかった。仕方がないので何故こんなに彼女が気になるのか、自分の心の中を覗き込む。

 誰にも慣れようとしなかった野良猫が、自分にだけ懐いてくれた様な単純な優越感とも違う。勿論その気持ちも有るだろうが、とにかく彼女の笑顔をもっと見たいのだ。

 中学までどちらかと言えば学業を優先しがちの明日香にもそれなりに友達は居たが、その場を楽しく過ごせれば良くて、こんな風に勉強中にいちいち思い返して心が掻き乱される事など無かった。それとも今までの人付き合いの仕方がおかしくて、本当の友達というのは理不尽に心を侵蝕しんしょくしてくるものなのだろうか。

(馬鹿みたい。あっちはまだ友達のつもりかどうかも判らないのに)

 今日のあっさりとした別れ際を思い返して自分自身にそう毒付いてみるが、彼女の別の表情を見てみたいという気持ちは薄れる事は無かった。


 翌日、4限終了のチャイムが鳴って数学教師が教室を立ち去ると、明日香は弁当箱の包みを持って今度は自分からこだまに話しかけた。この行動は明日香にとっては多少勇気を必要とするものだったが、こだまは特に感じ入った様子はなく、昼食を共にしようという誘いに素直に応じて弁当箱を手にして立ち上がる。

 おそらくいつもコッソリと一人で食事している場所へ連れて行かれるのだろう。そう思った明日香はろくすっぽ説明もせずに歩き出したこだまに素直に従う。

 案内されたのは校舎の裏手だった。確かに人気が無くこだまの要望には適っているのだろうが、校舎によって日光が遮られたこの場所では、まだ4月中頃のこの季節の風は肌に快いとはとても言えない。明日香には昨日こだまが教室に居た理由がわかった。昨日は雨天で屋外に出ることはできなかったのだ。しかしそれはそれとして、明日香はこのロケーションに文句を付けずにはいられない。

「確かに人を避けるならバッチリかも知れないけど、人嫌いも度が過ぎてるんじゃない?よくこの一週間風邪もひかずにいられたわね」

「私は別に人間嫌いなわけじゃないわ。理由が有って人付き合いを避けてるだけ」

「理由?どんな?」

「取り敢えずご飯にしましょ」

 明日香の疑問をはぐらかし、誰も見ないだろうに寒風の中で健気に花を咲かせる、植え込みの仕切りの煉瓦れんがにハンカチを敷いてこだまは弁当を広げる。しばらく二人は食欲を満たすことに集中していたが、弁当の中身が半分ほどになった頃、こだまの方から話を再開する。

「私って美人でしょ?」

 突然自分が美貌の所有者だと主張されて、明日香はどう反応していいかわからない。

「まぁ、否定はしないけど…そんな事良く口にできるものね」

「だから、変に周りからちやほやされるとお姉様が嫌かなって」

「おねえさ、ま?」

「お姉様は私の特別な人よ。あの人に可愛がってもらう為なら私は何でもするわ」

 そう言いながら『お姉様』の顔を思い浮かべているのだろう。こだまの表情はまさに夢見る少女そのものだ。普段鋭い目つきはトロンと溶け、口元もだらしなく緩んでいる。

 それは確かに昨夜入浴中に明日香が望んだこだまの見た事の無い表情の筈なのに、明日香は全く嬉しくない。むしろ心の中に深く鋭くトゲが刺さった様な痛みを感じる。そして彼女はその不快の原因を理由もなく悟る。

(私、『お姉様』に嫉妬してる…春日部さんが私以外の人を特別に親しく思うのが嫌なんだ)

 お姉様との関係を云々すれば、せっかく少し近付いたこだまとの距離はむしろ遠ざかってしまうかもしれない。その恐れはあったが、明日香はこだまが『お姉様』を想って甘い陶酔に浸るのに耐えられずに、言葉のナイフを突き出さずにいられなかった。

「お姉様ってことは相手は女の人なんでしょ。そんなの不自然だよ」

 言ってしまった。そう後悔するがこだまは気にした様子もない。むしろこだまに惹かれていると自覚した明日香自身にその言葉は返ってきて、明日香自身が傷付いていた。一方恋の熱病に浮かされるこだまは明日香の葛藤に気付いた風もなく、己の哲学を披露する。

「性別なんて問題じゃないわ。その人をどれだけ素敵だと思うか、その人と一緒にいる自分がどれだけ幸せか、それが全て。きっと橘さんも恋をすれば判るわ」

 そんな事は判っている、と内心で明日香は答える。今まさに他の誰かを想うこだまをそれでも愛おしいと感じて、苦しみながらもこの場を逃げ出せないでいるのだから。

「そんな事言っても、学生時代の恋なんて長続きするかもわからないし、別れた時には同性愛だなんて、みたいに後悔するんじゃない?」

 グサグサと自分の心を痛めつけながら、自分でも効果があるとは思えない、こだまの心に不安を抱かせる言葉を届かせようとする。

「お姉様と私を引き裂く物なんて有るわけないよ。橘さんならわかってくれると思ったんだけどなぁ」

 そう言いながら、こだまはピアスを手でもてあそんでいる。それは無意識の仕草のようだ。彼女が私に興味を抱いた理由もあのピアスだった、と昨日の昼の件を思い出す。祖母の形見だと言っていたけど、不安を抱いた時に心の安定剤になるような、特別な物なのだろうか。そんな疑問を抱きながら、これ以上話を続けることができずに明日香は弁当に集中した。正確にはそのフリをしてこだまが話題を変えてくれるのを期待した。

 だが、こだまはそんな明日香の内心を斟酌しんしゃくすることなく、更に踏み込んでくる。自分で選んだ事とはいえ、こだま自身クラスの中で孤立しているのは寂しいのだろう。理解者とは言えないが自分を気にかけてくれる明日香という存在に、今まで溜め込んできたいろんな物を打ち明けたいに違いない。

「お姉様と会えばそんな事は絶対に起こらないって判るわ。なんならゴールデンウィークに会ってみない?」

「お姉様、と?別にそれは…」

 会いたくないと思う。それは当然こだまのお姉様と一緒にいる時の幸せそうな表情を見たくないからだ。だが一方で敵を見定めたい気もする。

「そう言えば橘さんもクラスで一人っきりだよね。橘さんこそ人嫌いなの?」

 あなたを悪く言った曽我さんに反発したからだよ、と言ったら喜んでくれるかもしれない。そう思ったが何だか卑怯な気がして別の言葉を選んだ。

「新しい環境にうまく溶け込むのが下手なだけで、私も人付き合いが嫌なわけじゃないよ。だから今春日部さんと一緒にご飯食べてるの」

「じゃあお姉様に会いたくない理由でもある?」

 うん。その女は私の敵よ。

「いいえ、そんな事ない。そうじゃなくてなんでゴールデンウィークかなって。今週末とかじゃダメなの?」

「お姉様は東京の全寮制の学校に進学したんだ。週末に気軽には帰って来られないけど、ゴールデンウィークなら、デート以外にも会う日は作れると思うから」

 それじゃ寂しいでしょう。私に乗り換えない?

「遠距離恋愛か。中々会えないなんて大変ね」

「今は携帯があるもの。昔は大変だったでしょうね」

 会わない時間が恋を育てるなんて嘘だよ。気持ちは離れて行く一方だよ。

「じゃぁ毎日電話してるの?通話料とかは大丈夫?」

「うん。その学校は昨日話したお祖母ちゃんの母校でさ。お母さんはお姉様に憧れて私もそこを目指すのを期待してたみたい。だから中学の時からそこの生徒のお姉様と仲良くするのを喜んでたよ」

 なのにその学校に進学しなかったのは何故?ひょっとしてそこまで想ってないのではない?

「なんでそうしなかったの?」

「伝統のあるお嬢様学校でね。お姉様はれっきとした名家の令嬢だから問題ないけど、うちの稼ぎじゃとてもとても」

 それじゃいつか家格が釣り合わないことで悩むんじゃないかしら。

「じゃあ凄いご家庭の御令嬢なんだ。その…関係自体は親公認?」

「その答えはNO。打ち明けるのは勇気がいるわ」

 許してくれたら良いわよね。その時隣に居るのが私に変わっていれば猶の事。

「今はそういうカップルもいるらしいけど、自分の娘がそうだったら戸惑うでしょうね」

「そうね…ま、頑張るしかない。それしか選択肢が無いのはむしろ励みになるわ」

 そう言ったこだまは勢い良く立ち上がった。昼休みもそろそろ終わりだ。明日香も最後まで取っておいたたこさんウィンナーを口の中に放り込み、弁当箱を包む。

「5限は古典か。朝倉先生の授業って眠くならない?」

「私は好きよ。朝倉先生の朗読ってちょっと音楽的な響きがあって」

「橘さんは尊敬に値する人ね」

「明日香でいいわよ、私もこだまって呼ぶわ」

 普通の学生らしい会話。これからこだまは明日香とのみ頻繁ひんぱんにそれを繰り返すだろう。遠くに居て滅多に会えないお姉様に対する唯一のアドバンテージを最大限に生かして、この美しい少女の瞳が映す存在を私に塗り替える。そう決意しながら、明日香はこだまと一緒に校舎へと足早に入って行った。


 ゴールデンウィークの予定はとんとん拍子にまとまり、5月4日に明日香はこだまの案内で長宗我部綾香ちょうそかべあやかという、華族の令嬢のような名前の上級生と対面する事と相成った。

 前日に行きつけの美容院で丁寧に切り揃えて貰った、普段は三つ編みにしている髪を背中へと流し、無地の白いシャツに春らしい淡いグリーンのカーディガンを羽織り、下はダークグリーンの裾に金糸で唐草文様の入ったロングスカート、明日香はその心の中まで完全武装で、東西線のホームへ降りる階段の脇で文庫本に視線を落としていた。

 こだまとの約束はあと30分先だ。気合が空回りしたというべきか、予定より二本も早い電車に乗ってしまったのだ。それでも明日香にとっては、恋敵への挑戦のために心を研ぎ澄ますのに短すぎるほどだ。一応開いているページの内容などちっとも頭に入ってこない。

 だから15分後、予定より一つ早い筈の列車で現れたこだまに声を掛けられて、明日香はビクッと軽く飛び跳ねた。今日のこだまは当然のことながら悪名高い「ジャージの怪人」ではない。ネイビーブルーの地に、白く何と書かれているかも判別しがたい飾り字が染め抜かれたインナーに、ライトブラウンのアウター、薄いピンクのハーフパンツから伸びる白のハイソックスに包まれたすんなりと伸びた脚。短い髪も相俟って活動的な印象の美少女に、明日香はしばらく見惚れてしまった。

「明日香?」

「あ、ごめん。早かったね」

「明日香こそ私より前に来てたじゃない。お姉様に会うの、そんなに楽しみだった?」

 全く明日香の気持ちを理解していないこだまの言葉に、やや落胆しつつも今日もいつものピアスを耳元で揺らしている、愛しい少女に返答する。

「楽しみというよりも、不安と気合半々って感じかな」

「気合?」

「こっちの話。それより次の電車が来るまでベンチで待とうよ」

 こだまが明日香の提案に頷き、二人は並んで階段を降りてホームのベンチに腰掛ける。

「それにしても、明日香の髪って綺麗な黒髪だよね」

「?急にどうしたの。いつも見てるでしょ」

「いや、学校の明日香は三つ編みだからさ。こうしてストレートにしてると際立つって言うか、烏の濡れ羽色?ってやつ。私はちょっと茶色いの少しコンプレックスなの」

 こだまに容姿を褒められたのは初めてなので、明日香は少し良い気分だ。良い気分ついでに以前から気になっていた事を尋ねてみる事にする。

「あのさ、話は変わるけど、私達が話すようになったきっかけって、そのピアスだったでしょ。お祖母ちゃんの形見って言ってたけど、そんなに大事な物なのかなって」

「ああ…私お祖母ちゃんっ子だったんだよね。あのさ、私って美人じゃない」

「前も言ってたけど…本当にいい性格してるよね」

「でも事実でしょ。だから小学校の頃、男子が気を惹こうとしてスカートめくりとかしてきた訳よ」

「ああ、そう言うの良く聞くけど。本当にやるんだ」

「それで大人しく泣くタイプじゃなかったのよね、私。やられるたびに思いっきり平手打ちしてたんだけど、それで叱られるのよ。暴力は良くないとか、男の子は好きな子に悪戯いたずらしちゃうんだよ、とか。でもそんなの納得できるわけないでしょ」

 その場面は明日香には容易に想像ができる。何しろ周りから白眼視されるのを承知で「ジャージの怪人」になってしまう女なのだ。小学校の頃から人一倍気が強かったことだろう。悪戯する男子には必ず報復しただろうし、おためごかしの言葉に引き下がる事も無かったに違いない。

「でも、お祖母ちゃんだけは私の許せない気持ちとかに共感して、一緒に怒ってくれたんだ。だからかな、パパもママも大好きだけど、お祖母ちゃんは特別だったんだ。今は良い思い出だけが残ってるけど、死んだ当時はずっと心が沈んでたっけ。そのお祖母ちゃんが亡くなる前に私にくれたのがこのピアスだったの」

「そう…それからずっと付けてたの?」

「これイミテーションじゃなくて本物の宝石だから、学校では無理だったけどね。家に帰ってから必ず付けてた。それで今度は女の子の友達から生意気だって言われて仲間外れになって」

 良い話では終わらないらしい。この話の終着点がどこなのか、判らないままに明日香は何となく不安を感じる。

「それで一度、複数相手に滅茶苦茶な喧嘩になって。怒られるのが嫌で帰ることもできなくて、自分がどこに居るのかもわからないままずんずん歩いて、そこでお姉様に出会ったんだ」

 そこでその人が出てくるのか。私とこだまを繋げたピアスの思い出にまで、長宗我部綾香は入ってくるのか。顔には出さずに明日香は怒りを滾らせる。

「今のうちに言っちゃうけど、お姉様は結構尖ったセンスの持ち主でね。でも、だからこそお姉様は偶然すれ違った私のピアスを褒めてくれたんだ。『そのピアス、素敵ね』って。それで無茶苦茶に歩いて知らない場所に来ちゃって、不安だった私を慰めてくれて」

 そう言ってこだまは明日香を陶然とさせる、そして同時にまだ見ぬ長宗我部綾香を想像して苛立たせるあの表情で、ピアスに手を触れる。

「それが私とお姉様の始まり。だからこのピアスは私にとって大切な人たちとの絆なの」

 こだまが思い出話を終えるのに合わせるかのように、電車の到着アナウンスがホームに響いた。先に立って電車の入り口に向かうこだまの後を追いながら、明日香は誓った。


 ピアスが特別な人を示すサインだというのなら、きっと私もいつかこだまの『特別』になる。今は長宗我部綾香に夢中な彼女の瞳を私に向けさせる。待っていて、こだま。貴女の心に橘明日香の名前が深く刻まれるその日を。それが何よりの幸せだと思えるような、誰よりも魅力的な女になって見せるから。

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あなたの背中を見つめる春 嶺月 @reigetsu_nobel

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