プリンの甘いところだけ食べていたい

八月六日

第1話

 白羽才音は、私の顔に大きな痣を作った不届きものである。

 まあ事故みたいなものだったし、才音が全部悪いのかって言ったらそうじゃないんだけど、とにかくこの痣の根本には才音がいるのだ。

 だから、才音が私の恋人だって、きっと何の問題もないはずだ。


「え、じゃあ栞ちゃんって女が好きってこと?どうやってセックスすんの?できないじゃん」

 本当にくそみたいな質問を投げかけられた。男の瞳の奥には下心が透けて見える。そういうの全部わかるからな。

「あ、わかった。嘘なんでしょ。女同士でセックスできないもんね。そんなの付き合う意味ないもん」

 たとえ痣があっても、私は結構モテる。腐っても鯛...これはなんか嫌だな。ひびが入ってもダイヤモンドなのである。だからこんな奴らによく絡まれてしまうのだ。

「もしかしてその痣のせいで男に相手にされないとか?彩羽大学の男って、本当に見る目ないよね。痣があっても栞ちゃんはめちゃくちゃかわいいと思うよ。男、教えようか?」

 ちょっとこいつはキモイ度強めだな。普段の私なら無視を決め込むのだが、そこがお酒の場であることがいけなかった。

 私は右手に持っていたグラスを大きく振りかぶってぶん投げる。投げられたグラスは、吸い込まれるように男の額に当たった。周りの男たちが唖然としているうちに顔を殴った。なんで男ってこんなのしかいないんだよ。個性を持て個性を。

 と、そこまで考えて、もしもこいつに痣ができたらマジで嫌だなと思った。だから、財布から3,000円を抜き取って、頬に叩きつけて逃げた。お金で人を殴ったのは初めてだったからとてもドキドキした。

 冷静に考えると、あの手の言葉には慣れてるし、あの男にそこまで腹が立ったわけではないのだが、今までのあれこれが一気に噴火したのかなと他人事のように思う。許せ、名も知らぬ男よ。何も悪くない。お前は運が悪かっただけなのだ。...いややっぱあいつが悪いな。

「あの、栞先輩ですよね?」

 店を出たとき、ふいに声をかけられる。え、誰?

「私、時季白兎って言います。秋穂栞先輩で合ってますよね?私、才音先輩に今日振られたんです。で、栞先輩にお願いしたいことがあるんです!」

 はあ?


「才音―!ただいまー!」

 勢いよく玄関のドアを開ける。横の部屋から苦情が来るかもしれないが、酔っているのだから仕方がなかった。リビングのほうから「おかえりー」と気の抜けた声が届いた。靴を脱ぎ散らかしリビングへと向かうと、プリンを片手にビールを飲んでいた。その組み合わせなんだよ。っていうか、

「才音、そのプリンどうしたの?」

「これぇ?なんか冷蔵庫に落ちてた」

「そっかー、落ちてたのかー」

 プリンの容器の側面には、「あきほしおり」と書かれてある。私の名前である。つまり才音は、このプリンが私のものと知りながら食べているのだ。嘘だろ、フルネーム書いたんだよ?こんなに書きにくい場所に!

「それ300円するんだけど」

「マジでぇ?だからこんなに美味しいのか。こうして世界に新たなトリビアが生まれた」

「うるさいよ。っていうかそれトリビアじゃないだろ。当然の事実だわ」

「ええー?じゃあ栞が黙らせてみなよー?ロマンチックな方法でさぁー」

 こうなった時の才音の面倒くささったらない。こういう時は、さっさと核心を突くに限る。

「え、結局なんで私のプリン食べてるわけ?」

「私にもわかんない。ビール飲んだからかなぁ」

「つまり酔っ払ったから、彼女のプリン食べちゃったってこと?」

「ああ、そうかも。いやそうに違いない。ビールのことは嫌いになっても、私のことは嫌いにならないでね?」

 なんで悪びれもしないんだよ。酔っぱらってるからか?じゃあ仕方ないねとはならない。

「もともと才音のこと好きですらないんだわ」

「ええー、そんなこと言わないでほしいなぁー。私は栞のこととっても好きだよ?」

 そう、私は別に才音が好きで付き合っているわけではないのだ。

「あのさあ、人のプリン食べたら、まず言うことあるよね?」

「確かに。えーと、じゃあ。」

 私と才音の、目と目が合う。深い深い青色の、その奥に私が見えた。

「私のためにプリンありがとう栞。一口食べる?これで平等だよね?」

 そんなわけないだろうが。これはもう駄目である。

「...食べる」

 才音は大部分がカラメルで覆われたスプーンを私の口に運ぶ。才音は苦いものが嫌いなのだ。だからといって人にカラメルを差し出すのはどうなんだよ。まあでも、これは300円のプリンなのだ。きっとカラメルの部分も美味しいはずだ。そう願いながらプリンを食べる。

 果たしてそれは、300円の苦さだった。冷たくもない、ただの苦み。でも私は、嫌な顔一つせずにそれを飲み込む。私は苦みに強いのだ。

 才音が「美味しい?」と聞いてくる。「美味しいよ」と私も答える。ちなみに翌朝起きると、才音がベッドの下で土下座してた。


 私と才音が出会った...もとい、私の顔に痣ができたのは、三年前、私たちが泣く子も黙る花の女子高生だったころ。十二月二十四日、俗にいうクリスマス・イブの出来事だった。

 アイロン使うときは注意したほうがいいよ。あれ熱いとかじゃないから。いやマジで。

 結局その日は、消毒液のつんとする匂いがする病室で、顔に包帯を巻きつけて寝た。絶望してた。人生ハードモード入っちゃったなって。これ以上の不幸なんて、たぶんないよ。

 そしたらその日の夢の中に、サンタが出てきた。今年の君はいい子だったからって、魔法の力で痣をなかったことにしてくれる。

 でもそんなのただの夢でしかなくて、起きたとき横に座っていたのはサンタじゃなくて才音だった。それも、顔にぐるぐると包帯を巻きつけた。 

 まるで、私みたいに!

「おはよう、栞さん」

「あんた何してんの?」

「いや、栞さんの顔がそんなになってるのは私のせいでしょう?だからそれについて謝ろうと思ったんだけど、言葉では何とでも言えるよね?それじゃ平等じゃないでしょ。だから私も、栞さんと同じ状態になる必要があると思ったんだよね」

「はあ?こっちは痣できてんだけど!?ふざけた格好してからかいに来てんじゃねえよ!死ね!」

 繰り返しになるけど、私に痣ができたのは別に才音が悪いわけじゃない。才音は原因の1つを作ってしまっただけなのだ。でも、あの時の私は何かに怒りをぶつけたかったんだ。そしたら近くにいたのが才音だったってだけで。

「やっぱり痣できてる?そうだと思った」

 煽ってんのかよって思ったし、何なら思いっきり殴ろうとも思った。そうしなかったのは、包帯を取った才音の顔にも痣があったからだ。私の顔と、まるっきり同じ位置に!

「へ、え、そ、それ」

「私の顔にも痣がないと平等じゃないもんねぇ。栞さんみたいにアイロンで焼いたの。ちゃんと痣にしないといけなかったから、長い時間じっくりとね。これで平等だよね。改めて謝るよ。ごめんね、栞さん」

 頭で理解できなかった。目の前に座る生き物が、どうしても同じ人間だと思えなかった。私は、才音に対して恐怖を覚えた。

「大丈夫?顔青いよ。水飲む?」

 差し出された水を飲んで、大きく息を吸って。私に起きている事象について、頭がようやく理解し始める。目の前にいるこいつは、私の顔に痣ができたから、自分の顔に痣を作ったのだ。私=才音の時、『私』が『痣ができた私』になったら、才音はどうする?答えは簡単だ。『痣ができた才音』になればいい。至極単純な計算式!

 おそらく、才音が原因で私が失明していたら、きっと才音も失明しただろう。私の右腕がなくなったら、きっと才音も同じように右腕を切り落とすのだ。そうしてやっと私と平等になって、私の前に現れるのだ。私に謝るためだけに!

「あんたそれ、私が痣できてなかったらどうしたの。私が軽い火傷ですんで、実はたいしたことありませんでしたってなってたら」

「それはそれでいい。っていうか、本当はそっちのほうがよかったんだよ。痣なんてないほうがいいでしょう?」

「違う!あんたのこと言ってんの!その痣治るわけ!?治らないでしょ!?」

 この時私は、ちょっとだけ期待してた。こんな痣はすぐ治せるんだよって、そんな言葉を才音に言ってほしかった。だってそれなら私の痣も治るってことだし。でも何よりも、才音が痣を作った理由は私に謝るためだからだ。私のせいで辛い人生を送るようなことにはなってほしくはなかった。

 でも、才音は不思議そうな顔をしながら、期待を裏切った。

「でも栞さんもその痣治らないんでしょう?じゃあ私の痣も治らないようにしなくちゃ。それで平等でしょう?ねえ、そうでしょう?」

 こいつマジで頭おかしいんだなって思った。そうやって才音を定義付けないと、どうにかなってしまいそうだった。でも、才音に引き込まれるような魅力を感じてしまう。私と同じ痣があるからか。それとも、こんな人間に初めて出会ったから?白羽才音という人間を、もっと知りたくなった。

 これは恋なんかじゃない。でも。

「いいよ、あんたのこと許したげる。でもその代わり、私と付き合って。私があんたのことを理解できるまでずっと。あんたがヘテロだろうがレズだろうが関係ない。それがあんたを許してあげる条件。私に痣を作ったことへの償い。いい?」

 才音は眉一つ動かさずに、「いいよ、栞」と答えた。


 それからなぜ目の前の才音になったのかは大きな謎である。目の前の才音は、これまでの人生では見たことないような美しい土下座をしている。やりなれてんのか?

「なんで私は寝起き早々才音の土下座見せられてんの?」

「昨晩は栞のプリンを黙って食べちゃって、本当にごめんねぇ」

「いや...それはもういいんだけどさ」

 そもそもなんで私はプリンごときであんなに怒っていたんだ?

「いやもう本当に、悪いと思ってるんだよぉ。ちょっと今からプリン買ってくるねぇ?」

「別にいいってばプリンくらい。私も昨日怒りすぎたとこあるし。才音は私のプリンを勝手に食べた、で、私は怒りすぎた。これで平等ね。この話はお終い」

 才音は納得できないのか、でもぉ...それじゃ平等じゃない...と呟いてる。平等って言ったろ。

 思い返すと才音、高校のころクール系キャラで通してなかったか?少なくともあの日の病室ではそうだったろ。人ってこんなにも変わるものなのか?マジで理解できねえな。

「それより、今日は夜サークルの飲み会あるから。才音も来るでしょ?」

「ええ...栞昨日ので懲りてないのぉ?っていうか昨日三年の先輩殴ったんでしょ?ちょっと面の皮が厚すぎるよぉ。」

「それは違うサークル!才音はテニサー入ってないでしょ。今日は軽音の飲み会だよ。」

「ええ?私軽音サークルに入った記憶ないんだけど」

「あれそうだっけ?私が勝手に才音を入れたからかな」

 普通に才音に怒られた。今日の飲み会は1,000円なんだけどな。そう言ったけど許してくれなかった。まあそりゃそうか。


 才音を大学まで見送ると、私はある場所へ向かった。夕方まで才音は大学にいるから、気づかれはしないだろう。電車を乗り継いで1時間。そこからバスで三十分。

「あの子が言ってたの、ここで合ってるよな...?」

 人里離れた山の中に、その家は建っていた。

「ごめんくださーい!私、才音と付き合ってる、秋穂栞っていうんですけどー!」

 ややあって彼女は出てきた。

「初めまして。白羽琴音さんですよね?才音について、聞きたいことがあるんです。」


「綺麗な家ですね。琴音さんはここに1人で?」

「ええ、主人が十年前に旅立ってからは、ここで一人寂しく過ごしているわぁ」

 差し出されたお茶を飲む。彼女は、五十代と思えないほどに若々しく、五十代と思えないほど洗練された振る舞いを見せる。

「あ、あの、なぜ才音はあんなにも、『平等』に囚われているのですか?」

 彼女は、お茶を一口飲む。息を吸う。息を吐く。数秒前の彼女からは感じられない、本能的な恐怖を感じる。それでも、私は聞かなければならないのだ。才音を変えた『何か』について。

「才音はねぇ、人を殺したのよ」

「はえ、え、殺した...?」

 突拍子もない言葉に、私は身を固くする。え、なんでこんな話してるんだっけ?

「そもそも、主人が殺されたのが始まりなの。それまでは普通の女の子だったんだけどねぇ。才音が十歳のころにね、主人は通り魔に殺されて、それで才音が...」

「ちょ、ちょっと待ってください。冗談とかじゃ、え、だって才音が人を殺すなんてそんな...」

「できないと思う?」

 それは、私もよく知っていた。だってあの才音だ。人殺しだって、もしかすると。

「才音はよく言ってたわぁ。お父さんが死んだのに、犯人が死んでないなんて、絶対におかしいって。世の中、不平等だって」

「それが、才音を縛り付ける呪い...?」

 ええ、そうでしょうねぇと彼女は言う。彼女はお茶を飲み干す。私は飲めない。

「胸がすっとしたわ。きっと、誰かに聞いてほしかったんでしょうねぇ」

「あの、私、もう行きます。また来ます。次は、才音も連れて」

「次なんて、ないのよぉ」

「え、それって、どういう」

 彼女の口から赤いものが溢れる。あれは?血だ。...血?

「えあ、琴音さん、それなに」

「大丈夫よぉ、あなたのお茶には入ってないから」

 え。なんで。救急車、119?110?へあ、毒?なんで。救急車。...解毒剤?

「才音は人を殺したのよ。代わりになるなんて思っていないけど、せめてこれくらいはしないとねぇ。ねえ、そうでしょう?ああ、最後に、才音には気をつけなさい。あの子、欲しいもののためなら何でもやるわよぉ」

「そんな、なんで、こんなこと」

 彼女は笑う。才音に似た笑顔だ。

「これで、平等でしょう?」

 私の頭に、最悪の未来が浮かんだ。


 私と才音は、集合時間の三十分後に到着した。人が嫌いなんだけどって文句をこねる才音を半ば無理やりに連れてきたからだ。だからか才音は見るからに不機嫌だったけど、それでも来てくれるのが才音なのだ。それに、今はできるだけ才音と一緒にいたかった。

「遅れてすみません!栞と才音、到着しました!」

 軽音サークルの席に走って、できるだけ元気よく声をかける。人は明るい性格の人を好みやすいからだ。私は人間が上手なのだ。

「待ってたよ栞さん!私の隣空いてるよ!」

 同学年の女子が私を席に案内しようとする。子犬みたいな子だ。名前は確か...西園寺...だったか?

「ちょっと待って西園寺さん。才音?こっちだよ」

 才音がおずおずと姿を現す。みんなの息を吸う音、いや息を飲む音だったか?とにかく空気が変わった。それはそうだろう。才音と私には、一目でわかる共通点があるのだから!

 ひりつく空気の中、最初に動いたのは、細身の男だった。

「ええっと...そちらが才音さん?初めまして。このサークルの運営をしている、新庄っていいます。こんな日にごめんね。これからよろしく。」

「初めまして白羽才音です。何か質問等あれば何でもお答えします」

 差し出された手を払って才音が答える。驚いた。さっきまでの才音はどこに行ったんだ?

 それよりさっきから佐藤さんがやけにぽかんとしている。私たちの関係を知りたがってるのか?それとも西園寺じゃなかったのか?前者であってくれ。

「じゃあいい?私、佐藤っていうの。あの、才音さん。栞さんとどんな関係なの?なんで才音さんには、栞さんみたいな痣があるの?」

 さっそく佐藤さんが尋ねる。前者であり後者だった。変な汁が全身から噴き出す。西園寺と思ったんだけどな。テニサーのほうだったか?気分悪くなってきた。

「私は栞の恋人。で、私が栞の痣を作ったから、栞に謝るために私も痣を作ったの」

 佐藤さんや新庄さんを含め、サークルメンバーの面々は理解できていないようだった。それはそうだろう。こんなこと言われて瞬時に理解できる人間は一握りだ。やっぱ面倒なことになったな、と思う。まあでもこれで、変な男も減るだろ。と、思ったんだけど。

「え、それどういうこと?栞さんの恋人なの?冗談だよね?痣を作ったって何?」

「冗談ではないよ。私は栞の恋人なの。それに栞の痣は私が原因でできたんだぁ。だから平等にするために、私も痣を作ったの。こうしないと不平等だから」

「はあ?意味のっ...!何なのあんたっ!」

 明らかに佐藤さんの状態がおかしい。さっきまでのふわふわした雰囲気は霧散してしまっている。新庄さんもそれに気づいたようで、佐藤さんをなだめようとする、が。

「ふざけないでよ!」

 佐藤さんは才音に向かってグラスを投げつけようとした。私はとっさに、才音の前に体を滑り込ませる。そうした時、投げられたグラスの行方は?それは私の額である。マジで痛いし、立ってられなかった。

 私は才音に体を預ける。才音は見るからに狼狽している。佐藤さんに至っては、血の気が引き、死体でも見たのかのような表情だ。

「し、しおり、大丈夫なの栞、血が出てるよ!痛む!?それ、痛い!?栞!」

「才音、大声出さないでよ頭に響くから。あと結構痛い。救急車呼んでくれる?」

「わ、分かった栞、死なないでね、死なないよね」

「こんな程度じゃ人は死なないよ。グラスに当たって死にましたって、ダサいでしょ」

 昨日の先輩には悪いことしたなって思った。いやでも、昨日のはこんなにでかくて重いやつじゃなかったし、許してくれるよね?

「ち、違う、こんなつもりじゃ、栞さん、栞さん、私」

 ここまでされて気づかないほど、私は鈍くない。

「あー。いいよ、佐藤さん。何となく事情は分かったから。でもごめんね。私、才音のことが好きなんだ」

 ああ、やっぱりそうなんだな。秋穂栞は、白羽才音のことが好きなんだ。才音のことを知りたいだけなら、付き合う必要はないもんな。あの病室で、私は恋に落ちたのだ。

 あーもう!

「才音、ちょっと顔こっちに寄せて」

「な、なに、何か言いたいことがあるの栞!?」

「うるさいっての」

 意識が薄れていく中で、才音の口を塞ぐ。ロマンチックな方法で!

「しおり、今の」

 そういえば、初めて才音とキスしたな。まあ、好きって気づいちゃったし、これくらいは、ねえ?


 夢を見た。高校生の時の夢だ。あの日、クリスマス・イブの日。私の前に本当にサンタが現れてこの痣をなかったことにする。

 私と才音は話すこともなく卒業していく。その後の人生で、二人が交わることはない。

 あの日に私と才音を繋げたものは、結局のところ、この忌まわしき痣なのだろう。


 目が覚めると懐かしい匂いがした。つんとくる消毒液の匂いだ。冷たい風が頬を撫でた。

「知らない天井だ...」

 いや、この天井には見覚えがある。私が以前いた、あの病室だった。

「おはよう、栞」

 横を見ると才音がいる。いつもの才音ではない。まるで、あの日のような。

「もうお昼だよ。まだ痛む?」

「もう痛くないよ。それよりさ、才音」

 答え合わせをしようよ、と呟く。できるだけ、才音に聞こえないように。ここまでなら、まだ引き返せる。才音と生きて、死ぬまで一緒だ。

 でも、そうはいかないんだよな。

「そうだね。栞、どれからにしようか?」

 才音もそのつもりだったらしい。泣きたくなる気持ちを抑えて、息を吸って声にする。

「まず、私のこの痣なんだけど、これ才音わざとでしょ」

「うん、そうだよ。私が栞を手に入れるためには、栞に依存してもらうしかないと思ったからね。同じ欠点を抱えた者同士なら、共依存の関係になれるでしょ?恨んでるよね?でもそれくらい、栞のことが好きだったんだぁ」

「恨んではないよ。才音と付き合えたからね。それに、これを依存とは思ってないよ。これは愛だよ。でも、依存してほしいからって痣を選ぶ?」

 馬鹿でしょって言うと、やっぱりそう?と才音が答える。

「次に、大学に入って才音の性格が変わったことについてなんだけど。これが不思議なんだよね。才音って二重人格だったりするの?」

「違うよ、栞。全然違う。あれは、理解してほしくなかっただけだよ」

 はあ?って声が出る。

「だって栞言ってたでしょ?私を理解するまでって。だから、意識的に性格を変えてただけだよ。数年越しにそうしたら、栞はずっと一緒にいてくれるでしょ?」

 才音、本当に私が好きなんだな。そこまでしなくても、結局さ。

「私、才音のこと好きになっちゃったから、理解する必要なんてなくなったんだけどね」

「あ、もしかして今の私は嫌い?」

「そんなことないよ、今の才音も好き。」

「そうなの?安心した。」

 才音が笑った。つられて私も笑う。本当に、こんな時間が永遠に続けばいいのに。

「人が嫌いっていうのは?」

「あれはそのままの意味だよ。この世界の中で栞が一番好きなの。その他の人は知らない」

「え、嬉しいけどちょっと重いかも...」

「ちょっと!」

「冗談だって、冗談。嬉しいよ。とっても」

 嬉しいに決まっている。一番好きな人が、私を一番好きと言ってくれるのだ。これを幸せと呼ばずして、いったい何と呼ぶのだろう?

「ねえ、才音。これからも一緒にいられないかな?」

「駄目だよ。だって私のせいで栞が傷ついたんだもん。いや、そもそも私のせいで栞の人生はめちゃくちゃになったんだよ。このままじゃ、平等とは呼べない...そうでしょう?」

 頬を冷たいものがつたう。それが口に触れて、涙だってわかった。少ししょっぱくて、ほんのり甘い。なんで?それは、才音にキスをしたからだ。絵本なんかでよくあるやつを期待してた。愛のキスで呪いは解ける。才音も、『平等』なんて呪いから解放されてほしかった。

 でも、そんな都合のいい展開は絵本だから許されるだけであって。

「嫌だよ。私、才音とずっと一緒にいたい。離れたくなんかないよ」

「私だってそうだよ。でも、それじゃ駄目なの。駄目なんだよ」

 嫌だ。嫌だ。絶対に嫌だ。私の隣に才音がいないなんて考えられない。もっとずっと、美味しいプリンの話とかしてたい。

 でも、こうなった才音を止めることは、私にだってできない。

「これ以上一緒にいちゃいけないの。私は、栞に殺されなくちゃいけない。」

「嫌だよ!私は、栞とずっと一緒にいたいの!」

 本当に、心の底からそう思う。秋穂栞と白羽才音の物語は、まだ続くのだと。そう信じたかった。これはまだ、前日譚でしかないのだと。

 でも、この物語は終わりに向かっているのだ。

「嬉しい。私も本当はそうしたいの。こうやって栞とずっと話していたい。でも、これ以上話してると、せっかくの決意が揺らいじゃうよ。だって、栞のこと好きなんだもん」

「じゃあそれでいいじゃん!死ぬまで一緒にいようよ才音!」

「駄目なの!だって、私が生きてたら平等じゃないでしょう?ねえ、そうでしょう?」

 そんなわけがない。なのに、才音は止められない

「一緒にいたいよ、才音」

「栞、私のこと、殺してくれるよね?」

 才音に注射器を手渡される。中には透明の液体がたっぷりと。これが何かは、理解できた。

「ここは病院だからねぇ、すぐに見つかったの」

 小さくて、軽い。だが、こんなもので、人間は死ぬのだ。私はそれを知ってる。

 殺したくない。生きていてほしい。でも、それが才音が望むことならば、私は。私は。

「さいね、才音、私、才音のこと」

「愛してるよ、栞。おやすみぃ」

「私も、才音。おやすみなさい。世界で一番、愛してるよ」

 才音は、ゆっくりと、だが確実に死んだ。結局その日は眠れなかった。

 この世に才音はもういない。これ以上の不幸なことは、絶対にない。


 秋穂栞と白羽才音の代名詞ともいえるこの痣は、結局のところ、私の人生において何ら悪影響を及ぼすことはなかった。でも、それはそうだろう。何しろこの痣は、クリスマス・イブの日についたものだ。良いことしか起きないに決まっている。

 秋穂栞と白羽才音を繋げるためだけのものだったのだ。

「きっとサンタが現れても、この痣だけは消させないよ」


 食べ終わったプリンカップを投げ捨てる。本当はいけないんだろうけど、これくらいは許されてもいいだろう。

「やっぱ私、カラメル嫌いだな」

 苦みに強くても、それは好きってわけではない。才音のために食べてあげてただけで。甘いのが好きなんだから、そこに苦みを足す必要性はない。

「結局才音、ほとんどカラメルの部分しかくれないんだもん」

 才音が死んで、今日でちょうど一年がたった。いろいろ考えたけれど、やっぱりこれしか私にはないのだろう。『死んでしまった才音』=『生きている私』にはならない。

 じゃあどうすれば?答えはとうの昔から知っている!

「さすがにちょっと怖いな...」

 目線を下に向けると、打ち寄せる波が遠くに見えた。まず助からないだろう。

「でも、こうしなきゃ平等じゃないもんね」

 「まあ、そうかもねぇ」と才音なら言うだろうか。

 不意に、頬を冷たいものが触れる。

「...雪?」

 ああ、そうか。

「今日は、クリスマスだもんねぇ」

 私は、一歩、踏み出す。

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プリンの甘いところだけ食べていたい 八月六日 @ayatyou

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