だから私は猫にならない
青樹空良
第1話 なんて可愛い私のためだけの存在
私の膝に猫がいる。
さっきまで私に撫でられながら、ごろごろと喉を鳴らしていた。今は気持ちよさそうに寝息を立てて眠っている。
ぽかぽかの午後。私はふわふわの毛並みを撫でている。いわゆる猫っ毛だ。猫なんだから当たり前なのはわかっている。でも、その毛並みの元になったものがなんであるかを私は知っている。ずっと前から私が知っていた感触。
カーテン越しの春の日差しに照らされて、彼女の毛並みは輝いている。
そっと撫でていると、眠りながらも彼女は喉を鳴らした。クリームパンみたいな手がぐっぱするように動く。甘えているしるしだ。
なんて可愛いのだろう。なんて愛おしいのだろう。
ペット可の賃貸を借りるために、駅近のマンションは諦めた。駅から歩いて三十分という微妙な立地だ。バスも一時間に一本しかない。けれど、後悔なんて全くしていない。彼女のためならばそれくらいなんということもない。
彼女が退屈しないようにキャットタワーだって天井に届くような大きなものを買った。
大学を卒業して働き始めたのは今年の春からだが、給料の多くを私は彼女のために注ぎ込んでいる。それでもいいと思う。私と彼女が幸せならば、なんの問題も無い。そのために働いているようなものなのだから。
彼女はどこにも行かない。私の側だけにいる。
仕事から帰って来たら出迎えてくれるし、私のあげたものだけを食べる。トイレの世話だって私に任せっぱなしだ。
すり寄ってくるときもあるし、そっぽを向くときもある。そういう全ての仕草が可愛い。
彼女らしい、と思う。
今も私のことを信頼しきった様子で、私の膝の上で無防備な姿をしている。
なんて可愛い私のためだけの存在。
* * *
「うわ、可愛い」
ペットショップで私は声を上げた。動物が生活しているとは思えないくらい清潔なガラスケースの中では、ふわふわな子猫があくびをしている。思わず口の中までのぞき込んでしまう。ちっちゃい牙さえ可愛い。ふぁふっと子猫が口を閉じる。
「なんなんだろう。この可愛い生き物は」
「猫か~。私、動物って飼ったことないからよくわからないや」
隣で興味なさそうにあくびをしているのは人間の
「同じあくびでも人間と猫じゃ全然違うね。どうして猫はあくびしてるだけで可愛いんだろう」
「えー、何それ。私だってあくびしてても可愛いでしょ。てか、あくびしてるだけで可愛いって言われる猫ずるい」
「ずるくないよ。可愛いものは可愛いんだから仕方ない」
「そんなもんかなぁ」
眉間に皺を寄せながら、千晶が子猫をじっと見ている。そんな様子を見ていたら。
「ふぁ」
私にもあくびが移った。
「確かに、可愛いものは可愛いかもしれない」
「え?」
「あくびしてても
さっき私が子猫にしていたように、千晶は私の顔をのぞき込んでいる。
「ちょっと、やめてよ。そんなの外で恥ずかしいよ」
「えー、いいじゃん」
千晶は笑って私の頭を撫でる。ごわごわで、撫でても気持ちよくもない髪なのに。私のことも子猫のことも興味なさそうにしているくせに、そういうことを急にするのはずるい。
「もう!」
私は千晶の手を振り払う。
「家では私の髪だって撫でるくせに」
「それは家の中だからだよ。大体、立ってるときは身長差だってあるんだし……」
「じゃあ、私の方が小さかったら立ってるときでも撫でてくれるんだ」
うしし、と千晶が笑う。
私はふわふわの千晶の髪を見る。私とは違う、細くて猫の毛みたいな髪の毛。触ると手のひらをさらさらと抜けていくのを私は知っている。まとまらない私の髪とは違って、櫛がすっと通るうらやましい髪質だ。千晶は髪が細すぎて地肌が見えやすいのが嫌だとか言っているけれど、私はその髪が好きだ。
千晶が言うとおり撫でたくなってしまうけれど、口には出さない。家に帰ったら私の気が済むまで思いっ切り撫でてやろう。さっきのお返しだ。
「元気いいやつもいるね」
千晶が再びガラスケースの中を見ている。寝ている子猫の他にも、さっきからフェルトのボールを追いかけて走り回っている子もいる。その子のことを言っているらしい。
「いいな。猫は自由で」
千晶が言う。
「好きなときに寝て好きなときに遊んで。いいよね」
私は答える。
「弥生は猫飼いたいの?」
「うーん。でも今住んでるアパートってペット禁止でしょ? それに生き物飼うのって大変だよ。死ぬまでお世話しないといけないんだから。可愛いだけじゃ出来ないでしょ」
「なるほど。弥生は真面目だね。だからこそ、飼うとなったらちゃんとお世話しそうだよね。めちゃくちゃ可愛がりそう。私には無理だけど」
「確かに、千晶には無理そう」
「やっぱり?」
「でも、私もこれ以上はいいかな」
「これ以上?」
「千晶の世話だけでもう充分って感じだから」
「え、私ってそんなにお世話されてる?」
「いや、気付いてないんかい。靴下脱ぎっぱなしだし。料理だって、私が作った方が美味しいからってほとんど作らないし」
「だって、本当に美味しいし」
「ほら、すぐそうやって言う。本当に世話が焼けるんだから」
「あはは」
千晶が笑う。そして。
「お」
千晶がガラスケースの向こうで起こっていることに視線を向ける。
「夢中だね」
今度は元気な子がキャットタワーにぶら下がっているポンポンにじゃれている。
「猫って立つのか」
千晶は感心したように言う。
「意外と器用だよね」
「もしかして、元人間だったりして」
「違うと思うけど」
「だよね。そしたら、わざわざこんなところに入らないよね」
「と、思うよ」
「せっかく猫になるなら自由でいたいよね」
「きっとね」
本当に元人間だろうか。私は子猫をじっと見つめてしまう。猫は何も知らないみたいに、元気いっぱいに遊んでいる。
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