この先生きのこれない

 トレヴァーさんが私の腕を掴み、口角を吊り上げています。

 面白いことが起きている、そう言わんばかりの顔です。


「トレヴァーさん、離してください!」

「いいや、離すわけにはいかないね」

「何故ですか!?」


 手に込められた力は強く、ともすれば肩が抜けてしまいそうなほど。

 今この森には魔狼が来ているというのに。

 モーガンさんが襲われているかもしれなくて、ルッツがそれを助けに向かったというのに!

 焦る気持ちのままに腕を引き抜こうとしても、まったく動くことができません。


「君が行ったところでどうなるんだい。何も出来やしないだろう?」

「それは……」

「君の魔法では狼一匹殺せやしないよ。力でも僕の手を振り払えないのに」

「それでも行かなければルッツが!」

「君一人加えたところで変わらないと言っているんだ」

「……それではあなたも来てくださいませんか?」

「僕も、か……」


 私の懇願を聞いて、ふむとひとつ考えるかのような声を出すトレヴァーさん。

 やけにもったいぶってから、首を傾げました。


「君は今の叫び声の主がわかっているのかい?」


 わかっています。

 魔暴災害モンスター・ハザードのボスであった魔狼、禍々しい靄と共に現れる恐ろしい存在です。

 ですが。

 それを直接言うのはあまりにも不自然です。

 普通に考えて、子どもが狼の遠吠えを聞いたところでどんな狼かなどわかるはずもありません。

 事実先ほどの遠吠えを聞いてから、リリィは怯えてしまってトレヴァーさんの背中に隠れてしまっています。

 この子のように恐怖するのが当たり前なのです。

 

「……狼です」

「そうだね、狼だ。でもただの狼じゃあない。もっと恐ろしい何かだ。君はそれがわかっているように見えるけれど」

「それでも行かなければなりません」

「仮に僕も一緒に行ったところで結果は変わらないよ。気配でわかる。僕はあの声の主に勝てないだろう。わかるかい? 行くことは無謀なんだよ。死にに行くのと同じさ」


 確かにそうなのかもしれません。

 あの魔狼は狡猾で、強力な魔物です。トレヴァーさんの底はついぞ見えませんでしたが、それでも彼一人で戦えるとは思えません。

 それに敵は魔狼だけではありません。

 クスラの地で魔狼に従っていた狼がこの地に来ているのかはわかりませんが、奴は群れを従えているに違いないでしょう。

 あの時と同じように。

 対抗したいのであれば少なくとも軍隊を連れてきたいところです。


 それでも。


「だからルッツとモーガンさんを見捨てろというのですか?」

 

 理屈の上でそれが正しいとしても。

 私には決して受け入れられません。


「見捨てるというのは違うよ。既に死んだも同然の命なのだから」

「まだ死んでいません」

「ほぼ確実に死ぬだろうさ。君だって行けばそうなるのに、どうして君はそこまで彼にこだわるんだい?」

 

 トレヴァーさんは酷薄な笑みを浮かべたまま私に問いかけてきました。

 ただの問いかけ、そのはずです。なのにどうしてか、喉元に刃を突きつけられているような威圧感を感じます。

 回答次第では、この首が飛んでしまうのではないかというような恐怖。

 何故彼がそのような雰囲気を纏うのかはわかりません。

 

 わかりませんが、まったく関係のないことです。

 絶対に退かないという意志を目に込めて、彼を見据えます。

 例えトレヴァーさんが立ち塞がろうとも、私にはルッツを助ける理由があるのですから。

 

 ルッツは死にかけていた私の命を救ってくれました。

 この村での居場所を作ってくれました。

 魔王の娘である私を、一人の人間の女の子として家族の中に迎え入れてくれました。

 例え力がなくとも、諦めずに立ち向かう姿を見せてくれました。

 今だって、モーガンさんの言いつけには背いてしまっているけれど、それでも誰かの命のために危険を顧みずに飛び出していったのです。

 だから私にとって彼は。


「彼は私の勇者だからです」


 途端に、トレヴァーさんは小さく噴き出します。それから腹を抱えて、あっはっはと先ほどまでの雰囲気が吹き飛ぶような笑い声を上げました。


「面白いねえ」


 再び私に向けられた目線から剣呑さは消えていました。

 代わりに、獲物を見つけた肉食獣のようにぎらついています。


「こんな辺境の村に行ってこいだなんて上も酷いことを命令するもんだと思ったら、こんな面白いものが見られるなんて」


 豹変したトレヴァーさんの様子に思わず後ずさりします。

 彼の手は既に離されていました。


「いいよ、行ってごらんよ。君が聖女なんだろう? あの才能なしを勇者に仕立てて、どこまでやれるか試してみればいい」

「……あなたは」


 上からの命令、聖女、ナーデ教は聖女の位置を把握している。

 そしてクルト牧師から突然紹介されたトレヴァーさん。

 いくつかの要素が組み合わさって、今目の前にいる彼の形を作り出しました。


「あなたは聖騎士なのですか?」

「では狼の討伐に協力を「いやだなあ」……いただけないのですね」

 

 ナーデ教が有する聖騎士隊。

 聖女を迎えに来るのだと、クルト牧師から教えられていたそれは静かに私を見張っていたということなのでしょう。

 正体を隠していたのは、何かを探る目的があったとか、私とリリィのどちらが聖女かわからなかったとかでしょうか。

 やけに向こうからの行動がないと思っていましたが、まさか魔法の先生を偽装して監視とは。

 にこにこと意地の悪い笑みを浮かべる彼は、これまで私達を指導していた人とは全くの別人のようです。

 いえ、本性を現したというのが正しいでしょうか。

 彼は現状を楽しんでいる。


「僕にとって君の生死はどうでもいい。君が死ねば新しいまっさらな聖女が新たに生まれるのだから。もちろんあの男の子の命はそれ以上に無価値だ」

「場合によっては私を殺すつもりだったと」

「君は厄介な事情を抱えてそうだからね。お上は従順な聖女がお好みなのさ」


 彼の口ぶりからして、私がフェイルト城で生まれたことはほぼ筒抜けになっているのは間違いないのでしょう。

 そして私の事情を好ましく思わない上層部からの命令。

 それはつまり、ほとんど殺すつもりだと自白しているようなものです。

 さらに距離をとると、彼はおどけるように手をあげました。


「ああ、今は殺すつもりはないよ。君がどうなるか見てみたいからさあ」


 トレヴァーさんの言葉に、しかし安心することはできませんでした。

 なぜなら、彼の言動はあまりにも愉快犯じみているからです。

 この瞬間に気が変わってもおかしくないと思わされるのです。


「そうだね、もし君が彼と協力して生き残った時には……」


 一旦間をおいて、トレヴァーさんは私を迎え入れるように両手を広げました。


「その時には君を聖女として正式に迎え入れよう」


 それは私に提示された生き残るための条件。

 人に左右されるしかない、弱い私が唯一抱ける希望です。

 

「聖女にならない、という選択肢は」


 聖女の力を持っているということと、ナーデ教から正式に迎えられるというのはまた別の話でしょう。

 私が死んだ方が都合の良い人のいる組織に、飛び込みたくはないのですが。

 微かな抵抗はあえなく切り捨てられます。


「その時は狼の餌だね」


 やはり、といったところです。

 死ぬか、茨道でも生きるかの二択しかありません。

 どうにもこの世界は私の命を脅かしたくて仕方がないようです。どこにいても、私の死を望む人たちがいる。

 神様は聖女の力と一緒に、酷な境遇を与えてくださったようで。

 まるで私は神様の掌で踊る人形のようです。

 ですが、生きられるのならば。

 希望があるのならば、進むしかありません。


「わかりました」


 目を瞑り、小さく息を吐きます。


「魔狼を倒し、二人を連れて帰ってみせましょう」


 きっと魔狼は私を追いかけてここまで来たのでしょう。

 であれば私が村に帰るには、魔狼を退治するしかありません。

 村の方々に迷惑をかけるわけにはいきませんから。


 私の言葉に、鷹揚にトレヴァーさんは頷きました。


「楽しみに待っているよ」


 待たれているだけでは困ります。

 私たちはモーガンさんの言いつけを破っているのですから、誰かが村の人を避難させなくてはいけないのです。

 

「村の方々の避難をお願いしてもいいですか?」

「請け負った、とは言ってもみんなちゃんと避難してるんじゃないかな。あのご老人、狩人として信用はされてるようだからね」

「それでもです。リリィのこと、お願いしますね」

「この子は言われずともさ。大事な有望株をみすみす手放すものかい」

「おねえちゃんもいっちゃうの……?」


 リリィが泣きそうな声で体を震わせながらこちらを見上げてきます。

 罪悪感が肩に重くのしかかってくるようです。

 けれどこれを振り払って行かなくてはなりません。

 私はリリィの頭をそっと撫でました。


「大丈夫ですよ、リリィ。ルッツとモーガンさんと一緒に、皆無事で帰ってきますから。トレヴァーさんやハンナさんたちの言うことをちゃんと聞いていい子にするんですよ?」

「……うん」

「いい子です。偉い偉い」


 涙をこらえているリリィを、トレヴァーさんは無造作に抱え上げて村の方へ歩いて行きます。

 リリィの目はずっと私を見ていました。


「また会えるといいね、聖女様」


 背中越しに放たれた、愉快そうな言葉。

 それに答えることはせず、私はルッツの後を追いかけました。

 

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