恋煩い

紺野月詞

第1話

 恋というものは人と人とが関わりを持てば、知らず知らずのうちに生まれているものである。

 そんな言葉を本かなにかで読んだ覚えがある。漢字の中に「心」が入っているから、それもそうなのかもしれない。理屈でどうこう出来るものではなくて、ふとした瞬間に落ちてしまう。そんなものなのだろう。

 生まれてまだ十六年と少ししか経っていない私にはその言葉を表面的に理解することは出来ても、あまり納得はしていなかった。心で人を好きになる、というのはまあ分かる。知らずのうちに、というのが分からない。相手からの好意はあまり分からないかもしれないが、自分の気持ちは自分のことなのだから分かるものではないのだろうか。

 そんな考えを持つ私は、まだ恋を経験したことがない。「恋を経験」なんて言ってしまうところが可愛げがなく、巡り合わせが来ないのだろう。

 夏休みが終わって九月に入っても夏を忘れさせまいと言わんばかりの残暑の中、冷房の効きが弱い教室でぼうっと授業を聞き流す。昼休憩の後の一発目の授業だからか、船を漕ぐ人がちらほら居る。そろそろ授業が終わるだろうかと時計を見れば、計らったように高いチャイムの音が爽やかに鳴った。

 号令の後、先生が教室を出るのを横目で見つつぼうっとしていた間の板書を素早く書き写していると、後ろから肩をつんと突かれた。振り返れば、にやけた顔が一つ。

 「さっきの授業、あんまり聞いてなかったでしょ。」

 「……バレてたか。睡魔と闘ってたの。」

 「お昼食べた後の授業はやっぱ眠いよねぇ。私も何回か意識飛ばしてたよー。」

 そう言って、なぎさが自身のノートを私に見せてくる。特徴のある字の羅列の中に弱々しいミミズが浮かんでいた。

 「それでー?何度も外を見てたけど、誰を見てたのかなぁ?」

 「んー?別に誰をなんて見てないよ?」

 「うっそだぁ。気になる人でも居たんでしょ。」

 「居ないよ?渚がかっこいいって言いそうな人は居たけど。」

 次の授業の用意をしながら変にいじろうとしてくる渚の言葉を、のらりくらりと躱わす。私の言葉に「本当!?どんな人!?」と身を乗り出すように窓を見る彼女に、指を刺して教える。

 「ほんとだ、めっちゃかっこいい!なんて名前かな、同い年かな、今フリーかな!?」

 「ちょっと落ち着いて。体操服の色が私達と同じなんだから多分同学年。名前は……分かんないし、今フリーかも私には分かんない。」

 興奮気味に話す彼女の質問に一つ一つ丁寧に返す。渚は俗にいう恋愛体質な人で、恋人は沢山居た訳じゃないけど気になる人は結構頻繁に居る。そういうところは私とは正反対だけれど、趣味趣向はとても良く合うし、私は女子高生らしく恋愛を楽しむ彼女が好きだ。……まあ、そのせいで頻繁に私の恋愛事情を聞いてくるのは厄介だけど。

 「次の休憩時間に他のクラス覗いてみたら?」

 「そうしようかな。詩乃しの、ついて来てくれる?」

 「いや、って言っても引っ張ってくじゃん。」

 「だって心細いもん。」

 可愛らしく頬を膨らませる渚に苦笑する。彼女は友人という贔屓目を除いても可愛らしい人だと思う。絶世の美女とまではいかないけど顔立ちは整ってるし、なにより愛嬌があった。人見知りな私の懐に上手く飛び込んできて、気付けばこのクラスの誰よりも仲良くなっていた。

 何度も「ついて来てね。」と頼んでくる彼女に流すような返事をしていれば、チャイムが鳴って先生が入って来た。授業中も少しそわそわする気配を後ろから感じつつ、数式の海に思考を投げ入れた。

 次の休憩時間、私は渚に連れられて他クラスの前をうろうろしていた。私達が通う高校は地元ではわりと有名な進学校で、規模も大きく、一学年八クラス程あった。そのうちの二クラスはスポーツ推薦枠の生徒で占められていて、全国大会常連の部活も多く持つようなスポーツにも力を入れた学校だった。そのため、人探しにはあまり向かない。私達のお目当ての人物もなかなか見つからず、授業が始まるギリギリまで粘ったが遂ぞ見つからなかった。

 「見つかんない……半分以上覗いたのに……。」

 「六組から八組の間にいるんじゃない?私の予想では六組だと思う。」

 「そうなの?なんで?」

 「見た目的にスポーツ推薦じゃなさそうだった。」

 「めちゃくちゃ偏見。」

 クスリと笑いながら自分達のクラスへと急ぐ。私たちのクラスは五組から八組のある階の一つ上の階にあるため、小走りで階段を登っていく。校内で走っている時に限って階段や曲がり角で人とぶつかることが多いのは一体なぜなのだろうか、なんてことが頭の中に浮かんで来ると同時に階段を登り切り角を曲がれば、衝撃を感じた。

 「っ……すみません。」

 「いや、こちらこそすみません。大丈夫ですか?」

 ぶつかってしまったのは男子生徒だったようで、上から低めの声が降ってくる。反射的に見上げれば心配そうな顔をしていた。

 「大丈夫です。怪我とかありませんか?」

 「俺は全然……って急いでますよね、気にしなくていいですから。」

 彼は控えめに微笑んで軽く会釈した後、階段を駆け降りて行った。三歩程前で振り返って待ってくれていた渚に謝罪と感謝を述べて、私達も教室へと急いだ。



 「さっきの人、どう?」

 一日の最後の授業が終わり担任の先生がホームルームをしに来るまでの間の時間に渚がそう言った。

 「さっきの人って?」

 「曲がり角でぶつかってた人。良い人じゃなかった?」

 「あぁ、あの人。うん、優しい人だったね。どうっていうのは……もしかして、恋愛関係のこと?」

 「そうそう!気になったらしてない?好きになったりとか!」

 「してない。」

 当事者である私以上に楽しそうな渚の言葉をきっぱり否定すれば、少し不服そうな顔をする。少女漫画や恋愛の物語によくある展開が起こってしまったため、きっと渚が何か反応するだろうとは思っていたけど、本当に予想通りにだった。

 「ほんとこういうの好きだね。」

 「うら若い乙女ならキュンときて意識しちゃうものなの!」

 「それは私がうら若い乙女じゃないみたいってこと?」

 「そういうことじゃないけどー。」

 彼女の言う通り年頃の世の女性達はこういう時に恋に落ちたりするのだろう。私だって、どう考えても私に非があるのに謝ってくれて、心配もしてくれた彼を心優しいと感じるし、良い人だなと思う。けど、在校生が千人弱も居るこの学校ではたまに起きる出来事だし、いちいち胸を高鳴らせていたらキリがない。そう感じてしまうのは、やっぱり冷めているのだろうか?

 ホームルームが終わり、渚と一緒に下校する。私達は二人とも部活に所属していないので、あんまり学校には居残ったりはしない。靴箱に向かう前に六組を覗きに行けば、教室にはあまり人が居なかった。

 「え、人全然居ないじゃん。みんなもう帰ったの?」

 「そういえば、六組の担任の先生はホームルーム終わるのめちゃくちゃ早いみたい。あと、あんまり学校に残る人も居ないって。」

 「なるほど。探してる人も……居ないね。」

 「みたいだね。」

 しょんぼりと肩を下ろす渚の背中を励ましの意味を込めて軽く叩いく。一応七組と八組を覗いたけどどちらも電気が灯っておらず鍵も閉まっていた。スポーツ推薦枠のクラスなので、他の組よりも授業が終わるのが早いのだ。

 彼を探すのはまた明日にして学校を出た。「明日こそは!」と意気込む彼女と他愛もない会話をしながら帰路に着く。残暑が続くと言えど十六時を過ぎた空は赤みを帯びていた。



 家に帰って家族と夕ご飯を食べ、そのままお風呂に入る。身体を綺麗に洗った後、湯船に浸かりながらスマホを触る。動画配信サービスのアプリをスクロールしていくと、「あなたへのオススメ」にはコスメを紹介する動画や恋愛相談に答えていく動画が並んであった。高校に上がってからよく観るようになったジャンルだ。恋愛は私にとって少し縁遠く感じるものだけれど、なにも興味がない訳じゃない。人並みに興味はあるし知識も本やこういう動画で付けている。誰かの恋バナや恋愛エピソードを聞くのは好きだから、渚の恋する姿を見るのは微笑ましく感じるし応援したいとも思う。

 なら、自分は?そう自問自答しても答えは見つからない。いつかは恋に落ちることがあるのだろうかと何度も考えるけれど、そういう自分を上手く想像出来ないでいる。

 「……恋愛したことないって、おかしいのかな……。」

 同世代の人達がどんどん大人になっていくかのような錯覚を覚えることがある。私だけ子供のまま取り残されているんじゃないか、と。けれど、昔から周囲の大人は私を「大人っぽい」と言う。この噛み合わないパズルのピースみたいな事実に笑ってしまう。この笑いがなにから来るものなのか、私には分からなかった。

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