私の背中には羽根がある

助六稲荷

私の背中には羽根がある

 私の背中には羽根がある。


 吐く息が白い、真冬の学校の踊り場。

 もたれる背中には屋上へと続く鍵のかかったドア。

 滅多に人が来ないここを作業場と決めた日から毎日、訪れるたびに何かの希望を込めてノブを回すのが日課となっているが、約一年が過ぎた今に至るまで、この錆びついたドアは一度も開いたことがない。


「っ……はぁ」


 iPadに納得のいかない線が走る。

 握りしめたペンごと右手をブレザーのポケットに突っ込み乱暴に中にあるカイロをまさぐる。手だけでなく冷えたリノリウムの床に押し付けている尻もとっくに感覚は無くなってしまった。

 寒い、寒い、寒い。でも私の居場所は間違いなくここだ。


 間抜けな音で昼休み終了のチャイムが鳴る。確か5限はボケジジイの現国だから今日はまだ50分、イラストを描く時間がある。


「ふぅ……」


 私は息を抜いて温まった右手で再びペンを走らす。

 大丈夫、私のイラストは退屈な授業より未来に繋がる。大丈夫、私の背中には羽根がある。


 *

 

「キモッ」


 いつもの様に冷え込んだ日の朝、凍てついた空気に初めて私の吐息以外の音が響いた。

 階段下から聞こえた声の主は一段ずつその姿を現す。

 派手な金髪のショートヘア、性格悪そうに吊り上がった目、ゆるゆるな胸元とネクタイ、キャメルのカーディガン、短いスカートにルーズソックス。時代錯誤の汚いギャル女。


「死ね」


 そのギャルが私の前を横切る瞬間、聞こえるか聞こえないかの音量でそう呟く。

 ちらりとこちらを一瞥して鍵のかかったドアへ向かうギャル。馬鹿みたい。


 案の定ガキリと引っかかったノブを数回ガチャガチャさせた後ギャルは退散した。ざまあみろ、ここは私の居場所だ。


 *


 気付けば放課後、一度も教室に行かなかった私は欠席扱いなんだろうか。

 どうでもいい、あそこは私の居場所じゃない。どうせ大人しく席に座っていたとして誰の目にも映っていないんだからここと大差ない。

 私は水筒を取り出し暖かいお茶を飲む。一段落だ。

 その時、ぺたりぺたりと薄い上履きで階段を上る音が聞こえてきた。来客の多い日、最悪だ。


 少しして現れたのは朝の汚いギャル、最悪が重なる。

 一瞬視線が交錯した後、お互い〝興味が無い〟の意思表示の為私は下を、ギャルは前を向く。


 とはいえあのギャルが向かう先にあるのは朝と同じく鍵のかかったドアだけ、何をしに来たんだろう。好奇心から私はついつい一度下げた目を上げる。

 朝見た時には気づかなかったがこうまじまじと見るとどこか既視感がある。人付き合いが極端に薄い私だがどこかで見た事あるような……。

 そんな私の逡巡も知らずにギャルはドアに辿り着くと、ポケットから当然の様に銀色の鍵を取り出し無造作に鍵穴に突っ込み回した。


 ガチャリと噛み合う音が踊り場に響き、一年間、私の行く手を阻んできた壁に軽い軋みを上げて風穴があいた。

 私は信じられない気持ちで目を丸くしてそれを見ていた。その視線に気づいたギャルがこちらをちらりと見た後、屋上に出て行く。


 トンビに油揚げを攫われたような、見下していた絵師が万バズを叩き出したようなそんなもやもやがお腹の底で俄かにごとりと動いた。


「職員室からパクった」


 ドアの向こう、私には見えない確度から、ギャルの声と一緒に鍵が私の前に投げて寄越される。


「来たいなら来れば?」


 *


「寒っ!」


 未知の期待を込めて踏み入った屋上は冷たい風が吹きすさぶ修羅場だった。よく考えれば手前の踊り場であれだけ寒いのだから吹きっ晒しの屋上がどうなっているかなんて火を見るより明らかなのに。


 途端に気持ちが萎え、戻ろうかとも思う。そんな私を押しとどめたのはあの汚いギャルの言葉だった。

 家だって、教室だって誰の目にも私は映っていない、でもあのギャルの瞳の中にはどうやら私はいたらしい。そしてあろうことか誘いの言葉までくれた。

 寒い踊り場こそ私の居場所、その考えは変わってないし、あのギャルと仲良くなるなんてこっちから願い下げだ。でも私を見つけてくれた人間の誘いを無下にしたくないというのも本音だった。


 件のギャルは屋上の端にいた、転落防止のために取り付けられた2メートルほどのフェンスにもたれかかっている。とりあえず近づき、声をかける。


「あの、ありがと」

「へ? 何が」

「いや……」


 会話が止まる。気まずくなって私は持ってきた鞄から水筒を取り出す。


「暖かいお茶、いる?」

「急にどうした」

「いや、屋上開けてくれたお礼」

「へー、律義。じゃ遠慮なく」


 そういうとギャルはコップに注がれたお茶をズズーっとおとを立ててすすり「あ゛ー」と声を上げた。

 格好だけでなく所作まで時代錯誤だな。

 そんなふうに思いながら見ているとギャルはぺらっぺらのスクールバッグから煙草を一本取り出し慣れた調子で火を点け一口、二口、しっかり肺に入れるように深く煙を吸った。ドン引きだ。


「どう? アンタも吸う?」

「いや、煙草は……」

「まぁまぁ、さっきのお茶のお礼って事で」

「お礼のお礼ってもう意味わかんない」


 言いつつ無理やりに渡された火のついた煙草を受け取る。


「咥えて吸い込めばいいから」


 ええいままよ。私は意を決して思いっきり煙を吸い込み、さっきギャルがやっていたように肺に煙を入れる。

 死ぬほどむせかけたがギャルが興味深そうに見ている前でむせてしまうのはダサい。気合で堪える。


「結構思い切っていくね」

「別に平気でしょ。こんなのお父さんも吸ってる」

「へぇ、アンタの父さん大麻吸ってんだ」


 たまらずむせた。


「大麻⁉ これ大麻なの⁉」

「別に煙草と大差ないでしょ」

「大ありよ! 捕まる奴じゃないの!」

「別に煙草だって今のアタシらが吸ったら捕まるでしょ」

「あ、そっか」


 何か言いくるめられた感がないでもないがそれを確認する前にギャルが質問を飛ばしてくる。


「踊り場でさ、何書いてんの?」

「……イラスト」

「答えになってないじゃん。なんでそんな事してんの」

「好きだから」

「好きって将来に繋がる?」

「……繋がらなくても、趣味でいいなんて糞みたいな考え方、私は嫌いだから」

「ぷっ、気合入ってんじゃん」


 小馬鹿にしたようにギャルが笑う。何だコイツ、もう一回嫌いになりそう。

 しかしギャルはすぐその笑顔を引っ込め真面目な顔つきに戻って口を開いた。


「同感だけどね」


 そう言ったギャルの横顔に既視感の正体を思い出した。

 半年前の学園祭のライブステージ。

 なんだかよくわからないバンドで上手なのか下手なのかわからないベースを弾いていたのを見かけたんだった。バンドの事なんて何一つわからない私から見ても多分あれは滑ってたって奴だと思う。この人たちはなんでこんな罰を受けているんだろうってレベルの地獄っぷりだったから。

 ここで私達の間の会話は再び途切れた。

 でも私はこのギャルと話したくなってしまっていた。音楽とイラスト、畑は違うがクリエイター(笑)同士。恥ずかしながらそういう相手と話したことが無かった。

 学校だけでではなくネットでも私は一人だったからだ。


「一口とかケチな事言わずに一本丸々その大麻?寄越しなさいよ」


 半ば自棄になって会話の糸口の為に大麻煙草をもう一本要求する。毒くらわば皿までだ。


「ふざけんな、いくらすると思ってんの。それにこれはジョイントって言うの。オタク陰キャちゃんじゃ知らなくてもしょうがないだろうけど」

「今更ビビって会話の主導権握ろうとしないでよ。下手だし。それにその発煙筒がいくらだろうと私のお金じゃないからどうでもいい。さっさと渡さないと通報するわよ」

「……極悪な性格してんね」

「一人踊り場で腐ってる人間がまともな性格してるわけないでしょ」

「ぷっ、そりゃそーか」


 ギャルが愉快そうに手渡してくるジョイントに火を点け、青臭い煙を思いっきり吸い込む。

 一瞬クラクラッとした後、しばらくするとふわっと脳みそが浮き上がる感覚。やばい、嵌ってしまいそう。

 しばらく夢中で私達は煙を吸い込んでは灰色の冬空に吐き出した。

 


「アタシさ、ベースやってんだー」

「そこそこ上手いはずなのに下手糞か体狙いのアホしかバンド組んでくれなくてさー、頭来てバンド解散して軽音楽部も辞めちゃった」


 気付くとギャルがとろんとした目でぶつぶつと自分語りをしていた。これが俗にいうキマっちゃってるという奴か。


「自棄になってyoutubeに投稿したらバズっちゃってさー」


 適当に聞き流していたがどうしても聞き流せない単語が出てきた。私にマウントを取る奴は全員殺す。


「バズり自慢するなら死んで」

「あっははー、でもそれもすぐ糞だって気付いたよ。画面の向こうの奴等は〝女子高生〟が何かしてりゃ満足なんだもん」


 横並びで聞いているはずなのに声が遠くなったり近くなったりして聞こえる。大麻すげー。


「うちらってさー、割と不幸な世代だよねぇ。クリエイトや発信の方法が多い恵まれた世代とか言われてるけどさ、反響や先達の末路が可視化された分、自分の現在位置が客観的に見えちゃうし」


何処かで一羽、カラスが鳴いた。


「それで諦めなくても、飽和したクリエイターの中で埋もれない方法は何者かになる事を志した純粋な初期衝動とは真逆の、不純でサムくてダサいものばっかりだし?」


「コスプレしたり、肌見せたり、興味もないボカロ曲にダサいスラップ詰め込んだり、絵を被って二次元ごっこしたり。悪ぃけどこちとらそんなことがやりたくてベース握ったんじゃないんだっつーの」


 私は口から燻った煙を吐くギャルをアホ面で眺めていた。


「アンタもイラスト書いてりゃ似たようなもんでしょ?」


 同意を求めて来るギャル。そりゃ私だってこのネット社会の泡沫表現者として思う所は無いわけではない……だけども、なんだか私はムカついた。


「ごちゃごちゃごちゃごちゃうるさい。そして被害者意識が気色悪い」

「はぁ?」

「確かにそういうのはあるだろうけどさ、私だったらそんなダサいシステムに型にはめられたりしない。一緒にしないで」

「へぇ、じゃあアンタはあの踊り場からどうやって世に出ていくつもりよ」

「有り余る才能と絶え間ない努力。それさえありゃどうとでもなるでしょ」

「ぷっ……アンタ性格だけじゃなくて頭も悪いんだ」

「言ってなさいよ。自分は悪くないって言い訳に引きこもってる貴方の何倍も羽ばたいてやるから」

「羽ばたく?」

「そうよ、私の背中には羽根があるの!」


 そう言い放った私の顔を目をまん丸くして見つめるギャル。一気に恥ずかしさが襲ってくる。そして一緒に冷静さも戻ってきた。

 ずっと心の中で叫んできた、連呼して奮い立たせてきた私だけの大事な言葉をこんなところで口走ってしまった事実に後悔で身もだえしたくなる。


「かっこいいじゃん」


 てっきりまた小馬鹿にされると思っていたところに帰ってきた意外な言葉。見ると目に光が戻っている。


「アタシの背中にもあるかな、羽根」

「知らないし興味ない」

「あったらいーなー」


 陽気に鼻歌を歌いながらジョイントを咥えてギャルは唐突に落下防止用のフェンスを上り始めた。


「ちょ、ちょっと何やってんのよ!」

「飛ーぶーのーよ。アイキャンフラーイ。これなんだっけ、真田広之?」

「窪塚よ! ラリってんじゃないわよ!」


 慌ててキャメルのカーディガンごと制服のブラウスの背中を掴んで引き留める。


「邪魔すんなよー、羽があれば飛べるから問題ないでしょ。そんで生還したアタシは卍LINEを結成するのだ」

「間違いなく地面に叩きつけられるから止めてるんでしょうが!」

「それなら、私の背中に羽根が無いなら、死んだほうがマシじゃん」


 恐ろしく冷たい目でギャルは私の目を見て行った。

 言葉はこの真冬の冷気よりも冷え切って、迫力と冷気に寒気がして、その覚悟と絶望に思わず手を離してしまいそうになる。

 それでも、それでも。


「馬鹿! 馬鹿! 羽根があると信じなきゃ生きる場所が無いから! だから私達今こんなところでラリってるんでしょうが!」


 少し、ギャルの動きが止まった。


「アンタだってそうやって生きてきたんでしょ! だったら最後まで信じてなさいよ! やっと見つけた同類の、名前も知らないうちに勝手にさよならなんて絶対させないから!」


 力いっぱいカーディガンとブラウスを引っ張る。

 意外にもあっけなくギャルはフェンスを掴んだ手を離し、私の上に降ってきた。


「……アタシ、飛べんのかなぁ。背中に羽根、ついてるかなぁ」


 落ちてきたギャルはそのまま倒れた私の上に寝転がって重苦しい灰色の空を見上げてポツポツと呟いた。その横顔に涙がつうっと流れて私の制服にシミを作る。


「わかんない。わっかんないよ。私もアンタも、羽根なんか……未来なんか!」


 なんだかつられて私からも涙が溢れた。不安と、絶望と、すがるしかない希望とケバケバしいだけの夢なんて平々凡々な女子高生からしてみたら全て毒だ。

 その毒を洗い流す事が出来るのは同じ毒に当てられた人間の涙しかないんだきっと。


 *


「2年A組、根来美咲(ねごろみさき)」


 気づけば泣き止んでいたギャルがごろりと寝返りを打ち私に覆いかぶさって背中に手を回すと眼前数センチに顔を近づけて言った。


「へ? なに? てか近い」

「ほらさっき言ってた、名前も知らないとかどうとか」

「ああ、それなら」


 私も寝転がったまま口を開いた。


「2年D組、音羽双葉(おとわふたば)。よろしく」

「……よろしく。あっ」

「何よ」

「アタシ学校入って初めて友達出来たかも」

「友達かどうかはまだ微妙なとこじゃない?」

「じゃあ現状何も変わらずだわ」

「それでいいじゃん。とりあえず一服する?」

「んーん、まだもうちょっとこうしてたい」

「はぁ、ご勝手に」

「なんか今日の出来事、大麻酔いが醒めたら滅茶苦茶恥ずかしくなりそうな気がする」

「私も」


 言い合いながら私達はどちらからともなくクスリと笑った。


「屋上寒い」


 杏奈はそう言って私を抱いたまま頬を私の胸に擦り付けてきた。


「確かに。どっかいい場所探さないとね、空き教室とか。とりあえず冷暖房完備してるとこ」

「何のために?」

「杏奈がベースで曲作ったり、私がイラスト書いたり、そんで偶にジョイント吸ったりするためによ」

「なにそれ、クソ楽しそうじゃん」


 そう言って杏奈は私を見上げにっこりと笑った。

 変なギャルに懐かれてしまった。けれども私は初めてできた、似た道を歩く同士の伝わってくる体温にほのかな心強さまで感じてしまっていた。全く情けない。


 *


「あ、そういえばさ」

「なによ」

「ウチらあるよ羽根」

「はぁ?」

「ウチらの苗字、音羽と根来じゃん。繋げたところに羽根ができるじゃん」

「しょーーーーーーーーーーーもな!!!!!!」


 <了>


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