第4章 前世の真実

第33話 ナセルの怒り

 アーキルとルサードを寝室に残し、私は真夜中の後宮ハレムを宦官長に付いて走る。


(ラーミウ殿下の身に危険が及ぶなんて、もしかして既に皇帝陛下が御隠れに……?)


 皇帝陛下は以前から病に臥していたと、アーキルから聞いている。

 もしも陛下が御隠れになった場合、次期皇帝として即位するのは第一皇子であるアーキル。そうなればアザリムに伝わる慣習により、アーキル以外の皇子は命を奪われることになる。


(早すぎるわ……! この悪習を変えるのに、今世でも間に合わないなんて)


 しかし宦官長に案内された場所は、ファイルーズ様の私室だった。

 ラーミウ殿下がファイルーズ様の私室にいらっしゃるはずがないのに、と不思議に思いながら、私は静かに扉を開けて中を覗いた。

 そこには、肩を震わせて泣きじゃくるファイルーズ様。そしてその横には、ファイルーズ様の肩を抱く侍女長のダーニャが並んで座っている。

 扉の前にいた宦官たちが私が中に入るのを止めようとしたが、私はその手を払って部屋に入り、二人の前に膝をついた。


「ファイルーズ様、ダーニャ様。一体何が起こったのでしょうか! ラーミウ殿下はご無事でしょうか」


 私の声に驚いて顔を上げたファイルーズ様は、何かに怯えたような表情で眉を下げて泣いていた。

 周囲を見渡してみても、そこにいるのはファイルーズ様とダーニャだけで、ラーミウ殿下の姿はどこにもない。

 ファイルーズ様に寄り添っていたダーニャは、騒ぐ私をさも迷惑そうにじろりと見た。


「リズワナ、貴女のことは呼んでいませんよ。アーキル皇子殿下はどちらに?」

「もう既にお眠りでしたので、代わりに参りました。それよりも、ラーミウ殿下は……?」

「静かに。ラーミウ殿下は今、ご自分の部屋に幽閉されています」

「幽閉って……ダーニャ様、殿下が何か、いたずらでもなさったと?」


 ラーミウ殿下はたった五歳。

 五歳の子どもが自室に幽閉されるような事件を起こすことなんてあるだろうか。

 疑問は残りつつも、とりあえずご無事でいらっしゃることに安堵して、私は胸をなでおろした。


 ダーニャによると、ことの顛末はこうだった。

 既にご自分の部屋で眠っていたはずのラーミウ殿下が、真夜中にお一人で部屋を抜け出した。

 皆の目を盗んで殿下が向かったのは、ファイルーズ様のお部屋。ちょうどその時ファイルーズ様は、部屋のバルコニーで月をご覧になりながらゆっくりと一人で過ごされていた。そこにラーミウ殿下が一人で現れたという。


 たった五歳とは言えラーミウ様は男児で、ファイルーズ様は兄である第一皇子アーキルの妃。夫のいる女の部屋を他の男性が訪れることは、ここ後宮ハレムでは禁忌である。


「そんな……! ラーミウ殿下はまだ五歳。ファイルーズ様のお部屋を訪れたのには、きっと何か理由があるはずです。まずは殿下に事情をお聞きしては?」

「……リズワナ! ラーミウ殿下は無言で私の部屋に入り、バルコニーにいた私に抱きついてこられたのですよ!」

「五歳ならば、夜中に目を覚まして人恋しくなることもあるでしょう。きっとラーミウ殿下はお一人でいるのが怖くて……」

「お黙りなさい! 第一妃なのにアーキル殿下から一度もお召しのない私を、貴女は馬鹿にしているのでしょう? 五歳だろうといくつだろうと関係ないわ!」


 ファイルーズ様は立ち上がり、跪く私の頬を平手でパンと打った。

 側にいたダーニャは、それを止めるそぶりもない。


(駄目だわ、今はまともに話ができない。朝になるのを待って、アーキルに報告しよう)


 雷が鳴るのが怖くて、夜中にアーキルの寝室を訪れたことがあると言っていたラーミウ殿下。きっと今夜も目が覚めた時に一人でいるのが怖くて、ファイルーズ様を頼ったのだと思う。

 禁忌を破ったことはもちろん良くないが、もう少しラーミウ殿下の気持ちに寄り添って差し上げてもいいのではないだろうか。


 ダーニャに促され、私はそのままファイルーズ様の部屋を追い出された。

 扉の外には先ほどの宦官たちが控えており、彼らの手を払って勝手に部屋に入った私を睨みつけてくる。


(あれ? おかしいわ。見張りはいなかったの……?)


 ラーミウ殿下の部屋からここに来るまでの間に、見回り役の宦官が必ずいたはずだ。妃たちの寝室に繋がる回廊には特に、常に誰かが立って出入りを管理している。

 ラーミウ殿下がファイルーズ様の部屋に行くのを、なぜ誰も止めなかったのだろうか。


 いずれにしても、翌朝になってアーキルがこの一件を知れば、きっとすぐに解決するはずだ。ラーミウ殿下が心細い思いをしていませんようにと、祈りながら床に着いた。


 しかし翌朝。

 事態は更におかしな方向に動いてしまった。

 夜も明けきらぬ早朝に、アザリムの都に駐在しているナセル大使が宮殿を訪ねて来たのだった。



「アーキル皇子殿下。ファイルーズ妃殿下は、我がナセルの王女でいらっしゃいます。このような扱い、許されることではございません!」


 ナセル大使は、唾を飛ばしながら怒り散らしている。

 アーキルに飛び掛かってきかねない大使の勢いに、宦官たちは周囲でおろおろするばかりだ。


「その件については、俺も今朝聞いたばかりだ。まずはラーミウにも話を聞かねば詳しい状況も分からない。いずれにしてもラーミウはまだ五歳。大使が懸念しているようなことはない。安心して欲しい」

「ラーミウ殿下の年がいくつであろうと関係ありません!」


 大使とアーキルの間に割って入ったのは、ファイルーズ様本人だった。

 昨晩は眠れなかったのだろう、両目を赤く腫らしていて、顔色も悪い。


 ファイルーズ様はアーキルの足元に膝をつき、恨めしそうにアーキルを見上げる。


「私は、アーキル殿下のお心が私に向いていないことがとても悲しいです。ラーミウ殿下が夜中に私の部屋にいらっしゃったことも、殿下は少しも気に留めていらっしゃらないではないですか」

「そんなことはない。禁忌は禁忌。五歳の子であっても守らせなければならない」

「酷いわ……! こんな状況になっても、殿下が味方をするのは私ではなくラーミウ殿下。アーキル殿下は、このリズワナが現れてから変わってしまわれました」


(……私?)


 泣き顔のまま私の方に顔を向けたファイルーズ様の後ろで、ナセル大使の顔がみるみる怒りで紅潮していく。


「……アーキル皇子殿下! ナセルの王女を娶っておきながら何年も遠ざけた挙句に、こんな側女を置くなど!! 我々ナセルを馬鹿にしておられるのですな!?」

「大使、落ち着け」

「いや、黙っていられましょうか。ナセル国王陛下に全てご報告いたします!」

「ラーミウに真実を確かめてからでも遅くはないだろう」

「真実など、確かめなくても分かるではないですか。殿下はナセルを愚弄なさっているのです! この娘がその証拠です!」


 手が付けられないほど熱くなった大使の前で、アーキルは右手をピクリと動かした。


長剣サーベルを抜こうとしているわ)


 大使の前で武器を抜こうものなら、再びアザリムとナセルの戦に発展しかねない。

 私は咄嗟にアーキルとファイルーズ様の間に滑り込み、ファイルーズ様の両手を取った。


「ファイルーズ様! ご夫婦の喧嘩はお止めください!」

「……何を言っているの? リズワナ」

「東洋の国では、『夫婦喧嘩は犬も食わない』なんていう言葉があるようです。私は退散致しますから、ご夫婦の喧嘩はご夫婦同士で解決なさってくださいべ。では!」


 絶句しているファイルーズ様の前で明るく言い放ち、私はナセル大使の腕を取って部屋の出口へ連れて行く。

 このまま話をしていたも、ファイルーズ様もナセル大使も騒いでことを大きくしてしまうだけだ。一度二人を落ち着かせて、ラーミウ殿下のお気持ちを聞くための時間を稼ぎたい。


 寵姫である私がアーキルとファイルーズ様の仲を取り持ったことを不審に思ったのか、大使は訝し気に私を見ている。



「お前、リズワナと言ったな」

「はい、そうです大使様」

「こんなところに居てはもったいない美女じゃのう。リズワナ」

「あーら、オホホホホ……」


(……えっと、気持ち悪い目線は遠慮したいです)


 どうも私は、年上の男性に好かれてしまうようだ。

 作り笑いで会釈をしながら、私はナセル大使の腕にしなだれかかる。


「さあ、大使様。馬車までお見送り致します。そう言えば、大使様はなぜラーミウ殿下がファイルーズ様のお部屋を訪ねたことを知ったのですか?」

「カシム殿から、早馬で連絡を受けたのだ」

「カシム様? カシム・タッバール様のことですか?」

「ああ、そうだ。カシム殿はいつも、ハレムで何か変わったことがあれば我々にも報告をくれるのだ。彼は後宮の管理を任されているからな」

「そうですか。カシム様が……」


 やっぱり何かがおかしい。

 だって、カシム様が早馬を飛ばすなんて、そんなことできるはずがないのだ。

 彼は私が図書館で気絶させた時のまま、今でも眠っているんだから。

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