第一章

第一話

 拓人は目の前の恐怖の塊を、部屋の隅で距離を保って見守ることしかできないでいた。


「あ、これちょっと前にCMでやってた曲じゃん。音楽好きなの?」

「……別に」


 視線の先で人の棚を無断で物色しているのは、先ほど土砂降りの中で「番になって」と言い出した少女である。


 時は1時間前まで遡る。

この求婚まがいのことを言い出した少女は呆然と水溜りの中で座りこける拓人を引き上げ立たせたかと思えば、頭の整理が追い付いていない彼から自宅の場所を聞き出し、そのまま押しかけた。

 今日に限って仕事が休みだった拓人の母は、傘を持って家を出た息子が見ず知らずの少女を連れてずぶ濡れになって帰宅したことに目を丸くした。

そんな中、彼女はいけしゃあしゃあと言ってのけた。

 

「初めまして!彼の友達です!」


 拓人が我に返った時には時すでに遅し。

 親の前だったのと見た目は完全に女子高生だったことが災いし、家から叩きだす機会を完全に失ってしまった。

 加えて呑気な母は少女の言葉を信じ込んでしまった。体が冷える前にと少女を風呂に迎え入れ、女の子があんなに塗れているのに何やっているんだと何故か拓人が怒られた。理不尽である。

 拓人自身もタオルと洗濯したばかりの着替えを押し付けられ、仕方なく季節外れとなって押入れに仕舞われたヒーターを引っ張り出した。

 因みに拓人と一緒に水溜りに沈んだカバンの中身は見るも無残な様になっていた。教科書は最悪買い直せばいいが、やりかけの問題集の字が歪んでいたのは泣きたくなった。

 だがそれ以上に、少女が何かしでかさないかと心配で。されども拓人に出来ることはなにもなく。体を温めて自室で待っていると、母から服を借りたであろう少女がノックもなしに拓人の自室に突撃し、勝手に部屋を漁り始めて今に至る。


「ねーえー拓人、聞いてる?」

「なんで名前知ってるんだよ」

「だって、おばさんがそう呼んでたじゃん」


 特に困るのがこの少女、何かと目ざといのだ。

 母が先ほど、どのタイミングで名前を呼んでいたかなんて拓人も覚えていないのに。


「青桐拓人、苗字は表札見てすぐ分かったし。制服も私と同じ学校でしょ?タイの色も一緒だから、同学年の1年生。クラスまではわかんないけど、それはいいや」

「……俺、お前の名前すら知らないんだけど」

「あれ?言ってなかったっけ?」


 拓人が伝えていない情報をペラペラと口に出したかと思えばコレだ。

 自分のことに関しては無関心なのだろうか?


「私はヒスイ。ヒスイ・レイノルズ。あなたと同じ振多高校の1年生。血筋はお母さんが日本人らしいけど、おばあちゃんが外国人国籍なんだって」

「国籍……?お前、人間の戸籍があるのか!?」

「えぇ~、何その台詞!私をなんだと思ってるの?」

「だってお前……」


 人じゃない。

 確かに雨の中感じた悪寒は、目の前の存在が人間じゃないと悟らせるには十分だった。

 その時の足元から這い上がる恐怖を思い出し、薄れかけていた少女……ヒスイへの警戒心がぶり返す。


「……まあ、薄々察してるみたいだけど。確かに私は純血の人間ではないよ。混血なんだって」

「混血?」

「魔物の」


 あまりにも突飛なことを言い出すので、一周回って拍子抜けしてしまった。

 どんな化け物の名前が出てくるのかと思えば、抽象的で空想の存在なのだから。

 しかし、そんな拓人の様子が気に障ったのだろう。

 ニタリ。

 怪しげに嗤うヒスイと、品定めする視線がべっとりと嫌な感触となって肌に伝わる。

 しまった。リアクションのミスに気づいた時には、既にヒスイは拓人の目の前まで詰め寄っていた。

 元々部屋の隅に座っていたせいで、あっという間に壁際まで追い詰められてしまう。


「ふぅーん?信じてないんだ」

「わかった。信じる、信じるから!」

「どうかなぁ~?どうせならさ、実際に見せた方が早いよね?」


 クスクスと見た目年相応の可愛らしい笑い声とは裏腹に、グパリと、本来の人体からは聞こえてはいけない場所から肌と肌が割れる音がした。

 ついに拓人の中で、おとなしくやり過ごそうとする理性を逃げ出したい本能が上回った。

 ヒスイを付き飛ばして扉よりも近い窓に駆け寄る。後のことなど最早頭になかった。兎に角今は1分1秒でも早く、この恐ろしい何かから距離を取りたかった。

 窓を開けるのすら煩わしく感じ、一番すぐそばにあった電気スタンドを掴み、窓ガラスに向かって振り被った。

 しかし、電気スタンドがガラスに当たる瞬間。ガラスが捻じ曲がるように湾曲し、ぽっかりと人1人潜れる大きな穴が空いた。


「え」


 渾身の力で振り被った運動エネルギーは行き場を失い、慣性の法則に従って体ごと土砂降りの外に投げ出される。

 ────落ちる。

 心臓が縮みあがるのと同時に、細い手が拓人の襟元を掴んだ。慣性を上回る力で部屋の中に引き戻され、拓人はベッドの上に押し倒される。

 部屋の隅にスタンドが転がる音は、死にかけた緊張と捕まった恐怖による激しい鼓動にかき消された。

 

「案外ヤンチャじゃん。ちょっとビックリした」


 ちっとも驚いてなさそうな声で、ヒスイが拓人の上にのしかかる。

 逃亡も失敗し、拓人の気分は俎板の鯉だ。


「……何が、目的なんだよ」


 震える声でやっと絞り出せた言葉は、今更な疑問だった。

 何故自分が?彼女が人間ではないことに気づいてしまったから?

 それなら今日ほど己の”体質”を恨んだことはない。こんな体、自ら願い下げだというのに。


「目的?うーん、特にないけど」

「……はぁ?」


 つい、気の抜けた声が出た。

 彼女を見つけた代償に食べられたり、魂を引き渡すことすら想定していた拓人には彼女の返事はあまりにも想定外だった。


「しいて言うなら一目見て気に入ったから。だから私の傍に置いておきたいの」

「そんな、理由で、番になれって?」

「うん」


 さも当然と言わんばかりにヒスイは頷いた。

 呆気にとられる拓人が面白いのか、ヒスイはまたしてもクスクスと笑う。しかし、肌に伝わる感触は先ほどの舌でなぞられるような粘着質なものではなく、戯れのようなくすぐったいものだ。

 その感触で嫌でも分かる。ヒスイは本当に、これ以上何もしてこないことが。


「怖かった?」


 いたずらっ子のようなヒスイの笑顔を前に、閉じる口に力が入る。

 揶揄われていたのだ。弄ぶ気配を本気で出していながら、ヒスイは拓人に……少なくとも、身体的な危害を加えるつもりはなかった。

 身の安全が保障されたことにより、拓人の警戒心が緩む。そして遊ばれていた羞恥と同時に、今度はふつふつと怒りがこみ上げた。


「そんなの、俺になんの特もないだろうが!」


 拓人の口から出た言葉は本人も意図していたものではなかった。

 口に出してからようやく思考が追い付いてくる。

 番になれって?冗談じゃない。

 人でないことだけは十分に理解したが、だからといって人外と付き合うことに納得したつもりはない。一目惚れしたのか知らないが、拓人は拓人で己の”体質”と付き合っていくので手一杯だ。

 これ以上、人生の重荷を増やしたくはない。


「特?そういうの求めちゃう?」


 つぅ、と。ヒスイは拓人を押し倒したまま、彼の心臓の位置を人差し指でTシャツ越しになぞる。時折トントン、と同じ場所を叩く仕草から、考え事でもしているのかもしれない。

 危害を加えるつもりはないと分かっていても、人でないモノに怪しい手つきで体を触られるのはあまり心地良いものではない。

 拓人は浅く息を吐きながら、ヒスイの口から次の言葉が出るのを待った。


「なら、魔道を教えてあげる」

「魔道?」


 ヒスイの口から飛び出したのは、拓人が聞いたこともない言葉だった。


「さっきガラスに穴を開けた力。方法は別だけど、拓人のその体質を抑えることができるかも」

「!?」


 拓人は息を吞む。

 己の耳を疑いながらも、縋るようにヒスイの両肩を掴んで勢いよく起き上がった。


「なっ何、何何なに?」

「抑えるって、これを!?こんな、クソみたいな感覚をどうにかできるのか!?」


 出会って初めて狼狽えるヒスイの様子も頭に入っていなかった。

 ”それ”は今まで何度願ったか分からない、生涯向き合っていく人生の枷だと思っていた。


 拓人には、人の感情が触覚となって伝わる。


 人は大なり小なり、他人に感情を抱いている。それらは時に好奇心は擽りに、下心は粘着質となって。そして怒りは物理的な暴力となって拓人に襲い掛かる。

 感情は大きければ大きいほど、物理的に強く、遠くに居ようと影響を与えてくる。

 体質が露になった正確なタイミングは分からないが、中学校生活の半ばを越えた辺りでは既に現状のように手に負えなくなっていた。

 気づけば人前に出ることが怖くなっていた。

 何十、何百という感情の触感に犯される恐怖を、きっと誰も知らない。この体質のせいで拓人は趣味と友人と信頼を失った。

 父の仕事の転勤がなければ、きっと拓人は知人の視線に怯えて引きこもりになっていただろう。

 今までの人生を滅茶苦茶にし、これからの人生も滅茶苦茶にしていくであろうこの体質を……どうにかできる?


「絶対……とは言い切れないけど、拓人の頑張り次第?たぶん」

「たぶん?」

「さっきみたいなのができるとは限らないって話」


 さっき、と言われてヒスイが指さす方向を見る。

 その先には、割ろうとした瞬間に穴が空いた窓が何事もなかったかのようにガラスで雨水を弾いていた。

 一瞬夢かと疑いもしたが、窓の真下にある床が不自然に塗れていた。まるで、土砂降りの中で窓を全開にしたかのように。


「逆にアレみたいなのができても、体質を抑えることはできないかもだけど……どうする?」

「やる」


 先ほどとは打って変わった即答ぶりに、ヒスイは吊り気味の目を丸くした。


「こちとらこの体のせいで、プライバシーの欠片もない地獄の毎日を過ごしてんだ。こんな体質をどうにかできる可能性があるのなら、賭けだろうが人外とのお付き合いだろうが、なんだってやってやるよ」


 拓人は本気だった。

 それほどまでに、この体質は拓人の数年を狂わせた。

 この体質が治る可能性があるのなら、たとえ可能性の話だとしても拓人には縋る以外の選択肢はない。


「私はその体質、そのままでもいいけど」

「あぁ!?」


 何処かふてくされたヒスイの言葉に、拓人は苛立ちをそのまま表に出す。

 他人事だからそんなことが言えるのだと、拓人の体質を知っていながら勝手なことをぼやくヒスイに流石の拓人も怒りを抱いた。

 だが、ヒスイの次の言葉に拓人は口を噤む。


「だって、その体質のおかげで拓人は私に気づいてくれたから」


 拓人がヒスイが人外だと気が付いたのは、彼女があの雨の中でチンピラ達に本気の殺意を放っていたからだ。当てられた本人たちは全く気がついていなかったが、拓人は刃物を突き付けられるような、ともすれば泥沼に沈められるような。あの形容しがたい感覚に襲われて理解してしまった。

 あの殺意は、おおよそ人間が放てるものではないことに。


「見てくれは普通の人でしょう?だからね、誰も私が化け物だって気づかないの。痴漢しようとしているおじさんの腕を引き千切れることも、ステータス目当てで付き合うように迫ってくる男の先輩の内臓を圧し潰すことができることも」


 ヒスイの並べる例えに、拓人はゾッとする。

 拓人にはヒスイが言葉にした光景を再現する様子がありありと想像できた。


「そう、拓人には想像できるよね。でも他の人はこれっぽっちも想像できない。私がただの女子高生に見えるの。不思議でしょう?だからね、私にとって拓人は特別。初めて本当の私に気づいてくれた、何物でもないただの人間」


 ヒスイはそっと、有り得ないほど慎重に拓人の強張る頬に触れた。

 その手つきがあまりにも先ほどまでのイメージとかけ離れてて、拓人は引き攣った声で応えた。


「……それでも俺はこの体質を治すぞ。この体質のせいで、毎日毎日知らん誰かに気味悪い何かで触られてる気分なんだ」

「確かにそれは嫌だなぁ。拓人は私のモノになるんだから、誰かに勝手に触られるのはイヤだ」

「別にお前のものになるつもりは……」


 ないんだが。

 拓人が言い切る前に、ヒスイはヒラリとベッドから立ち上がり、先ほどと同じいたずらっ子のような笑顔で振り向いた。


「なるんでしょう?私の番になるんだから」

「…………わかったよ」


 仕方なく、本当に仕方なく拓人は答える。

 すると「やったー!」と、その場で万歳をしながらヒスイは喜びだした。

 その様子は、まるで遊園地に行く予定を約束してもらえた幼子のように、ヒスイの外見の印象からかけ離れていた。


「これからよろしくね!拓人!」


 そのあまりにも嬉しそうな笑顔に、1日の疲労も相まって拓人はつい毒気を抜かれた。

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