第49話 影渡り
ケリーと同じく、広い草原へ逃げた者も少なくないようだ。森を出た騎士たちは混乱しているのか、大草原を縦横無尽に駆け回っている。
これだけ視界が開けていれば、敵の姿も見えやすくなるはずだ。魔界軍から狙われる危険も高まったが、相手の姿さえ見えれば太刀打ちできる。
グレイスターに駈歩の合図を送りながら、ケリーは注意深く辺りを見渡した。草むらや岩の後ろ、背後までくまなく目を配り、いつでも攻撃できるよう身構える。
森から少し離れてみたが、敵は一向に姿を現さない。
おかしい……あまりにも静かすぎる。
そのとき、雲の切れ間から日がさして、ケリーの前を走る馬が黒い靄に包まれた。
馬の足元から飛び出した黒い影とともに、鋭い刃が目にも止まらぬ速さで振り下ろされる。驚いた馬は立ち上がって前足で抗うが、魔界兵の剣が一瞬にして腹を切り裂いた。
痛みに暴れる馬は後ろ脚で空を蹴り、大地に鮮血を注ぎながら、狂ったように走り回っている。
振り落とされた騎士は必死に立ち上がったが、馬を追うより前に首をかき斬られていた。ケリーが助けに向かう暇もなく、頭を失った体は大地に投げ出され、影は忽然と姿を消した。
魔界兵は足元から出現し、消えるときも地面に潜る。
まるで、モグラのように。
「……地面?」
グレイスターの肩越しに草原を見下ろすと、そこには馬に跨がるケリーの影が落ちていた。
彼は、はっとした。
「あいつら、オレたちの影から襲って来てるんだ!」
さっと顔を上げたケリーのそばで、一人の騎士が剣を振りかざしている。敵の気配を察知したのだろう。騎士は馬を止めると、姿を現した影へ剣を振り下ろした。
奇襲が失敗した魔界兵は、黒い粒子を撒き散らしながら靄と化し、馬の足元へ消えていく。
間違いない……やっぱり、魔界兵は影を使っている。自分たちの影が、魔界軍の移動手段に使われているのだ。
「気をつけろっ!影だ!やつらはオレたちの影から――」
敵の能力を見抜いたケリーは、周囲に向かって精一杯叫んだ。しかし、その警告を妨害するかのように、黒い靄が視界を奪い始める。
おぞましいほどの殺意がケリーの背筋を貫き、青白い男の顔が靄の中にぬうっと浮かび上がる。怯えたグレイスターは前足を突っ張って立ち止まり、ケリーは馬の背中から放り出されそうになった。
真っ黒なフードマントに身を包んだ魔界兵が、前のめりになったケリーに狙いをさだめる。
生気のない唇がニヤリと歪んだ。
『あ……オレ、死ぬんだ……』
敵は攻撃体勢に入っている。逃げたくても、体勢が崩れてしまっていてはどうにもならない。
今のケリーにできることは、敵が自分の体を無残に切り裂くのを黙って見るだけだ。
「……ケリーッ!」
遠くで、誰かが彼の名前を叫んでいる。
ケリーは死への恐怖に目を見開いた。意識が一瞬途切れて……腹に鋭い痛みが走る。
「う……ぐっ」
焼けるような痛みと共に、体から一気に力が抜けていく。悲鳴をあげるグレイスターの首に寄りかかって、何とか落馬は免れたが、馬が激しく地団駄を踏む度に激痛が腹をえぐった。
悲痛に叫ぶケリーの首を、魔界兵が狙う。
「ケリー!しっかりしろっ!」
ケリーがぎゅっと目をつぶったそのとき。背後から鹿毛の馬が颯爽と現れた。
馬はグレイスターを軽々と飛び越えると、魔界兵に向かって果敢に突っ込んだ。
不意をつかれた影はチッと舌を打ち、グレイスターの影へ逃げ込んだ。騎士の攻撃が届く寸前に、黒い粒子を残して消えてしまった。
凄まじい風切り音をたてる剣は空を切り、騎士は着地した馬の上で悔しそうな声を漏らす。騎士が手綱を繰るより早く、鹿毛の馬は向きを変えて足早に近づいて来た。
「ケリー……!」
ケリーが顔を上げると、そこには心配に顔を曇らせるクウェイがいた。
ケリーは体を起こそうとしたが、腹に鋭い痛みが突き抜ける。彼は叫びそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
痛みに身を震わせるケリーに、クウェイは落ち着いて声をかける。
「ここから離れよう。森に隠れるんだ」
クウェイはグレイスターの手綱を取ると、愛馬を森に向かって進めた。ここは、あまりにも見晴らしが良すぎる。負傷したケリーが敵から丸見えになってしまうことを、クウェイは恐れていた。
グレイスターの振動が体を揺するたびに、絶叫しそうになる。必死で堪えるケリーの耳に、クウェイの優しい声が響いた。
「ケリー、もうすぐ森に入るよ」
このまま森に隠れてしまえば、ひとまずは魔界軍の目から逃れられるだろう。しかし、敵は自分たちの影を伝ってやって来る。
木陰に身を潜めてしまえば、それこそ魔界軍の恰好の餌食になってしまうだろう。
涙で滲んだケリーの目に、ヴェルーカのそばで楽しそうに笑うエダナの姿が浮かぶ。彼女はきっと、今も恐怖に満ちた森をたった一人で逃げ回っている。
もし、二人とも魔界軍に襲われてしまったら、一体誰がエダナを守ってくれるんだろう。
きっと……誰もエダナを助けてくれない。彼女を守れるのは、クウェイだけだ。
ケリーは覚悟を決めて、嗚咽とともに声を絞り出した。
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