第37話 学舎の犬
苦しそうに唸る馬を励ましながら、クウェイは鬱蒼と茂る巨木のトンネルを見上げた。木の葉に塞がれた空は群青一色に染まって、日が沈んだことを告げていた。
夕闇に沈む街道を、ひたすらに駆ける。
影に覆われたレンガの道が、夜目の効かない馬の足を奪う。クウェイは馬が躓くたびに、すすり泣くセロをしっかりと抱きしめた。
終わりのない、闇の中を進み続ける。
気がつくと、体を伝う蹄の振動が和らいでいた。どうやら、サンブレラ街道を抜けて西の森に入ったらしい。
ようやく西の地に戻って来たのだと、クウェイが察したそのとき。馬の足取りが急激に重くなり、あっという間に止まってしまった。感覚の麻痺した足で進むよう促しても、馬は力なく首をふって『嫌だ。』と拒む。
『もう、疲れたんだ。』
馬が、そう告げていた。
クウェイも限界だった。
ふいに頭が割れるような目眩と吐き気に襲われて、クウェイはセロを鞍に残して転がり落ちた。
地面に這いつくばり、激しく咳き込む。胃は空っぽのはずなのに、腹の奥底にへばり付く何かを必死で吐こうとしている。
後悔……?罪悪感……?
――そんなもの、吐き出せるはずがないのに。
呻き苦しむクウェイを心配して、馬が低くいななく。残されたセロは動揺に震える瞳で、騎士の丸まった背中を見下ろしていた。
この森は魔界軍の支配下にある……いつ襲われてもおかしくない。それに、セロから目を離してしまったら、逃げてしまうかも知れない。
湿気った土を握りしめて、クウェイは無理やり体を起こした。
『任務を……遂行しないと……。』
全身の筋肉や関節が悲鳴を上げ、粉々に砕け散ってしまいそうだ。
『レイは命を懸けて戦ったんだ。僕だって――っ!』
自分を奮い立たせようと、胸の内で叫んだ言葉に息が詰まる。それと同時に、ジアンの父親の叫びが頭の中にこだました。
『僕たちは……命ある限り、学舎の犬として生きていくのかな。』
喉が締められる感覚に、思わず制服の襟をつかんだ。涙で霞む視界に、たった一人の相棒が亡霊のように浮かび上がる。
追いつきたくて必死に追いかけた、レイ・ホートモンドの後ろ姿。
レイは騎士団の先頭に立って、道を切り開いてくれた。あの日も、たった一人で遠征軍の指揮を取って……死んだんだ。
『……違うっ!レイは犬死になんかしていない!』
クウェイは心を蝕む弱音に抗い、必死で立ち上がった。
着の身着のまま学舎を飛び出したクウェイは、マッチ一本すら持っていない。それでも手綱に手を伸ばそうとする彼に、馬はまた低く鳴いた。
このまま進むのは危険だと、馬が訴えかけていた。
黒い水晶玉のような瞳に見つめられて、クウェイの手が止まる。馬は土に塗れた彼の手に鼻を擦り寄せると、優しく目を細めた。
愛馬の懸命な励ましに、クウェイはいくらか落ち着きを取り戻した。彼は頷くと、手綱を取る代わりに鞍からセロを降ろした。
数時間ぶりに地に足をつけたセロは、よろよろと木に歩み寄ると、太い幹に体を預けてしゃがみ込んだ。
家族と引き離された孤独と、見知らぬ土地への恐怖が、逃げ出す気力さえも奪ってしまったのだ。
灯りのない夜の森が体温を奪っていく。
クウェイは倒木に馬を繋ぐと、膝を抱えて縮こまるセロに制服を被せた。薄いシャツ一枚とお古のズボンだけでは、小さなセロの体はきっと凍えてしまう。
セロは驚いて肩を震わせたが、かけられた服を払い落とすことはしなかった。
そうして、二人は孤独な夜を越えた。
山脈から登る日の光に照らされて、浅い眠りから目覚める。彼らは現実に抗うこともできず、終わりのない悪夢の旅を続けた。
広大な西の森を抜ける頃には、太陽は沈みかけていた。
学舎前の丘を駈け登りながら、クウェイは息も絶え絶えに顔を上げる。彼の目に映る学舎は、昨日と何一つ変わっていなかった。
物見塔で見張る学生たちが、クウェイを見つけて鐘を打ち鳴らす。その甲高い音色が、朦朧とする意識を奮い立たせた。
門番が開けた正門の先では、数名のドラゴン乗りが待ち構えていた。
震える拳で手綱を引き、ゆっくりと馬を止める。
駆け寄って来るドラゴン乗りたちに、クウェイは半ば無意識にセロを託す。過酷な旅に疲れ果てた少年は、綿が抜けたぬいぐるみのように、ぐったりとしていた。
「ご協力、感謝する。あとは我々に任せて下さい」
礼を述べると、彼らはさっさとセロを連れて行ってしまった。
ぼんやりと見送りながら、クウェイは残った学生にたずねる。
「……不死身の少女は?」
ドラゴン乗りの少年が答える。
「それが……あなたたちが学舎を出てすぐ、不死身の少女は撤退したんです。ドラゴンに乗って、大草原の方へ飛んで行きました」
「え……?それじゃあ、不死身の少女は何のためにここへ来たんだい?」
「それは、わかりませんが……バドリックさんによると、不死身の少女は遠征の失敗を、偵察も兼ねて知らせに来たんじゃないかとのことです。不死身の少女が、オルティスさんの飛行帽を持っていたことからも、その説が有力じゃないかって……」
呆然とするクウェイに、少年は続けて話し出した。彼が残ったのは、これを伝えるためだったようだ。
「あの……騎士団の方から伝言を預かっています。ヴェルーカについて、話がしたいとのことです」
「ヴェルーカは、生きているの?」
少年はしっかりと頷いた。
「はい。でも……ヴェルーカは帰って来てから餌も水も口にしていないとのことで、大至急あなたの力をお借りしたいと仰っていました。それから、場合によっては馬の処分の判断を……ホートモンドさんの代わりに下してもらうかも知れないと」
「……わかった」
気の抜けた返事を返すクウェイの目は、セロの小さな背中に向けられていた。
話を聞いていなかった訳ではない。
遠征から生還したヴェルーカに、一刻も早く会いたい……心は、そう願っていた。
手遅れになる前に、なんとか飲み食いさせなければいけない……頭では、そう理解していた。
しかし、クウェイの望みを上回る嫌な予感が、心をざわつかせていた。これから、何か恐ろしいことが起こるんじゃないか。そんな気がしてならなかった。
遠く離れた訓練場の片隅。
セロの目の前で、ディノを繋ぎ止めていたロープが断ち切られ、青いドラゴンがゆっくりと鎌首をもたげた。
身の危険を察知したのか、セロは残された力を振り絞って必死にもがいていた。だが、彼は強靭な青年たちに腕をつかまれ、身動きが取れないよう押さえつけられている。
もう、逃げられない。
セロが抵抗するたびに、袖を雑にまくられた左腕がぶれる。ドラゴン乗りたちは、彼の動きを抑えるのに苦戦しているようだ。
様子を見守っていたクウェイが、この後の展開を察したと同時に、ディノの鋭い牙がセロの左腕めがけて弧を描いた。
あの日……クウェイは生まれて初めて、ドラゴン乗りの継承を目の当たりにした。
血のように赤い夕空に響いたセロの悲鳴を、クウェイは今も忘れられずにいる。
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