第9話 夜襲

 タークは忍び寄る死の気配に怯えて、とっさに毛布から抜け出した。


 獣のことなど、気に留めている余裕はない。彼は必死でセロを呼び、手探りで闇の中を這い進んだ。


 開け放たれたドアからは、物音一つ聞こえてこない。廊下に人の気配はなく、さっきまであんなに騒がしかったのが嘘のようだ。


 ――ガシッ


 「いぎゃあっ!」


 見えない何かに手首をつかまれて、タークは甲高い悲鳴を上げた。腕を引きはがそうともがいても、体はズルズルと引っ張られていく。


 「無理です、無理、無理っ!いやだ!は、離せえええっ!」


 「タークッ!じっとしろ!」


 半狂乱で訳のわからないことを叫ぶタークの耳に、聞き慣れた声が聞こえてくる。


 「セロさん……!」


 タークは、はっとして辺りを見回した。だが、涙で滲む視界には誰の姿も映らない。


 つかまれたままの手首が、またグイッと引っ張られた。


 「こっちだ……下だ。頼むから、暴れないでくれ……!腕が千切れそうだ」


 タークが慌てて下を向くと、そこには仰向けに倒れるセロの姿があった。


 腕が、千切れるって……まさか、さっきの獣に!


 タークの頭に最悪の光景が浮かんだ。


 「そんな……セロさんっ!」


 きっと、大怪我をしてるんだ!

 早く止血しないと!


 咄嗟に伸ばした手に、チクチクとした感触が伝わってくる。違和感に顔をしかめたタークが目を凝らして見ると、手の下で獣が力なく横たわっていた。


 「ひいいっ!」


 逃げようとするタークの袖を、セロが慌ててつかむ。今度はセロが引っ張られ、身動きの取れない彼は、苦しげな声を漏らした。


 「ターク!待て、待てっ、落ち着け!もう、獣は動かない……!だから頼む、こいつをどけてくれないか。重くて、身動きが取れないんだ」


 どうやら、セロが動かすことができるのは、タークを捕まえている右手だけのようだ。彼の上半身から膝の辺りまで、獣の下敷きになってしまっている。


 もう、獣は動かない。


 その言葉を聞いて、タークは少しだけ落ち着きを取り戻した。


 彼は恐怖に歯を食いしばり、獣の亡骸を力いっぱい持ち上げる。


 わずかに軽くなった隙に、セロは泥沼から這い出るようにして、ようやく開放されたのだった。


 セロはしばらく、自身のケガの程度を見ていた。そして、彼はため息をつくと、泥だらけになった寝間着を迷惑そうに手で払い始めた。


 何事も無かったかのように振る舞うセロに、タークは戸惑う。


 「あれ……?セロさん、ケガは……?」


 「運がよかったみたいだ。かすり傷だけで済んだよ」


 「えっ?でも、さっき腕が千切れそうだって……」


 「僕が腕をつかんだとき、タークはすごい力で逃げようとしただろう。本当に……千切れるかと思うほど痛かったよ」


 右腕をさするセロを見て、タークの目から大粒の涙が流れた。


 安堵が一気に溢れたのだ。


 「うわああああんっ!セロさーん!……死んじゃったかと思いましたあっ!」


 タークはセロに思い切り抱きつく。彼の涙が、セロの寝間着に新しい染みをつくった。


 「うっ……おい。やめろ、ターク!」


 号泣するタークを無理やり引きはがしながら、セロは横たわる獣に目を向けた。


 動物の死骸を好んで食らうせいか、やけに獣臭い……鼻が曲がりそうだ。


 口を大きく開け、舌をだらりと出して死んでいる獣に、セロは見覚えがあった。


 「……ブラッドウルフだな」


 タークは泣きじゃくりながら、首を傾げた。


 「あ、あの魔界の化け物ですか?ヒグッ……ど、どうしてこんなところに?……グスン」


 セロの足元には、燭台が無造作に転がっている。ロウソクを失って、むき出しになった針には、どす黒い血がベットリとついていた。


 ブラッドウルフに飛びかかられたとき、獣の頭を燭台で殴ったのは覚えている。咄嗟の反抗だったが、何とか致命傷を負わせることができたようだ。


 こんな小物一つで太刀打ちしたのだと実感した途端、セロの背筋に冷たいものが走った。これがなかったら、どうなっていただろう。


 想像しかけて首を振り、セロは悲惨な結末を頭から払った。


 とにかく……ブラッドウルフのおつむが弱くて助かった。


 「ブラッドウルフがここにいる理由は、わからないが……もしかすると、魔界軍が迫っているのかも知れないな」


 セロは窓をふり返った。


 松明が焚かれたのか、外はぼんやりと明るい。遠くから聞こえる悲鳴はブラッドウルフのものか、それとも……。


 「行くぞ、ターク」


 ブーツに足を突っ込んで、二人は着の身着のまま部屋を出る。


 夜の宿舎は変わり果てていた。


 廊下には物が散乱し、障害物のように立ち塞がっている。


 宿舎への武器の持ち込みは禁止されているから、椅子か何かで、ブラッドウルフと戦ったのだろう。力尽きた獣のそばには木片が四散し、壊れた家具が置き去りにされていた。


 「タークはブラッドウルフの侵入経路を探してくれ。見つけたら、すぐに塞ぐんだ」


 「はいっ!」


 タークは散らかった廊下を抜けて、突き当りにある階段を下りて行く。


 階段の下には、宿舎の裏口がある。外に出れば、敵の侵入口を探している人がいるはずだ。


 セロも廊下の反対側にある階段を下り、一階の廊下の中央へ向かう。


 乱雑に開かれた宿舎の正面扉を出ると、そこには訓練場の面影すら失った地獄が広がっていた。

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